好きになられたら、嫌?
「……」
目覚めて体を少し起こすと、朝日はアパートの窓に微かにしか届いていなかった。
外から人の気配も感じられない静かな早朝。だが、起床時間である。シーツを払ってベッドから起きると、冷えた空気が肌を刺す。鏡の前の椅子に座れば、愛想のない無表情な女が一人映る。
「……」
髪を束ねて立ち上がり、ルーチンのスクワットを始める。下半身の無酸素運動は、血の巡りを直ちに高めてくれる。
「十一、十二、十三、十四、十五……」
そういえば、昨晩夢を見た。
ジュジュさんと一緒に笑い合いながらランチを食べていた。
もちろんそんな事実はない。ジュジュさんとは偶然出会って少し言葉を交わしただけだ。にもかかわらず、彼女があれから夢に出るようになっていた。
スクワットが百三十回を超えた辺りで体が少し温まってくる。水で口を軽く潤す。
次はランニングだ。着替えている途中、ジュジュさんの可憐な顔つきが再び脳裏をよぎる。彼女の神秘的な印象は、子供の頃に耳にしたある言い伝えをふと思い起こさせた。
「妖精、か……」
人を惑わし堕落させ、最後は破滅させるという、人ならざる存在――。
そんな伝承が残る異国、フェアリスタからやって来たジュジュさん。
彼女にはどこか人間離れした魅力があった。同じ女性なのに、何かの底に引きずり込まれるような怖さをあのとき感じた。
(でも……優しい人だった。猫好きなのも嬉しかったな)
外に出てランニングを始める。一定のリズムで吐き出される白い息が、王都の街中に溶けては消えていく。走り慣れた石畳の坂を駆け上りながら、彼女のことを再び思う。
(どうしてなのかしら)
ジュジュさんはモテるはずだ。あんな美女、男たちが放っておくわけがない。結婚願望もしっかりあるようだった。
それでもいまだ独身なのはなぜなのか。ジュジュさんは二十九歳らしい。この国では、二十三歳を過ぎたあたりから「行き遅れ」と呼ばれる困った常識がある。だが、他国も似たようなものだと聞く。
結婚すると騎士を続けるのは難しくなるのかもしれない。つまり、彼女は今の仕事がとりわけ好きなのだろう。
(いつまでこの国にいるのかしら……いや)
首を振った。いくら考えたところで知りようのない話である。フォームを正して雑念を振り払う。今は走ることに集中すべきだ。
それからは、ただ無心に足を動かし続けた。
「これは……。思った以上に広いわね……」
午後の時間。王宮の一室に足を踏み入れた私は立ち尽くしていた。
目の前のがらんとした大部屋は、昨日まで宝物庫として利用されてきたらしい。なお、ここに納められていた美術品は、衛兵たちの手によって午前中のうちに別の場所へ運び出されている。
部屋には化粧室まで併設されていた。宝物庫となる前は、貴人の私室の一つとして使用されたこともあったとか。
これから私は、この部屋の掃除や点検を済ませ、依頼元の部署へ引き渡さなければならない。
指示はもちろんバルバラ様からのものだ。大変な作業を承ること自体はめずらしくない。ただ今回は、先日彼女の機嫌を損ねてしまったせいかもしれない。
「……」
腕をまくり、余計な考えを振り払う。
引き渡し先は、フェアリスタから来ている侍女たちとのこと。つまりこの部屋は、かのアンリエット王女殿下も使用するかもしれない。しっかりやらねば。
まず、埃っぽさが残る空気を入れ替えようと、入口の大きく重たい扉を全開にした。屋内には高い位置に小窓が一つだけあった。備え付けの、古びた開閉棒を用いてそれも開く。
それから作業を始め、しばらく黙々と続けた。
すると、視界の端に煌めく何かが映った。
「ペトラさん」
――振り向いた瞬間、心臓が跳ねた。
入口の重厚な扉の傍らに、美しい微笑みを浮かべた騎士が立っていた。
「ジュジュさん……」
「こんにちは」
