↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
45/51

兄さん、行ってくるよ

シンチャオ、趙氏貞です。


旅先でお店をいったん離れて、あとでもう一度来たい時があります。


今日のベトナム語は「Tôi sẽ quay lại sau.(トイ・セー・クアイ・ライ・サウ)」

「あとで戻ってきます」という意味です。


「清河、ちょっと出てくるね」

「どこへだ!」

「あとで戻るよ」

「先に行き先を言え!」

「では私もお供します」

「氏鳳まで行くな! 二人とも戻ってこい!」


まだ出てないよ。


「お前らの場合、先に捕まえとかねえと危ねえんだよ!」


戻るって言っているのに……


でも今日は――ちゃんと戻ることが、いつもより少し大事でした。

兄の葬儀を出せたのは、兄を見つけた翌々日の朝だった。

もっと早く送ってあげたかった。

でも、兄を見つけた時にはもう日が傾いていたし、次の日は景謙がまだ蒲田のどこかにいるかもしれなくて、見張りを増やさなければならなかった。

それだけじゃない。

兄がいなくなっても、米は減った。

荷車は動いた。

象も食べた。

東にも西にも、送らなければならないものがあった。

兄が一人で抱えていた仕事を、書佐と李氏三兄弟、それから残った人たちで分け終わるまで、蒲田を止めるわけにはいかなかった。

たぶん兄が生きていたら、私より先に怒ったと思う。

「俺の葬式で米止めてどうすんだ!」

絶対に言う。

だから、一日だけ待ってもらった。

「兄さん、怒ってないよね」

墓穴の前で聞いてみた。

もちろん返事はない。

清河が隣で鼻をすすった。

「怒ってても聞こえねえよ」

「じゃあ大丈夫かな」

「どういう理屈だ!」

怒鳴られた。

少しだけ安心した。

蒲田には立派な棺を作る余裕なんてなかった。

それでも、兄をその辺へ埋めるなんて絶対に嫌だったから、皆が少しずつ仕事を止めて集まってくれた。

清河と氏鳳、文七に李氏三兄弟まで揃い、呂興も少し離れたところで黙って立っていた。

いつも帳面を抱えている書佐まで、今日は何も持っていない。

兄が見たら、また怒りそうだ。

「全員で手ぇ止めてんじゃねえ!」

頭の中では、ちゃんと声が聞こえる。

でも本物の兄は、もう何も言わない。

土をかける前に、私はもう一度呼んだ。

「兄さん」

返事はない。

ついこの前までは、私が呼ばなくても向こうから来たのに。

米の置き方が違うとか、道を塞ぐなとか、象の餌を人間の兵糧の横へ置くなとか、兄はだいたい何かに怒っていた。

「変な人だったね」

清河がこっちを見た。

「今言うことか?」

「だって、兄さんらしいこと考えてたら」

そこで声が止まった。

泣くつもりはなかったのに、急に目の前がぼやけた。

氏鳳が何も言わず私の横へ来ると、文七も黙ったまま、三兄弟は揃って下を向いていた。

「兄さんね」

私は袖で目を拭いた。

「ずっと、帰ってこいって言ってたんだよ」

兄は、戦うなとも危ないところへ行くなとも言わなかった。

私が前へ出ることも、最後には止めなかった。

その代わり、帰る道を必ず考えていた。

戻れない勝ち方は負けと同じだって。

「自分だけ帰ってこないの、ずるいよ」

清河が小さく鼻を鳴らした。

「それは言ってやれ」

「うん」

皆で土をかぶせた。

戦が終わったら、もっとちゃんとした墓を作ろうと思う。

戦が終われば。

その時の私は、そう思っていた。

葬儀が終わっても、やっぱり米は減った。

本当に腹が立つ。

「氏貞様、東の里から届いた分はこちらへまとめます」

さっきまで手ぶらだった書佐が、もう帳面を抱えている。

「もう仕事するの?」

「米は葬儀を待ってくれません」

「米って薄情だね」

「米に感情持たせんな!」

清河まで復活した。

「でも兄さんも似たようなこと言いそう」

「そこは否定できねえ!」

呂興が吹き出した。

清河が睨む。

「何笑ってんだ!」

「叔母上、国達殿に似てきましたね」

「誰がだ!」

「怒鳴り方が」

「お前あとで覚えてろよ!」

「清河、葬儀のあとだよ」

「お前が止める側になるな!」

氏鳳の肩が震えている。

文七まで何となく笑っている。

兄の声はない。

でも、皆の声はある。

それでいいのかもしれない。

私は書佐の帳面を覗いた。

分からない。

やっぱり分からない。

「胥浦は?」

帳面の字から逃げるために聞いたわけではない。

たぶん。

書佐の指が止まった。

「今のところ、動きはありません」

「陸胤に従ったんだよね」

「招撫を受けた、という方が近いでしょう」

「同じじゃないの?」

「違います」

書佐は帳面を閉じた。

「陸胤殿に従ったからといって、氏貞様を嫌っているわけではありません。むしろ同情している者の方が多いでしょう」

