千人いない方へ行こう
シンチャオ趙氏貞です。
今日のベトナム語は「Đi thôi」
「行こう」という意味です。
「氏貞、どこへ?」
「千人いない方」
「方角で答えろ!」
千人の討伐軍が山へ来るそうなので、私は反対側にある郡の役所へ行くことにしました。
「それ、普通は逃げるって言わねえか?」
「役所も千人から逃げてるようなものでしょう?」
「役所は動かねえよ!」
清河は少し考えてから、地面へ道を書き始めました。
「よし……やってやろうじゃねえか」
「何を?」
「夜襲だよ!」
行ってみるだけだったはずなのに、なぜか百人で行くことになりました。
Đi thôi。
その頃、千人いる方も動き始めていました。
山の下に現れた旗は、夜になっても消えなかった。
むしろ暗くなるほど、焚き火の数だけが増えていく。
昼間、命懸けで追い返した相手が先遣だったと知った時には、さすがに何かの冗談だと思ったのだが、山腹から見える火は冗談にしては多すぎた。
見張りから戻った男が、息を整えながら言った。
「千は超えてる。まだ後ろにも来てるぞ」
私は山の下を見た。
百人でも多いと思っていたのに、今日は三百人を追い返すだけで腕に矢を受けた人まで出た。
その後ろに、今度は千人を超える軍勢がいるという。
最近、敵の増え方がおかしい。
「迎え撃つしかないな」
昨日、景謙を押し込み、最後には私に投げられた大柄な男が言った。
もう投げられたことは気にしていないらしい。
本人がいいなら、私も忘れることにした。
周囲の男たちも頷く。
清河だけは地面へ枝で描いた道を見たまま、何も言わなかった。
私は山の下の火を眺め、それから地面の図へ目を落とした。
「千人がこっちへ来てるんだよね?」
「ああ」
景謙が答えた。
「郡の兵だけじゃない。周辺から集めている。こちらを一度で潰す気だ」
「じゃあ、役所には千人いないんだ」
周囲が静かになった。
まただった。
最近、私が何か言うと皆が急に黙る。
私は少し不安になった。
「変なこと言った?」
「氏貞」
清河がゆっくり顔を上げた。
「お前、今どこ見てる?」
「役所」
私は枝の先で郡の役所を示した。
「千人いる方へ行くより、いない方へ行った方が楽じゃない?」
景謙まで黙った。
兄の国達は少し離れたところで額を押さえている。
大柄な男が目を見開いた。
「まさか、郡の役所を襲うつもりか?」
「そこまでは言ってないよ」
「じゃあ何するんだよ」
清河に訊かれたので考えた。
「行ってみる?」
「それを襲うって言うんだよ!」
清河が怒鳴った。
どうも最近、私が普通に話しているだけで話が大きくなる。
ただ、千人の兵が私たちを捕まえるため山へ来るなら、その千人は役所にはいない。
役人がこちらを見ている間、こちらから向こうを見る者はいない。
私は戦のことなど知らないが、そのくらいなら分かる。
景謙が地面の図を見ながら口を開いた。
「理屈だけなら通る」
「景謙まで!?」
清河が驚いた。
「ただし氏貞は行かせん」
「そこだけ急におかしいよ」
「お前が行く必要はない。俺が――」
「いや、氏貞がいないと意味ねえ」
清河が遮った。
景謙の目が細くなる。
「何だと」
「向こうは氏貞を頭だと思ってる。役所を取った時に氏貞がいなきゃ、別の賊が来たと思われるだけだろ」
「それでいい」
「よくねえよ!」
二人がまた始めた。
私は地面の図を見ていた。
清河はしばらく景謙と睨み合っていたが、やがて枝を取り上げ、役所へ続く道を叩いた。
「よし……やってやろうじゃねえか」
「何を?」
「役所をだよ!」
清河は完全に楽しそうだった。
「でも、全員連れていったら里が空になるよ」
私が言うと、今度は景謙が頷いた。
「そこは氏貞が正しい。負傷者もいる。老人や子供を守る者も必要だ」
