次の矢は、もう迷わない
シンチャオ、趙氏貞です。
旅先で服を買う時は、見ただけで決めず、試してみるのも大事です。
今日のベトナム語は「Tôi có thể thử cái này được không?(トイ・コー・テー・トゥー・カイ・ナイ・ドゥオック・コン?)」
「これを試着してもいいですか?」という意味です。
「氏鳳、その鎧を試していい?」
「もちろんです」
「氏貞、それ買い物じゃねえぞ」
「じゃあ清河も交換する?」
「何であたしまで脱ぐんだ!」
「では三人で」
「戦場で着せ替え大会すんな!」
氏鳳と私は体格もよく似ている。
「ですが氏貞様、似ているのと、同じなのは別ですよ」
だから交換すれば大丈夫。
――そう思っていました。
着てみるまでは。
兄がいなくなった次の朝も、米は減っていた。
当たり前だけど、ちょっと腹が立つ。
「氏貞様、この俵をどちらへ?」
聞かれて、私は反射的に兄がいた場所を見た。
誰もいない。
昨日までなら「何で俺に聞く前に勝手に動かした!」とか言いながら出てきたはずなのに、今日は木札と帳面しか残っていなかった。
「ええと……清河?」
「何であたしに聞く!」
「兄さんの次に怒鳴るから」
「怒鳴れば米が数えられると思ってんのか!」
「数えられないの?」
「お前と一緒にすんな!」
私よりは数えられるらしい。
そこへ書佐が帳面を持ってやって来た。
この人も、胥浦が陸胤側へついた時、県衙から蒲田まで逃げてきた一人だった。
「東の分と西の分を分けます。昨日まで趙国達殿がつけていた記録はこちらです」
開いてみたけど、何も分からない。
もう一枚めくってみたけれど、やっぱり分からない。
「……兄さんって、こんなの毎日見てたの?」
「はい」
「変な人だったんだね」
清河が頭を抱えた。
「今それ言うか!?」
「だって読めない」
「そこじゃねえ!」
氏鳳が私の横から帳面を見る。
「書佐殿、私にも分かるように説明していただけますか?」
「もちろんです」
「氏鳳、読めるの?」
「多少は」
「裏切られた」
「何にですか?」
氏鳳が私より賢かった。
清河まで笑いそうな顔をしたので睨む。
「清河も読めるの?」
「……少し」
「二人とも敵だ」
「敵増やすな!」
文七までやって来た。
「象の餌でしたら分かります」
「文七は味方!」
「基準そこかよ!」
少しだけ、いつもの声が戻った。
でも、兄の声だけはない。
笑ったあとほど、そのことがよく分かった。
李氏三兄弟も戻ってきていた。
弘公は北、美公は東、成公は西の状況を順に書佐へ伝え、兄が一人で握っていた仕事を分け始める。
「兄さんの代わり、できる?」
三人が揃って顔をしかめた。
「無理です」
「即答?」
弘公が続ける。
「一人では、です」
「三人でも足りません」
美公が帳面を受け取り、成公は書佐を指した。
「だから皆でやります」
「……そっか」
兄はいないけれど、それで全部が終わるわけではないらしい。
兄が一人で持っていたものを、残った人たちで少しずつ持つしかない。
それでも、胸の中に空いた穴は埋まらなかった。
「景謙は?」
私が聞くと、空気が変わった。
清河が腕を組む。
「まだ見つかってねえ」
「外へ出た形跡は?」
氏鳳が尋ねると、弘公が首を振った。
「西ではありません。北でもない。東へ抜けた可能性が高い」
東。
その先にいるのは呉軍だ。
「……陸胤のところ?」
誰も答えなかった。
答えなくても分かる。
この前まで景謙は私たちの軍議に座っていた。
道も兵の数も、誰がどこへ出るのかまで知っている。
そして――氏鳳のことも。
私は隣を見る。
金色の鎧を着た氏鳳が、黙って立っていた。
「氏鳳」
「はい」
「次から、危ないかもしれない」
「今までも危険でした」
「そうじゃなくて」
氏鳳は少しだけ笑う。
「分かっております」
清河が嫌そうな顔をした。
「景謙が呉へ行ったら、お前が影武者だって全部ばらすぞ」
