象が来た
シンチャオ、趙氏貞です。
今日のベトナム語は「Voi」。
「象」という意味です。
「氏貞、先に言っとくぞ。象はでかいし重いし、何より毎日とんでもなく食うぞ」
「兄さんが最後のところを一番気にしてる」
「そこだけ妙に現実的なんだよ!」
「あと戦場で乗れば目立つぞ」
「黄色い服で?」
「余計にだよ!」
どうやら私は、兵を集めた覚えも、盟主になった覚えもないまま、今度は象まで渡されるらしい。
「断れば?」
「みんな、もう乗ると思ってるみたい」
「じゃあ乗れ!」
「清河、投げやりになってない?」
Voi。
山道の向こうで、地面が揺れました。
郡の役所を燃やしてから、数日が経った。
火そのものはとっくに消えたらしいのに、話の方は消える気配がなく、むしろ山を越え、川を渡り、燃やした私たちよりよほど元気に九真中を走り回っていた。
「趙氏貞殿が郡の役所を夜襲したと聞きました」
朝から山を登ってきた男に言われ、私は頷いた。
「したよ」
「役所の米と武器を奪ったとも」
「持って帰ったね」
「徴発の記録を焼き、千の討伐軍が戻る前に官衙そのものへ火を放った」
「見つけた記録は燃やしたけど……」
私は清河を見た。
腕を組んでいた清河が、露骨に嫌そうな顔をする。
「今回は私を見るな。全部本当だ」
「困ったね」
「何がだよ。お前がやったんだろ!」
百人を一人で倒したという話なら違うと言えたし、何百人もの兵を私だけで追い返したという噂なら訂正できた。
けれど今回は、言い方が少し勇ましくなっているだけで、やったことそのものはほとんど合っている。
「それで、今日は何の用?」
男は居住まいを正した。
「我らの里も呉の役人を追い払いました。趙氏貞殿と手を結びたい」
まただった。
役所を焼いてから、同じような人が何組も山へ来ている。
最初は二つの里だったのに翌日には五つへ増え、今朝になると兄がとうとう数えるのを嫌がり始めた。
「氏貞!」
少し離れたところから、その兄が呼んでいる。
「何?」
「また三十人来たぞ。どこの里かはもう自分で聞いてくれ」
「兄貴、仕事放棄すんなよ」
「誰のせいで俺が知らない奴の出身地を朝から聞き続けてると思ってるんだ?」
「氏貞」
「清河もだろ!」
兄は最近、私と清河をまとめて怒るようになった。
少し前までは普通の兄だったはずなのに、ずいぶん苦労人になってしまったと思う。
ただし、今のところ兄を一番働かせているのが誰なのかは考えないことにした。
私は目の前の男へ向き直った。
「手を結ぶって、何をするの?」
「呉兵が来れば互いに知らせ、必要なら人を出す。食糧も融通し、我らだけでは持たぬ時には力も貸していただきたい」
「それならいいんじゃない?」
男の顔が明るくなったので、私は続けた。
「でも、私の下につく必要はないよ。それぞれ自分の里があるんだから、困った時だけ助け合えばいいでしょう?」
周りが静かになった。
最近、この沈黙には少し慣れてきた。
清河だけは慣れていないらしく、すぐ私を見る。
「氏貞」
「何?」
「お前、今また余計なこと言ったぞ」
「どこが?」
男が深く頭を下げた。
「さすが趙氏貞殿。各地の頭領を従属させず、盟をもって束ねるお考えですな」
「そこまで考えてないよ」
「では我らも、趙氏貞殿を盟主として――」
「そこまで言ってないよ?」
清河が額を押さえた。
「お前、毎回そこまで言ってねえのに、なんで毎回そこまで行くんだよ」
「私にも分からない」
ただ、山へ来る人たちは、私が思っていたよりずっと本気だった。
話を聞けば、役人に米を取られた里もあれば、若い男を人夫として連れていかれた集落もあり、逆らった者を捕らえられた村もある。
自分たちで兵を追い払ったものの、次に大勢で来られたら持たないと分かっている者もいた。
私たちだけが怒っていたわけではない。
それが分かるほど、少し怖くなった。
私は最初、母の鶏を捕まえることすら面倒だった。
それなのに今は、知らない里の人から「次に兵が来たらどうする」と聞かれている。
「氏貞! こっち来い!」
清河の声が飛んできた。
見ると、十人ほどの男たちが地面を囲んでいて、清河は枝で川と山道を書きながら何やら説明していた。
その横では、見覚えのない若い男が木札を並べ、話を聞くたびに位置を入れ替えている。
「こいつらの里、同じ川沿いに固まってるんだよ。だったら別々に見張るより、川上に一か所と山側に二か所置いた方が早い」
清河が言うと、若い男が木札を二枚持ち上げた。
「叔母さん、この二つの里は途中まで同じ山道を使うんだろ。両方から見張りを出したら人が余る」
「姉ちゃんと呼べ。で、片方を川へ回せ」
