川の向こうまで押し返せ
シンチャオ、趙氏貞です。
旅先で列車やバスの切符を買う時は、
「Cho tôi một vé đi ~.(チョー・トイ・モッ・ヴェー・ディー~)」
「~行きの切符を一枚ください」という意味です。
「清河、龍編まで一枚ください」
「売ってねえよ!」
「では往復で」
「氏鳳まで注文すんな!」
「帰ってくるのでしたら往復かと」
「そもそも戦に切符はねえ!」
そうなの?
「氏貞、お前は何しに行くんだ」
「途中まで迎えに」
「敵を迎えに行く奴があるか!」
でも、来てもらうより早いと思います。
「そういう問題じゃねえ!」
今日は、いつもより少し遠くまで行ってきます。
ちゃんと帰ってくるからね、兄さん。
「兄さん、行ってくるよ」
朝、墓の前でそう言って立ち上がると、清河が腕を組んで待っていた。
「今日はどこまで行く気だ」
「北の方」
「昨日より雑になってんぞ!」
「龍編の方かな」
「雑どころか遠くなった!」
怒られた。
でも今日は、蒲田へ来る敵を待つつもりはなかった。
陸胤が道を取ろうとしているなら、その前にこちらから押し返す。
兄が残してくれた道を、少しでも遠くまで安全にしておきたかった。
「龍編そのものを攻めるわけじゃないよ」
「当たり前だ! そこまで行ったら帰ってくるだけで大仕事だ!」
「でも、向こうから来る人たちはそっちから来るんでしょ?」
「だから何だ」
「途中まで迎えに行けば、蒲田まで来なくて済むよね」
清河が黙った。
氏鳳も黙った。
文七は象の鼻先を撫でながら、何も言わない。
「……お前、たまにすげえ物騒なことを普通の顔で言うよな」
「そう?」
「そうだ!」
氏鳳が静かに頷いた。
「ですが、理には適っております。敵の集積地を崩せば、蒲田へ運ばれる兵糧も武器も減ります」
「氏鳳まで乗るな!」
「最側近ですので」
「それ、作戦賛成の理由になってねえから!」
李氏三兄弟は、私たちが騒いでいる間にもう地面へ線を引いていた。
弘公が北東へ伸びる道を示し、美公がその脇にある集落へ指を置く。
「呉軍は昨日から、この一帯に荷を集めています」
成公は、そこからさらに北へ指を滑らせた。
「ここを崩せば、次に兵糧を集められる場所まで距離があります」
「じゃあ、そこまで行こう」
三人が揃って頷く。
清河が頭を抱えた。
「何であたしだけ止める役なんだよ!」
「清河が一番怒るから」
「理由が昨日と同じだ!」
兄さん。
今日も清河は元気です。
最初の陣は、昼前には崩れた。
呉軍は蒲田へ来るつもりで道を整え、荷車を並べ、弓までまとめて置いていたらしい。
まさかこちらから象を連れて押しかけてくるとは思っていなかったようで、清河が二刀を抜いて正面へ飛び込んだ頃には、氏鳳はもう側面へ回っていた。
三兄弟も一か所には集まらない。
弘公が退路を狭め、美公が荷車を押さえ、その間に成公が逃げようとする兵を別の道へ追い込んでいく。
「氏貞様、前へ出過ぎです」
象の脇を走りながら氏鳳が言った。
「まだそんなに出てないよ」
「昨日より出ております」
「昨日と比べるの?」
「比較対象がありますので」
「比較対象扱いすんな!」
ずっと向こうから清河の声が飛んできた。
文七がふいに空を見上げる。
「右から来ます」
「何が?」
「矢です」
「早く言って!」
象が大きく身体を振った直後、さっきまで私がいた場所へ矢が突き刺さった。
「お前ら楽しそうに会話してんじゃねえ!」
また清河に怒鳴られた。
楽しくはない。
たぶん。
その日の夕方には、私たちはもっと北にいた。
翌日も進んだ。
呉軍の陣を一つ崩すたびに道が開き、そこを抜ければまた次の陣が見えてくる。
敵の抵抗は少しずつ強くなったけれど、戦えばまだ押し返せた。
不思議だったのは、北へ進むほど私たちの荷が増えていったことだった。
ある朝には道端へ米俵が置かれていて、その日のうちに塩や薬まで見つかり、夕方には矢に使える竹まで積まれていた。
「……これ誰の?」
私は米俵の前で足を止めた。
誰もいない。
名前を書いた札もない。
氏鳳が俵へ手を触れる。
「新しいものですね」
「盗んだら駄目だよ」
清河が額を押さえた。
「盗む奴が道の真ん中に米俵置いてくか!」
