私たちは川へ飛び込んだ
今回のベトナム語は、
「Áo phao ở đâu?(アオ・ファオ・オー・ダウ?)」
「救命胴衣はどこですか?」です。
「清河、旅行先で舟に乗るなら大事だよ」
「お前が今覚える言葉じゃねえ!」
氏鳳が続けます。
「Tôi không biết bơi.(トイ・コン・ビエット・ボイ)――私は泳げません、も覚えておくと便利です」
「私、たぶん泳げるよ?」
「“たぶん”で川に飛び込む奴が言うな!」
「氏貞様が沈めば、私が引き上げます。最側近ですので」
「ベトナム語講座が救助訓練になってんだよ!」
旅行で舟に乗るときは、救命胴衣の場所を確認しましょう。
私は――確認しませんでした。
馬江が見えた。
山道の先で、水面が夕日を跳ね返している。
ここまで来れば、もう少しだと思った。
けれど、何がもう少しなのか、自分でもよく分からない。
呉軍の包囲を抜けるまでなのか、母さんのところへ帰れるところまでなのか。
それとも、この半年近く続いた全部が、ようやく終わるところまで来たのか。
「氏貞、止まるな!」
清河に怒鳴られて、私は歩き出した。
「川を見てたの」
「見りゃ分かる!」
「大きいね」
「感想はあとにしろ!」
隣では氏鳳が、もう金鎧を着ていない。
私も金の胸当てを松山へ置いてきたし、髪も肩の辺りまで短くなっている。
昨日まで、遠くから見れば私たちはよく似ていた。
今も背丈は近いけれど、戦場で目立っていた金色がなくなったせいで、ただの泥だらけの女二人にしか見えない。
清河だけは相変わらず二本の刀を腰にぶら下げ、走るたびに鞘がぶつかり、がちゃがちゃとうるさい。
「それ、まだ持っていくの?」
「捨てねえよ!」
「重そう」
「誰のせいでここまで持ってきたと思ってんだ!」
誰のせいなんだろう。
考えていたら、前を歩いていた文七が急に立ち止まった。
「来ます」
清河の顔から、さっきまでの怒鳴り声が消えた。
「何人だ?」
「まだ分かりません。ただ、こちらへ向かっています。馬はいません。足が速い」
文七は地面へ片膝をつき、土に手を触れた。
鳥のさえずりもするし、風で草も揺れているけれど、私には何も分からない。
それでも文七には、人の足がどこを踏んだかまで分かるらしい。
「追手か」
「おそらく」
私は馬江を見た。
まだ遠い。
「急ごう」
「最初からそう言ってんだ!」
また怒られた。
山道を下りながら、私は兄さんのことを思い出していた。
母さんは、もっと早い時期にここからずっと南、林邑の方へ逃がされている。
それを聞いたときの私は、兄さんが妙に用心深いと思っていた。
『母さんの行き先は、景謙にも言っていない』
兄さんはそう言った。
あの頃の私は、景謙を疑っていなかった。
『そこまでしなくてもいいんじゃない?』
たぶん、私はそんなことを言ったと思う。
兄さんは米の残りを数えながら、こっちも見ずに答えた。
『戻れない勝ち方は負けと同じだ。逃げる場所は、少ないほど知られない方がいい』
結局、その用心は全部当たった。
景謙は兄さんを殺し、私たちを裏切り、陸胤の下へ行った。
もし母さんの居場所まで知っていたら……
「兄さん、すごかったんだね」
清河が横目で私を見る。
「今さらかよ」
「米のことは、すごいと思ってたよ」
「そこだけかよ!」
「だって、いつも米の話してたし」
「兵站やってたんだから当たり前だろ!」
氏鳳が後ろから言った。
「国達様は、氏貞様が聞いていないところでも、ずっと先のことを考えておられました」
「私、そんなに聞いてなかった?」
「かなり」
「氏鳳まで!?」
文七まで何か言いたそうな顔をしたので、私は先に睨んだ。
「文七は言わなくていいから」
「まだ何も申しておりません」
「顔が言ってる」
「走れ!」
清河に背中を押された。
西の里へ着いた頃には、もう日が傾き始めていた。
里の入口に、一人だけ立っている男の子がいた。
「氏貞姉!」
興だった。
顔を見るなり駆け寄ってきた。
その後ろには、小さな舟が二艘、すぐ川へ下ろせるよう岸近くへ寄せられている。
「用意したよ。里の人たちが手伝ってくれた」
「ありがとう、興」
「叔母上も無事で――」
「誰が叔母上だ!」
清河は逃走中でもそこだけは譲らなかった。
興は慣れた顔で聞き流す。
「舟はすぐ出せる。食べ物も少し積んであるよ」
