ただいま
今回のベトナム語は、
「Tôi đang tìm địa chỉ này.(トイ・ダン・ティム・ディア・チー・ナイ)」
「この住所を探しています」です。
「清河、これ知ってたら早く着けた?」
「住所を知ってりゃな!」
「では私が先に探してまいります」
「氏鳳まで迷子になるな!」
「氏貞様と同じところへ参ります。最側近ですので」
「役に立てよ!」
旅行先では、行き先の住所をスマホに保存しておくと便利です。
「じゃあ母さんの家も」
「だから住所知らねえんだよ!」
私たちは、まだ母さんを探しています……
川へ飛び込んでから、何日たったのか、途中から分からなくなった。
最初の一日は全員ずぶ濡れで、とにかく寒かった。
火を焚けば煙が上がるし、大きな道を歩けば追手に見つかるかもしれない。
だから私たちは川沿いを外れ、林や山裾を選びながら南へ向かった。
正確に言えば、南へ向かっているつもりだった。
「清河、本当にこっち?」
「大体はな!」
「大体なんだ……」
「お前よりは覚えてる!」
兄さんから、母さんは林邑方面にいる昔からの知り合いのところへ逃がしたと聞いていた。
私はそこまでしか覚えていない。
清河は九真より南にも親戚がいて、話に出てきた土地の名前や川の向きまでは覚えていた。
それでも家そのものを知っているわけではなく、結局は人目を避けながら少しずつ聞いて回るしかなかった。
「文七、分からない?」
「分かりません」
「地面とか鳥とか見れば」
「氏貞様のお母様の居場所までは分かりません」
「そこまで分かったら人間じゃねえよ!」
清河が頭を抱えた。
「そうなんだ」
「今さら何だと思ってたんだ!」
氏鳳だけは、そんな私たちのやり取りを聞きながら平然と歩いている。
金鎧は松山に置いてきたのに、やっていることは今までと変わらない。
私が足を取られれば腕を支え、休む場所を探せば先に周囲を確かめ、眠るときにはいつの間にか一番近くにいる。
「氏鳳、疲れない?」
「疲れております」
「そうなの?」
「最側近ですので」
「それで全部片づけるな!」
清河は今日も元気だった。
それから何日か探し続け、ようやく兄さんが話していた辺りまで来た。
それでも、そこからさらに時間がかかった。
見覚えのない家だった。
屋根も道も庭の木も知らない。
本当にここなのかと思った、そのときだった。
「こら! 待ちな! そっち行くんじゃないよ!」
聞き覚えのある声がして、続いてばさばさと羽音が響いた。
一羽の鶏が庭の奥から飛び出し、その後ろを母さんが追いかけてくる。
「……おばさんだ」
「うん」
間違えるはずがなかった。
「待ちなって言ってるだろ!」
母さんは私たちに気づいていない。
鶏は庭を横切り、急に向きを変えると、そのまま私の方へ走ってきた。
私は反射的に腰を落とし、両手を出した。
ばさっ、と羽が広がる。
「捕まえた」
腕の中で鶏が暴れている。
「何でそこだけ妙に上手いんだよ!」
「清河、どうしよう」
「おばさんに返せ!」
「あ、そっか」
顔を上げた。
母さんが立っていた。
さっきまで鶏を追い回していた格好のまま、私を見ている。
動かない。
私も動けなかった。
腕の中の鶏だけが、まだばたばたしていた。
「……氏貞?」
呉軍が何千人来ても、象に乗って敵陣へ出ても、ここまで緊張したことはなかったと思う。
「怒られるかな?」
「今それ言うのかよ!」
清河に小声で怒鳴られた。
氏鳳が不思議そうに私を見る。
「氏貞様ほどのお方でも、お母様は怖いのですか?」
「母さんは強いよ」
「何と戦ってんだ、お前は!」
鶏だと思う。
母さんはゆっくり近づいてきた。
私の顔から、肩まで短くなった髪へ視線が移る。
胸当てのない私を上から下まで確かめたあと、母さんはなぜか鶏を見た。
「……その子」
「あ」
私は腕の中を見た。
