帰るための道は、一本だけ
シンチャオ、趙氏貞です。
今日のベトナム語は、「Tôi cần một bản đồ.(トイ・カン・モッ・バン・ドー)」
「地図が必要です」という意味です。
知らない町を歩く時には便利ですね。
「清河、地図が必要です」
「そこにあるだろ」
「でも、道が減ってるよ?」
「地図から道が消えるわけねえだろ!」
氏鳳が地図を覗き込みました。
「こちらも塞がれています」
「何で氏鳳まで道を減らすんだよ!」
「私ではありません」
「知ってるわ!」
こういう時こそ、地図は大切です。
行けない道が増えても、帰れる道が一本残っているかもしれませんから。
「それ、旅行講座だよな?」
「たぶん」
「たぶんで始めんな!」
では今回は、その一本を探します。
夜明け前、私は氏鳳に起こされた。
「氏貞様」
いつもより声が静かだった。
「どうしたの?」
「門前に……置かれていたものがあります」
置かれていたもの。
その言い方だけで、嫌な予感がした。
外へ出ると、清河も起きていた。
文七は黙って門の方を見ている。
李氏三兄弟まで揃っている。
「みんな早起きだね」
誰も笑わなかった。
「……何?」
清河が頭を掻いた。
「見りゃ分かる」
「見たくないもの?」
「多分な」
門兵が布を持ってきた。
包みというには、小さい。
私はしばらく見ていた。
昨日、裸の兵を見た時とは違う。
これは見なければならないものだと思った。
「開けて」
門兵がためらう。
「氏貞様」
氏鳳が私の横へ立った。
「大丈夫」
布がめくられた。
景謙だった。
首だけになっていた。
私は何も言えなかった。
兄を殺した人だった。
私を襲った人だった。
昨日は、私が知られたくなかったことまで呉へ渡した。
それでも、こんな姿で帰ってくるとは思っていなかった。
清河が吐き捨てるように言った。
「自業自得だ」
でも、そのあと何も続けなかった。
私の顔を見たからだと思う。
「……兄さんのところへ持っていく」
誰も止めなかった。
◇ ◇ ◇
朝の墓は静かだった。
昨日までと同じ墓なのに、今日は景謙の首まである。
変な光景だった。
「兄さん」
私は墓の前に座った。
「景謙、帰ってきたよ」
清河が少し離れたところで腕を組んでいる。
氏鳳は私の後ろに立ち、文七と三兄弟も少し離れて見守っていた。
「兄さんを殺した人だから、ここへ連れてきた」
返事がないことくらい分かっている。
でも、今日は返事がほしかった。
「私ね」
少し考えた。
「景謙のこと、嫌いだったよ」
清河が小さく鼻を鳴らす。
「知ってる」
「怖かったし」
「それも知ってる」
「兄さんを殺したことは、今でも許してない」
そこまで言ってから、景謙の顔を見た。
目は閉じている。
昨日まで、あれほど私を見ていた人なのに。
「でも、こうなってほしかったわけじゃないんだけどね」
清河が何も言わなくなった。
氏鳳が静かに言う。
「国達様への報告は、これで済みました」
「うん」
私は立ち上がった。
いつもの言葉が頭に浮かんだ。
兄さん、行ってくるよ。
でも、昨日は勝てなかった。
昨日は、ちゃんと前を見られなかった。
少しだけ迷った。
それでも言った。
「兄さん、行ってくるよ」
今日は、ちゃんと帰ってこられるところまでにするね。
◇ ◇ ◇
その日の昼には、昨日とは違うことが分かった。
呉軍は、私たちを追ってこなかった。
「来ないね」
高台から東を見ながら言うと、清河が嫌そうな顔をした。
「来ねえ方が怖い」
「来ないのに?」
「昨日までのあいつらなら、こっちへ来てた。今日は違う」
氏鳳が西の道を見た。
「道が減っています」
「道?」
私は首を傾げた。
