約束を破ったのは、兄じゃなかった
シンチャオ、趙氏貞です。
旅先で言葉が聞き取れない時は、分かったふりをするより書いてもらった方が早いことがあります。
今日のベトナム語は「Bạn có thể viết ra được không?(バン・コー・テー・ヴィエット・ザー・ドゥオック・コン?)」
「書いてもらえますか?」という意味です。
「清河、ここに書いて」
「何を?」
「今日の予定」
「東へ出る! 敵を追い返す! 戻る!」
「最後だけ大きく書いて」
「そこ大事だからな!」
「では私も『戻る』とお書きいたしましょう」
「氏鳳まで書くの?」
「氏貞様にも書いていただきます」
「紙が『戻る』だらけだ!」
ちゃんと戻る――書かなくても、みんな分かっているはずだった。
――兄さんも。
戸が閉まった音が妙に大きく聞こえ、振り向くと景謙が私を見ていた。
昨日までと同じ顔なのに、もう同じ人には見えない。
「戸を開けて」
「必要ない」
「これから出るんだけど」
「行かせない」
またそれだ。
けれど昨日とは違う。
昨日の景謙は、私を戦場へ出したくなかった。
今の景謙は、私をここからどこかへ連れていこうとしている。
「兄さんを呼んで」
景謙の眉がわずかに動いた。
「国達は来ない」
「どうして?」
答えない。
「景謙、何でそんなこと分かるの?」
「話したからだ」
「どこで?」
今度も口を閉ざした。
昨日までなら、兄と話した場所くらい普通に言ったはずだ。
私は景謙の顔を見た。
「兄さんに何したの?」
「今は国達の話をしている場合じゃない」
「私には大事だよ」
「氏貞」
景謙が近づいてきたので、私は距離を取るように卓を回り込んだ。
その時、右袖に茶黒い汚れがついているのが目に入った。
朝にはなかった気がする。
泥だろうか。
私が見ていることに気づいたのか、景謙は右手を少し後ろへ引いた。
「それ、どうしたの?」
「何がだ?」
「袖」
景謙は見ようともしなかった。
「どうでもいい」
どうでもよくない。
でも、何が変なのか自分でもまだ分からなかった。
「来ないで」
「何を怖がっている?」
「景謙が怖いんだよ」
言ってしまってから、胸が苦しくなった。
こんなことを言う日が来るとは思わなかった。
一緒に戦い、助けてもらったことだってある。
兄と軍議をして、清河と揉めて、私が無茶をすれば怒っていた。
その景謙に、私は今、近づいてほしくない。
「俺はお前を守ろうとしている」
「違うよ」
「違わない」
「じゃあ戸を開けて」
景謙は動かなかった。
「ほら」
私が言うと、景謙の顔が歪む。
「お前は何も分かっていない」
「またそれ?」
「国達も清河も氏鳳も、お前を好き勝手に外へ出す。お前が傷ついても、戦場へ戻ればいいと思っている」
「そんなこと思ってないよ」
「お前がそう思いたいだけだ!」
景謙が卓を叩くと、地図上の駒が跳ね、私は思わず肩を揺らした。
朝まで兄が触っていた駒だった。
「兄さんは、私に帰ってこいって言ったよ」
「それでも行かせた」
「私が行くって決めたから」
「だから、それを決めなくていいと言っている!」
まただ。
昨日から、景謙はそこだけをどうしても認めない。
私が自分で決めていることを。
「景謙」
「何だ?」
「私は、誰かに言われたから戦ってるんじゃないよ」
「もういい」
「よくないよ」
景謙の顔が固まった。
怖い。
それでも、ここで黙ったらいけない気がした。
「困ってる人がいたから助けたかった。呉の役人と揉めたのも、兵を集めたのも、象に乗ったのも、最後に決めたのは私だよ」
「だから危険なんだ!」
「危険なのは分かってる」
「なら俺に任せろ!」
「何を?」
景謙は一瞬、答えに詰まった。
「全部だ」
背筋に悪寒が走った。
「どこへ行くかも、誰といるかも、いつ戦うかも、俺が決める。そうすればお前は死なない」
「それ、私じゃなくなるよ」
景謙が黙る。
「私を守るって言いながら、私をなくそうとしてる」
口にした瞬間、自分でも分かった。
たぶん、これが一番近い。
景謙が欲しいのは、私が生きていることじゃない。
景謙の言う通りにしか動かない私だ。
「氏貞」
