今なら、誰にも邪魔されない
シンチャオ、趙氏貞です。
戦う時は、前へ出るだけが仕事じゃありません。
誰かが道を守り、誰かが兵を動かし、私は私の役目が来るまで待つ。
だから今日は、待つのも大事なお仕事です。
今日のベトナム語は「Xin chờ một chút.(シン・チョー・モッ・チュッ)」
「少し待ってください」という意味です。
「清河、ちょっと待って」
「もう出陣だ!」
「氏鳳も」
「戻ってまいります」
「文七は?」
「象です」
「答えになってねえ!」
みんな出ていった。
私は待つことにした。
兄さんも、すぐ戻ってくると思っていたから。
區粟が落ちて二日目の朝も、兄は休む気がないらしい。
景謙を首脳部から外してからは、まだ一日しか経っていない。
それなのに、兄が最初に気にしたのは昨日の騒ぎではなかった。
「東から来る荷車が一台遅れてるな」
米だった。
書佐が慌てて帳面をめくる。
「昨日の雨で車輪が傷んだそうです。昼までには着くと」
「無理に急がせるな。荷車が壊れたら余計に遅れる」
私は地図の横から顔を出した。
「兄さん」
「何だ?」
「昨日、大変だったよね」
「ああ」
「少し休んだら?」
兄が顔を上げた。
「お前がそれを言うのか?」
「何で?」
横にいた清河が呆れた顔をした。
「昨日、門が開いた途端に象で飛び出してった奴が言う台詞じゃねえんだよ!」
「ちゃんと帰ってきたよ?」
「そこじゃねえ!」
氏鳳が笑いを堪えている。
兄はため息をつきながら地図へ戻った。
「呉軍は昨日より近い。今日は探りだけじゃ済まないかもしれない」
清河の顔から笑いが消える。
「来るか」
「たぶんな。清河は北東へ出ろ。呂興も連れていけ。ただし追うな」
「分かってるって」
「本当に?」
私が聞くと、清河が振り返った。
「お前にだけは確認されたくねえ!」
どうしてだろう。
兄は李氏三兄弟へ向き直る。
「弘公は北寄り、美公は東、成公は蒲田へ戻る道を見ろ。今日は三人とも氏貞のそばへ集まるな」
三人の顔が一斉に曇った。
「しかし」
「道を潰されたら、氏貞を守るどころじゃなくなる」
李弘公が黙る。
李美公が私を見る。
李成公も見る。
最後に李弘公まで見た。
「何で三人とも私を見るの?」
「念のためです」
「何の?」
誰も答えない。
清河が鼻を鳴らした。
「こいつら、そのうち戦場に体だけ持ってって目玉は氏貞の横に置いてきそうだな」
「怖いよ!」
氏鳳が手を上げた。
「私は?」
「東へ出てもらう。昨日より氏貞から離れろ。呉軍はまだ二人を完全には見分けられていない」
「承知しました」
私は氏鳳を見る。
「また別々なんだね」
「戻ってまいります」
「うん」
氏鳳は少し考えてから続けた。
「氏貞様も、必ずお戻りください」
「分かってるよ」
「本当に?」
今度は氏鳳まで疑ってきた。
「今日のみんな、私を信用してなくない?」
清河が即答する。
「今日だけだと思ってんのか?」
ひどい。
そこへ文七が入ってきた。
「象の飼葉を確認しました。二頭とも問題ありません」
兄が聞く。
「氏貞の象は?」
「今日は落ち着いております」
「よかった」
「氏貞様が乗るまでは」
「私が乗ると何かあるの?」
文七が少し考えた。
「象ですから」
清河が机を叩く。
「それ便利な逃げ道にしてるだろ!」
朝から騒がしく、そこまではいつもと同じだった。
ただ一つ、景謙がいないことを除けば……
昨日までなら、地図の向こう側にいた。
私が前へ出ると言えば止め、兄と揉め、氏鳳を見るたびに難しい顔をする。
今日はそこが空いている。
つい目を向けると、兄が気づいた。
「気になるか?」
「少し」
「昨日の決定は変えないぞ」
「うん。それでいいよ」
景謙を嫌いになったわけじゃない。
一緒に戦ったこともあるし、助けてもらったことだってある。
ただ、昨日みたいに私の代わりに何でも決めようとするのは嫌だった。
兄が地図を畳む。
「景謙とは俺が話す」
「また?」
「あのまま放っておくわけにもいかない」