書佐が地図を持ってきた。
「こちらです」
地図には新しい印が増え、北と東だけでなく、蒲田へ入る細い道まで塞がれていた。
「今朝から、三つの里との連絡が途絶えています」
「誰か裏切ったの?」
書佐は首を振った。
「そうではありません」
「じゃあ何で?」
「道が使えなくなったからです」
橋は落とされ、荷車の通れる場所には杭が打たれ、浅瀬には呉兵が立ち、里から里へ抜ける細い道にまで見張りが増えていた。
戦っているわけでもないのに、米は来ず、矢竹も届かず、薬まで遅れる。
「みんな、まだ味方なんだよね?」
「はい」
「じゃあ、来られないだけ?」
「そうです」
それが一番嫌だった。
裏切られたのなら、まだ怒れる。
でも違う。
助けたいと思ってくれている人も、こっちへ来たい人もいるのに、道がない。
清河が地図を睨んだ。
「陸胤の野郎……」
文七が遠くを見る。
「音が減りました」
「また鳥?」
「今日は荷車です」
そう言われて、私も気づいた。
蒲田は静かだった。
前は荷車の車輪が軋み、人が行き交い、象が鳴き、米俵を運ぶ声が絶えなかった。
今は、その音が少ない。
「兄さんがいたら、怒るね」
私が言うと、三兄弟が同時に頷いた。
弘公が口を開く。
「怒る」
美公が続ける。
「かなり怒る」
成公が締めた。
「そして寝ない」
「やっぱり」
少し笑った。
でも、笑っていられたのはそこまでだった。
午後になって、呉軍から使者が来た。
◇ ◇ ◇
「今ここで降れば、従う者の命は助ける」
清河が紙を奪い取った。
「誰が降るか!」
「まだ最後まで読んでないよ」
「読む必要あるか!」
氏鳳が清河から紙を取った。
「氏貞様、こちらには周辺の里についても書かれています」
「何て?」
氏鳳の表情が変わった。
「今、武器を置いて里へ帰る者は罪に問わない。ただし、このまま抵抗を続けるなら、趙氏貞を支える土地も敵と見なす」
部屋が静かになった。
私は紙を見た。
難しい字が並んでいる。
でも、言いたいことは分かった。
私が戦えば、周りも巻き込む。
「ずるい」
清河が机を叩いた。
「氏貞、お前が悪いわけじゃねえ」
「でも、私がいるからでしょ?」
「だからって!」
「里を焼かれたら嫌だよ」
清河が黙った。
私も嫌だった。
戦う人だけで済むなら、まだいい。
でも、田んぼも家も逃げられない。
兄も言っていた。
家の前まで下がって戦えば、畑も家も巻き込む。
だったら、答えは一つだ。
「帰っていいよ」
誰も動かなかった。
「氏貞様?」
氏鳳が聞き返す。
「みんな、帰っていい」
清河が眉を寄せた。
「お前、何言って――」
「家がある人は帰って。里がある人も。家族がいる人も」
「氏貞」
「私のために、みんなの家までなくなるのは嫌」
声が少し震えた。
でも、言わなければならない。
「ここに残ったら、戦うことになるから」
◇ ◇ ◇
夕方までに、多くの人が蒲田を出た。
私は門の近くに立って、一人ずつ見送った。
「ごめんね」
そう言うと、何人も首を振った。
「謝らないでください」
「また来ます」
「米を送れたら送ります」
「道が開いたら必ず」
誰も私を責めなかった。
だから余計につらかった。
最後の一団が西へ消えたあと、私は門から中を見た。
広かった場所が、さらに広くなっていた。
「……少なくなったね」
清河が隣へ来た。
「数えんな」
「でも、気になる」
「数えたら落ち込むだろ」
「もう落ち込んでるよ」
「じゃあ余計に数えんな!」
氏鳳が後ろから言った。
「氏貞様」
振り返ると、三兄弟がいた。
その後ろには、三兄弟の部下たちが三十数人並んでいる。
「帰らないの?」
弘公が答えた。
「帰る場所が、ここだ」
