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左を空けて

シンチャオ、趙氏貞です。


今日のベトナム語は「bên trái(ベン・チャイ)」。

「左側」という意味です。


「氏貞、敵が二百いるぞ」

「うん」

「象で正面に出るんだぞ」

「うん」

「何でそんな平然としてんだよ!」

「清河が何とかするでしょう?」

「私に丸投げすんな!」


でも、戦っている途中で一つだけお願いするかもしれません。


「何だ?」

「bên tráiを空けて」

「左? そこから回り込むのか?」

「ううん。逃げてもらうの」

「敵に!?」


全部囲むと、最後まで戦われますから。


「お前、象の上で急に冷静になるな!」


さて、初めての象上戦です。

落ちなければ、たぶん何とかなります。

象の上で初めて戦うことになった私を見て、最初に動けなくなったのは呉兵だった。

次に動けなくなったのは、私だった。

里の手前では二百を超える兵が槍を構え、こちらを見ている。

こちらの人たちも、なぜか私を見ている。

象だけが平然と鼻を動かしていた。

「清河」

「何だ?」

「ここからどうするの?」

「そこからかよ!」

清河が振り返った。

「だって象で戦うの初めてだよ?」

「私だってねえよ!」

「じゃあ同じだね」

「安心材料にすんな!」

象の横では文七が首元を撫でていた。

「無理に走らせなくても大丈夫です。このまま前へ出るだけで嫌がります」

「歩くだけで?」

「向こうから見れば、象が自分に向かって歩いてくるんですよ」

「なるほど、じゃあ歩こうか」

「散歩みたいに言うな!」

文七が合図すると、象が一歩進んだ。

呉兵の前列が下がる。

もう一歩。

また下がった。

「清河」

「何だよ!」

「本当に下がる」

「お前は上に乗ってるから呑気なんだよ!」

私も昨日までなら、山道の向こうから知らない女が象に乗り、槍を持って近づいてきたら避けると思う。

ただ、呉兵はそのまま逃げてはくれなかった。

号令が飛ぶ。

前列の兵が槍を揃え、長い穂先をこちらへ向けた。

今度は象が止まった。

「清河」

「今度は何だ!」

「象が刺される」

「お前も刺されるんだよ!」

忘れていたわけではない。

昨日、私の手から芋を食べた象を、そのまま槍の中へ突っ込ませるのが嫌だっただけだ。

象の上から敵を見る。

槍がこちらへ集まったぶん右側が薄く、その先には川へ落ち込むような斜面がある。ただし道らしいものはない。

「氏貞」

「道ないよ」

「まだ何も言ってねえ!」

「でも行くんでしょう?」

「……お前、私のこと分かってきたな」

「分かりたくなかった」

清河はもう笑っていた。

「二十人、私と来い! 正面は氏貞から離れすぎんな! 象に気を取られてる間に右から回る!」

近くの男が斜面を見て固まった。

「道がありません!」

「だから敵もいねえんだろ!」

聞いたことがある。

というより、清河は前にも似たようなことを言っていた気がする。

「清河、落ちないでね」

「お前は象から落ちんな!」

どちらも大事だった。

清河たちは木々の間へ消えた。

正面に残された私は、二百を超える呉兵と向き合う。

象に乗っていると、隠れる場所がない。

「趙氏貞を討て!」

敵の中から声が飛んだ。

ちょっと前まで、役人に名前を聞かれて素直に手を挙げたら清河に腕を下ろされていたのに、今では敵の方から名前を呼んでくれる。

あまり嬉しくはない。

「氏貞、身体を下げろ!」

後ろから景謙が叫んだ。

ほとんど同時に、文七も顔を上げる。

「伏せて!」

私は反射的に身体を倒した。

矢が一本、さっきまで肩のあった場所を抜けた。

二本目は象の横へ落ちる。

「文七、見えてた?」

「いえ」

「じゃあ何で?」

「なんとなく、嫌な感じがしました」

景謙が文七を睨んだ。

「またそれか?」

「当たったでしょう?」

「それが気に入らん」

私は文七を見る。

「次も嫌になったら言ってね」

「はい」

「氏貞、そいつの勘を当てにするな!」

「でも当たったよ?」

「だから気に入らんと言ってる!」

景謙は文七の何がそんなに嫌なのだろう?

