10
暖かさと寒さが繰り返す日々。気温が目まぐるしく変わり、その中を過ごす人々の心も大きく揺れ動く。すぐにでも開花宣言がなされるであろう桜の木々を見ながら、すぐそこにまで来ている春を誰もが待っていた。
「今日、あなたに聞いておきたいことがあるの」
控えめなデザインの服に身を包んだ相田は、伏し目がちに口を開いた。
そんな彼女を優しく見守るように、古賀は穏やかな声で答える。
「ああ、何でも聞いてくれ」
「ありがとう。聞きたいことというのはね、なんでもない、こんなありふれた日があったとするじゃない? あなたなら何をする?」
「あはは、何かと思えばそんなことかい? そうだね、前の日から決まっている予定がなければデートにでも行きたいな」
「たとえば、どこに?」
「うーん……」
古賀は腕を組んで考えた。様々なプランが浮かんでは消えていったのだろう。
何度も首をひねった後にようやく答えを出した。
「たとえば、おしゃれなレストラン。それから、お気に召すままショッピングというのでは?」
「ふふ、思った通り」
待たされた結果がありふれた答えだったので、つい相田は笑みがこぼれた。
「あなたって、本当に思った通り……」
相田はもう一度、今度は笑わずに言った。そして彼女は古賀に真剣な顔を向ける。
「なら、昔のあなたも昔に感じた通りなのかしら」
「……どういうことだい?」
古賀は相田の言いたいことがいまひとつわからなかった。
相田は少しためらいながらも、小さな口ではっきりと言った。
「どうして、今になってなの?」
「どうしてって、何が?」
「どうして、今になって私のことが好きだって言ってきたの? 言える機会なら、今までにいくらでもあったのに」
予想外の質問に少し口ごもってしまう古賀。
そんな彼を、相田は急かすでもなく見つめていた。
「……それは、君が帰ってくると聞いたから」
「それって、単に都合がよかったっていうこと?」
「そんな、都合だなんて」
「じゃあ、どうして?」
「それは……」
相田に迫られてとうとう黙り込んでしまった古賀は、彼女の機嫌を直そうとして、聞こえのいい言葉を頭の中で必死に探し始めた。
しかし、そんな古賀を待つことなく相田はさらに質問を重ねた。
「古賀さん、本当にあの時、私たちがまだ十代だったころ、私のことを好きだったの?」
「そりゃあ、もちろんさ」
「私には、それが簡単には信じられなくて……」
「信じられないかな? 前にも説明したよね?」
「……それが、なんだか言い訳のようにも聞こえてしまって」
「まあ、それは仕方がないけどね」
本当に心から愛していたのなら、古賀ほどの男が告白もせずに相田と別れてしまうことなどあるのだろうか。
そもそも、当時から女性に人気のあった彼が、単なる照れ隠しで別の女性との交際を重ねることなどありえただろうか。
「私のことを好きだったのは事実だったのかもしれないけれど、より正確に言えば、私のことも好きだったってこと……つまり、他にも何人かいる彼女候補の一人でしかなかったとか」
「まさか」
「でもね、もしあなたが私のことを本当に好きだったのだとしたら、当時あなたと付き合っていた人たちがかわいそう。それに……」
「それに?」
「そんな中途半端な気持ちで人と交際するようなこと、私はあまり好きじゃない。今の私がそういうところに足を踏み入れつつあるから、余計にそう思えてくる」
古賀はまたしても言葉に窮した。彼女に何も言い返すことができなかった。
相田は悲しそうな顔をしながら、なおも言葉を続けた。
「私はあのころ、あなたが本当に好きだった。だからこそ思いも伝えた。でも断られて、とてもつらかったの」
「それは……」
「私、あの時ひどく傷ついた……。けれどあなたは、いつだってとても幸せそうだった」
古賀は自身の心に問うた。あのとき自分の心は誰に向いていたのかと。
古賀が相田を好きであったことは間違いないのだが、それは決して彼女が常に一番であったというわけではなかった。
この事実に自分でも気が付いていたからこそ、古賀はやはり相田に何も言えなかった。
「一つ、聞いてもいい? どうして私のことが好きなの?」
「それは、幼馴染だし、君はずいぶん美しくなったし、それでいて素敵だからさ」
「……素敵?」
「お世辞なんかじゃなくて、本当に。今日のその服だって――」
「ええ、ありがとう。でも……」
「……でも?」
「やっぱり見た目しか褒めてくれないの? 私の内面のことは何も覚えてないの?」
「そんなことないよ。いや、どうだろう。むしろ、これから知っていきたいと思っている」
古賀は相田に力強く言い返したけれど、その言葉は彼女に深く届かなかった。
「私、あなたがわからないの。わかろうと努力はしているのだけど……」
相田は一人揺れていた。
前原と古賀、二人の間で揺れていた。
はっきりと態度を示せない自分を最低の人間であると感じながらも、どうしていいのか結局わからずじまいだった。
相田が自分の感情と戦っていたそのころ、前原は一人喫茶店「STAR」を訪れていた。
その日はたまたま崎本、梅木、カナ、そして光輝の四人全員がいた。
「おや、前原さんじゃないですか。お久しぶりです」
前原は相田にプロポーズを試みたあの日以来、この店には足を運んでいなかった。
したがって、光輝は前原のプロポーズが失敗していることすらも知らない。
「すみません、すぐに伺うことができなくて」
「いえいえ、そんなことなど構いません。あ、どうぞ。こちらの席にお座りください」
「あ、ありがとうございます」