「でしょうね」
「落ち着いてんな!」
氏鳳は自分の鎧を見下ろしたあと、私の胸元へ目を向けた。
「でしたら、氏貞様。次の戦では防具を交換いたしましょう」
「交換?」
「私が氏貞様の胸当てを着け、氏貞様がこの鎧を着れば、もう一度くらいは迷わせられるかもしれません」
なるほど。
景謙が見分け方を教えたのなら、見分け方そのものを変えてしまえばいい。
「やってみよう」
さすがに皆の前で着替えるわけにもいかないので、清河も連れて人目のないところへ移った。
先に私が氏鳳の鎧を借りる。
背丈は少し違うけれど、肩や腰は思ったより合った。
ところが胸の留め具を締めたところで問題が起きた。
「……氏鳳」
「はい」
「これ、きつい」
氏鳳が私を見る。
「どこがですか?」
「胸」
氏鳳が黙った。
清河も黙った。
なぜ二人とも私を見るのだろう。
「少し緩めましょうか」
「それでも苦しいよ」
息を吸うたびに鎧が押し返してくる。
これでは戦うどころか、象さんに揺られただけで疲れそうだった。
「これは無理ですね」
氏鳳が真面目に判断したので、今度は私の胸当てを渡した。
氏鳳が留め具を締め、一度身体をひねる。
二歩歩いてから、胸元を押さえた。
「どう?」
「……少し余ります」
「余る?」
「はい、私の方が胸まわりが小さいので、このまま激しく動きますと、ずれてしまいそうです」
私は氏鳳を見る。
それから自分の胸を見る。
もう一度、氏鳳を見る。
「勝った」
「どこでだ!」
清河が即座に怒鳴った。
「何がですか?」
氏鳳だけが分かっていない。
「何でもないよ」
「氏貞、今はっきり勝ったって言っただろ!」
「気のせいじゃない?」
「目が勝ち誇ってんだよ!」
氏鳳はまだ私の胸当てを押さえている。
「紐を調整すれば使えると思いますが――」
「氏鳳!」
「はい?」
「もういいから!」
清河がとうとう腹を抱えた。
「勝ち負けにすんな!」
「でも勝ったよ?」
「だから何の勝負なんだよ!」
分からない。
でも何となく、今日は私が勝った気がした。
そこへ文七が顔を出した。
「終わりましたか?」
清河がすぐに振り返る。
「文七、氏貞が胸で勝ったらしいぞ」
「何の戦です?」
「清河!」
騒ぎを聞きつけた三兄弟まで来ようとしたので、それだけは全力で止めた。
結局、防具をそのまま交換する案は諦めた。
背丈も体格も近いから影武者にはなれる。
けれど、近いだけで同じではない。
私と氏鳳は似ていても、全部を取り替えられるわけではなかった。
「景謙、気づいてるかな」
つい口から出た。
清河の顔から笑いが消える。
「何にだ?」
「私と氏鳳の違い」
「気づいてるに決まってんだろ。あいつ、どんだけお前見てたと思ってんだ」
嬉しくない。
まったく嬉しくない。
氏鳳が私の胸当てを外しながら、静かに言った。
「だからこそ、呉へ行かれると厄介なのです」
さっきまで少し勝った気がしていたのに、一気に負けた気分になった。
本当に呉へ行ったのだろうか。
兄を殺して、私にあんなことをして、それでもまだ私を追うつもりなのだろうか。
清河が肩を叩いた。
「考えても仕方ねえ。来たらぶん殴る」
「清河らしいね」
「お前も殴れ」
「私は話してからにするよ」
「そこだよ! お前のそういうとこだよ!」
氏鳳が小さく笑った。
その時の私は、景謙がどこにいるのか知らなかった。
知っていたら、たぶん笑えなかった。
◇ ◇ ◇
景謙が陸胤の陣へ現れたのは、その日の夕方だった。
当然、歓迎などされなかった。
つい先日まで趙氏貞の軍議に座っていた男が、血と泥を袖につけたまま一人でやって来たのだから、門兵は槍を突きつけ、その場で膝をつかせた。
「趙氏貞について話がある」
それでも景謙は同じことを繰り返した。
「陸将軍に会わせろ。俺なら蒲田の中を知っている」
その言葉だけが、ようやく陣の奥まで届いた。
しばらくして景謙は縄を掛けられたまま、陸胤の前へ連れて行かれた。
