今ので県取ったぞ
シンチャオ、趙氏貞です。
今日のベトナム語は「huyện」。
今でいう「県」や「郡」に近い行政区画です。
「氏貞、昨日勝ったな」
「うん」
「敵を出したhuyệnは兵が減ってる」
「そうみたい」
「で?」
「今なら入りやすいね」
「ほら始まった!」
何が?
「お前、その言い方で役所一個取りに行くんだぞ!」
「見に行くだけかもしれないよ?」
「象と槍持ってか!?」
「手ぶらだと危ないでしょう?」
清河が頭を抱えています。
私はまだ、県を取るつもりはありません。
たぶん……
「最後の『たぶん』が怖えんだよ!」
昨日追い返した二百余りの呉兵は、その多くが一つの県から出ていた。
だから、その県の役所を取りに行くことになった。
正確には、書佐が地面へ描いた道を指しながら、
「今日の敗走が戻れば、役所は兵を集め直します。足りなければ周辺から米と人を取るでしょう」
と言ったので、私が聞いただけだ。
「じゃあ、今行ったら?」
清河が立ち上がった。
「氏貞」
「何?」
「今のはお前が言ったからな」
「何を?」
「県の役所を取るって話だよ!」
「そこまで言ってないよ?」
「兵が減ってる時に役所へ行こうって言っただろ!」
「見に行くだけかもしれないじゃない」
「槍持って象で行く見物客がどこにいるんだよ!」
少し納得がいかない。
けれど、書佐の話を聞けば急ぐ理由はあった。
逃げた兵が戻れば敗戦が伝わる。
役所は足りなくなった兵と兵糧を補うため、また周辺の里へ徴発を掛ける。
それだけではない。
「私がこちらへ来たことも、いずれ知られます」
書佐は静かに言った。
「役所の中には、私と同じ考えの者がいます。門番にも、倉で働く者にもおります。しかし疑われれば、先に捕らえられるでしょう」
清河の顔が変わった。
「じゃあ、兵が薄いのも、中の奴らが動けるのも今だけか」
「はい、援軍が入れば難しくなります」
それなら、待つ理由はなかった。
「今夜行こう」
今度は清河も何も言わなかった。
景謙がすぐ地面へしゃがみ込む。
「北門を中から開けられるなら、それを第一にする。駄目なら裏の水路から入る。外から騒いで、中で動こうとしている者まで巻き込むな」
こういう時の景謙は本当に早い。
書佐も頷いた。
「私が先に戻ります。北門の者と話します。動けるなら鐘を二度鳴らします」
「鳴らなかったら?」
「水路から入ってください」
清河が笑った。
「分かりやすくていい」
その横では呂興が木札へ印を付けていた。
「叔母さん、戻る道にも人置いとく?」
「姉ちゃんと呼べ!」
「またぁ?」
「そこ大事だからな!」
「じゃあ姉ちゃん。夜は煙が見えにくいから、途中の合図は松明に変えよう。一本ならそのまま、二本なら戻る」
「……お前、切り替え早えな」
「叔母さんに似たんじゃない?」
「姉ちゃんだろ!」
五歳しか違わない叔母と甥は、今日も面倒だった。
文七は象の腹帯を確かめている。
景謙がそれを見る。
「象も連れていくのか?」
「氏貞殿が乗るなら」
「夜襲だぞ。目立つ」
「役所の近くまでは出しませんよ」
「なら、お前も氏貞のそばにいる必要はない」
「象も氏貞殿のそばにいますけど」
景謙の眉間に皺が寄った。
呂興が小声で私へ言う。
「景謙殿、最近ずっと文七見てない?」
「そう?」
「俺も時々睨まれるけど」
「十八なら男だって言ってたよ」
「何の話?」
私にもよく分からない。
夜になると、私たちは県へ向かった。
象も一緒だった。
「夜でも乗るの?」
清河は当然のように言った。
「最後に出す」
「何に?」
「門が開いたあとだよ。中の奴らが命張って開けたところへ、象に乗ったお前が出れば、まだ抵抗する奴も考え直す」
「象、脅しに使われすぎじゃない?」
「本人が嫌がってねえならいいだろ」
出発前に芋をあげると、象は普通に食べた。
たぶん本人は気にしていない。
役所から少し離れた林で止まり、書佐だけを先へ行かせた。
待つ。
夜の城壁には松明が揺れている。
清河は落ち着かず、景謙は水路へ入る人数を何度も確認し、兄は帰りに米を積む荷車を見ながら嫌そうな顔をしていた。
「まだ取ってもいない米の心配してるの?」
「誰が運ぶと思ってんだ!」
「兄さん」
「俺だよ!」
分かっているなら聞かなければよかった。
呂興が城壁を見上げる。
「動いた」
「どこ?」
「あそこ。北門の上」
松明が一つ横へ動き、止まった。
もう一つが近づく。
「合図か?」 清河が聞いた。
呂興は首を振る。
「まだ。書佐が言ってたのは鐘だろ」
十八歳なのに、こういう時は妙に冷静だった。
やがて城内から怒鳴り声が聞こえた。
景謙が立ち上がる。
「始まったな」
鐘が鳴った。
一度。
清河が剣へ手を掛ける。