「嫌だよ」
「まだ何も言ってない」
「もう分かるもん」
私は出口を見る。
景謙がそれに気づき、先に戸の前へ立った。
「どいて」
「行かせない」
「どいて」
「俺と来い」
「嫌」
景謙が伸ばした手を避けたつもりだったのに、次の瞬間には腕を掴まれていた。
「痛い!」
「暴れるな」
「離して!」
近づいた景謙から、微かに鉄みたいな匂いがした。
戦場で何度も嗅いだことのある匂いだった。
なのに景謙は、今日はまだ戦場へ出ていない。
心臓が大きく鳴った。
「景謙、その袖……」
「今は関係ない!」
腕を振りほどこうとした。
「やめて!」
「氏貞、聞け!」
「聞いてる! 聞いた上で嫌だって言ってるの!」
景謙が一瞬止まった隙に腕を引き抜き、そのまま戸へ走ろうとした。
けれど背後から抱え込まれ、息が詰まった。
「景謙!」
「お前は俺と来ればいい!」
「嫌だ!」
「なぜ分からない!」
「分かってるから嫌なの!」
足が卓の脚に引っかかった。
体勢を崩し、地図ごと卓が傾く。
駒が床へ散った。
私も床へ倒れ、肩を強く打った。
痛みに顔をしかめながら起きようとすると、景謙が覆いかぶさってくる。
「どいて!」
「もう誰も来ない」
「来るよ!」
「清河は戦場だ。呂興も三兄弟も戻らない。氏鳳も東へ出た。文七は象のところだ」
昨日まで軍議にいた人だから、全部知っている。
そのうえで今ここにいる。
兄と話した場所を明かさないうえに、戻ってこないと言い切り、その袖にはあの汚れまで残っている。
考えたくないものが、一つにつながりかけた。
「兄さんは……?」
景謙の目が揺れた。
それだけで、言葉は返ってこなかった。
その沈黙が、今までよりずっと怖かった。
私は景謙の胸を押した。
「離して」
「氏貞」
「離して!」
景謙の手が私の肩を押さえる。
もう片方の手が衣に触れた。
そこで、何をされようとしているのか分かった。
頭の中が真っ白になる。
「嫌」
声が思ったより小さかった。
景謙は止まらない。
「景謙、やめて」
「お前は俺の――」
「違う!」
今度は声が出た。
「私は景謙のものじゃない!」
膝を突き上げると景謙の体がわずかに浮き、その隙に身を捩った。
肩が床を擦ったが、痛みなんてどうでもいい。
とにかく離れたかった。
「氏貞!」
「触らないで!」
景謙の顔が歪んだ。
怒っているんじゃない。
思い通りにならないことが信じられない顔だった。
「俺以外の誰がお前を守れる!」
「みんなだよ!」
「そいつらは今いない!」
「戻ってくる!」
「戻らない!」
その言葉が、兄のことまで言っているように聞こえた。
「……兄さんも?」
景謙は答えなかった。
その時だった。
戸の向こうで足音が止まった。
景謙の顔が動く。
私も息を止めた。
「……氏貞様?」
氏鳳だった。
「氏鳳!」
私が叫ぶ。
戸は開かなかった。
景謙が内側から閂を掛けているらしく、外で一拍だけ間が空く。
「氏貞様、離れてください」
「え?」
次の瞬間、戸が大きく揺れた。
一度、二度と軋み、三度目で閂が外れる。
戸が内側へ跳ね、金色の鎧が飛び込んできた。
氏鳳だ。
けれど、いつもの穏やかな表情ではない。
私と景謙を見比べ、乱れた衣へ目を落としたあと、その視線が景謙の右袖で止まった。
「景謙殿……その袖は、どうなさいました?」
景謙は黙ったままだった。
「国達様はどこです?」
返事をしない景謙を見て、氏鳳は剣を抜いた。
「氏貞様から離れてください」
景謙が立ち上がった。
「なぜ戻った」
「東へ向かいましたが、どうにも気になりまして」
「持ち場を捨てたのか」
「部下に任せました」
氏鳳が一歩入る。
「それより、国達様はどこです?」
「これは俺と氏貞の話だ」
「答えになっておりません」
「お前には関係ない」
「あります」
氏鳳は私の前へ立った。
「私は氏貞様の最側近ですので」
いつもなら少し笑えたかもしれない。
今は笑えなかった。
景謙が刀へ手を掛ける。
氏鳳も構える。
「氏鳳」
「大丈夫です」
景謙が吐き捨てる。
「またお前か」
氏鳳は目を逸らさない。
「また私です」
「お前さえいなければ」
「それは残念でしたね」