「お久しぶり、です……」
「こちらの担当を?」
「はい。フェアリスタの方々からのご依頼で、掃除と点検を仰せつかりました」
「やはり。私どもの侍女たちが先日、部屋を追加で申請したらどうかと話していましたから。もしかして……ペトラさんお一人ですか?」
「ええ」
「それは大変だ。なら――」
ジュジュさんはなぜか腕をまくりながら部屋に入ってくる。
「手伝います」
「えっ?」
「我が主、アンリエット王女殿下も使うと思いますし」
「いえ、結構です。私の仕事です。それにジュジュさんだってお忙しいでしょう?」
彼女はそっと首を振ると、床に置いていた雑巾を手に取って桶へと浸す。
「大丈夫ですよ」
「いや、ですが」
「ちょうど今、急ぎの仕事を片付けたところですから。おっ、あそこは……まだのようですね。これ、お借りしますよ」
目を細めながら言ったジュジュさんは、私が持ち込んでいた脚立をひょいと運んだかと思うと、あっという間に小窓の近くまで登ってしまう。
「あ……やっぱり、結構汚れているな」
「……」
私の身長よりも高い位置にある小窓の掃除は、実は後回しにしていた。
白状すればとてもありがたい。けれど、窓の開閉を丁寧に確認しながらせっせと雑巾がけをしている彼女の姿に、申し訳ないような悔しいような、複雑な気持ちになってしまう。
「――よし、と。終わりました」
「……」
「次はどうしましょう?」
「……では」
脚立を元の場所に戻し笑顔で作業を促してきた彼女に、さりげなく返す。
「こちらの棚の裏を掃除しようと思います」
「えっ……!?」
「棚を一度どかしましょう。それから――」
私が言葉を重ねるにつれて、彼女の赤い瞳が見開かれていく。
「まさか……」
「……」
「喋れる、のですか?」
こくりとうなずいた。
ジュジュさんにペースを握られっぱなしなのが悔しくて、少し驚かそうとフェアリスタ語で話しかけていたのだ。
しかし、彼女は嬉しそうな顔で私の前に立った。
「この国に来てから……外交官や通訳でもないのにフェアリスタ語を話せる人に、私は初めて会いました」
「少しだけ、ですよ」
「いいや。発音がとても美しい。まるで王族や貴族のようだ」
「とんでもありませんわ」
「誰から教わりましたか? もしや、フェアリスタの知り合いがいるのですか?」
「いえ、座学です。実際に話すのは、実はジュジュさんが初めてですわ」
「えっ、座学……? 初めて話す……?」
学生時代、全科目でトップを譲らなかった私だけれど、特に得意だったのが外国語と宗教学だった。
「学校に在籍したときに学んだ別の外国語が、フェアリスタ語に偶然近かっただけです」
「い、いや、むしろその方が信じられない……。専門の通訳の人より、ずっときれいだ。しかし……どうしてフェアリスタ語を?」
「当時、ジュジュさんの国の本に読みたいものがありました。ですが、翻訳版がなかったので」
「なんと……。知的好奇心を満たすために、独学で学んでしまったということですね。聡明な方だとは思っていましたが……貴女こそ、才人と呼ばれるにふさわしい」
「い、いえ……」
興奮気味に赤い瞳をキラキラと輝かせるジュジュさん。驚かすつもりが、逆に褒められてしまって戸惑う。
実際、才人だなんてとんでもない。
学生時代の私は、いわゆるガリ勉――周りからそう嗤われていた――だった。しかも、殊勝な理由などなかった。ただ奨学金ほしさに勉強していただけである。借金を負った家に負担をかけたくなかったのだ。勉強が好きなわけではない。
そんなことを思っていたら、彼女が私の腕にそっと触れる。
「ジュジュさん?」
「ペトラさんのような人を、カルティアの言葉で何と言うのかな……」
「はい?」
「そうだ。才色兼備だ」
「えっ?」
“才”もないけど、“色”はどこから……?