美公が続ける。
「家も畑も、この辺りだ」
成公が最後に言った。
「だから残る」
「でも危ないよ?」
三人が同時に私を見る。
「知っている」
清河が笑った。
「こいつらに言うだけ無駄だ」
文七も象のそばにいる。
「文七も?」
「象がいますので」
「それ理由になる?」
「なります」
「また象なの?」
「象ですから」
氏鳳は何も言わなかった。
聞かなくても分かる。
「氏鳳は帰らないんだね」
「最側近ですので」
「万能札になってるよ!」
清河が怒鳴った。
その後ろから、興が顔を出した。
「俺も残る」
清河の顔が変わった。
「お前は帰れ」
「何でだよ!」
「十八にもなって叔母について死ぬ気か!」
「十八だから叔母上を置いて帰れないんだろ!」
「意味分かんねえよ!」
興も引かなかった。
「叔母上が残るなら俺も残る!」
「あたしを理由にすんな!」
「理由にするよ! 叔母上だぞ!」
何だかよく分からないけれど、二人とも怒っている。
私は少し考えた。
「じゃあ、興」
「何?」
「西の里へ行ってくれる?」
「……え?」
清河も私を見る。
「氏貞?」
「道がまだ通れるか見てきてほしいの。西の里まで行けば、ここの外のことも分かるでしょ?」
興が黙った。
「逃げろってこと?」
「違うよ」
私は首を振った。
「仕事をお願いするの」
清河が私を見たまま、少しだけ口元を緩めた。
「そういうことだ。行ってこい」
「叔母上まで……」
「帰ってこいとは言ってねえからな」
「それもっと酷くない!?」
「ちゃんと帰ってきてね」
私が言うと、興はしばらく黙ってから頷いた。
「……分かった」
「清河もね」
「何であたしまでだ!」
「昨日、私が言われたから」
「今返すな!」
少しだけ、いつもの空気が戻った。
◇ ◇ ◇
夜になって、興が帰ってきた。
全身泥だらけで、息を切らしている。
「氏貞!」
私は思わず立ち上がった。
「興、おかえり」
「西の道、まだ通れる!」
清河が身を乗り出す。
「どこまでだ?」
「松山の西までは行ける。その先も抜けられる」
「どこへ?」
興は一度息を整えた。
「馬江だ」
私は地図を見る。
北は塞がれ、東も駄目で、南へ出れば海側へ回り込まれる。
残っているのは西だけだった。
「それと、西の里のみんなが舟を集めてる」
「舟?」
興が頷く。
「川へ出るためだ」
「逃げるため?」
私が聞くと、興は少しだけ笑った。
「そう聞いたら怒られた」
「何て?」
「逃げるためじゃない。生きるためだって」
何も言えなくなった。
清河に続いて、氏鳳も文七も三兄弟も、黙って私を見ていた。
興も今度は何も言わない。
私は地図の西を見る。
そこに、細い一本の道が残っている。
兄の声が聞こえた気がした。
戻れない勝ち方は、負けと同じだ。
戻るための道が一本しかないなら、その一本を使えばいい。
「……西へ行こう」
誰も笑わなかった。
でも、誰も反対もしなかった。
外では、夜の風が蒲田の旗を揺らしていた。
明日――
私たちは、この要塞を捨てる。
呂清河だ。
ベトナムでバイクタクシー「xe ôm」に乗るなら、後ろでもヘルメットはちゃんとかぶれよ。
渡されたからって、手に持ったまま乗るもんじゃねえ。
「清河、これ似合う?」
「防具をファッションショーにすんな!」
「氏貞様、とてもお似合いです」
「氏鳳も褒めるな!」
氏貞が今度はあたしを見る。
「清河もかぶって」
「乗らねえよ!」
「安全第一です」
「お前ら急に正論で殴ってくんな!」
旅先じゃ、移動できても無事に着かなきゃ意味がねえ。
……まあ、それはあたしたちも同じだ。
明日は蒲田を出る。
問題は、その先まで無事に辿り着けるかだ。