考えている暇はなかった。

敵兵が槍を手に近づいてくる。

私も槍を前へ出した。

怖いと思っていた高さが、今度は少しだけ役に立つ。

こちらは上から届くが、相手は象の身体を避けながら突き上げなければならない。

一人の槍を払ったところで、別の兵が横へ回る。

象が鼻を大きく振った。

兵が驚いて下がった。

私も驚いた。

「今の何?」

「象です!」

「近いとすごく大きいね」

「氏貞殿が一番近いです!」

その通りだった。

象がもう一度鼻を鳴らすと、前列がわずかに乱れた。

その時、右側の林から怒鳴り声が響く。

「氏貞ィ! そのまま押せ!」

清河だ。

本当に道のないところから出てきた。

泥だらけだった。

後ろの二十人も全員泥だらけだった。

「押すってどうするの!」

「前行けって意味だ!」

「最初からそう言って!」

文七が象を前へ出す。

一歩進むと、敵が下がる。

二歩目で、正面の列が崩れた。

そこへ清河たちが横から突っ込む。

味方まで一斉に声を上げ、前へ出た。

私は象の上から全体を見る。

左へ逃げようとした呉兵が、こちらの人数を見て戻っている。

右は清河が押している。

後ろには川がある。

このままでは逃げ道がなくなる。

追い詰められた人間は、逃げる人間より怖い。

「清河!」

「何だ!」

「左、空けて!」

「はあ!?」

「逃げ道なくしたら、死ぬまで戦うよ!」

清河が一度だけこちらを見た。

すぐに振り返る。

「左は追うな! 空けろ! 逃げる奴は行かせろ!」

味方の動きが変わった。

呉兵は最初、罠だと思ったらしい。

一人が走った。

誰も追わない。

二人目が続く。

そこからは早かった。

槍を捨てる者まで現れ、崩れた兵たちが開いた左側へ殺到する。

追いかけようとした男の襟を、清河が掴んだ。

「行かせろって言っただろ!」

「でも勝てます!」

「だから終わらせんだよ!」

しばらくすると、里の前から呉兵の姿が消えた。

残ったのは、落ちた槍と踏み荒らされた土、それから私たちだった。

象が鼻を鳴らす。

私は息を吐いた。

「終わった?」

「たぶんな」

「象から降りていい?」

「そこかよ!」

足が少し震えていた。

戦ったからなのか、高いところに長くいたからなのかは分からない。

文七が象を伏せさせる。

私が降りようとすると、景謙が先に駆け寄ってきた。

「氏貞、待て」

腰へ手を伸ばしかける。

その前に文七が腹帯を押さえた。

「今です。右足から降りてください」

言われた通りに地面へ降りる。

安心した。

やっぱり地面はいい。

動かない。

横では景謙が、伸ばしかけた手をゆっくり下ろしていた。

「景謙、どうしたの?」

「……何でもない」

何でもない顔には見えなかった。

文七が私の袖についた泥を払おうとすると、景謙がその腕を掴んだ。

「お前は象を見ていろ」

「氏貞殿に泥が」

「自分で払える」

「景謙、何してるの?」

「何もしていない」

清河が戻ってきた。

「お前の『何もしてない』、最近まったく信用できねえぞ」

景謙は渋々、文七の腕を放した。

今度は里の人たちが集まってくる。

「趙氏貞殿!」

「象の上から呉兵を退けた!」

「見事でした!」

「いや、清河が横から――」

「氏貞」

「何?」

「今日は黙っとけ」

「でも象を動かしたの文七だよ?」

清河が額を押さえた。

「お前が乗ってたのは本当だろ?」

「うん」

「槍使ったな?」

「使った」

「逃げ道を空けろって言ったのもお前だな?」

「言ったね」

「じゃあ今日はそれでいい!」

ずいぶん雑だった。

「氏貞は昔からそうだ」

景謙が突然言った。

「自分が何をしたのか、自分では分かっていない」

なぜか少し誇らしげだった。

「俺は知っている」

清河が眉を上げる。

「何を?」

「氏貞のことをだ」

誰もそこまで聞いていなかった。

文七が首を傾げる。

「俺も最近だいぶ分かってきましたよ」

「お前は黙っていろ」

返事が速かった。

「象に乗ってる時の氏貞殿なら、俺の方が――」

「言うな」

「何でです?」

「お前が氏貞を知っていると言うな」

「景謙、それどういう立場から言ってるんだ?」

清河が笑っていた。

景謙は笑っていなかった。

「氏貞」

「何?」

「文七を近くに置きすぎだ」

「象の世話役だよ?」

「それでもだ」

「なんで?」

「……とにかく近い」

説明になっていなかった。

そこへ兄が人を連れて到着した。

怪我人を見るなり顔をしかめ、落ちている槍を見るなり人数を数え始める。

「勝ったのはいい! 怪我した奴はこっちへ来い! 槍は一か所へ集めろ! 象に近づけるな、踏まれたら仕事が増える!」

「兄さん、来て最初にそれ?」

「誰かがやらなきゃ終わらねえんだよ!」

清河が笑う。

「兄貴、戦ってねえのに一番疲れてんな」

「お前らが増やしてんだ!」

水と食べ物が運ばれ、怪我人の手当てが始まった頃、一人の男がこちらへ歩いてきた。

さっきまで戦っていた者とは服装が違い、武器も持っていなかった。

清河と景謙が同時に前へ出た。

「止まれ。誰だ?」

声まで重なった。

「なんでお前まで出てくんだよ」