「ん? あれ? 私のカルティア語、間違っています?」
「いや、あの……」
「優れた才覚の持ち主でしかも見目麗しい人だ、と私は言いたかった」
「みめ?」
「そうだ。ペトラさんはとてつもなく美しい。間違いない」
「はい?」
顔をぐいと寄せて力説してくる、二十九歳の美少女に仰天する。
フェアリスタの美醜の基準は、我が国のものと違うのだろうか? 「無表情」「冷たそう」「怖そう」「きつそう」「怒ってそう」「何を考えているのかわからない」「石壁女」「氷壁女」などなど――。
学生時代からそう言われ続けてきた自分の顔が私は嫌いだ。
「あ、あの。仕事、再開しませんこと? ――フウッッ」
「ええっ!?」
いいから掃除だ。傍にあった、自分の背丈よりも大きな棚をガッと掴み体幹に力を込める。棚の裏をきれいにしなければ。
「フウゥゥン」
「ペ、ペトラさん!?」
「……」
「そ、そんな重たそうなもの! 怪我してしまう。手伝いますよ!」
「……」
慌てるジュジュさんの声が追いかけてくる。だが、構わず部屋の向かいまで大棚をスタスタと運ぶ。
――トスッ。
床にそっと置き、手についた埃をぱんと払う。
「……大丈夫? ペトラさん?」
「問題ありません」
これくらい朝飯前である。
もし、私の座右の銘を挙げるなら――「筋肉だけは裏切らない」、だ。
子供の頃から運動神経はいい方だった。体を動かすことも好きだ。そして本格的な筋トレが日常化した結果、パワーはひたすら増す一方なのだった。
(まあ、さすがに男性の前では披露しないけどね。だって恥ずかしいもの)
「すごいな……。よく一人で運べたものだ……」
大棚に触れながら感心していたジュジュさんが私の方を向く。その表情はなぜか、どこか好戦的だった。
「本当に予想を超えてくる。……一筋縄ではいかない人だね、貴女は」
「力作業も日常茶飯事です」
「……いいや。それにしてもこれだけの剛腕、力比べをしたくなってしまうな」
「あら、いつでも構いませんわよ」
「ほう」
小柄な女騎士は不敵な笑みを深めた。
もちろん剣技なら絶対に勝てないだろう。しかし、筋肉勝負ならわずかに可能性はあるかもしれない。
「ふふっ! ペトラさんってやっぱり面白いな!」
ジュジュさんは屈んで雑巾を絞ると、大棚が置いてあったスペースを早速拭き始めた。おっと、負けていられない。私も雑巾を手にした。
その後もジュジュさんが手伝ってくれたおかげで、予定より遥かに早く仕事が進んでいく。正直、とてもありがたかった。私が感謝の言葉を伝えると、彼女は可愛らしくはにかんでいた。
「次は……」
「こちらの化粧室ですね。お、これはまた、随分と広いな」
「ええ。実はこの部屋は古く、宝物庫となる前は貴人の私室に使われていたらしいのです」
「なるほど。では――」
「お待ちくださいませ」
再び腕をまくり始めたジュジュさんを制する。
「さすがに騎士様にお手伝いいただくわけには参りません」
「なぜですか? 私はアンリエット様に仕える身です。騎士が主人の部屋を整えても何もおかしくはないかと」
「ですが、これは元々私の仕事です」
「何より、私が貴女を手伝いたいのです」
「……」
「なら――」
ジュジュさんが自分の二の腕を示してくる。小柄な美少女が力こぶをグッと作っている姿は、とても可愛らしかった。
「ここは一つ、勝負しませんか? 腕相撲です」
「えっ?」
彼女はつい先ほど私たちが磨いたばかりのテーブルを指差した――。
「――ふぬぬぬ」
「くうっ! やるね……! ペトラさん……!」
「ぬあああ」
三本勝負と決めた腕相撲は、一戦目はジュジュさん、二戦目は私が取った。
――ドォン!