集まっている者の中から、戦える者を数え直した。
今夜動かせるのは百四十人ほど。
そのうち四十人は里と山道へ残し、負傷者や避難している者を守る。
残った百人ほどで役所へ向かうことになった。
「百人で役所へ行くの?」
「百人全員で門へ突っ込むわけじゃねえよ」
清河は地面へ四本の線を引いた。
「正面は四十。氏貞と景謙、それからそこのデカいのが行け。松明をありったけ持って、わざと目立て」
大柄な男が眉をひそめた。
「そこのデカいのとは俺か?」
「他にいるか?」
いなかった。
「私は二十人連れて裏へ回る。残り四十のうち二十は兄貴と荷車だ」
兄が顔を上げた。
「待て」
「待たねえ。役所を取っても米も武器も運べなきゃ意味ねえだろ」
「だから何で俺なんだ!」
「荷車扱えるから」
「またそれか!」
清河は聞いていなかった。
「最後の二十は二手に分ける。十人は山へ戻る道、十人は郡から外へ出る街道を見張れ。援軍や伝令が来たら戦うな。こっちへ知らせて、逃げろ」
大柄な男が訊いた。
「敵を止めなくていいのか?」
「十人で何百人止める気だよ。見つけるのが仕事だ」
景謙が清河を見た。
「珍しくまともだな」
「ぶっ飛ばすぞ」
褒めても怒るらしい。
私は地面の四本の線を見た。
正面で騒ぐ人もいれば、裏から入る人もいる。
米や武器を運ぶ人がいて、その外では敵が来ないか見張る人もいる。
同じ百人でも、全員が同じことをする必要はないらしい。
「清河、軍師みたいだね」
「やめろ。嫌な予感しかしねえ」
すでに十分やっていると思う。
私が役所を見て、清河が夜襲にし、景謙が人数を詰めた。
今回は、誰から始まったのかますます分からなくなった。
日が落ちる前に、老人や子供たちはさらに山の奥へ移した。
里に残る四十人には、戦おうとせず、敵が来たら時間を稼ぎながら奥へ退くよう景謙が念を押した。
「守り切ろうと思うな。戻る場所まで失ったら、役所を取っても意味がない」
清河が横から言った。
「珍しく人間みてえなこと言うな」
「お前は俺を何だと思っている」
「氏貞の亭主を自称してる変な奴」
「自称ではない」
「まだ亭主じゃねえよ!」
そこは訂正しないといけないらしい。
出発の準備をしている途中、若い男が私のところへ来た。
昨日から何度かこちらを見ていた人だった。
「趙氏貞殿」
「何?」
男は緊張した顔で胸を張った。
「今夜は、俺が必ずあなたを守る」
私は男の足元を見た。
「暗いから、自分の足元を見た方がいいよ。山道で転ぶと危ないから」
「……はい」
男の肩が落ちた。
清河が横から私を見る。
「氏貞」
「何?」
「今の、たぶん山道の話じゃねえぞ」
「じゃあ何?」
「それが分かりゃ私も苦労しねえ」
景謙がいつの間にか男の後ろに立っていた。
「お前は荷車の方へ回れ」
「え?」
「正面は四十人で足りる。氏貞の側は俺がいる」
「景謙」
私は彼を見た。
「何だ?」
「今度は人の配置まで勝手に決めてるよ」
「必要だからだ」
「ほらな」
清河が嫌そうに言った。
夜になってから山を下りた。
千人を超える軍勢は、こちらを包囲するため山へ入り始めている。
私たちはその脇を遠く回り、逆方向へ進んだ。
月は薄く、道は暗い。
景謙が何度も私へ「離れるな」と言うので、三度目から数えるのをやめた。
役所が近づくと、百人は予定通り四つに分かれた。
正面へ向かう四十人には、実際の人数よりずっと多い松明を持たせた。
一本しか持たない人もいれば、二本抱えている人もいる。
「一人で二本持ったら二人に見えるかな?」
「氏貞」
清河が振り返った。
「何?」
「お前、そういう悪知恵だけ覚えるの早くねえか?」
「数の話をしただけだよ」
超失礼だった。
これくらいの足し算はできるのに……
