それが、戦と関係してしまった
シンチャオ、趙氏貞です。
今日のベトナム語は、「Đừng chạm vào tôi!(ドゥン・チャム・ヴァオ・トイ)」
「私に触らないで!」という意味です。
「清河、ちょっと触ってみて」
「何で実演すんだよ!」
「では私が」
「氏鳳も乗るな!」
「氏鳳なら平気だよ?」
「講座の意味がなくなるだろ!」
知らない人に嫌な触られ方をした時は、我慢せずにはっきり言いましょう。
「今日は誰かに触られんのか?」
「ううん」
触られてはいません。
ただ――見せられました。
「何をだよ?」
私も、できれば見たくなかったです。
「……それが、戦と何の関係がある?」
陸胤は、しばらく景謙の顔を見ていた。
前夜、景謙が口にしたのは、戦場の道でも兵数でもなかった。
趙氏貞は、まだ男を知らない。
最初はくだらないと思った。
だが、正面から戦えば趙氏貞は勝つ。弓を集中させれば自分を囮にして側面から別働隊を通し、道を塞げば龍編近くまで押し返してくる。
ならば、兵の強さではなく判断を乱せばいい。
ほんの一瞬、趙氏貞が止まり、その周囲が彼女を守るために動きを変えれば、それだけで隊列には穴が開く。
陸胤は副将を呼んだ。
「前へ出す兵から、鎧を外せ」
副将が聞き返す。
「軽装にするので?」
「いや……衣もいらぬ」
景謙が顔を上げた。
「待て」
陸胤は構わず続けた。
「戦わせるためではない。見せるためだ。その後ろに槍兵を置け」
「待てと言っている!」
「なぜだ?」
陸胤が改めて景謙を見る。
「趙氏貞が男に慣れていないと言ったのは、お前だろう?」
景謙の顔色が変わった。
「そういう意味で教えたんじゃない」
「私には同じことだ」
陸胤は地図へ目を戻した。
「お前が教えたことを使う」
◇ ◇ ◇
「兄さん、行ってくるよ」
墓の前で手を合わせてから立ち上がると、清河がものすごく嫌そうな顔をしていた。
「今日は紅河まで行かねえからな」
「行かないよ」
「龍編も駄目だぞ」
「行かないってば」
「昨日のお前を見たあとじゃ信用できねえんだよ!」
氏鳳が金色の兜を抱えたまま頷いた。
「本日は東寄りの道を確認するだけです」
「ほら、氏鳳もそう言ってる」
「お前は氏鳳が言えば何でも通ると思ってんのか!」
「最側近ですので」
「お前もその言葉を万能札にすんな!」
少し離れたところで、文七が象の耳を撫でていた。
「今日は静かですね」
清河がすぐ振り向く。
「そういうこと言うな! お前が静かって言うと大体何かある!」
「鳥が少ないだけですが?」
「それが怖えんだよ!」
私は象の鼻を撫でた。
「じゃあ、普通に帰ってこようね」
清河が私を見る。
「頼むから、その普通を今日こそ守れ」
兄さん……
普通に帰るのって、やっぱり難しいみたいです。
呉軍は東へ伸びる道の先にいたが、数はそれほど多くなかった。
清河が二刀を抜いて前へ出ると、相手は少し当たっただけですぐに下がった。
「何だこいつら。やる気あんのか!」
氏鳳は右へ回ろうとしたが、途中で足を止める。
「誘われています」
「やっぱり?」
「はい」
「じゃあ帰る?」
「早えよ!」
清河が怒鳴った。
その時、文七がふいに耳を澄ませた。
「足音が軽いです」
「またそれ?」
「鎧の音が少ない」
清河も聞こえたらしく、眉を寄せる。
「鎧を置いて逃げる気か?」
答えはすぐに出た。
呉軍の前列が左右へ分かれ、その後ろから別の兵たちが出てきた。
最初、私は何が変なのか分からなかった。
鎧がない。
上着もない。
それどころか――
「……え?」
頭の中が止まった。
「氏貞、見るな!」
清河が叫んだので、私は反射的にそちらを向いた。
「見てないよ!」
「じゃあ何であたし見てんだ!」
「そっちしか見られないから!」
「こっち見る理由として最悪だろ!」
氏鳳がすぐ私の前へ回り、金色の鎧で視界をきれいに塞いでくれた。
「氏貞様、私をご覧ください」
「氏鳳は見た?」
「見ておりません」
「本当に?」
「見ておりません!」
「二回言った」
「そこ確認すんな!」
氏鳳は落ち着いた顔をしていたけれど、耳は赤かった。
「氏鳳も恥ずかしい?」
「氏貞様」
「はい」
「今は確認しないでください」
「やっぱり見たんだ」
「氏貞!」
清河の声が裏返った。
清河自身の顔も赤い。
けれど、恥ずかしがっていたのは本当に一瞬だった。
次の瞬間には二刀を振り上げ、「ふざけんなああああッ! 何考えてやがんだ、てめえら!」と怒鳴っていた。
「清河、待って!」
「待てるか! 見せてんのは向こうだろうが!」
その声が急に遠く聞こえた。
金色の鎧の向こうへ、別の景色が重なった。
閉じた戸。
倒れた卓。
腕をつかまれた感触。
逃げようとした先に立っていた景謙。
息が詰まった。
あの時も、男が近かった。
嫌だと言っても、離してくれなかった。
「氏貞様?」
氏鳳の声がする。
返事をしようとしたのに、うまく声が出ない。
「氏貞!」
清河が振り向いた。
その瞬間、いつもの形が崩れた。