続いて、もう一度。
「二回!」
呂興が先に叫んだ。
城壁の上で人が揉み合う。
漢人の役人らしい男が門を指して何か怒鳴っていた。
その前に立つ門番は動かず、やがて隣にいた兵が役人へ槍を向ける。
「清河」
「見えてる!」
「中で喧嘩してる」
「それを反乱って言うんだよ!」
少し前まで、反乱という言葉は私たちのことだった。
今は役所の中で起きている。
別の場所から煙まで上がった。
「燃えてる」
「お前、嬉しそうに言うな!」
「嬉しくないよ」
ただ最近、役所を見ると火の場所を確認する癖がついただけだ。
やがて北門の内側から重い音が続いた。
閂が外される。
門が開いた。
清河が振り返る。
「氏貞、出番だ!」
私は象へ乗せられた。
「今から?」
「今だからだよ!」
文七が象を前へ出す。
門の向こうから武器を持った人たちが現れ、こちらも身構えた。
文七が少しだけ首を傾ける。
「大丈夫だと思います」
「また?」
「嫌な感じがしません」
景謙が睨む。
「今度はそれで敵味方まで決める気か?」
「決めてません。でも大丈夫そうです」
「だからそれが気に入らん!」
先頭の男は途中で槍を地面へ置き、両手を上げた。
「趙氏貞殿! お待ちしておりました!」
私は清河を見る。
「待たれてたみたい」
「聞こえたよ!」
「入っていいの?」
「お前が来るから門開けたんだよ!」
書佐も出てきた。
「倉と武器庫は押さえました。下役も門番もこちらにつきました」
「県令は?」
「南門から出しました」
私は聞く。
「逃がしたの?」
「武器を置いた者は。抵抗した者だけ縛ってあります」
清河が少し驚く。
「殺さなかったのか?」
「こちらの者も望みませんでした。追い出せればいい、と」
私は頷いた。
「それでいいんじゃない?」
「よろしいのですか?」
「帰る人まで追いかけたら、また死ぬまで戦うでしょう?」
清河が鼻を鳴らした。
「もう完全に癖だな」
「癖じゃないよ」
そこで書佐が少し困った顔をした。
「ただ、これで終わりではありません」
「まだ何かあるの?」
「県令を追い出したので、今、この県には命令を出す者がおりません」
私は城壁を見る。
「門を開けた人たちで決めたら?」 「門を開けることと、県を動かすことは別です」
書佐は役所の中を振り返った。
「倉の米をどうするか。徴発を止めるか。捕らえられている者をどうするか。明日から役所を誰が動かすのか。今日のうちに決めなければならないことがあります」
清河が私を見る。
嫌な予感がした。
「氏貞」
「何?」
「今度は燃やして帰るだけじゃ済まねえぞ」
書佐が頭を下げた。
「少なくとも、次の仕組みが決まるまでは、趙氏貞殿の名で役所を動かさせてください」
「私の名前で?」
「はい」
私は少し考えた。
県を取ったつもりはなかった。
でも、このまま何も決めなければ、明日からまた誰かが勝手に米を持っていくかもしれない。
「じゃあ、徴発は止めて」 書佐が顔を上げた。
「倉の米は、どこの里から取ったものか分かる分を調べて、戻せるなら戻す。捕まってる人も理由を確認して、罪がないなら帰して。ここで働いてた人は、残りたいならそのまま働いてもらえばいいんじゃない?」
周りが静かになった。
「……それでいい?」
「十分です」
清河が額を押さえた。
「お前、今ので県取ったぞ」
「取ってないよ」
「県令追い出して、役所動かして、米の扱い決めて、人まで帰す奴を何て呼ぶんだよ!」
「たまたまここにいる人?」
「そんなたまたまがあるか!」
私はまだ納得していなかった。
けれど、書佐も門番も下役も、もう私が言ったことを仕事にし始めていた。
どうやら、県というものは旗を立てれば取れるのではなく、明日の米をどうするか決めた人間が取るらしい。
門をくぐると、思っていたよりずっと多くの人がいた。
役所で働く者だけではない。
近くの家から出てきた人や荷を運ぶ人、子供を抱いた女まで道の両側に集まっている。
誰かが声を上げた。
「趙氏貞殿だ!」
そこから一気に私の名前が広がる。
私はまだ象から降りてもいない。
清河が下から笑った。
「お前、とうとう来るだけで城門開くようになったな」
「今の話だと、米の話したからじゃない?」
「そこ冷静に分析すんな!」
書佐が振り返った。
「あなたが来ると分かっていたから、門を開けられたのです」
「でも、門を開けたのは皆でしょう?」
「開けたあとを任せられる相手がいるからです」
それなら少し分かった。
門を開けるだけなら、一晩で終わる。
そのあとも暮らしは続く。
役所の前まで行くと、文七が象を伏せさせた。
景謙が素早く手を伸ばす。
「氏貞、俺が――」
「今です。左足から」
文七が先だった。
私は普通に降りた。
景謙だけが手を伸ばしたまま残った。
