兄さん、行ってくるよ
シンチャオ、趙氏貞です。
旅先でお店をいったん離れて、あとでもう一度来たい時があります。
今日のベトナム語は「Tôi sẽ quay lại sau.(トイ・セー・クアイ・ライ・サウ)」
「あとで戻ってきます」という意味です。
「清河、ちょっと出てくるね」
「どこへだ!」
「あとで戻るよ」
「先に行き先を言え!」
「では私もお供します」
「氏鳳まで行くな! 二人とも戻ってこい!」
まだ出てないよ。
「お前らの場合、先に捕まえとかねえと危ねえんだよ!」
戻るって言っているのに……
でも今日は――ちゃんと戻ることが、いつもより少し大事でした。
兄の葬儀を出せたのは、兄を見つけた翌々日の朝だった。
もっと早く送ってあげたかった。
でも、兄を見つけた時にはもう日が傾いていたし、次の日は景謙がまだ蒲田のどこかにいるかもしれなくて、見張りを増やさなければならなかった。
それだけじゃない。
兄がいなくなっても、米は減った。
荷車は動いた。
象も食べた。
東にも西にも、送らなければならないものがあった。
兄が一人で抱えていた仕事を、書佐と李氏三兄弟、それから残った人たちで分け終わるまで、蒲田を止めるわけにはいかなかった。
たぶん兄が生きていたら、私より先に怒ったと思う。
「俺の葬式で米止めてどうすんだ!」
絶対に言う。
だから、一日だけ待ってもらった。
「兄さん、怒ってないよね」
墓穴の前で聞いてみた。
もちろん返事はない。
清河が隣で鼻をすすった。
「怒ってても聞こえねえよ」
「じゃあ大丈夫かな」
「どういう理屈だ!」
怒鳴られた。
少しだけ安心した。
蒲田には立派な棺を作る余裕なんてなかった。
それでも、兄をその辺へ埋めるなんて絶対に嫌だったから、皆が少しずつ仕事を止めて集まってくれた。
清河と氏鳳、文七に李氏三兄弟まで揃い、呂興も少し離れたところで黙って立っていた。
いつも帳面を抱えている書佐まで、今日は何も持っていない。
兄が見たら、また怒りそうだ。
「全員で手ぇ止めてんじゃねえ!」
頭の中では、ちゃんと声が聞こえる。
でも本物の兄は、もう何も言わない。
土をかける前に、私はもう一度呼んだ。
「兄さん」
返事はない。
ついこの前までは、私が呼ばなくても向こうから来たのに。
米の置き方が違うとか、道を塞ぐなとか、象の餌を人間の兵糧の横へ置くなとか、兄はだいたい何かに怒っていた。
「変な人だったね」
清河がこっちを見た。
「今言うことか?」
「だって、兄さんらしいこと考えてたら」
そこで声が止まった。
泣くつもりはなかったのに、急に目の前がぼやけた。
氏鳳が何も言わず私の横へ来ると、文七も黙ったまま、三兄弟は揃って下を向いていた。
「兄さんね」
私は袖で目を拭いた。
「ずっと、帰ってこいって言ってたんだよ」
兄は、戦うなとも危ないところへ行くなとも言わなかった。
私が前へ出ることも、最後には止めなかった。
その代わり、帰る道を必ず考えていた。
戻れない勝ち方は負けと同じだって。
「自分だけ帰ってこないの、ずるいよ」
清河が小さく鼻を鳴らした。
「それは言ってやれ」
「うん」
皆で土をかぶせた。
戦が終わったら、もっとちゃんとした墓を作ろうと思う。
戦が終われば。
その時の私は、そう思っていた。
葬儀が終わっても、やっぱり米は減った。
本当に腹が立つ。
「氏貞様、東の里から届いた分はこちらへまとめます」
さっきまで手ぶらだった書佐が、もう帳面を抱えている。
「もう仕事するの?」
「米は葬儀を待ってくれません」
「米って薄情だね」
「米に感情持たせんな!」
清河まで復活した。
「でも兄さんも似たようなこと言いそう」
「そこは否定できねえ!」
呂興が吹き出した。
清河が睨む。
「何笑ってんだ!」
「叔母上、国達殿に似てきましたね」
「誰がだ!」
「怒鳴り方が」
「お前あとで覚えてろよ!」
「清河、葬儀のあとだよ」
「お前が止める側になるな!」
氏鳳の肩が震えている。
文七まで何となく笑っている。
兄の声はない。
でも、皆の声はある。
それでいいのかもしれない。
私は書佐の帳面を覗いた。
分からない。
やっぱり分からない。
「胥浦は?」
帳面の字から逃げるために聞いたわけではない。
たぶん。
書佐の指が止まった。
「今のところ、動きはありません」
「陸胤に従ったんだよね」
「招撫を受けた、という方が近いでしょう」
「同じじゃないの?」
「違います」
書佐は帳面を閉じた。
「陸胤殿に従ったからといって、氏貞様を嫌っているわけではありません。むしろ同情している者の方が多いでしょう」