「私に?」

「はい」

少し意外だった。

「じゃあ、どうして戦ってくれないの?」

言ってから、嫌な聞き方をしたと思った。

けれど書佐は気を悪くしなかった。

「戦わないことで守れるものがあるからです。田畑も家もあります。親も子もいる。陸胤殿が無理な要求をせず、武器を置けば暮らしを守ると言うなら、受ける者はおります」

「……そっか」

それなら責められない。

私だって、みんなを守りたくて始めたのだから。

守るために戦わない人へ、どうして戦わないのと怒るのはおかしい。

呂興が書佐を見た。

「でも、陸胤が上手く治めたら、このままずっと呉に従うんですか?」

書佐は少しだけ口元を緩めた。

「ずっと、ということはないでしょう」

「どうしてです?」

「陸胤殿は役人だからです」

私も首を傾げた。

「役人だと駄目なの?」

「駄目なのではありません。替わるのです」

書佐はあっさり言った。

「十年もすれば、別の任地へ移ることだってあります」

書佐は帳面の端を指で押さえた。

「次に来る者が陸胤殿と同じように、この土地の事情を考える人間とは限りません」

清河が腕を組んだ。

「次の奴がまた調子に乗ったら?」

「その時は、また人心が離れます」

「呉から?」

「ええ、そして戻るところがあれば、戻る者もいるでしょう」

私は思わず聞いた。

「戻ってくるの?」

「人まで入れ替わるわけではありませんから」

書佐は何でもないことのように答えた。

「今、陸胤殿に従っている者の中にも、氏貞様に勝ってほしいと思っている者はおりますよ」

「それって、陸胤に怒られない?」

「口に出せば怒られるでしょうね」

「じゃあ言わない方がいいね」

「ですから皆、言わないのです」

なるほど。

清河が額を押さえた。

「氏貞、お前いま本気で納得しただろ」

「うん」

「もうちょっと裏を読め!」

「裏?」

「もういい!」

呂興だけは笑わなかった。

妙に真面目な顔で、書佐を見ている。

「役人が替われば、また変わる……」

小さく呟いた声は、たぶん私に向けたものではなかった。

昼前、龍編方面を見張っていた者が駆け込んできた。

呉軍が南下してくる。

それを聞いた瞬間、清河の顔が変わった。

「来たか」

氏鳳も立ち上がる。

「氏貞様、支度を」

「うん」

立ち上がってから、私は墓を見た。

つい先日までは、出陣する前に兄がいた。

もう、いない。

私は皆より少し遅れて墓の前へ戻った。

「兄さん」

まだ土の色が新しい。

「行ってくるよ」

でも、葬儀の時ほど寂しくはなかった。

「ちゃんと戻ってくるから」

背後で清河が言った。

「それ、毎回言えよ」

「毎回?」

「お前が勝手に前へ出るたびにな!」

氏鳳も墓の前へ来た。

「私もお付き合いいたします」

「氏鳳も?」

「最側近ですので」

「何でもそれで通すな!」

文七が象を連れてくる。

「象も準備できております」

「象さんも兄さんに挨拶する?」

「しません」

「そこは冷静なんだ」

「象ですから」

清河が頭を抱えた。

「国達、頼むから墓から一回出てきてこいつらまとめてくれ!」

たぶん兄なら、本当に出てきたかったと思う。

呉軍は蒲田の北東から来た。

最初に違いへ気づいたのは文七だった。

「弓が多いですね」

「見えるの?」

「聞こえます」

「弓が?」

「弦を張る音が」

清河が嫌そうな顔をした。

「こいつ、やっぱり象係だけじゃねえだろ」

「象係ですよ」

「自分で言うな!」

氏鳳は金色の鎧で別の象へ乗る。

今までなら、それだけで呉軍の一部が氏鳳へ向いた。

今日は違った。

氏鳳が右へ動いても、弓隊は動かない。

清河が二刀を抜いて前へ出ても、ほとんど反応しない。

そして私が象を進めた。

弓隊が一斉にこちらを向いた。

「……あれ?」

「伏せろ!」

清河の声と同時に矢が来た。

文七が象を横へ回す。

さっきまで象の頭があった場所へ、何本も矢が刺さった。

私が右へ動けば、弓も右へ向く。

左へ戻れば、全部こっちを見る。

「清河」

「言うな」

「まだ何も」

「お前、絶対ろくでもねえこと思いついてる!」

「私を見てるなら」

「やめろ!」

「私が動けばいいんじゃない?」

「やっぱりそれか!」

氏鳳がこちらを見る。

「氏貞様、それは囮というものでは?」

「でも氏鳳を見てないよ」

氏鳳の目が細くなった。

「なるほど」

「お前まで納得すんな!」

景謙は私たちを見分ける方法を教えた。

だったらもう、氏鳳は私のふりをする必要がない。

清河も同じだ。

敵が私だけを見てくれるなら、その間は二人を見ていない。

「文七」

「はい」

「象さん、走れる?」

「この地面なら」

「じゃあ走ろう」

「承知しました」

「待てって言ってんだろ!」