「興は?」
私が聞くと、興は里の方を振り返った。
「残る。まだ出てない人がいるから」
清河の眉が動いた。
「馬鹿。お前も来い」
「叔母上に言われたくない」
「誰が叔母上だ! ……じゃなくて、今はそこじゃねえ!」
興は笑った。
「大丈夫だよ。呉軍がここへ来る前に、皆を別の道へ逃がす。舟を使うのは氏貞姉たちだけでいい」
私は何か言おうとしたけれど、興の顔を見てやめた。
もう何かを決めている顔だった。
「……気をつけてね」
「氏貞姉も」
興は少し迷ってから、私をまっすぐ見た。
「生きててよ」
胸の奥に、その言葉が落ちた。
以前の私なら、ちゃんと返事ができなかったかもしれない。
皆が助かるなら、自分一人くらい戻れなくてもいい。
どこかで、ずっとそう思っていた。
でも今は違う。
兄さんなら怒る。
清河にも怒られるし、氏鳳と文七にも、たぶん止められる。
何より、私が帰らなければ、ここまで私を逃がしてくれた人たちに申し訳ない。
「うん」
私は頷いた。
「生きるよ」
興が笑った。
「じゃあね、氏貞姉」
「うん。またね」
清河には、
「叔母上も」
「誰が叔母上だ!」
最後までそれだった。
私たちは舟のところまで走った。
そこで文七が、また止まった。
「待ってください」
「今度は何だ!」
清河が振り返る。
文七は川ではなく、背後の道を見ていた。
「近いです」
私たちも耳を澄ますと、今度は私にも分かった。
人の声に混じって、枝を踏み折る音が近づいてくる。
追いつかれる。
私は舟へ手をかけた。
これに乗って川へ出て、そのまま下ればいい――そう思ったのに、文七は岸へ出ず、川面をじっと見ていた。
夕日に光る馬江は広く、舟で岸を離れれば、後から来た兵にもすぐ見つかる。
氏鳳が文七の見ている先を追った。
「舟を見られますね」
「はい、ここから出るところを見られれば、我々が生きて西へ抜けたと分かります」
清河が舌打ちした。
松山では、三兄弟とその部下たちが残り、私の胸当てと氏鳳の金鎧、それに私が切った本物の髪まで置いて、私を死んだことにしてくれた。
それなのに、長身の女三人と男一人、松山から西へ逃げて舟で南へ下った――そんな報告が上がれば、全部疑われる。
舟なら速く、濡れずに済む。
でも、逃げたことまで見られる。
下流側には、葦が密集している場所がある。
その手前を見ながら、文七が目を細めた。
「葦の向こう、浅い場所があります。流れも少し弱く、あそこまで入れれば岸からは見えません」
「行ける?」
「水の中を?」
「うん」
清河が嫌な顔をした。
「お前、まさか」
舟を使えば、逃げた方向まで追手に知られる。
川へ直接入れば、追手が見られるのは、私たちが水へ消えるところまでだ。
三兄弟が作ってくれた死を、壊さなくて済む。
「飛び込もう」
「やっぱりそれか!」
清河が頭を抱えた。
「待て待て待て! お前、泳げるのか!?」
「たぶん」
「たぶんで川に飛び込むな!」
「子供の頃は泳いでたよ」
「浮いてただけだろ!」
「泳いでたよ」
「流されながら笑ってただけだ!」
そこまで覚えているなら、助けてくれてもよかったのに……
「氏貞様」
氏鳳が私の手を取った。
「私も参ります」
「うん」
「最側近ですので」
「そこ、水の中までついてくる仕事なのか!?」
文七も、もう片方から私の手を取る。
「四人で離れないようにしましょう。葦まで着けば、私が浅瀬へ誘導します」
清河が私たちを見回したあと、ため息をついた。
「分かったよ! どうせ止めても飛ぶんだろ!」
「清河も来る?」
「一人で残るわけねえだろ!」
清河も手をつなぐ。
四人が横一列になったところで、清河が急に文七を見た。
「確認するぞ。氏貞が沈んだら?」
「引き上げます」
「氏鳳が沈んだら?」
「引き上げます」
「私が沈んだら?」
「清河殿は刀を捨ててください」
「そこだけ扱い違わねえか!?」
文七は賢かった。
背後から声が飛んだ。
「いたぞ!」
呉兵が道の向こうに見えた。
戻ってはいけない。
私は川へ向かって走り出した。
清河も、氏鳳も、文七もついてくる。
岸が近づく。
「文七、ちゃんといるよね?」
「今それを確認なさるんですか!?」
「氏貞様、息を止めてください!」
氏鳳に言われて、慌てて息を吸った。
そして――飛んだ。
冷たかった。