「私に?」
「はい」
少し意外だった。
「じゃあ、どうして戦ってくれないの?」
言ってから、嫌な聞き方をしたと思った。
けれど書佐は気を悪くしなかった。
「戦わないことで守れるものがあるからです。田畑も家もあります。親も子もいる。陸胤殿が無理な要求をせず、武器を置けば暮らしを守ると言うなら、受ける者はおります」
「……そっか」
それなら責められない。
私だって、みんなを守りたくて始めたのだから。
守るために戦わない人へ、どうして戦わないのと怒るのはおかしい。
呂興が書佐を見た。
「でも、陸胤が上手く治めたら、このままずっと呉に従うんですか?」
書佐は少しだけ口元を緩めた。
「ずっと、ということはないでしょう」
「どうしてです?」
「陸胤殿は役人だからです」
私も首を傾げた。
「役人だと駄目なの?」
「駄目なのではありません。替わるのです」
書佐はあっさり言った。
「十年もすれば、別の任地へ移ることだってあります」
書佐は帳面の端を指で押さえた。
「次に来る者が陸胤殿と同じように、この土地の事情を考える人間とは限りません」
清河が腕を組んだ。
「次の奴がまた調子に乗ったら?」
「その時は、また人心が離れます」
「呉から?」
「ええ、そして戻るところがあれば、戻る者もいるでしょう」
私は思わず聞いた。
「戻ってくるの?」
「人まで入れ替わるわけではありませんから」
書佐は何でもないことのように答えた。
「今、陸胤殿に従っている者の中にも、氏貞様に勝ってほしいと思っている者はおりますよ」
「それって、陸胤に怒られない?」
「口に出せば怒られるでしょうね」
「じゃあ言わない方がいいね」
「ですから皆、言わないのです」
なるほど。
清河が額を押さえた。
「氏貞、お前いま本気で納得しただろ」
「うん」
「もうちょっと裏を読め!」
「裏?」
「もういい!」
呂興だけは笑わなかった。
妙に真面目な顔で、書佐を見ている。
「役人が替われば、また変わる……」
小さく呟いた声は、たぶん私に向けたものではなかった。
昼前、龍編方面を見張っていた者が駆け込んできた。
呉軍が南下してくる。
それを聞いた瞬間、清河の顔が変わった。
「来たか」
氏鳳も立ち上がる。
「氏貞様、支度を」
「うん」
立ち上がってから、私は墓を見た。
つい先日までは、出陣する前に兄がいた。
もう、いない。
私は皆より少し遅れて墓の前へ戻った。
「兄さん」
まだ土の色が新しい。
「行ってくるよ」
でも、葬儀の時ほど寂しくはなかった。
「ちゃんと戻ってくるから」
背後で清河が言った。
「それ、毎回言えよ」
「毎回?」
「お前が勝手に前へ出るたびにな!」
氏鳳も墓の前へ来た。
「私もお付き合いいたします」
「氏鳳も?」
「最側近ですので」
「何でもそれで通すな!」
文七が象を連れてくる。
「象も準備できております」
「象さんも兄さんに挨拶する?」
「しません」
「そこは冷静なんだ」
「象ですから」
清河が頭を抱えた。
「国達、頼むから墓から一回出てきてこいつらまとめてくれ!」
たぶん兄なら、本当に出てきたかったと思う。
呉軍は蒲田の北東から来た。
最初に違いへ気づいたのは文七だった。
「弓が多いですね」
「見えるの?」
「聞こえます」
「弓が?」
「弦を張る音が」
清河が嫌そうな顔をした。
「こいつ、やっぱり象係だけじゃねえだろ」
「象係ですよ」
「自分で言うな!」
氏鳳は金色の鎧で別の象へ乗る。
今までなら、それだけで呉軍の一部が氏鳳へ向いた。
今日は違った。
氏鳳が右へ動いても、弓隊は動かない。
清河が二刀を抜いて前へ出ても、ほとんど反応しない。
そして私が象を進めた。
弓隊が一斉にこちらを向いた。
「……あれ?」
「伏せろ!」
清河の声と同時に矢が来た。
文七が象を横へ回す。
さっきまで象の頭があった場所へ、何本も矢が刺さった。
私が右へ動けば、弓も右へ向く。
左へ戻れば、全部こっちを見る。
「清河」
「言うな」
「まだ何も」
「お前、絶対ろくでもねえこと思いついてる!」
「私を見てるなら」
「やめろ!」
「私が動けばいいんじゃない?」
「やっぱりそれか!」
氏鳳がこちらを見る。
「氏貞様、それは囮というものでは?」
「でも氏鳳を見てないよ」
氏鳳の目が細くなった。
「なるほど」
「お前まで納得すんな!」
景謙は私たちを見分ける方法を教えた。
だったらもう、氏鳳は私のふりをする必要がない。
清河も同じだ。
敵が私だけを見てくれるなら、その間は二人を見ていない。
「文七」
「はい」
「象さん、走れる?」
「この地面なら」
「じゃあ走ろう」