「氏貞に近づいている」

「見りゃ分かる!」

男は両手を見せた。

「趙氏貞殿に、お話があります」

「俺が先に聞く」

景謙が言った。

「私に話があるって言ってるよ?」

「危険かもしれない」

「じゃあ一緒に聞けばいいでしょう?」

景謙は少し不満そうだった。

私は男へ尋ねる。

「名前は?」

「先に敵かどうか聞け!」

清河がまた怒った。

男は少しだけ笑い、自分が九真の生まれで、郡の役所で書佐として働いていたことを告げた。

「戸口と徴発の記録、兵糧の出入りなどを書いておりました」

清河の目が変わる。

「役所の兵、どこに何人いる?」

「清河、まだ名前聞いてないよ」

「今は兵の数の方が大事だ!」

男は今度は笑わなかった。

「私は呉に使われていました。ですが、家族も故郷も九真にあります。命じられるまま米を取る記録を書き、人夫を出させる帳面も作りました」

声は静かだった。

「それでも役所に残っていたのは、家族を養うためです。しかし郡治が焼かれたあと、討伐の対象に私の生まれた里まで加えられました」

男は木簡の束を地面へ置き、自分から下がった。

清河が拾って読む。

「……氏貞」

「何?」

「こいつ、超使える」

「人を道具みたいに言わないの」

木簡には、役所の兵がどこへ動いたかだけでなく、倉の場所や門の警備まで書かれていた。

今日ここへ来た二百余りの兵も、その県からかなり出ているらしい。

景謙が木簡へ目を走らせる。

「今なら兵が薄い」

「はい」

「北門は?」

「夜は見張りが減ります」

「裏は?」

「水路があります」

景謙はすぐ私を見た。

「好機だ」

私は地面へ描かれた道を見る。

「そこを放っておいたら、どうなるの?」

書佐が答えた。

「今日の敗北が伝われば、兵を集め直します。足りなければ周辺から人夫と兵糧を出させるでしょう」

「また米を取る?」

「はい」

「人も?」

「はい」

最初の日と同じだった。

米がなければ人を出せ。

人を出せなければ米を出せ。

ただ今度は、私たちを討つためにそれを繰り返す。

「倉の米は、この辺りから取ったもの?」

「かなり含まれています」

「徴発の帳面も役所にある?」

「あります」

なら、放っておく理由はなかった。

「今夜、行こう」

清河がすぐ笑った。

「そう言うと思った」

景謙は黙って続きを待っている。

私は地面の線を指した。

「倉を押さえる。米は全部持っていかない。どこの里から取ったか分かるなら、戻せる分は戻す。徴発と人夫の帳面も持ち出す。抵抗しない人は傷つけない」

兄が遠くで嫌な顔をした。

たぶん仕事が増えると思ったのだろう。

正しい。

「清河は入る人を決めて。景謙は水路と門を見て、逃げる役人まで全部塞がないようにして」

「全部塞がない?」

「また死ぬまで戦われたら困るでしょう」

「分かった」

景謙の返事は早かった。

「兄さん」

「何だよ?」

「怪我した人は連れていかない。帰りは米を運ぶから、荷を持てる人も残して」

「そこまで分かってんなら俺に聞くな!」

もう木札を出していた。

文七が象を見る。

「象は休ませます?」

「今日は休ませよう。文七も残って――」

「氏貞殿が行くなら俺も行きます」

景謙が即座に振り向いた。

「お前は象と残れ」

「象は他の人でも見られます」

「さっき自分が一番慣れていると言っただろ!」

「戦場では俺の方が氏貞殿の動き分かりますし」

「それを言うな!」

清河が腹を抱えた。

「氏貞、こいつら置いてった方が静かじゃねえか?」

「二人とも役に立つよ?」

「それが一番面倒なんだよ!」

私はもう一度、地面に描かれた役所への道を見る。

数日前までは、役所へ入って米と武器を押さえ、帳面を燃やすところまでしか考えていなかった。

今は、入ったあとに何をするかまで考えている。

米を奪うためではない。

帳面を燃やして終わるためでもない。

次の徴発を止め、その米を取られた人たちへ戻すために入る。

「行こう」

私が言うと、皆がそれぞれ動き始めた。

清河は人を選び、景謙は水路の幅を聞き、兄は帰りの荷まで数えている。

文七はなぜか景謙に睨まれながら槍を確かめていた。

どうやら、呉の役所は外から燃やすだけではなくなってきたらしい。

今夜は中へ入る。

そして今回は、燃やす前にやることがある。

呂清河だ。


今日のベトナム文化は、川と舟。


川の多いベトナムじゃ、水路は邪魔なものじゃない。

人も荷も舟で運ぶし、道として使う。

陸から行きにくい場所でも、水路からなら入れることがある。


「清河」

「何だ?」

「役所の裏にも水路があるって」

「文化を悪用する顔すんな」

「舟いるかな?」

「もう侵入する気満々じゃねえか!」


北門には見張りがいる。

なら、見張られていないところを探せばいい。


「正面突破は?」

「今回はしねえ!」

「清河なのに?」

「私を何だと思ってんだ!」


次回。

夜の水路から役所へ入る。


狙うのは米と帳面。

火をつけるのは、そのあとだ。

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