「捕まえたよ」
「そうかい」
母さんの口元が少しだけ動いた。
半年近く戦ってきた。
大勢の前で話し、何度も軍議をして、兄さんが死んだあとも進み続けた。
蒲田を捨て、松山では自分の墓まで作り、最後には川へ飛び込んだ。
それなのに、母さんを前にしたら、言葉は一つしか出てこなかった。
「ただいま、母さん」
母さんはすぐには抱きついてこなかった。
まず鶏を受け取って地面へ下ろし、それから私の頬に手を当てた。
「……痩せたね」
「ちょっとだけ」
「ちょっとじゃないよ」
反対の頬にも触れ、短くなった髪を指で確かめる。
「髪も」
「切ったの」
「そうかい」
手が肩へ移り、腕、背中へ回る。
怪我がないか確かめるように何度も触れられた。
「母さん?」
「黙ってな」
「はい」
怒られた。
後ろで清河が笑った気がしたけれど、振り向かなかった。
やがて母さんの腕が私の背中へ回った。
「……生きてた」
その声を聞いた瞬間、胸の奥にずっとあったものが崩れた。
「本当に、生きてた」
私はようやく母さんを抱き返した。
川から上がったときでも、追手が見えなくなったときでもなかった。
ここまで来て、やっと帰ってきたのだと思った。
「うん……帰ってきたよ」
母さんはしばらく私を離さなかった。
ようやく身体を離すと、目元を拭いながら言った。
「国達が死んだって聞いたよ……」
「……うん」
「そうかい」
それだけだった。
でも母さんの顔を見れば、それ以上は聞けなかった。
「兄さん、母さんを先に逃がしてた。景謙にも場所を教えてなかったから、ここまで追われなかったんだよ」
「国達らしいね」
「私、あのときはそこまでしなくてもいいと思ってた」
「お前は昔からそうだからね」
母さんが少し笑った。
「お前が何か拾ってきて、清河まで巻き込んで、最後に国達が逃げ道の心配をする」
「逃げ道は大事だから」
「そこだけは聞いてたのかよ!」
とうとう清河が口を挟んだ。
母さんが顔を上げる。
「清河」
「……おばさん」
「お帰り」
清河が一瞬だけ黙った。
いつもなら何か言い返すはずなのに、今日は珍しく素直だった。
「……ただいま、おばさん」
母さんは清河まで抱きしめた。
「ちょっ、おばさん!」
「昔から半分うちの子みたいなものでしょ。今日から正式に次女ね」
「そこは今決めるのかよ!」
私は気になった。
「じゃあ私は?」
「長女」
「よかった」
「何で安心してんだ!」
長女だった。
次に母さんは氏鳳を見る。
氏鳳は姿勢を正した。
「初めまして。黎氏鳳と申します。氏貞様の最側近を――」
最後まで言えなかった。
母さんが氏鳳の手を取ったからだ。
「この子を守ってくれたんだね」
「……はい」
「ありがとう」
母さんはそのまま氏鳳も抱きしめた。
「じゃあ、あんたが三女ね」
「……はい?」
「氏貞が長女、清河が次女。あなたが三女」
「おばさん、急に家族増やすな!」
清河が叫ぶ。
氏鳳は少し考えていたけれど、やがて母さんの背中へそっと腕を回した。
「……ただいま、戻りました」
「お帰り、氏鳳」
母さんは三女ではなく、氏鳳と呼んだ。
氏鳳は目を伏せたあと、いつもより少しだけ柔らかく笑った。
残ったのは文七だった。
なぜか文七が一番困っている。
母さんが訊く。
「氏貞を守ってくれた?」
「皆で守りました」
「そうかい」
母さんは頷いた。
「なら、あんたも帰ってきた子だ。入りなさい」
「……よろしいのですか?」
「ここまで一緒に生きてきた子を、戸の外へ立たせておく親がいるかい」
文七が黙った。
地面の振動も鳥の動きも読めるのに、母さんの一言には弱かった。
「ほら。長女も次女も三女も、そこの大きい子も入りな。お腹空いてるだろ」
「空いた!」
「お前、さっきまで泣きそうだったくせに飯には即答かよ!」
「だって空いたから」