清河の二十人は、短い刃物と縄だけを持って裏へ向かう。
「今度は道ある?」
「ある」
「本当に?」
「細い水路だけどな」
安心した私が馬鹿だった。
「人が歩くところじゃないでしょう?」
「水が通れるなら私も通れる」
「清河は水じゃないよ」
「知ってる!」
清河たちは暗闇へ消えた。
少し遅れて、兄の二十人が荷車を引きながら物陰へ回る。
役所を取るまでは近づかず、門が開いたら米と武器を積む手筈だった。
残る二十人は、十人ずつ反対方向へ散っていく。
戦うためではない。
敵が来るのを誰より先に見つけるためだった。
私はそこで初めて、百人全員の姿が見えなくなったことに気づいた。
以前なら、人が減ったように感じたかもしれない。
今は違う。
見えない場所にも味方がいる。
少し不思議な感じがした。
正面へ回ると、門には思っていたより兵がいた。
千人はいない。
ただし、少なくもない。
「二十か、三十」
景謙が小声で数えた。
建物の中にもいるだろう。
こちらの正面は四十。
人数だけなら大差はない。
けれど私たちの後ろには、存在しないはずの何十人分もの松明が揺れている。
門の兵がそれに気づいた。
ざわめきが起こる。
「何者だ!」
本当は、話して帰ってもらえるならその方が楽だった。
だが私が名乗る前に、向こうから声が上がった。
「賊だ! 趙氏貞だ!」
最近、自己紹介をする機会が減った。
兵が門前へ集まり、盾を並べる。
昼間に矢が地面へ突き刺さった時のことを思い出し、手が少し冷たくなった。
夜だから余計に相手が見えない。
それでも後ろを見ると、三十九人がこちらを見ていた。
四十人目は私だった。
まただ。
私はまだ、この目に慣れない。
たぶん慣れてはいけないのだと思う。
その時、役所の裏で何かが割れた。
続いて悲鳴。
そして、
「開けろォ!」
清河の声が響いた。
「もう入ったみたい」
「予定より早いな」
景謙が呟いた。
内側から門が揺れる。
守っていた兵が振り返った。
その瞬間、大柄な男が笑った。
「行くぞ!」
私は槍を握り直した。
怖さは残っている。
昼間の矢も、血も、まだ覚えている。
それでも今は、怖いまま動ける。
「皆、一緒に行こう!」
声が上がった。
門が開く。
服をずぶ濡れにした清河が飛び出してきた。
「遅えぞ!」
「水路、深かった?」
「膝まであった!」
「寒くない?」
「今それ聞くな! 入れ!」
四十人が門へ入る。
清河の二十人が内側から合流する。
ここでようやく、正面と裏に分かれていた六十人が一つになった。
役所の中は大混乱だった。
寝ていた役人が衣を抱えたまま走り、兵は正面と裏のどちらへ行けばいいのか分からず、廊下では誰かが転び、その上を別の誰かが飛び越えている。
昨日までは私たちが追われていた。
今日は役人の方が逃げている。
世の中というものは、数日でずいぶん変わるらしい。
「氏貞! 倉だ!」
清河が指した。
倉を押さえたところで、門の外へ合図を送る。
ほどなく車輪の音が聞こえた。
「兄貴、入れ!」
清河が叫ぶ。
「だから命令するな!」
兄が二十人と荷車を引き連れて入ってきた。
戦う六十人、運ぶ二十人。
これで役所の中へ入ったのは八十人になった。
残る二十人は、まだ二つの道を見張っている。
私はそのことを思い出して、少し安心した。
扉を開けると、米俵が積まれていた。
里では足りないと言われ、それでも持っていかれた米が、ここには山ほどある。
一緒に来た者たちの顔から笑いが消えた。
私も笑えなかった。
「持って帰ろう」
清河が頷いた。
「兄貴、頼む!」
「最初からそのために連れてきたんだろ!」
その通りだった。
別の部屋では、役人が竹簡や木札を抱えて逃げようとしていた。
老人がそれを取り上げ、中身を読む。
表情が変わった。