思っていたよりずっと冷たく、水が顔へぶつかった瞬間、身体が一気に沈んだ。
つないでいた手まで離れ、上も下も分からなくなる。
私は慌てて足を動かした。
子供の頃のことなんて何も思い出せない。
清河の言う通り、本当に浮いていただけだったのかもしれない。
それでも必死に水をかいた。
急に顔が水の上へ出た。
「ぶはっ!」
空気を吸う。
「氏貞!」
清河の声がした。
少し離れたところに氏鳳もいる。
文七も浮かんできた。
全員いると思った瞬間、文七に怒鳴られた。
「氏貞様! 急に足を止めないでください!」
「ごめんなさい!」
「川の中で謝っている場合ではありません!」
文七に怒られたのは、たぶん初めてだった。
その横を、清河が二本の刀を腰につけたまま泳いでいる。
「清河、それ大丈夫!?」
「今聞くな!」
「沈まない?」
「沈みそうになったら捨てる!」
「私が沈んだら?」
「そのときも捨てる!」
「ありがとう!」
「礼言うところじゃねえ!」
氏鳳は妙に静かだった。
「氏鳳、大丈夫?」
「はい」
「苦しくない?」
「多少は」
「普通に泳いでるね」
「最側近ですので」
「川の中までそれで押し通すな!」
清河の怒鳴り声が川に響いた。
後ろから呉兵の声が聞こえる。
けれど、矢は飛んでこなかった。
私たちはもう葦の中へ入っていた。
背の高い葦が視界を塞ぎ、岸が見えなくなる。
文七が流れを読みながら先へ進んだ。
「こちらです。足がつく場所があります」
「ほんと?」
私は言われた場所へ足を下ろした。
届かない。
そのまま頭まで沈んだ。
「氏貞!」
左右から腕をつかまれ、清河と氏鳳に引き上げられる。
「深いじゃん!」
「氏貞様が一歩ずれました!」
「何で浅瀬で一人だけ沈めるんだよ!」
文七が示した場所へもう一度足を下ろすと、今度はちゃんと底に届いた。
そこから葦の中を進み、泥に足を取られながら、ようやく岸へ這い上がった。
私はその場に座り込んだ。
衣は身体に張りつき、短くなった髪から水がぼたぼた落ちる。
氏鳳も泥だらけで、清河は二本の刀を抱えたまま息を切らしていた。
文七だけが周囲を確認していたけれど、突然、大きなくしゃみをした。
「……寒い」
私が言うと、清河が即座に振り返った。
「当たり前だろ!」
文七がもう一度くしゃみをする。
清河が今度はそっちを指さした。
「問題ある奴いたぞ!」
氏鳳が堪えきれずに笑い出した。
文七まで困った顔で笑い、私もつられて笑った。
清河はしばらく怒った顔をしていたけれど、最後には諦めたように笑っていた。
私たちは負けて逃げていて、兄さんも三兄弟も、もうここにはいない。
それでも、大勢の人が後ろに残って私たちを逃がしてくれたから、四人とも生きていた。
今は、それでよかった。
川の向こうでは、呉兵たちが私たちを探しているはずだ。
けれど、舟は岸に残っている。
葦の中へ入ったあとの私たちを、向こうから見ることはできない。
南へ下ったのか、西へ抜けたのか、それとも川の底へ沈んだのか。
追手には分からない。
遠くから見れば、追い詰められた一行が川へ身を投げたように見えただろう。
その話が、あとでどう伝わるのかは知らない。
私はただ、生きるために飛び込んだ。
そして、ずっと後の世まで、趙氏貞は追い詰められて川へ身を投げた、と語られることになる。
それも、まったくの嘘ではない。
本当に飛び込んだのだから。
死ななかっただけで。
呂清河だ。
ベトナム北部の赤ザオ族には、森で採った薬草を煮出して入る伝統的な薬草風呂がある。
サパでは旅行者でも体験できるから、山歩きのあとなんかにはいいらしい。
「清河、今すぐ入りたい」
「そりゃ川から上がったばっかだからな!」
「では氏貞様、ご一緒いたします」
「何でお前まで脱いでんだよ!」
氏貞も氏鳳も、もうすっぽんぽんだった。
「早えよ!!」
そこへ文七が顔を出した。
「何かお手伝いを――」
「文七、あっち行って!!」
「はい!?」
氏鳳は何も言わず、文七に目潰しを食らわせた。
「最側近ですので」
「その状態で最側近を名乗るな!」
ちなみに薬草風呂は、長く入りゃいいってもんじゃない。
現地では十五〜二十五分ほどが目安だそうだ。
「じゃあ二十分」
「今ここに風呂はねえ!」
……次は探すぞ。
風呂じゃない。
氏貞の母親だ。