清河は突撃をやめ、氏鳳は私の前から離れられない。
私は前を見られないまま、象の上で息を整えるだけになった。
呉軍が待っていたのは、そこだった。
裸の兵たちの後ろから、今度は槍を持った兵が一斉に出てくる。
「来ます!」
文七が象を反転させた。
遠くから弘公の声が飛ぶ。
「下がれ!」
美公が左から兵を戻し、成公が開いた道へ味方を押し込んだ。
三兄弟は、攻めるためではなく私たちを帰すために散っている。
「氏貞!」
清河が象の横へ戻ってきた。
「退くぞ!」
「でも、まだ――」
「今のお前で前出てどうすんだ!」
言い返せなかった。
氏鳳がこちらを見る。
「氏貞様……戻りましょう」
兄の言葉が浮かんだ。
戻れない勝ち方は、負けと同じだ。
だったら、今は戻る。
「……下がろう」
清河がすぐ前を向いた。
「聞いたな! 退くぞ!」
文七が象を走らせる。
私は前だけを見た。
後ろでは清河が怒鳴り、三兄弟が順番に追手を止めている。
氏鳳は、最後まで私のすぐ横を離れなかった。
◇ ◇ ◇
「やめろ!」
呉軍の後方で、景謙が叫んでいた。
「氏貞にあれを見せるな!」
陸胤は前線から目を離さない。
趙氏貞の動きが止まり、金色の女も側面へ回らない。二刀の女まで戻っている。
狙いどおりだった。
「下げろ! 今すぐあいつらを下げろ!」
陸胤がようやく景謙を見た。
「誰に命令している」
「氏貞にあんなものを見せるなと言っている!」
「これは私の軍だ」
「俺は氏貞を殺すなと言った!」
「殺してはいない」
「そういう話じゃない!」
景謙が前へ出ようとし、兵に止められた。
「放せ! 氏貞は俺が捕らえる! あいつに他の男を近づけるな!」
陸胤の表情から、わずかな呆れさえ消えた。
「お前は最後までそれか?」
「何を――」
「趙氏貞を殺すな、捕らえろ、男を近づけるな。先ほどから、お前は私の軍へ命令している」
景謙が黙った。
「道も兵の配置も聞いた。黎氏鳳が影武者であることも、本物の見分け方も、趙国達が死んだことも分かった。お前が知っている趙氏貞についても、もう十分だ」
「まだある」
「いらぬ」
「俺は氏貞を一番知っている!」
「だから、もう用はない」
景謙の顔が固まった。
前線では趙氏貞軍が下がり始めている。
作戦は成功した。
その横で、景謙だけがまだ叫んでいた。
「追うな! 氏貞を追わせるな! 俺が――」
陸胤は小さく息を吐いた。
「それに、うるさい」
兵へ顎を動かす。
「連れて行け」
「待て!」
「軍令を乱した」
「陸胤!」
「聞くことも、もうない」
景謙が引きずられていく。
「氏貞は俺の――!」
その先を、陸胤は聞かなかった。
◇ ◇ ◇
蒲田へ戻った頃には、日はもう傾いていた。
門が見えたところで、清河が大きく息を吐く。
「帰ったぞ」
「うん」
今日は勝てなかった。
でも、帰ってきた。
兄さんに「ただいま」と言える。
今は、それだけでよかった。
門をくぐると、書佐や残っていた兵たちが駆け寄ってきた。
清河はすぐに負傷者の確認を始め、三兄弟はそれぞれ自分の部下を連れて持ち場へ戻っていく。
氏鳳だけは私のそばに残った。
「氏貞様、お休みください」
「でも、兄さんに――」
「墓へは明日の朝でも逃げません」
「兄さん怒らないかな」
「国達様なら、先に休めとおっしゃるかと」
「そのあと米を数えろって言いそう」
「言うな。絶対言う」
清河が遠くから口を挟んだ。
少しだけ笑えた。
夜になった。
蒲田の門が閉じ、見張りが交代する頃には、要塞の中もようやく静かになった。
その頃、暗い道を一騎だけが蒲田へ近づいていた。
門まで来るつもりはないらしい。
見張りが弓へ手を伸ばすより先に、騎馬の男は何かを取り出した。
「何者だ!」
返事はない。
男は馬を止めることもなく、それを門前へ放り投げた。
それが門前の土へ落ち、どさりと鈍い音を立てた。
騎馬はそのまま闇へ消えていった。
門兵たちは、すぐには近づかなかった。
罠かもしれない。
しばらく待ってから、一人が松明を持って門の外へ出た。
落ちていたのは、布に包まれた何かだった。
門兵が槍の先で布をめくると、黒い髪が見えた。
続いて見覚えのある顔が現れ、門兵の息が止まる。
景謙だった。
首だけになっていた。
◇ ◇ ◇
その夜、私はまだ眠っていた。
兄を殺した男が、蒲田へ帰ってきたことを知らないまま。
呂清河だ。
ベトナムの路上屋台じゃ、小さなプラスチック椅子をよく見かける。
見た目より低いから、勢いよく座るなよ。
「清河、これ子供用?」
「違う!」
「座ると膝がずいぶん高くなりますね」
「氏鳳まで折り畳まれんな!」
「清河は平気?」
「何であたしだけ試されてんだ!」
三人で座ってみた。
「……狭いね」
「お前らがでけえんだよ!」
「清河も変わらないよ!」
屋台で飯を食うなら、こういう椅子も旅の楽しみだ。
ただし、椅子が小さいからって服まで減らす必要はねえ。
今日みたいにな。
……で、翌朝。
今度は門の前に、とんでもねえもんが置いてあった。




