私、髪を切りました
シンチャオ、趙氏貞です。
今日のベトナム語は、「Tôi muốn cắt tóc.(トイ・ムオン・カッ・トック)」
「髪を切りたいです」という意味です。
旅先で美容院へ行く時にも使えます。
「清河、私、髪を切りたい」
「好きにしろよ」
「では、私が」
「待て氏鳳! 何で小刀を抜いてんだ!?」
氏鳳は不思議そうに首を傾げました。
「最側近ですので」
「美容師まで業務に入ってねえ!」
「どのくらい切ろうかな?」
「知らねえよ。少しでいいだろ」
「かなり切ることになりそうです」
「何で氏鳳が決めてんだ!?」
大丈夫です。
髪を切るだけですから。
たぶん……
「その『たぶん』が一番怖えんだよ!」
問題は、切った髪をどうするかでした。
夜明け前から、蒲田は妙に静かだった。
昨日までなら、兵が水を汲み、荷車が軋み、象が鳴いていた。
今朝はそのどれも少ない。
持っていくものを減らしたせいで、要塞そのものが先に息を止めたみたいだった。
「氏貞、それ持ってくのか?」
清河が、私の抱えている袋を指さした。
「うん。お米」
「重いだろ」
「食べるから必要だよ?」
「そういう意味じゃねえ!」
横から氏鳳が袋を受け取った。
「私がお持ちします」
「氏鳳、それ私のだよ?」
「存じております」
「最側近って便利な言葉じゃねえぞ!」
朝から清河は元気だった。
私は少し安心した。
門を出る前に、兄さんの墓へ寄った。
「兄さん、行ってくるよ」
いつもの言葉を口にしてから、私は少しだけ迷った。
「蒲田を離れるね。でも、逃げるんじゃないよ。みんなの家を焼かせないためだから」
後ろで清河が息を吐く。
「誰に言い訳してんだ」
「兄さん」
「聞こえてねえよ」
「分かってるよ」
分かっていても言いたかった。
戻れない勝ち方は負けと同じだ。
だったら、戻れる場所を残すために退けばいい。
「今度こそ、ちゃんと帰るね」
墓は何も答えなかった。
でも、それでよかった。
◇ ◇ ◇
蒲田の要塞を出ても、すぐに別の土地へ入るわけではなかった。
松山は同じ蒲田の一帯にある。
だから、見慣れた山が少しずつ近づいてくるだけだった。
それなのに、私は妙に遠くへ来た気がした。
三兄弟とその部下たち三十数人は、私たちの後ろを固めていた。
誰か一人が突出するわけでもなく、三人が代わる代わる前後を見ている。
結局、やっていることはいつもと同じだった。
私たちを守っている。
「興」
私は隣を歩く興を呼んだ。
「何?」
「西の里まで、もう一度行けそう?」
「行けると思う。昨日と同じ道なら」
「じゃあ、舟がまだあるか見てきて」
「また俺だけ?」
「若いから」
「そういう時だけ年齢使うなよ!」
清河が横から口を挟んだ。
「行ってこい。帰ってこなくてもいいぞ」
「叔母上まで!」
「安全なとこにいろって意味だ!」
「言い方が悪いんだよ!」
興はぶつぶつ言いながら走っていった。
氏鳳がそれを見送り、静かに言う。
「清河はお優しいですね」
「お前まで拾うな!」
少しだけ笑った。
けれど、松山の麓へ着く頃には、誰も笑わなくなっていた。
弘公が山の斜面を見上げる。
「ここにする」
「何を?」
私が聞くと、三兄弟は顔を見合わせた。
美公が答える。
「氏貞様の墓だ」
「……私の?」
成公が頷いた。
「ここで死んだことにする」
私はしばらく三人を見た。
「私、まだ生きてるよ?」
弘公が真顔で返した。
「知っている」
「じゃあ何でお墓を作るの!?」
清河が頭を抱えた。
「そこから説明すんのかよ!」
◇ ◇ ◇
話を聞けば、理屈は分かった。
呉軍は私たちを追っている。