前原は光輝に示された席に着いた。
そしていつものように紅茶を頼むと、やはり光輝と向かい合って座った。
「何かありましたか?」
「……ええ。実はそうなんです」
なるべく落ち着いた声で尋ねた光輝に対して、前原はあまり浮かない声で答えた。
だからこそ光輝には彼があまりよくないことを報告しに来たのだとわかった。
「どうぞ、まずは紅茶を飲んでから、心の準備ができたら話してください」
「ええ……」
熱い紅茶を息で冷ましながら、前原は何度も何度も小さなため息をついた。その様子から彼が相当に重い決断をしてきたのだと感じられたため、先ほどまで楽しく会話していた崎本や梅木、カナも離れた場所で黙っていることにした。
「……おいしい紅茶ですね。正直に言うと、この店に来るようになるまでは紅茶なんてほとんど飲んだことなかったんです」
「そうでしたか」
「でも、なんというか、誰かと会話をする席には紅茶がちょうどいいですね」
そう言いながら前原はティーカップを手に取り、鼻先まで近づけると香りを楽しんだ。
「この香り、落ち着きます」
「気に入っていただけてありがたいです」
「紅茶以外にもお勧めはあるんでしょう?」
「ええ、ありますよ。コーヒーです」
「コーヒーですか」
前原は頭の中で様々なコーヒーを思い描いた。とはいうものの、苦いのが好きでもない彼が飲んだことがあるのは安いインスタントコーヒーぐらいなもので、お勧めのコーヒーがどんな味なのかうまく想像することができなかった。
「どんなコーヒーなんです?」
「そうですね……味や風味を言葉で説明するのも大変ですから、どうぞ召し上がってください。あ、もちろん私がおごりますから心配なく」
「本当ですか。それではお言葉に甘えさせていただきます」
カウンターで二人の会話を聞いていた崎本は、慣れた手つきで自慢のブレンドコーヒーを淹れ始めた。と同時に、コーヒーの強い香りが店内へと漂い、紅茶の淡い残り香と程よく混ざり合って、独特で、それでいて快い香りが嗅覚を支配した。
「どうぞ」
時が経つのも忘れて店内の香りに浸っていた前原の前にコーヒーカップが差し出された。
その黒い飲み物は白い湯気を出しながら、客として訪れた前原に味わってもらう瞬間を待っているようだった。
「いただきます」
熱々のコーヒーをやはり少し冷ましてから前原は口へと運んだ。
それから黙って一口、また一口と、ゆっくりと味わう。
「コーヒーって苦いだけじゃなかったんですね」
前原は嬉しそうな顔をして嘆息した。
「おいしいでしょう。なんといっても店長の自信作ですから」
「……最高です」
前原はコーヒーを一通り楽しむと、思い出したようにため息をついた。
「実は、今日は話がありまして」
「……そうだと思いました。お聞きしましょう」
光輝と前原はそれぞれ居住まいを正した。それはお互いが真剣になった合図でもある。
「この前の話、覚えていらっしゃいますか?」
「もちろん覚えていますよ。依頼にかかわる話でもありましたからね」
「それなら話は早いのですが、あの後、実際に彼女にプロポーズしたのです。……ですが、考えさせてくださいと言われました」
「なら、まだ結論は出ていないのですか?」
「違うのです」
前原は力なく頭を横に振った。
「あれは彼女なりの断り方だったのです」
「……そうでしょうか?」
「そうなのです。僕は彼女こそが人生のパートナーだと心を決めていました。ですが彼女は僕が相手では、どうしたって迷わずにいられませんでした。その迷いは、三年という交際期間を経ても解決できない迷いでした。そんな迷いを、転勤後に離れ離れになってしまう僕の力で解決できるはずもありません」
「でも、それは……」
「いえ、それだけじゃないんです。そんな彼女のもとに僕より完璧な、彼女の転勤先に住んでいるという男性が現れました。しかも昔馴染みなんだそうです。……僕は、彼女のために身を引かねばなりません。彼女を苦しませないために」
一点を見つめたまま、言葉に詰まることなく言い終えた前原に、光輝はその決意の大きさを感じ取った。
どんなに願っても、本人の決断を無理やりに変えることはできない。
だから光輝は確認することしかできなかった。
「それでいいんですか?」
「……もちろんです」
「でも、あなたは? 前原さんの気持ちは?」
光輝は彼を心配するような顔つきで尋ねた。
前原はそんな光輝を見て、それ以上は心配させないように付け加えた。
「僕は彼女が好きです。本当に好きなんです。なので彼女には誰よりも幸せになって欲しいと思います。好きな女性が幸せになっていく姿を見るのは、嬉しいものでしょう?」
「それはそうですが……」
「ですが光輝さんには本当に悪いことをしました。自分から頼みに来ておいて、流れ星は結局やめることになりましたから」
「いえ、そのことは気になさらないでください」
「今週の日曜日の夜、二人で会えるように彼女と都合が付きましたから、そのときに別れを告げようと考えています。本当は彼女ともう一度この店に来たかったのですが、もう無理でしょうね。……僕もこの店に来ることはないかもしれません。むやみに彼女を思い出すのはよくないでしょうから」
「そうでしょうか?」
「……僕はそうですから。そういう人間なんです。今まで本当にお世話になりました。最後に、それだけは伝えておきたかったのです」
「いえ、こちらこそ」
前原は立ち上がる。光輝もつられて立ち上がる。
「本当にありがとうございました」
最後にもう一度だけ礼を言うと、前原は身を翻して喫茶店を後にした。