「じゃあ落とし物?」
「こんなでかいもん落として気づかねえ奴がいるか!」
その時、藪の向こうから声がした。
「拾ったことにしてください」
全員が振り向くと、木々の間に人影が一つだけ見えた。顔までは分からない。
「誰?」
私が聞くと、その人は少し迷ってから答えた。
「名は申し上げられません」
「どこから来たの?」
「それも、聞かないでいただければ」
「分かった」
清河がものすごい勢いで私を見る。
「早えよ!」
「だって聞かないでって言ったよ?」
「そういう時だけ素直になるな!」
藪の向こうで、人影が笑ったように見えた。
「氏貞様」
「はい」
「……どうか、勝ってください」
それだけ言うと、その人は木々の向こうへ消えていった。
次の日には川辺に使える舟が残され、その次の日には壊れた荷車を直す鉄具が届いた。
誰も胥浦から来たとは言わない。
九真の別の県から運んできたとも言わない。
それでも書佐なら、きっと分かったと思う。
陸胤の招撫を受けたからといって、心まで呉へ渡したわけではない。
戦わないことで畑や家族を守った人たちが、それでも戦っている私たちへ、誰にも分からないように米を置いていく。
私は、その人たちに兵を出してほしいとは言わなかった。
言えなかった。
「戦わなくていいよ〜!」
誰もいない道へ向かって言ってみる。
清河が横から私を見る。
「誰に言ってんだ?」
「米くれた人」
「もういねえぞ」
「でも、聞こえるかもしれない」
文七が頷いた。
「山では声がよく通ります」
「そこで肯定すんな!」
それからも北へ進んだ。
呉軍は何度も止めに来たけれど、そのたび清河が正面を割り、氏鳳が横へ走り、三兄弟が逃げ道と補給路を潰した。
私は象の上から、それを追いかけた。
文七には何度も「追いかけなくても皆様は戻ります」と言われたけれど、それでも前へ出た。
何日も北へ進んだ末、視界の先に大きな川が広がった。
「紅河?」
私が聞くと、三兄弟が頷いた。
その先に龍編がある。
蒲田からここまで、呉軍をずっと北へ押し返してきた。
清河が川の向こうを眺める。
「渡るか?」
「帰るの大変じゃない?」
清河が勢いよく振り向いた。
「今さらそこ気にすんのか!」
「兄さんに戻るって言ったし」
「その理由出されたら何も言えねえだろ!」
氏鳳も紅河の向こうを見た。
「ここまでで十分でしょう。これ以上進めば、今度はこちらの兵糧を運ぶ道が長くなり過ぎます」
「じゃあ帰ろう」
「決断軽いな!」
でも、川は渡らなかった。
龍編を奪いたいわけじゃない。
私は蒲田を守りたい。
この土地で暮らしている人たちが、役人に好き勝手されないようにしたい。
それだけだった。
◇ ◇ ◇
その時、紅河へ押し戻された呉軍の後方に、見慣れない旗が上がった。
陸胤が初めて自ら前線へ出てきたのは、その日だった。
「……あれが趙氏貞か」
高台から象に乗る氏貞を見て、陸胤はしばらく何も言わなかった。
その隣には景謙がいる。
「そうだ」
「噂とは違うな」
「何がだ?」
「いや」
陸胤の目が、少し離れた場所を走る氏鳳へ移った。
陽を受けた金色の鎧が、遠くからでも分かるほど輝いている。
「金色の女が黎氏鳳か」
「そうだ」
「影武者だと聞いていたが」
陸胤は目を細めた。
背丈も体格もよく似ている。
しかも二人とも、戦場では嫌でも目に入った。
黄色い衣に金の胸当てをつけて象に乗る女と、全身を金色の鎧で包んで走る女。
噂話なら、いくらでも大袈裟になる。
だが今回は逆だった。
「……惜しいな」
景謙の顔が動いた。
「何が」
「殺すには、だ」
陸胤は弓隊へ目を向けた。
「弓を止めろ」
副将が驚く。
「しかし、趙氏貞を狙える距離です」
「分かっている。だから止めろと言った」
「生け捕りになさるので?」
陸胤はすぐには答えなかった。
捕らえたあと、二人とも手元に置くのも悪くない。
そんな戦とは何の関係もない考えが頭をよぎり、自分でも少し呆れた。
「……二人とも殺すな。捕らえられるなら捕らえろ」
命令はすぐ前線へ伝わった。
◇ ◇ ◇
飛んできていた矢が急に止まった。
「……清河」
「罠だ!」
「まだ何も言ってない」
「絶対罠だ!」