「承知しました」
「待てって言ってんだろ!」
象が走った。
弓隊が一斉にこちらへ向く。
「右前から来ます」
文七が言う。
象が左へ切れ、矢が土を叩いた。
「次は?」
「正面です」
「じゃあ、もう少し右」
「氏貞!」
清河が叫びながら飛び出した。
「あとで絶対説教するからな!」
二刀を振るい、弓隊の側面へ食い込む。
反対からは氏鳳が入った。
金色の鎧なのに、もう誰も彼女を趙氏貞だとは思っていない。
それが逆に自由だった。
「こちらを忘れていただいては困ります」
静かな声と一緒に、氏鳳の隊が弓兵を崩す。
さらに奥では李氏三兄弟が動いていた。
弘公が前を止め、美公が横へ回り、成公が開いたところへ兵を押し込む。
三人は今日も一か所に集まらない。
でも私を狙う敵が増えれば増えるほど、三人の前から兵が減る。
「右が薄い!」
「氏鳳が入った!」
「左は?」
「呂清河だ!」
「あたしには殿をつけろ!」
何に怒っているのだろう。
でも元気そうなので大丈夫だと思う。
矢が一本、胸当てをかすめた。
さすがに笑えなくなった。
「氏貞様!」
「大丈夫!」
「大丈夫じゃねえ!」
清河の声まで飛んできた。
みんな遠くにいるのに、どうしてこんなにうるさいのだろう。
でも、怖くはなかった。
私だけを見れば、ほかが見えなくなる。
私は兄ほど頭がよくない。
難しい地図も読めない。
でも、それくらいなら分かる。
「文七、もう少し前へ!」
「行けます」
「行くなあああ!」
清河の声が山に響いた。
呉軍の弓がさらにこちらへ寄る。
その瞬間、氏鳳が深く入った。
三兄弟が左右を切り、清河が真ん中を突き抜ける。
呉軍の列が割れた。
退却の鉦が鳴る。
追おうとする兵を、私は止めた。
「もういい! 帰る人は追わないで!」
清河が振り返った。
「今ならもっと崩せるぞ!」
「帰るならいいよ!」
清河はしばらく私を見て、それから刀を下ろした。
「……ったく」
呉軍は北東へ退いていった。
今日も勝った。
兄はいないし、景謙は呉へ走り、胥浦も私たちと一緒には戦っていない。
それでも、まだ勝てる。
夕方、蒲田へ戻ると、私は真っ先に墓へ行った。
「兄さん」
土の前にしゃがむ。
「ただいま」
今日はもう、返事を待たなかった。
「勝ったよ」
後ろから清河が来た。
「前に出過ぎだ」
「帰ってきたよ?」
「それを結果論って言うんだ!」
「兄さんも言いそう」
「だからあたしが代わりに言ってんだよ!」
氏鳳も来た。
「次は、氏貞様が囮になる前に私をお使いください」
「今日も使ったよ?」
「使われたというより、勝手に動きました」
「それ清河みたい」
「誰が勝手に動いてんだ!」
「清河です」
氏鳳が即答した。
清河が固まった。
私は笑った。
兄さん。
今日もみんな元気です。
◇ ◇ ◇
その頃、退いた呉軍では陸胤が報告を聞いていた。
「趙氏貞の識別は間違っておりませんでした」
「そうか」
「しかし、弓を集中させたため左右を崩されました」
陸胤は怒らなかった。
地図を見たまま、指を止める。
横から景謙が口を挟んだ。
「氏貞に矢を向けるなと言ったはずだ!」
陸胤が初めて顔を上げた。
「お前はいつから私の軍へ命令できるようになった?」
「だが氏貞は――」
「その話はもう聞いた」
景謙の顔が歪む。
陸胤は地図へ戻った。
「今日、分かったことがある」
「何だ?」
「趙氏貞を狙えば、あの女は逃げない」
景謙が黙る。
「自分が狙われていると知れば、それすら使って味方を動かす」
陸胤の指が蒲田の周囲をなぞった。
「ならば、もう趙氏貞を追う必要はない」
景謙が身を乗り出す。
「何をするつもりだ?」
「道を取る」
陸胤はそれだけ答えた。
◇ ◇ ◇
その夜、私はまだ知らなかった。
今日の戦には勝った。
兄の墓にも、ちゃんと「ただいま」と言えた。
呉軍だって追い返した。
でも陸胤は、次から私を追いかけるのをやめるつもりだった。
狙うのは私じゃない。
私たちが、帰るための道だった。
呂清河だ。
ベトナムじゃ、客に茶や飲み物を勧めるのも立派なもてなしだ。
何度も注いでもらって困ったら、無理せず「もう十分です」と丁寧に伝えりゃいい。
「氏貞、何杯目だ?」
「分からない。空くと増える」
「それ氏鳳が注いでんだよ!」
「最側近ですので」
「茶まで補給任務にすんな!」
「清河も飲む?」
「いらねえ!」
「では一杯だけ」
「人の話を聞け!」
もてなしはありがたく受けろ。
でも無理はするな。
……問題は戦場だ。
陸胤はもう、氏貞を狙うのをやめた。
次に狙うのは――あたしたちが帰る道だ。