私は少し不安になった。
「喧嘩しないでね」
清河が吹き出した。
兄は額を押さえる。
「昨日あれだけ揉めて、今さらそこを心配するのか」
「だって二人とも怒ると怖いし」
「俺は怒鳴ってない」
「景謙は怒鳴ってたね」
「なら景謙に言え」
それもそうだ。
兄は立ち上がった。
「お前は出陣の準備をしろ。帰ったら、これからのことを話す」
「これから?」
「呉軍がここまで近づいてる。考えなきゃならんことが増えた」
兄が部屋を出ようとする。
なぜか、その背中をそのまま行かせるのが嫌だった。
「兄さん」
「何だ?」
「ちゃんと帰ってきてね」
兄が変な顔をした。
「それは俺の台詞だ」
「今日は私が先に言った」
「そうかよ」
少しだけ笑う。
「じゃあ、お互い戻るぞ」
「うん」
兄は出ていった。
◇◇◇
昼前になると、蒲田は急に広くなったように感じた。
人が減ったからだ。
清河は呂興を連れて北東へ向かった。
門を出る直前まで、
「氏貞! 勝手に前出んなよ!」
と叫んでいた。
「清河もね!」
「お前が言うな!」
最後までうるさい。
李氏三兄弟もそれぞれの道へ散った。
出る前に三人そろって私のところへ来たので、何か大事な話でもあるのかと思った。
李弘公が言う。
「くれぐれも不用意な行動はなさらぬよう」
「兄さんにも言われたよ」
李美公が続ける。
「お一人にもなられませぬよう」
「氏鳳もいるし、文七もいるよ」
李成公が真顔でうなずいた。
「ならば安心です」
「私一人だと安心できないの?」
三人とも答えなかった。
もういい。
氏鳳は金色の鎧を身につけている。
遠くから見れば今日も私と間違われるはずだ。
「行ってまいります」
「気をつけてね」
「氏貞様も」
氏鳳は歩きかけ、なぜか一度振り返った。
「……本当に、お気をつけください」
「どうしたの?」
氏鳳は少しだけ眉を寄せる。
「分かりません。ただ、何となく落ち着きません」
清河なら大声で嫌な予感だと言い出すところだけど、氏鳳が言うと逆に気になった。
「分かった。気をつける」
「お願いします」
氏鳳はようやく出ていった。
文七も、
「象を連れてまいります」
と言って外へ向かう。
「私も行こうか?」
「氏貞様が来ると、支度の途中で乗ろうとなさいます」
「乗らないよ」
文七が振り返る。
「本当に?」
「……たぶん」
「ここでお待ちください」
「はい」
最近、私の扱いがだんだん分かってきた気がする。
たぶん、あんまり信用されていない。
そこで兄がまだ戻っていないことに気づいた。
書佐に聞く。
「兄さんは?」
「趙国達様でしたら、景謙殿とお話しになると仰っていましたが」
「まだ?」
「その後は見ておりません」
長い。
兄は話が長い人じゃない。
景謙だって昨日の今日なのだから、顔を合わせればすぐ揉めそうなものだ。
私は外へ探しに行こうとして、文七に待っていろと言われたことを思い出した。
「……米かな」
兄ならありえる。
自分が大変な時ほど米や荷車を見に行く。
私より米が好きなんじゃないだろうか。
いや、それは困る。
米は大事だ。
私も食べる。
そんなことを考えていると、入口に人影が差した。
「氏貞」
景謙だった。
私は少しだけ身構える。
「景謙」
昨日までなら、ここへ来ても誰も不思議には思わなかった。
首脳部から外されたとはいえ、まだ罪人でも捕虜でもない。
蒲田の道も、門も、兵の顔も、景謙は全部知っている。
だから普通にここまで来られたのだろう。
「今日は出るな」
最初の言葉まで昨日と同じだった。
私は息を吐いた。
「またその話?」
「昨日とは違う。呉軍が近すぎる」
「だから気をつけて行くよ」
「今日は行くな」
景謙が一歩入ってくる。
「一日だけでいい。蒲田にいろ」
まだ、心配しているだけにも聞こえた。
「それなら兄さんに言って」
「国達とは話した」
「仲直りした?」
返事がない。
やっぱり駄目だったらしい。
「兄さん、どこ?」
景謙の目が少しだけ動いた。
「もう気にしなくていい」
意味が分からない。