氏鳳も不思議そうに首を傾げる。
「私にも飛んでまいりません」
「氏鳳も嫌われた?」
「喜ぶな!」
清河が怒鳴った。
理由は分からない。
でも矢が来ないなら、その分だけ動ける。
清河が真っ先に二刀を構えた。
「理由は後だ! 止めたことを後悔させろ!」
氏鳳も走り出した。
三兄弟は左右へ散り、私は文七と一緒に象を進める。
呉軍も止めようとはした。
けれど、弓を使わずに象を止め、その横から飛び込む清河と氏鳳まで同時に抑えるのは難しい。
前列が崩れた。
その穴へ成公が兵を押し込み、美公が側面へ回ると、弘公が逃げ道をさらに川側へ狭める。
呉軍は、じりじりと紅河へ向かって押し戻されていった。
清河が笑う。
「見ろ氏貞! 川まで押し返したぞ!」
「清河、川に落としちゃ駄目だよ!」
「そこまでやらねえ!」
「本当に?」
「信用しろ!」
少し迷った。
「迷うな!」
追撃は川の手前で止めた。
帰っていく兵は追わない。
紅河も渡らない。
私たちはそこで旗を立てた。
ほんの短い間だったけれど、川向こうに龍編を望むところまで呉軍を押し返した。
その夜、また荷が届いた。
今度は米だけではなく、薬や塩、布に矢材、荷車を直すための車輪まであり、その中には北へ続く道を書いた小さな木片まで紛れていた。
どれにも名前はない。
「こんなに?」
私が荷を見回すと、氏鳳が微笑んだ。
「ここまでの戦を見たのでしょう」
「誰が?」
清河も笑った。
「いろんな奴だよ」
戦わなくても、見ている人はいる。
声を上げなくても、応援してくれる人はいる。
それが分かっただけで、少し嬉しかった。
◇ ◇ ◇
同じ頃、陸胤は少しも嬉しくなかった。
机の上には、各地から届いた報告が広げられていた。
胥浦では、表向き何も起きていない。
ほかの県も同じだ。
それなのに、趙氏貞のところへ物が流れている。
「帰順した土地からもか?」
「はい」
副将が答える。
「米だけではありません。薬や鉄、それに舟も流れております」
陸胤は黙った。
「胥浦は我々に従っております」
副将がそう続けると、陸胤は顔を上げた。
「だから厄介なのだ」
副将が息を止める。
「従っている土地から趙氏貞へ物が流れる。表では頭を下げ、裏ではあの女が勝つことを望んでいる」
陸胤は地図の九真から紅河まで指を動かした。
「軍だけを潰せば終わる相手ではない」
景謙が口を挟む。
「氏貞は殺すな」
陸胤は視線だけを向けた。
「またそれか」
「捕らえればいい。俺なら氏貞を――」
「黙れ」
景謙の顔が強張った。
「お前にとって趙氏貞が何なのかなど、もうどうでもいい」
陸胤は紅河の南を指で叩いた。
「あの女が立っているだけで人が集まる。米が集まり、道が開き、武器まで届く。今日ここまで押し返された。この勢いは交州中に知れ渡る」
「だから何だ?」
「だから、終わらせる」
陸胤の声は静かだった。
「趙氏貞の反乱軍は、ここで潰さなければならない」
景謙は陸胤を睨んだ。
しばらく何も言わなかったが、やがて何かを決めたように口を開く。
「待て」
「何だ?」
「氏貞について、まだ話していないことがある」
陸胤が露骨に嫌そうな顔をした。
「また趙氏貞か?」
「これは違う」
「何が違う」
景謙は、ほんの少し声を落とした。
「氏貞は――まだ男を知らない」
陸胤の指が止まった。
ほんの少し前、戦場で見た黄色い衣の女が頭に浮かぶ。
その隣にいた、金色の女も。
「……それが、戦と何の関係がある?」
景謙は答えなかった。
だが、その顔を見た瞬間、陸胤は初めて思った。
この男が趙氏貞について知っていることを、これ以上聞くべきではないのかもしれない、と。
呂清河だ。
ベトナムじゃ、役所や銀行が昼に休憩へ入ることがある。
旅行中に両替や手続きするなら、営業時間は先に見とけよ。
「清河、じゃあ呉軍も昼休み?」
「戦に適用すんな!」
「正午に攻めればよろしいのでは?」
「氏鳳まで乗るな!」
「でも、お昼は食べた方がいいよ?」
「お前は敵の飯まで心配すんな!」
休む時は休め。
用事は時間を見て済ませろ。
……ただし景謙には、もう少し黙っててほしかった。
あの馬鹿、とうとう戦と何の関係もないことまで喋りやがったんだ。




