本当の自分
「にゃーん」
「――!」
鳴き声が突如聞こえ、反射的にジュジュさんから後ずさった。振り返ると、あの白猫が小窓から顔をのぞかせていた。
「にゃ―う」
「……」
「……チャーシャか」
「にゃ―う」
「どうしたんだい? おいで」
ジュジュさんから呼びかけられ、白猫はするりと全身を現す。
「……」
先ほどの、まるで告白のようだったジュジュさんの言葉。
心臓がまだ騒いでいる私をよそに、チャーシャはすとっと飛び降りると、とすとすと歩いて私たちの前に座った。
「あっ!」「えっ!?」
血の気がさっと引いていく。猫の後ろ足から血が流れていた。
「た、大変だわ」
「ペトラさん、落ち着いて」
「は、はい」
ジュジュさんが私の肩に手を置く。「大丈夫かい?」と声をかけながらチャーシャの頭を優しく撫でると、私の方へと向き直る。
「すぐに戻ります。このまま少々お待ちを」
「ええ……」
こくりとうなずくと、ジュジュさんは部屋を飛び出していった。回廊に響き、そして遠ざかっていく足音を聞きながら、私もチャーシャをそっと撫でる。
「痛いよね。もう少しだけ我慢してね」
「にゃむ」
「すぐにジュジュさんが戻ってくるわ。大丈夫よ」
「ゴロゴロ……」
「よしよし。いい子……いい子……」
外で何かに足を引っ掛けてしまったのだろうか。
白い毛に滲む赤い染みはとりわけ痛々しく、胸が締め付けられた。
「――お待たせしました」
戻ってきたジュジュさんの手には救急箱と器。屈んだ彼女は、救急箱から取り出したガーゼを何枚か膝の上に置くと、一枚を白猫の足に当てた。
「いい子だね、チャーシャ。もう大丈夫だよ」
止血を行いながら、もう片方の手で救急箱に入っていた袋の中身を器の水に混ぜていくジュジュさん。どうやら消毒用の薬のようだ。
「うん……傷は浅いね。よかった」
「にゃーう」
「ちょっとだけ染みるよ」
ジュジュさんは器の水に浸したガーゼで傷口をさっと清めたかと思うと、包帯を瞬く間に巻いた。
実に手慣れていて、さすが騎士だと感心してしまう。猫の足が再び白く戻った様子に、安堵の気持ちが込み上げる。
「どうもありがとうございました」
「いえいえ」
「チャーシャ、安静にしててね。あと、包帯は舐めちゃダメよ」
「にゃん」
白猫は周りを見渡しながらゆっくり歩み、部屋の隅で足をふにっと畳んで香箱座りをした。
小窓から届く光を浴びて、ふわふわの毛並みがぱやぱやと輝く。
「大丈夫かな」
「……ええ」
隣をちらりと見ればジュジュさんの温かな笑み。胸がじんわりとした。
その後、私たちは仕事を再開した。
太陽の光は茜色へと変わり、懐中時計を見れば退勤時間に近づいていた。
「そろそろお時間ですか?」
「はい。今日はもう大丈夫ですわ」
「お力になれたのなら、よかったです」
「……」
ジュジュさんを見ながら、自分の仕事を誰かにここまで手伝ってもらったのは、もしかしたら初めてかもしれないと気づく。
私は人に頼ることが昔からとても苦手だ。それがなぜかは自分でもわからないが、いたたまれなくなってしまい、却って辛いのだ。
だから普段はできるだけ一人で仕事をすることを好む。そのはずなのに、ジュジュさんだけは特別だった。
「今日は本当にありが」
「にゃーう」
頭を下げかけたら、いつの間にか足元にいた白猫と目が合う。
「にゃーう、にゃーう」
「……」
「チャーシャ。ペトラさんはそろそろお帰りだぞ」
「うにゃ」
もちもちした体をぽてんと転がし、じっと見つめてくる白猫。そのエメラルドのような瞳は「わたくし、構っていただきたいの」とせがんでいた。
「しょうがないニャ―」
「えっ? それって何語ですか?」
「なんでもありません」
こほんと咳払いをして白猫の前にしゃがみ込む。
手をしゅっ、しゅっと出したり引っ込めたりしたら、チャーシャは前足でじゃれついてくる。甘噛みつきだ。隣のジュジュさんまで同じ動作をし始める。
「――あ」
ふとあるものが視界に入った。
「扉、念のため閉めておきますわね」
「あ、はい。手伝いますよ」
――ズン。
二人で内側から閉めると、元宝物庫の分厚い扉は重々しい音を立てた。
これでひと安心だ。もし猫が王宮内へ脱走したらいけない。後でこの部屋から出る際、庭園に放してあげればいいだろう。
「あら」
少し目を離した隙に――白猫は、片付けようと思っていたきれいな雑巾に猫パンチを繰り出し、それを自分で追いかける一人キャッチボールを始めていた。足は痛くないのだろうか。
「こら。ペトラさんが安静にと言っていただろう」
「うびゃあ……」
ジュジュさんから瞬く間に捕獲され抱っこされたチャーシャは、切なげな鳴き声を上げた。
「遊ぶのはまた今度ね。その代わりマッサージいたしますわ、お嬢様」
「よかったな。ペトラさんは本職の王宮の侍女なんだぞ」
「にゃう」
再びごろんと転がった猫の極上の毛並みを、背中とお腹にかけて撫で回す。ぴんと伸ばされた両足の、ピンク色のぷにぷにの肉球がなんとも可愛らしい。一方、ジュジュさんは頭と首周りを担当している。
二人がかりのマッサージを浴び、目を閉じたチャーシャは恍惚の表情を浮かべている。
「ゴロゴロ……」
「……」
「ゴロゴロ……ゴロゴロ……」
「ちくわ……元気かな……」
「実家の猫の名ですか?」
「えっ」
つい声が漏れてしまっていたらしい。