母さんが笑った。
氏鳳も笑い、文七も笑う。
清河はまだ何か言っていたけれど、最後には笑っていた。
家へ入ろうとしたところで、さっき逃げた鶏が庭の隅から顔を出した。
母さんが振り返る。
鶏が逃げる。
「母さん、あれは?」
「あとで捕まえる」
やっぱり母さんは強い。
その夜、私は一人で外へ出た。
兄さんの墓は、ここにはない。
蒲田も松山も遠く、松山には私自身の墓まで残っている。
呉を追い出すことはできなかったし、守れなかったものもたくさんある。
兄さんも、弘公も、美公も、成公も帰ってこない。
それでも、私はここへ帰ってきた。
兄さんが言っていた。
『戻れない勝ち方は負けと同じだ』
私はずっと、その意味をちゃんと分かっていなかったのだと思う。
勝つためなら死んでもいいと思っていたわけではない。
でも、皆が助かるなら、自分だけ帰れなくてもいいとは思っていた。
それでは駄目だった。
私が帰らなければ、兄さんが用意した道も、三兄弟が守ってくれた時間も、興が言ってくれた「生きててよ」も、全部途中で終わってしまう。
だから私は帰ってきた。
夜空を見上げる。
「兄さん」
返事はない。
当たり前だ。
それでも言っておきたかった。
「ただいま」
家の中から清河の声が飛んできた。
「氏貞! おばさんが飯冷めるって言ってるぞ!」
「今行く!」
戸を開けると、氏鳳がもう私の席を用意していた。
「姉様、お席はこちらです」
「ありがとう」
「何でお前、もう完全に妹なんだよ!」
氏鳳は涼しい顔で答えた。
「三女ですので」
「順応早すぎるだろ!」
母さんと文七が笑った。
私も笑った。
英雄になりたかったわけではないし、天下が欲しかったわけでもない。
ただ、困っている人を見たら放っておけなかった。
それがいつの間にか大勢を巻き込み、戦になり、失ったものもたくさんあったけれど、始まりは最初からそれだけだった。
そして最後に、私は家へ戻った。
私がそのあと何年生き、どこで何をして、どんなふうに歳を取ったのか。
それを伝えるものは、後の世には残らなかった。
代わりに残ったのは、松山に置いてきた墓と金の胸当て、切り落とした髪、そこで倒れた人たち、そして私たちが川へ飛び込む姿を見た呉兵たちの記憶だった。
やがて、それらが私の死を語るものになった。
◇ ◇ ◇
後の世には、趙氏貞は松山で死んだとも、追い詰められて川へ身を投げたとも伝えられた。
どちらの話も、何もないところから生まれたわけではない。
松山には本当に墓があり、そこへ残された髪も本物だったし、川へ飛び込んだことさえ事実だった。
ただ、松山から西へ消え、川の向こうへ生きて渡った氏貞が、その後どこで、どんな人生を送ったのか。
後世の史家には、それを確かめようがなかった。
残ったのは、呉に抗った一人の女性の名だった。
苦しむ人々を放っておけず、自ら立ち上がり、象に乗って戦った趙氏貞の名は、長い時間を越えて語り継がれていく。
氏貞の勇気は、後の時代もこの国に残っている。
趙氏貞です。
呂清河だ。
黎氏鳳でございます。
ベトナムでは、別れの挨拶も相手との関係で変わります。
親しい人には、「また会おう」「また明日」のように、次に会うことを前提に別れる言い方もよく使われます。
「清河、じゃあ私たちもまた会えるね」
「毎日いるだろ!」
「姉様、明日も目を覚ましてから眠るまで、お風呂でもお手洗いでもお隣におります」
「氏鳳、お前いつ離れるんだよ!?」
「三女ですので」
「最終回でも強えな、その肩書き!」
旅先で仲良くなった人との別れ際にも、「また会いましょう」と言えたら素敵ですね。
私たちも、これでお別れです。
でも――また会おうね!
Tạm biệt, hẹn gặp lại! (タム・ビエット、ヘン・ガップ・ライ!)
さようなら、また会いましょう!