清河が吹き出す。
「二日続けて負けてんな!」
「何にだ!」
文七が首を傾げる。
「競争してたんですか?」
「していない!」
「じゃあ何で怒るんです?」
「お前が先にやるからだ!」
呂興が真顔で言う。
「それ競争じゃん」
景謙が振り返った。
「お前まで言うな!」
私は何の勝負なのか、まだ分からない。
清河が役所を見上げる。
「さて」
私は聞いた。
「今回は燃やさないの?」
書佐が勢いよく振り返った。
「燃やしません!」
周りの下役まで一斉にこちらを見る。
「倉の記録も戸口も、橋や道の記録も必要です。ここは使います」
「役所って便利なんだね」
「本来は、そのためにあります」
清河が額を押さえる。
「お前が最初に覚えた使い方が放火だっただけだ」
「でも役に立ったよ?」
「……まあ、役には立ったな」
認めた。
夜が明ける頃には、現地の下役たちが仕事を始めていた。
逃げた官吏の木簡を仕分け、倉の鍵を確認し、捕らえられていた人の名前を調べている。
呂興もその中へ入り込み、木簡を覗いていた。
「これ、里ごとに分けた方がいいんじゃない? 米返す時も、人探す時も早いだろ」
書佐が少し驚いた。
「その方がよいでしょう」
清河が胸を張る。
「さすが私の甥だ」
「叔母さん、都合いい時だけ甥にするのやめて」
「姉ちゃん!」
兄まで呼ばれてきた。
役所へ入った兄は屋根を見て、壁を見て、最後に私を見る。
「燃えてないな?」
「うん」
「よかった」
そこへ書佐が近づいた。
「兵糧の数を確認したいのですが?」
「帰る」
「兄貴、待て!」
清河が襟を掴む。
「俺は妹が役所を燃やしてないか見に来ただけだ!」
「向いてるんだから諦めろ!」
「何にだよ!」
「役所に!」
どうして兄は毎回こうなるのだろう。
もっと困ったのは、そのあとだった。
役所の前に人が並び始めた。
徴発された牛を返してほしい者が来れば、捕らえられた家族を探す者も来る。隣の里との水争いまで持ち込まれた。
「趙氏貞殿、ご裁定を」
私は書佐を見る。
「私が?」
「先ほど、この県をどう動かすかお決めになりましたので」
「そこまで大きな話だった?」
「大きな話です」
清河が笑った。
「ほら見ろ。県取っただろ」
「まだ言ってる」
老人が頭を下げた。
「趙氏貞殿のお名前をお貸しください」
名前を貸すと言われても、返してもらえるのか少し気になった。
景謙の顔から笑いが消える。
「氏貞の名を勝手に使うな」
「景謙?」
「必要なら氏貞本人が決めればいい」
「でも毎回ここにいるわけにもいかないよ?」
「なら俺が――」
「氏貞殿が決めるんじゃないですか?」
文七だった。
景謙がゆっくり振り返る。
「何だと?」
「氏貞殿の名前でしょう。何で景謙殿が代わるんです?」
文七は本当に分からない顔をしている。
呂興まで頷いた。
「俺もそこ気になった」
「お前ら二人とも黙れ!」
清河が額を押さえた。
「象から降ろす競争だけにしとけよ……」
その時、門の方から馬の蹄が響いた。
泥だらけの男が駆け込んでくる。
「趙氏貞殿!」
今日は何度呼ばれるのだろう。
「南の県でも、現地の兵が役所を囲みました! 昨日こちらが勝ったと聞いて、漢人の官吏を追い出すつもりです!」
清河の顔が変わった。
呂興はすぐ地図へ目を落とす。
「南なら半日くらいだ。今出れば暗くなる前に着ける」
男は続けた。
「ですが、まだ兵たちの半分が迷っています。趙氏貞殿が来るなら開ける、と!」
私は今しがた動き始めた役所を見る。
その前に並ぶ人たちも見る。
ここの話すら、まだ終わっていない。
「清河」
「何だ?」
「次も行くの?」
「今度は、お前が来るかどうかで門が決まるらしいぞ」
文七が象を見る。
景謙も立ち上がった。
そして二人が同時に言った。
「俺も行きます」
「俺も行く」
清河が頭を抱えた。
どうやら私は、役所を取りに行くより先に、県の方から呼ばれるようになってきたらしい。
しかも次は、私が着くまで門が閉まったままらしい。
呂清河だ。
今日のベトナム文化は、水牛。
田を耕し、荷を運び、農家の暮らしを支える大事な働き手だ。
戦で田が荒れても、水牛が戻れば土を起こせる。
つまり、勝った後に次の米を作るところから復興が始まる。
「清河、徴発された牛を返してほしいって」
「持ち主を調べろ」
「返したら?」
「田を耕してもらう」
「その次は?」
「米ができる」
「戦より長いね」
「暮らしってそういうもんだ!」
役所を取って終わりじゃない。
牛を田へ戻して、ようやくその先が始まる。
「南の県からも呼ばれてるよ」
「もう次か!」
「ここの牛は?」
「兄貴!」
「俺に復興まで振るな!」
次回。
今度は、南で氏貞を待っている。