「川沿いなら五人で足りる。残りは里へ戻した方がいいな」
「そうしろ」
若い男はすぐ一人へ向き直った。
「そっち、動ける人は何人いる?」
「十五だ」
「十五人全部を見張りに出したら、里に誰も残らないだろ。五人でいい。残りは帰って、兵が来た時に動けるようにしておいてくれ」
男は少し驚いたようだったが、清河を見ると、
「そいつの言う通りにしろ!」
と返ってきたので頷いた。
別の一人が感心したように言う。
「さすが呂清河殿。では諸軍の取りまとめも――」
「違う!」
清河は即答した。
ところが次の瞬間には、
「兵が来たら煙二本、役人だけなら一本だ! 夜は松明を使え! 勝手に別の合図を作ったら、こっちが分からなくなる!」
と怒鳴っている。
私は清河と若い男を交互に見た。
「取りまとめてるね」
「うるせえ!」
「二人で」
「増やすな!」
そこで若い男がこちらを向いた。
十八くらいだろうか、まだ少年っぽさの残る顔なのに、日に焼けた頬と落ち着いた目つきのせいで少し年上にも見える。
「清河、その人誰?」
若い男が先に答えた。
「叔母さんの甥です」
「姉ちゃんと呼べ」
清河が間髪入れずに訂正した。
私は清河を見た。
「叔母さんなんだね」
「氏貞までそこ拾うな!」
若い男がため息をつく。
「親父の妹なんだから叔母さんだろ」
「年が五つしか違わねえんだぞ。姉ちゃんでいい」
「血縁は年齢差で変わらないだろ」
「口答えすんな、呂興!」
「今ので名前まで分かったね」
呂興というらしい。
清河の歳の離れた兄の息子で、十八歳だという。
山の様子を見てこいと父親に言われて来たはずなのに、到着して間もなく清河に捕まり、各里の人数と連絡路を整理させられていた。
「来たばかりなのに働いてるんだね」
「叔母さんが働かせるんです」
「姉ちゃん!」
「はいはい」
私が近づくと、呂興の背筋が急に伸びた。
さっきまで清河へ平気で口答えしていたのに、妙に固い。
「そんなに緊張しなくていいよ」
「いえ、その……趙氏貞殿ですから」
「氏貞でいいよ。清河の甥なら、私より五つ下でしょう?」
「はい」
「朝から山を登ってきたなら、お腹空いてない?」
呂興の顔が止まった。
「え?」
「何か食べた?」
「だ、大丈夫です」
「顔赤いよ?」
「暑いだけです!」
横で清河が吹き出した。
「お前、分かりやすいな」
「姉ちゃんは黙ってろ!」
「お、姉ちゃんって言った」
「今そこじゃない!」
私はよく分からなかったが、十八ならまだ若い。
兄にもらっていた干した芋を一つ渡すと、呂興は妙に丁寧に両手で受け取った。
「ありがとうございます」
「足りなかったら兄さんに言って」
「俺に回すな!」
遠くから兄の声が飛んできた。
そのやり取りを、景謙が少し離れたところから見ていた。
「氏貞」
呼ばれたので振り向く。
「何?」
「そいつは誰だ?」
「清河の甥。呂興」
「そうか」
景謙は呂興を見た。
呂興も礼をする。
「邢景謙殿ですね。姉ちゃんから聞いています」
「そうか……」
同じ返事なのに、二度目の方が妙に冷たかった。
「景謙、どうしたの?」
「何でもない。ただ、知らない男をすぐ近くへ置くな」
「知らない人じゃないよ。清河の甥だよ?」
「十八なら男だ」
「十八でも清河の甥でしょう?」
景謙が黙った。
清河が横で腹を抱えた。
「氏貞、それ以上やるとこいつ死ぬぞ」
「何が?」
「何でもない!」
今度は景謙が怒鳴った。
呂興まで困った顔をしている。
私には、やっぱり何が問題なのか分からなかった。
昼を過ぎる頃には、本拠地は知らない人だらけになった。
泊まる場所を決め、食べ物を分け、明日帰る者としばらく残る者を分けなければならない。
兄はとうとう木札を持ち出し、人数と滞在日を書き始めていた。
「この里は二十六人、こっちは十四人。明日帰る奴は先に食う分だけ受け取れ。勝手に米へ手を出すな、足りなくなる!」
清河が感心したように言う。
「兄貴、完全に後ろまとめてんな」
「誰のせいだ!」
「向いてるぞ」
「嬉しくない!」
呂興が兄の持っている木札を覗き込んだ。
「姉ちゃん」
「何だ?」
「役所を燃やしたのに、ここで役所みたいなことしてるな」
「は?」
呂興は周囲を見回した。
「国達殿が人の数を数えて米を分けて、姉ちゃんが見張りと合図を決めて、氏貞殿が里同士の話を聞いてる。建物を燃やしても、やることは残るんだな」
兄が木札を持ったまま止まった。
清河も一瞬だけ黙る。
私は少し考えた。
「じゃあ、役所って建物じゃないの?」
「知らねえよ。急に難しいこと言うな!」
清河が先に逃げた。
呂興が笑う。
「叔母さんでも分からないことあるんだな」
「姉ちゃん! あとお前、兄貴の木札運べ!」