西へ抜けたと知られれば、馬江まで追われるかもしれない。
でも松山に私の墓があり、私が使っていた物まで残っていれば、追手はここで足を止める。
「つまり、私が死んだと思わせるの?」
「そうだ」
弘公が答えた。
「墓だけでは足りない」
「形見がいる」
「氏貞様の物だと分かるものがいい」
三兄弟が順番に言う。
私は自分の胸を見た。
黄色い衣の上に着けている金の胸当て。
蜂起してから、ずっとこれで象に乗ってきた。
「これ?」
三人が揃って頷いた。
「分かった」
留め具を外すと、思っていたより身体が軽くなった。
胸当てを弘公へ渡す。
その横で、氏鳳も黙って金色の鎧を外し始めた。
「氏鳳まで?」
「私も必要でしょう」
「何で?」
「影武者ですので」
清河が嫌そうな顔をした。
「お前、その言葉も万能札にしてねえか?」
氏鳳は平然としている。
「私が着ていた鎧まで残っていれば、氏貞様の側近もここで倒れたと思うでしょう」
「でも氏鳳まで死んだことにならない?」
「その方が都合がよろしいかと」
「勝手に死なないでよ!」
「氏貞、お前もだぞ!」
清河に怒鳴られた。
確かにそうだった。
それから弘公が、私の髪を見た。
嫌な予感がした。
「氏貞様」
「何?」
「髪を頂きたい」
「やっぱり!?」
清河が吹き出した。
「墓作るだけじゃ足りなくて、今度は髪まで持ってくのかよ!」
「形見だ」
「本人の前で形見って言うな!」
私は長い髪を背中でひとまとめにした。
長く伸ばしてきたから、肩の辺りから切るのは少し惜しい。
「どのくらい?」
「見て、女の物と分かるくらいで」
「そんな注文ある?」
氏鳳が小刀を差し出した。
「私が切りましょうか?」
「氏鳳、妙に手際いいね」
「最側近ですので」
「今度はそっちか!」
清河の声が山に響いた。
結局、氏鳳に切ってもらった。
刃が髪を通る感触は、思っていたより軽かった。
肩から落ちた束を弘公が両手で受け取り、乱れないよう丁寧にまとめて布へ包む。
その仕草があまりに大事そうだったので、今度は私の方が落ち着かなくなった。
「……本当に形見みたい」
「そう見せるためだ」
弘公は布包みを懐へ入れた。
「弘公が持っていくの?」
「ああ」
「なくさないでね」
「形見を預けた本人が言うことではないと思うが」
清河が顔を覆った。
「もう誰が生きてて誰が死んでんのか分かんなくなってきた!」
◇ ◇ ◇
墓は、日が傾く前に形になった。
大きなものではない。
石を積み、土を盛り、その前に私の胸当てを置く。
氏鳳の金鎧は少し離れたところへ残した。
戦いのあと、持ち主が倒れてそのままになったように見せるためだった。
私は自分の墓を眺めた。
変な気分だった。
「入らなくていいんだよね?」
弘公がすぐ答えた。
「入るな」
美公も頷く。
「絶対に入るな」
成公が締める。
「入ったら作った意味がない」
「じゃあ、これは何のお墓なの?」
三人が私を見る。
弘公が言った。
「氏貞様を生かすための墓だ」
今度は笑えなかった。
清河も何も言わない。
少し離れたところで、文七が地面へ手を当てた。
「来ます」
全員の顔が変わった。
「呉軍?」
「はい……まだ遠いですが、数は多いです」
弘公が立ち上がった。
「ちょうどいい」
「何が?」
「墓を本物にする」
嫌な言い方だった。
私は三兄弟を見る。
三人の後ろには、三十数人の部下たちがいる。
誰も西へ行く準備をしていない。
「まさか、残るの?」
美公が答えた。
「墓だけあって、誰もいなければ怪しまれる」
成公が続ける。
「俺たちがここで戦えば、呉兵は信じる」
「でも、それじゃ――」
「氏貞様」