「どうして?」
「氏貞、ここを離れよう」
今度は私が黙った。
話が変わった。
「どこへ?」
「呉軍の手が届かないところだ」
「みんなは?」
「置いていけばいい」
あまりにも早く答えたので、聞き間違えたのかと思った。
「清河たちも?」
「ああ」
「氏鳳も?」
「ああ」
「兄さんも?」
景謙は答えなかった。
私は首を振った。
「嫌だよ」
「なぜだ」
「何で私だけ逃げるの?」
「お前さえ生きていればいい」
「よくないよ」
すぐに答えた。
「清河も氏鳳も文七もいる。三兄弟も呂興もいるし、蒲田の人たちだっている。私一人がいなくなったら――」
「そいつらがいるから、お前は逃げないんだ!」
突然、声が大きくなった。
私は肩を揺らした。
景謙も気づいたらしく、一度口を閉じる。
次に口を開いた時には、もう怒鳴っていなかった。
「……あいつらは、お前を戦わせる」
「違うよ」
「国達も同じだ」
「兄さんは違う」
「同じだ!」
また声が跳ねた。
「お前が前へ出れば兵が集まる。象に乗れば皆がお前を見る。戦えば英雄だと持ち上げる。だから誰も本気で止めない」
「兄さんは止めるよ」
景謙が止まった。
「すごく止める。毎回、戻ってこいって言う」
「それでも戦場へ出す」
「私が行くからだよ」
昨日も言った。
それなのに、まだ届いていない。
「私は自分で決めてる」
「そんなものは決めなくていい」
今度は私が黙った。
景謙自身も何を言ったのか気づいたようだった。
けれど、言い直さない。
「戦うかどうかも、どこへ行くかも、お前が全部決める必要なんてない」
「じゃあ誰が決めるの?」
景謙が私を見た。
「俺だ」
背筋が凍った。
昨日までは、危ないから行くなと言っていた。
今は違う。
「俺ならお前を死なせない。国達みたいに前へ出すこともしない。氏鳳をお前の代わりに戦わせる必要もない。清河たちに振り回されることもなくなる」
「誰も私を振り回してないよ」
「お前には分からない!」
「分かってるよ」
私は景謙を見る。
「私のことだもん」
景謙の顔が固まる。
「景謙がしてるのは、守ることじゃないよ」
「なら何だ」
言葉にするのが少し怖かった。
それでも言った。
「私を、景謙の言う通りにしたいだけじゃないの?」
景謙は答えなかった。
その沈黙が、返事みたいだった。
一歩、景謙が近づく。
私は下がった。
背中が卓に触れる。
朝まで兄が見ていた地図が、すぐ後ろにある。
「氏貞……俺と来い」
「行かない」
「ここにいたら死ぬ」
「それでも景謙には決めさせない」
景謙の目が細くなった。
それから、部屋の外を見た。
「清河はいない」
何を言い出したのか分からなかった。
「氏鳳も出た。三兄弟も呂興も外だ」
そこで、景謙が何を数えているのか分かった。
「文七は象を取りに行った」
景謙は偶然この時間に来たんじゃない。
みんながどこへ行くのか知っている。
昨日まで、景謙はそれを決める側にいたのだから。
「……景謙?」
「今なら、誰にも邪魔されない」
景謙が戸へ手を伸ばした。
「待って」
「大丈夫だ」
「何が?」
戸が閉じる。
昼なのに、部屋が少し暗くなった。
景謙は私を見たまま、戸から手を離した。
「これからは、俺の言うことだけ聞けばいい」
その言葉を聞いて、ようやく分かった。
景謙は私を戦場から守りたいんじゃない。
私が誰といるかも、どこへ行くかも、何を選ぶかも、自分で決めたかったんだ。
そして兄は――まだ戻ってこなかった。
呂清河だ。
ベトナムで幸運を祈るつもりでも、指を交差させる仕草はやめとけ。
失礼な意味に取られることがあるから、旅行先じゃ知らない手振りを無理に使うより、言葉で伝えた方が安全だ。
「清河、これ?」
「今説明したそばからやるな!」
「では氏貞様の手を隠します」
「氏鳳、包むな!」
「両手とも?」
「増やすな!」
縁起なんて、指の形だけで決まるもんじゃねえ。
だがその頃、国達は戻らず、氏貞のそばには景謙がいた。
あたしは戦場で、まだ何も知らなかった。