「よぉし!」
「ううっ」
「僕の勝ちだ!」
「ぐぬぬぬ」
力尽き、テーブルに突っ伏して歯噛みした。悔しいけれど勝負は勝負。女に二言はないのだ。
「――ジュジュさん」
「はい」
「こちらどうぞ使ってくださいませ」
「ありがとうございます」
化粧室の掃除を終えたジュジュさんに、たらいときれいな布を渡す。たらいには、問題なく動くことを確認した部屋の水管から汲んだ水を張ってある。
「だいぶ終わりましたか?」
「ええ。七、八割は片付いたかと。本当にどうもありがとうございました」
「いえいえ」
貸与されている懐中時計を見ると、針は既に夕方の時刻を指していた。ただ、本日中に必ず終わらせるようにとは上司のバルバラ様から言われていない。
「ペトラさんは――」
手を清めたジュジュさんが、プラチナブロンドの髪を直しながらこちらを向いた。
「どうして侍女になったのですか?」
「えっ?」
「あなたほど優秀な人なら、きっと多くの選択肢があったのではありませんか?」
「……」
「もちろん、こちらの仕事も容易に就けるものではないと思っていますが」
「……子供の頃に王宮で働きたいと思ったことが、きっかけだったかもしれません」
「なるほど」
「私、地方で生まれ育ったので……。おそらく王都での暮らしに憧れがあったんだと思います。いかにも、田舎者ですよね?」
「とんでもない」
「それと実は、母が昔ここで働いていたんです」
「そうなんですね」
母は父と出会って結婚する前、王宮の侍女だった。今は亡き王妃陛下に仕えたこともあったらしく、話を聞く限り重用されていたようだ。
「ジュジュさんはどうして騎士になったのですか?」
「私ですか? う~ん。そうですね……。いろいろ理由はあったかもしれませんが……」
「ええ」
「手に職を持って独り立ちしたかった。結局、そこに尽きると思います。なんら面白みのない、当たり前すぎる理由で申し訳ない」
「……」
柔らかに微笑むジュジュさん。だが、その笑顔には揺るぎないプライドのようなものを感じさせた。
「…………」
亡き父の言葉をふと思い出していた。
それは、「常に誇り高くありなさい」という言葉。我が家は小さな領地を細々と守り継いできた、目立つことのない男爵家にすぎない。それでも、当主だった父は私によくそう言っていた。
「――ではペトラさんは」
「はい」
「大人になって、子供の頃の夢や憧れを叶えたということですね」
「えっ……」
「素晴らしいではないですか」
「…………」
愕然としていた。
王都に長年一人で暮らし、そして侍女の仕事を続けていく中で――夢や憧れなどとっくに消え失せていたことに。いや、そのようなことを考えるのをいつの間にか止めていた自分に。
「……どうでしょう」
「えっ」
「別になんとも思いませんわ」
「ペトラさん……」
「それに私、そもそも優秀などではありません」
「……」
「仕事には複雑な人間関係がつきものです。優秀とは、そんな中でも他人と上手く接し、そして自分の力を自然に発揮できる資質こそを意味するのだと、私は思っています」
「……」
「でも私は、正直言えば、それが得意ではないのです。今まで……恥ずかしながら、貴族学校でもこの王宮でも、人と上手く接するどころか、よく距離を置かれてきました」
「……」
顔を上げると、赤い瞳が私を静かに見つめていた。
「でも……ジュジュさんならきっと、誰からも好かれるでしょう?」
「……」
「思うんです。私もジュジュさんみたいな人だったらよかったと」
……私は何を言っているのだろう。
自分に対して呆れた。亡くなった父のことを思い出してしまったために、いつもの自分ではなくなってしまったかのようだった。
息を整え、仕事を再開するため気持ちを切り替えようとしたそのとき。
「ペトラさん」
首を振ったジュジュさんが私に向かって一歩踏み出す。
「気付いてほしいから。大事なことだと思うから。はっきり言うよ」
「……?」
「貴女は、今のままで、とても魅力的だ」
「え……」
「他の人の意見なんて私は知らない。彼らがどう思うかは彼らの自由。貴女が自分をどう思うかも、それもまた貴女の自由だろう」
「……」
「そして、貴女の過去も僕は知る由もない。でも――」
「……」
「今の貴女は間違いなく、魅力的だ。私はそう感じている」
「ジュジュ、さん……」
「それに、ね――」
そっと伏せられた長い睫毛が、深い赤の瞳に影を落とす。
「私の方こそ昔から……何と言ったらいいのかな……。腫れ物扱いって言った方が近いのかな。……仕方のないことだけれど」
「……?」
どういうことだろう。まさに才色兼備な彼女が周囲から腫れ物扱いされる状況など思いつかない。
そう意識が逸れた瞬間だった。
「いいかい――」
(――えっ?)
私の頬をジュジュさんの指がそっと撫でていた。
「私はペトラさんが、好きだ」
「……」
「正直言えば、本当は貴女にまた会えたらと、あれからずっと思っていた」
「え……」
「そう想えた女性は、貴女だけだ」
「……」
「もし――」
編まれたプラチナブロンドの髪がひと房落ちる。それが小窓から流れてきた風に流れた直後――自分の目が錯覚に陥っているのではないかと疑う。
ガーネットの深い赤を宿していたはずの瞳に、明るいルビーのような光が灯っていたから。
「好きになられたら……ペトラさんは、嫌?」
「…………」