弘公が私の言葉を止めた。
「昨日言った」
帰る場所が、ここだ。
家も畑も、この辺りだ。
だから残る。
胸が痛くなった。
「私のために死なないで」
弘公は少し困った顔をした。
「氏貞様のためだけではない」
美公が山の下を見る。
「ここは俺たちの土地だ」
成公も頷いた。
「追ってきた奴らを、ここから先へ行かせない」
私は何も言えなかった。
清河が私の腕をつかむ。
「氏貞」
「分かってる」
ここで動かなければ、三人が残る意味がなくなる。
それくらいは分かっている。
「……生きてね」
弘公が笑った。
「そっちが言うのか?」
「言うよ!」
美公も笑う。
「では、お互いに」
成公が最後に頷いた。
「生きられるだけ生きる」
それで十分だった。
◇ ◇ ◇
私たちは松山の西へ降りた。
何度か振り返った。
自分の墓が小さくなっていく。
その前に、三兄弟と三十数人が残っている。
今まで三人は、いつも私の近くにいた。
今日は離れている。
それでも、やっていることは最後まで同じだった。
私を守っている。
やがて木々に隠れ、見えなくなった。
興は西の里から戻ってきていた。
「舟はある。まだ待ってる」
「よかった」
「でも急いだ方がいい」
文七も頷く。
「後ろの音が近いです」
清河が二本の刀を確かめた。
「なら行くぞ。墓の主が追いつかれたら全部台無しだ」
「私、墓の主なの?」
「今さらそこ気にすんな!」
氏鳳は金鎧を失い、私も胸当てがない。
私の髪も、かなり短くなった。
昨日までの私たちとは、ずいぶん違って見える。
それでも、まだ生きている。
私たちは西へ進んだ。
◇ ◇ ◇
その日の夕暮れ、松山では――
呉軍が山へ入った。
三十数人は最後まで退かず、李氏三兄弟も松山に残って戦い続けた。
やがて美公が倒れ、成公もそれに続いた。
最後まで残ったのは弘公だった。
囲まれ、逃げ道がなくなっても、弘公は捕らえられることを選ばなかった。
自ら命を絶った。
戦いが終わり、呉兵の一人が弘公の懐から布包みを見つけた。
「……何だ、これは?」
中を確かめた男の手が止まった。
女の長い髪が、乱れないよう丁寧に束ねられている。
近くにいた兵が覗き込み、顔をしかめた。
「形見じゃないのか?」
「誰のだ?」
誰かが墓の方角を見た。
山腹には出来たばかりの墓がある。
その前には金の胸当てが置かれ、少し離れた場所には女物の金鎧も残されていた。
そして、その墓を守るように戦った三兄弟と三十数人が死んでいる。
呉兵たちは弘公の遺体と、その懐に残された髪を見比べた。
墓の主の髪を、最後まで形見として抱えて戦っていたと考えるのが自然だった。
一人の兵が墓を見上げる。
「……趙氏貞か」
誰も笑わなかった。
疑う理由もなかった。
やがて、松山から報告が送られた。
趙氏貞、ここに死す。
その頃、私はまだ西へ歩いていた。
自分がもう死んだことになっているなんて、知るはずもなかった。
呂清河だ。
ベトナムで髪を切るなら、シャンプーと一緒に頭を揉んでもらえる店も多い。
首や肩までやってくれることもあるから、旅の疲れを取るにはいいらしい。
ただし、始める前に値段は確認しとけよ。
「清河、私も揉んでもらいたい」
「お前、髪切ったと思ったら次はそれかよ」
「では、私が」
「氏鳳、またお前か!」
氏貞が嬉しそうに座った。
「お願いします」
「かしこまりました」
「何で最側近が美容院まで始めてんだよ!」
しかも氏鳳、妙に上手い。
「清河もいかがですか?」
「遠慮する!」
……髪を切るだけなら、まだ平和だったんだけどな。
次は川だ。
そして今度は、舟に乗らなきゃならねえ。