象が走った。

弓隊が一斉にこちらへ向く。

「右前から来ます」

文七が言う。

象が左へ切れ、矢が土を叩いた。

「次は?」

「正面です」

「じゃあ、もう少し右」

「氏貞!」

清河が叫びながら飛び出した。

「あとで絶対説教するからな!」

二刀を振るい、弓隊の側面へ食い込む。

反対からは氏鳳が入った。

金色の鎧なのに、もう誰も彼女を趙氏貞だとは思っていない。

それが逆に自由だった。

「こちらを忘れていただいては困ります」

静かな声と一緒に、氏鳳の隊が弓兵を崩す。

さらに奥では李氏三兄弟が動いていた。

弘公が前を止め、美公が横へ回り、成公が開いたところへ兵を押し込む。

三人は今日も一か所に集まらない。

でも私を狙う敵が増えれば増えるほど、三人の前から兵が減る。

「右が薄い!」

「氏鳳が入った!」

「左は?」

「呂清河だ!」

「あたしには殿をつけろ!」

何に怒っているのだろう。

でも元気そうなので大丈夫だと思う。

矢が一本、胸当てをかすめた。

さすがに笑えなくなった。

「氏貞様!」

「大丈夫!」

「大丈夫じゃねえ!」

清河の声まで飛んできた。

みんな遠くにいるのに、どうしてこんなにうるさいのだろう。

でも、怖くはなかった。

私だけを見れば、ほかが見えなくなる。

私は兄ほど頭がよくない。

難しい地図も読めない。

でも、それくらいなら分かる。

「文七、もう少し前へ!」

「行けます」

「行くなあああ!」

清河の声が山に響いた。

呉軍の弓がさらにこちらへ寄る。

その瞬間、氏鳳が深く入った。

三兄弟が左右を切り、清河が真ん中を突き抜ける。

呉軍の列が割れた。

退却の鉦が鳴る。

追おうとする兵を、私は止めた。

「もういい! 帰る人は追わないで!」

清河が振り返った。

「今ならもっと崩せるぞ!」

「帰るならいいよ!」

清河はしばらく私を見て、それから刀を下ろした。

「……ったく」

呉軍は北東へ退いていった。

今日も勝った。

兄はいないし、景謙は呉へ走り、胥浦も私たちと一緒には戦っていない。

それでも、まだ勝てる。

夕方、蒲田へ戻ると、私は真っ先に墓へ行った。

「兄さん」

土の前にしゃがむ。

「ただいま」

今日はもう、返事を待たなかった。

「勝ったよ」

後ろから清河が来た。

「前に出過ぎだ」

「帰ってきたよ?」

「それを結果論って言うんだ!」

「兄さんも言いそう」

「だからあたしが代わりに言ってんだよ!」

氏鳳も来た。

「次は、氏貞様が囮になる前に私をお使いください」

「今日も使ったよ?」

「使われたというより、勝手に動きました」

「それ清河みたい」

「誰が勝手に動いてんだ!」

「清河です」

氏鳳が即答した。

清河が固まった。

私は笑った。

兄さん。

今日もみんな元気です。

◇ ◇ ◇

その頃、退いた呉軍では陸胤が報告を聞いていた。

「趙氏貞の識別は間違っておりませんでした」

「そうか」

「しかし、弓を集中させたため左右を崩されました」

陸胤は怒らなかった。

地図を見たまま、指を止める。

横から景謙が口を挟んだ。

「氏貞に矢を向けるなと言ったはずだ!」

陸胤が初めて顔を上げた。

「お前はいつから私の軍へ命令できるようになった?」

「だが氏貞は――」

「その話はもう聞いた」

景謙の顔が歪む。

陸胤は地図へ戻った。

「今日、分かったことがある」

「何だ?」

「趙氏貞を狙えば、あの女は逃げない」

景謙が黙る。

「自分が狙われていると知れば、それすら使って味方を動かす」

陸胤の指が蒲田の周囲をなぞった。

「ならば、もう趙氏貞を追う必要はない」

景謙が身を乗り出す。

「何をするつもりだ?」

「道を取る」

陸胤はそれだけ答えた。

◇ ◇ ◇

その夜、私はまだ知らなかった。

今日の戦には勝った。

兄の墓にも、ちゃんと「ただいま」と言えた。

呉軍だって追い返した。

でも陸胤は、次から私を追いかけるのをやめるつもりだった。

狙うのは私じゃない。

私たちが、帰るための道だった。

呂清河だ。


ベトナムじゃ、客に茶や飲み物を勧めるのも立派なもてなしだ。

何度も注いでもらって困ったら、無理せず「もう十分です」と丁寧に伝えりゃいい。


「氏貞、何杯目だ?」

「分からない。空くと増える」

「それ氏鳳が注いでんだよ!」

「最側近ですので」

「茶まで補給任務にすんな!」

「清河も飲む?」

「いらねえ!」

「では一杯だけ」

「人の話を聞け!」


もてなしはありがたく受けろ。

でも無理はするな。


……問題は戦場だ。

陸胤はもう、氏貞を狙うのをやめた。


次に狙うのは――あたしたちが帰る道だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。