「徴発の記録です。次に、どの里から米を取り、人を出させるか書いてある」
私は受け取った。
自分の里があった。
知っている村の名もあった。
昼間、腕に矢を受けた若者が来た里もある。
私は役人へ訊いた。
「これ、なくなったら困る?」
役人は真っ青になった。
「官の記録だ! 勝手に触れるな!」
清河が横から覗く。
「困るらしいぞ」
私は松明を見た。
「じゃあ、燃やそうか」
今度は清河まで黙った。
「氏貞」
「何?」
「今日はお前が一番やってるぞ」
「そうかな?」
「役所へ夜襲かけて米持って帰って、徴発の記録まで燃やす女が何言ってんだ!」
否定しようと思った。
できなかった。
燃えやすい紐や写しを集め、火を移した。
役人が叫ぶ。
炎が上がる。
私は少し怖かった。
人へ向かってくる火とは違う。
これは私が、自分でつけた火だった。
ただし建物までは燃やさない。
倉には米がある。
中には降伏した人間も残っている。
壊すものくらい、自分で決めたかった。
「役所全部焼くなよ!」
清河が怒鳴った。
「持って帰れる物まで燃える!」
「理由そこなの?」
「大事だろ!」
清河らしかった。
夜が深くなる頃には、門も倉もこちらが押さえていた。
逃げる兵は追わなかった。
抵抗をやめた者にも手を出さない。
それでも怪我人は出た。
こちらにも、向こうにも。
戦いが終われば、倒れている人間だけが残る。
歓声より先に呻き声が聞こえる場所もあった。
私はそれを見ないふりができなかった。
それでも、もう元の暮らしへ戻れるとも思えなかった。
兄は十数台の荷車へ米俵を積ませていた。
「氏貞」
「何?」
「俺、なんで夜中に役所で米の数まで数えてるんだ?」
「清河が頼んだから」
「元はお前だ!」
最近、兄と清河の言うことが似てきた。
空が白み始める少し前。
街道を見張っていた十人のうち、一人が門へ転がり込むように戻ってきた。
「来るぞ!」
清河が振り返る。
「何が?」
男は山へ続く道を指した。
「討伐軍だ! 役所が襲われたと知って、全部引き返してきた!」
もう一方の道へ置いた十人からも、ほどなく合図の火が上がった。
逃げ道まで塞がれる前に動かなければならない。
誰かが人数を訊いた。
男は息を吸った。
「千を超える!」
役所の中が静まり返った。
清河が私を見る。
兄も見る。
景謙だけは、すぐ門の外へ目を向けた。
昨日までは、千人がいる場所へ行かなければよかった。
だから私は、千人がいない場所へ来た。
その千人が、こちらへ戻ってくる。
私は役所の門を見た。
「清河」
「何だ?」
「今度は逃げる?」
「まさか」
清河が笑った。
その顔を見て、嫌な予感がした。
「せっかく百人で取ったんだ。だったら――守ってやろうじゃねえか!」
景謙が剣を抜く。
大柄な男が笑う。
兄だけが叫んだ。
「お前ら、朝から元気すぎるだろ!」
遠くで軍鼓が鳴った。
昨日まで追われていた私たちは、とうとう役所を奪った。
そして今度は、千人を超える呉兵が、それを取り返しに来る。
呂清河だ。
今日のベトナム文化は、竹。
家の柱や垣根、籠、箸、農具まで作れるうえ、村の周りに植えれば風よけにもなる。
丈夫でよく育つから、暮らしの中じゃ嫌でも顔を合わせる相手だ。
「清河、槍にもなるね」
「そこから離れろ」
「柵にもなるし、罠にも使えそう」
「文化講座を陣地構築に変えるな!」
今夜、私らは百人で郡の役所を取った。
米も武器も運び出し、徴発の記録まで燃やした。
あとは千人相手に守るだけだ。
「清河」
「なんだ?」
「守る物、もうなくない?」
「……あ?」
氏貞が松明を見た。
嫌な予感しかしない。
次回。
燃え上がる郡衙、迫る討伐軍。
夜明けの九真を、赤い炎が染める。
「竹文化から放火へ繋げるなァ!」