陸胤は地図を見ていた。
顔を上げても、驚いた様子はない。
「邢景謙か」
「俺を知っているのか?」
「敵方の首脳にいた男の名くらい調べる。もっとも、つい先日まで、だが」
景謙の眉が動いた。
「……そうだ」
「なぜ来た?」
「あいつらとは終わった」
「それは事情だ。理由ではない」
景謙が黙る。
陸胤は急かさなかった。
「趙氏貞を止めたい」
「それも理由ではないな」
「何?」
「お前が呉へ降る理由を聞いている。趙氏貞をどうしたいかは聞いていない」
景謙の口が止まった。
陸胤はその顔を見てから、再び地図へ目を落とした。
「まあいい。忠義を売りに来た顔ではなさそうだ」
「俺は役に立つ」
「それを決めるのは私だ」
それでも帰れとは言われなかった。
景謙は、焼いた北の桟道からまだ連絡の残る東西の道まで、蒲田の内情を順に明かした。
李氏三兄弟が一か所へ固まらず、別々の道を押さえていることも隠さない。
陸胤は口を挟まず、書記だけが地図へ印を増やしていく。
「趙国達は?」
そこで初めて景謙が止まった。
「……もういない」
「死んだのか?」
答えない。
陸胤は追及せず、蒲田を指で一度叩いた。
「兵站をまとめていた者が消えたなら、すぐには崩れなくても負担は増える」
自分で国達を消しておきながら、景謙はその扱われ方が気に入らないらしく顔をしかめた。
「まだある」
「何だ?」
「戦場に趙氏貞が増える理由だ」
陸胤の手が止まった。
「一人は呂清河。二刀を使う。動きを見れば分かる」
「金色の鎧は?」
「黎氏鳳。氏貞とほとんど同じ背丈の影武者だ」
「本物は?」
景謙は、ほんの少しだけ間を置いた。
「黄色い衣に金の胸当て。それが氏貞だ」
さらに、范文七という象使いが戦場では本物についていることまで教えた。
「なるほど」
陸胤が地図の上で指を動かす。
「今まで我々は、姿を追わされていたわけか」
「そういうことだ」
「役には立つ」
景謙の肩から力が抜けた。
「なら――」
「だが、お前は信用しない」
顔が固まる。
「なぜだ?」
「今までの話の半分以上が趙氏貞だからだ。道を話しても、兵を話しても、結局そこへ戻る」
陸胤が景謙を見る。
「お前は呉へ来たのではない。趙氏貞から追い出されて、こちらへ来ただけだ」
「俺は氏貞を――」
「その話だ」
陸胤はため息をついた。
「殺すな」
景謙が言う。
「氏貞は殺すな。捕らえればいい。あいつは俺が――」
「お前が?」
景謙は口を閉ざした。
陸胤は兵へ顎をしゃくる。
「縄は解くな。食事と寝床は与えろ。情報が正しいか確かめるまでは、客でも味方でもない」
連れて行かれながら、景謙は振り返った。
「氏貞には手を出すな!」
陸胤は答えなかった。
景謙の姿が消えると、書記が尋ねる。
「あの男を使うのですか?」
「使えるところはな」
「信用なさらないのに?」
「信用と利用は別だ」
陸胤が地図へ目を戻すと、先ほどまで空いていた場所には蒲田へ通じる道と李氏三兄弟の配置が書き込まれ、その中に趙氏貞を見分けるための印まで加わっていた。
陸胤は書記へ命じる。
「各隊へ伝えろ。金色の鎧は追わなくていい」
「では、趙氏貞は?」
陸胤の指が、地図の蒲田で止まった。
「黄色い衣。金の胸当て。象のそばに范文七がいる女だ」
もう、呉軍は迷わない。
次に矢が飛ぶ時、狙われるのは一人だけだった。
呂清河だ。
ベトナムじゃ、人前でベタベタした愛情表現は控えめにした方が無難だ。
旅行中も、周りを見て距離感を合わせろよ。
「じゃあ氏鳳、離れた方がいい?」
「私は最側近ですので」
「そういう意味じゃねえ!」
「清河は?」
「あたしまで近づけんな!」
「では三人で並びましょう」
「結局くっついてんじゃねえか!」
まあ、あたしたちはこれでいい。
問題は次の戦だ。
景謙の野郎が全部しゃべったせいで、呉軍はもう氏鳳を追わない。
今度は――氏貞から離れられねえ。