こんな時なのに、氏鳳は氏鳳だった。
景謙が刀を抜こうとした、その時だった。
外から、ずしん、と重い音がした。
地面が一度揺れ、少し間を置いてもう一度響いた。
私も氏鳳も、その重い足音が何なのか知っている。
景謙の顔を見れば、あいつも分かったらしい。
戸の向こうから文七が顔を出した。
「氏貞様、象の準備が――」
そこで止まった。
文七は部屋へ踏み込むなり、私と氏鳳、それから景謙へ順に目を走らせた。
最後に視線が止まったのは、景謙の右袖だった。
文七が眉を寄せた。
「景謙殿は、今日は戦場へ出ておられませんよね?」
景謙の顔が固まる。
「何が言いたい?」
「その汚れです」
文七はそれ以上言わなかったが、もう説明はいらなかった。
氏鳳も分かっているし、私も考えないふりを続けられなくなっていた。
「景謙」
自分の声が震える。
「兄さんに、何したの?」
返事はなかった。
文七が部屋へ入る。
「まず氏貞様から離れてください」
「お前まで俺を邪魔するのか」
「氏貞様が嫌だと仰っていますので」
外では象が鼻を鳴らした。
景謙の視線が氏鳳から文七へ移り、その向こうで待つ象まで届いた。
さすがに分かったようだった。
ここではもう、自分の思い通りにならない。
景謙は刀から手を離した。
「氏貞」
呼ばれても返事をしなかった。
「俺はお前を――」
「もう聞かない。聞けない」
景謙の顔が止まる。
「どこか行って」
「氏貞」
「行って!」
しばらく私を見ていた景謙が、やがて戸へ向かう。
氏鳳が追おうとした。
私は反射的に袖を掴んだ。
「氏鳳」
「ですが」
「行かないで」
氏鳳はすぐに止まった。
文七も追わなかった。
景謙を追うより、私のそばにいることを選んだ。
それで良かった。
今は二人に行ってほしくなかった。
◇ ◇ ◇
景謙は逃げた。
蒲田には人が少なく、清河も呂興も李氏三兄弟も戦場にいる。
昨日まで首脳部にいた景謙を、門の兵もすぐには敵だと思えなかったらしい。
「急ぎだ」と言われ、道を開けてしまった。
それを聞いても、私は怒れなかった。
昨日まで一緒に軍議をしていた人だ。
私だって今朝までは、景謙を敵だと思っていなかった。
氏鳳が私の肩へ衣を掛けてくれる。
「お怪我は?」
「少し痛いだけ」
文七がじっと見る。
「本当に?」
「文七まで疑うの?」
「今日は疑います」
「今日だけ?」
「今後もです」
ひどい。
でも、少しだけ安心した。
氏鳳が私の袖を整える。
その手がいつもより優しい。
私は氏鳳の金色の鎧を見た。
さっきまで東にいたはずなのに、戻ってきてくれた。
だから聞くのが怖かった。
「……兄さん」
二人が止まる。
「景謙の袖、あれ……」
氏鳳は答えなかった。
文七も目を逸らさない。
それだけで十分だった。
「探そう」
自分から言った。
三人で兄を探した。
景謙と話すと言っていた場所から、そう遠くなかった。
荷を置いてある建物の陰に、朝と同じ衣が見えた。
私は最初、兄が座っているのだと思った。
「兄さん?」
返事がないまま、一歩近づいた。
朝の会話が頭に浮かぶ。
ちゃんと帰ってきてね。
それは俺の台詞だ。
「兄さん」
まだ返事がない。
氏鳳が私の前へ出ようとした。
私は止めた。
自分で行った。
兄は倒れていた。
朝、米の話をしていた時と同じ服だった。
でも、もう帳面を見ることも、地図を広げることもない。
「兄さん」
私が呼んでも、返事はなかった。
朝、私が「ちゃんと帰ってきてね」と言うと、兄は笑って「じゃあ、お互い戻るぞ」と返した。
約束を破ったのは、兄じゃなかった。
呂清河だ。
ベトナムじゃ、白は清らかさを表す一方で、葬儀では遺族が白い喪の印を身につけることもある。
旅行中は色だけで決めつけず、弔事の場では周りの服装や案内を見た方がいい。
「じゃあ白は着ちゃ駄目なの?」
「普段は違う。場を見ろ」
「氏貞様は黄色ですから安心ですね」
「氏鳳、色だけで安全判定すんな」
「清河は?」
「あたしまで判定するな!」
同じ色でも、場所が変われば意味も変わる。
あたしが蒲田へ戻った時、国達はもう戻らない人になっていた。
そして景謙は――消えていた。