「なんでそうなるんだよ!」
「働ける奴は働け!」
十分後、呂興は本当に木札を運んでいた。
清河の血だと思う。
その時、山道の下から大きな声が響いた。
「趙氏貞殿へ贈り物をお持ちした!」
兄の顔がさらに嫌そうになった。
「今度は何だ?」
「米だったら助かるね」
「武器でもいい」
私と清河が言う。
兄は嫌な予感しかしない顔をしていた。
山道を登ってきた一団は十人ほどで、先頭の男が私へ礼をする。
「我らも趙氏貞殿と盟を結びたい。その証として、ぜひお納めいただきたいものがあります」
「ありがとう。何?」
男は誇らしげに笑った。
「象です」
私と清河は同時に男を見た。
「……象?」
木々の向こうから、ずしん、と地面を揺らす音がした。
枝が大きく揺れ、鳥が飛び立つ。
もう一度、さっきより近くで重い足音が響き、山道の曲がり角から大きな灰色の頭が現れた。
本当に象だった。
清河が私の隣で呟く。
「……本当に象持ってきやがった」
「象って、贈っていいものなの?」
「私に聞くな」
兄がしばらく黙ってから口を開いた。
「誰が餌やるんだ?」
清河が振り向いた。
「そこかよ」
「毎日食うんだぞ! 米俵みたいに倉へ積んどけないんだぞ!」
清河も象を見る。
そして真顔になった。
「……いや兄貴、そこ超大事だな」
「だろ!」
兄は今日初めて嬉しそうな顔をした。
象を連れてきた男が笑う。
「餌の取り方と世話を知る者も残します。ご心配なく」
兄の顔から喜びが消えた。
たぶん、また管理する人数が増えたと思ったのだろう。
私は象へ近づいた。
思ったより目が優しい。
鼻がこちらへ伸びてきたので少しだけ後ろへ下がると、世話役の男が笑った。
「大人しい象です。趙氏貞殿なら、きっと気に入られましょう」
「どうして?」
「各地の者があなたの名を頼り始めています。この象に乗って戦場へ立てば、誰も趙氏貞殿を見失いません」
私は象を見上げ、それから清河を見た。
「乗るの?」
「そこからかよ!」
「乗ったことないよ」
「私だってねえよ!」
横で呂興が笑いをこらえている。
私が見ると、慌てて顔を逸らした。
「呂興、乗ったことある?」
「ないです」
「じゃあ一緒だね」
「は、はい!」
また顔が赤くなった。
景謙が少し離れた場所で、持っていた木片を落とした。
清河はそれを見逃さなかった。
「おーい景謙、顔怖えぞ」
「黙れ!」
象の鼻が再び伸びてきた。
今度は逃げずに手を出すと、鼻先が掌へ触れる。温かくて、思っていたより柔らかかった。
「かわいいね」
象は鼻を動かし、そのまま私が持っていた芋を取った。
「あ」
食べた。
清河が笑う。
「氏貞、お前、知らねえ男にはあんなに鈍いのに象とはすぐ仲良くなるんだな」
「男の人と象は違うでしょう?」
「それはそうなんだけどよ」
なぜか呂興がむせた。
景謙は笑っていなかった。
周りでは、もう「趙氏貞殿が象を得た」と騒ぎ始めている。
私はまだ乗ってもいないのに、話だけはまた私より先へ進み始めていた。
先日まで、こんなに大勢の人から自分の判断を待たれるなんて考えてもいなかった。
そのあと百人を一人で追い返したことにされ、気づけば郡の役所を本当に焼き、今度は九真のあちこちから人が集まっている。
そして今日、象まで来た。
私はその背を見上げた。
高い。
超高い。
「清河」
「何だ?」
「落ちたら痛そうだね」
「そこ心配してんのかよ!」
世話役の男が合図すると、巨体がゆっくり地面へ伏せた。
周囲にいた者たちが一斉に私を見る。
少し離れたところでは、呂興まで目を輝かせていた。
景謙だけは、象ではなく呂興を見ていた。
嫌な予感がした。
象のことだと思いたかった。
「趙氏貞殿、どうぞお乗りください」
少し前なら、たぶん断っていた。
今でも、本当は少し断りたい。
けれど象は私の前で静かに待ち、人々はもう私が乗るものだと思っている。
私は清河を見た。
清河は笑っていた。
超嫌な顔だった。
どうやら今度は、象にまで巻き込まれるらしい。
呂清河だ。
今日のベトナム文化は、象。
ベトナムでは昔から象が荷運びや戦に使われ、戦象には大きく力のある雄が好まれたという。
「清河、この象も雄?」
「たぶんな」
「確認してくる」
「待て氏貞」
こいつは象の横でいきなり地面へ寝転がると、頬を土につけたまま腹の下へ頭だけ突っ込んだ。
「雄だったよ」
「確認方法が怖えんだよ!」
しかも次は、その雄に黄色い服で乗るらしい。
「目立つ?」
「象だけでも十分でけえんだよ!」
次回。
山道を踏み潰す巨体の上で、黄色が揺れる。
味方には旗印。
敵には標的。
戦場では、目立つ奴から見つかる。