「はい。元々は、はぐれてしまった野良猫だったんですけど……」
「ええ」
「本当に人懐っこい子で。夜になるとベッドに勝手に登ってきて、『早く撫でてもらわないと、自分眠れません!』という風に、よく催促されました」
「ふふっ! 可愛いですね! 以前も話しましたが、私の家は犬で……子供の頃はいつも一緒に寝ていました。私が大きくなって一人で寝るようになったら、相当不満だったらしく、顔の上によく乗っかられました」
「可愛い!」
「ちなみにどうして、ちくわという名なのですか? ちくわとは宝石か何かの名前ですか?」
「ええと、オレンジのしま模様がある猫なのですけど……それと近い色をした、カルティアの郷土料理があります。お魚のすり身や卵白などを混ぜて、蒸して作ります」
「へえ~」
「特に煮物にいれて味が染み染みになると、最高なんですよ」
「ほう。なんだか美味しそうだ」
「ええ。私の好物です」
「そんなにペトラさんが好きなら、私も食べてみたいな」
ジュジュさんは興味津々だ。ちくわは王都ではあまり流通していない。だが、探せば見当たらなくもない。いつか彼女にも食べさせてあげたいと思った。
「あの……わんちゃんは、お元気ですか?」
「ええ、元気ですよ。……でも、ときどき無性に会いたくなります」
「……」
切なげに答えたジュジュさんに、胸が少し苦しくなった。
「ジュジュさん」
「はい」
「お国にいつ帰れるのかは、まだ決まっていませんか?」
「……ええ。カルティアにしばらく滞在することが、昨日正式に決まりました。期限は未定です」
「……」
前も目にした彼女の真剣な表情に、やはりフェアリスタの人たちには何か深い事情があるのだと悟る。
だが、それが何かは知る由もない。しばらくカルティアに留まってくれそうだという嬉しさと、案じる気持ちとが混ざり合う。
「でしたら、ジュジュさん」
「はい」
「以前も申し上げましたが、何かお困りごとがあれば遠慮なく相談くださいませ」
「た、たしか、ペトラさんが私に『どんなことでもしてくれる』っていう……?」
「もちろんです。女に二言はありません」
「…………」
ジュジュさんは急にうつむいた。
「……どうしてですか?」
「えっ」
「どうして私にそこまで言ってくれるのですか?」
「それは……」
言葉に詰まった。
ジュジュさんは遠い異国から来た。私も地方から王都に出てきた頃は苦労した。だから、力になりたい。
前はそう思った。それは今でも変わらない。だが一方で、それとは別の気持ちもまた自分の中にあるような気がしてならなかった。
そしてなぜか怖くなっていた。それがなぜなのか、わからなかった。
「……急にすみません。ペトラさん」
「いえ……」
「つい怖くなってしまって」
「え……」
「今まで、私の本当のことを知った人は……」
「……」
「ほとんど皆、離れていったから」
「……」
長い睫毛を伏せたジュジュさんに浮かぶ悲しみの色――。
強くて泰然とした彼女をそんなに嘆かせるものが何か、私は知らない。
だが、一つだけ思うことがある。
それは、彼女のように優しい人が悲しむことはあってはならない、ということ。
その理屈を問われても、私には答えられない。あえて言うのなら、大げさかもしれないが、信念のようなものなのだろうか。
私らしくない考えのようにも思える。だが、彼女が先ほど言った言葉を思い出す。
『気付いてほしいから。大事なことだと思うから。はっきり言うよ』
そう。自分が思ったことは、時に言葉にしなければならないのかもしれない。
考えたことを頭の中で完結させがちな私でも、それは正しいことのように思えた。
「――ジュジュさん」
「はい」
「なぜ私がそう言ったかの質問にお答えします」
彼女の手を取る。赤い瞳に私が映る。
「好きだからです」
「え……」
「ジュジュさんのことが、好きだからです」
先ほどチャーシャが来る前、ジュジュさんは「自分は腫れ物扱いされている」とこぼしていた。つまり何か、彼女には人には明かせないことがあるのだろう。
しかし、誰だってそういったことを何かしら抱えて生きているのではないか。
もちろん、スミロのように裏で浮気するような話となれば別だ。でも、ジュジュさんはそんな人ではない。ならば――。
「理由はそれだけでは足りませんか?」
「……」
「私はジュジュさんの『本当のこと』は存じません。でもそれは、あなたがいつか話したくなったときに聞かせてください。私には、それで十分です」
「……」
ジュジュさんは瞳を瞬かせると、耳の付け根までたちまち赤く染めた。
「……」
「……」
「そんなことを言ってくれた女性……ペトラさんが初めてです」
「にゃー」
私たちの前で寝そべっていた白猫が立ち上がり、周囲をキョロキョロと見回し始めた。そして柱へ向かうと、すっと爪を立てた。
これは研ぐ気まんまんなのでは?
「だ、だめよ」「こ、こら。止めなさい」
「うにゃん」
捕獲されることに気付いた白猫は部屋中を逃げ回る。そして最後に広い化粧室に立て籠もる。今は高い場所に陣取って不敵にこちらを見下ろしている。
「チャーシャ。一緒にお外に出ましょう、ね?」
「なーう」
「君は完全に包囲されている。直ちに投降しなさい」
「なーう」
そんなやり取りをしていた私たちは、全く気づけなかった。
いつの間にか、この部屋が外から施錠されてしまっていたことに。




