初陣、むせる
シンチャオ趙氏貞です。
今日のベトナム語は「Sợ(ソー)」
「怖い」という意味です。
「氏貞、お前がそれ教えるのか?」
「うん。矢が飛んできたら普通に怖いよ」
「そこは英雄らしく強がれ!」
「刺さったら痛いでしょ?」
「急に現実的になるな!」
そんなわけで、今日は初めて本物の討伐軍と戦います。
清河は煙で敵の弩を封じるそうです。
「任せろ。山の風も読んである」
「本当に?」
「たぶん」
「今、怖くなった」
「Sợの使いどころそこじゃねえ!」
そして煙はいったん私たちの方へ戻ってきたので、全員むせました。
「戦争アニメで本当にむせる奴があるか!」
その煙の向こうで、軍鼓がもう一つ鳴ります。
軍鼓は、日が暮れても止まらなかった。
山の麓から一定の間隔で響いてくるたび、庭に集まった人たちの声が少しずつ小さくなる。
昨日までなら、役人が来ても「追い返せばいい」と思っていた。
ところが今度は、向こうから先に「趙氏貞を討て」と言われている。
私としては、まだ誰にも頭になると返事をしていないのだが、役所はそういう細かいところを確認してくれないらしい。
「寝ろ」
景謙が言った。
「軍鼓鳴ってるけど?」
「だからだ。朝まで鳴らされて寝不足になったらどうする」
「景謙は寝ないの?」
「俺は見張る」
「また亭主ヅラしてやがる」
少し離れたところで清河が焚き火へ薪を放り込んだ。
景謙が睨む。
「お前は黙れ」
「氏貞を勝手に寝かせる権利がお前のどこにあるんだよ?」
「疲れている女を寝かせるのに権利が要るのか?」
「その言い方が気に食わねえ!」
二人は軍鼓よりうるさかった。
兄の国達が毛布を頭からかぶった。
「頼むから敵が来る前に味方同士で争うな」
もっともだった。
結局、私は家の中で少しだけ眠った。
少しだけのつもりだったのに、目が覚めると空が白んでいた。
外へ出る。
最初に気づいたのは音ではなく、匂いだった。
煙臭い。
朝餉の煙とは違う。
薪の匂いに土埃と汗、それに何か焦げたような匂いまで混じっている。
山の下を見ると、木々の隙間から薄い煙が上がり、その向こうを人が動いていた。
「来たぞ」
清河が言った。
昨日までの百人とは違った。
盾を持った兵が先に並び、その後ろに槍、そのさらに後ろには弓や弩を持った者までいる。
列が長い。
私の家の庭へ集まっている人間も増えたが、景謙が昨日言った通り、こちらは人数の割に武器がない。
槍を持つ者の隣で鍬を握る者がおり、その隣では竹を削っただけの棒を抱えている。
向こうは兵だった。
こちらは、まだ人だった。
景謙が私の横へ来た。
「三百はいる」
「そんなに?」
「先頭だけでだ」
清河が顔をしかめた。
「後ろにもいるってことかよ」
「いるだろうな」
兄が空を見上げた。
「昨日まで静かな山だったんだけどな」
「兄さん、今日も帰れないね」
「俺の家はここだ!」
そうだった。
景謙が地面へ枝を置いた。
「正面からやるな。盾の後ろに弩がいる。あの道へ出たら射られる」
大柄な男が腕を組んだ。
昨日、景謙を押し込み、最後には私が投げてしまった人である。
「なら近づけばいい。弩は近ければ使えん」
「近づくまでに死ぬ」
景謙の返事は早かった。
男が黙る。
清河が山腹を見た。
「煙、使えるかもしれねえな」
「何の煙?」
「炭焼き場があるだろ。あそこに湿った枝葉を突っ込めば、下へ流れる」
景謙が風を見た。
「今ならな」
「今ならって何だよ?」
「山の風は変わる」
「縁起でもねえこと言うな」
私は二人を見た。
「煙で見えなくするの?」
「そうだ」
清河が頷いた。
「向こうが盾並べても、見えなきゃ狙えねえ。こっちは山道知ってる。横から回って追い払う」
「また追い払うんだね」
「お前、まさか話し合う気だったのか?」
「できれば」
清河と景謙が同時にため息をついた。
息だけは合う。
私はそれが少し面白かった。
「氏貞」
景謙が急に真顔になった。
「お前は俺の後ろにいろ」
「どうして?」
「弩があると言っただろ」
「皆にも当たるよ?」
「お前に当たるのが困る」
清河が振り返った。
「皆も困るだろ!」
「そういう意味ではない」
「分かってるから腹立つんだよ!」
景謙は私へ向き直った。
「俺の側を離れるな」
「清河、景謙って昨日より悪化してない?」
「助けたからだよ! お前が庇ったせいで完全に調子乗ってんだ!」
景謙は否定しなかった。
むしろ少し嬉しそうだった。
本当に悪化していた。
話している間にも、呉兵は山道を上がってくる。
兄はいつの間にか女や子供たちを家の裏手へ集めていた。
「戦えない者はこっちだ! 水と食い物だけ持て! 荷物全部抱えて走ろうとするな!」
私は兄を見た。
「兄さん、詳しいね」
「昨日から知らない奴に兵糧だの避難だの聞かれ続けたんだよ!」
人は慣れるらしい。
本人は嫌そうだった。
やがて炭焼き場から煙が上がり始めた。
最初は細かった。
そのうち白く濁り、湿った葉の匂いを含んだ煙が斜面へ流れ落ちていく。
呉兵の列が止まった。
「よし」
清河が笑った。
その直後、風が変わった。
煙が戻ってきた。
こちらへ。
「清河」
「言うな」
「煙、来てるよ」
「言うなって!」
庭にいた全員がむせた。
私もむせた。
景謙まで咳をしている。
「山の風は変わるって言っただろ!」
「今言うな!」
清河が涙目で怒鳴った。
呉兵側からも咳が聞こえた。
どうやら平等だった。
「これ、効いてるの?」
「敵にも味方にもな!」
清河が叫ぶ。
「公平でいいね」
「戦で公平を求めるな!」
煙の中から、弦の鳴る音がした。
その音を聞いた瞬間、景謙の顔が変わった。
「伏せろ!」
何かが空気を裂いた。
矢が飛んできたのだと理解したのは、一本が私のすぐ前の地面へ突き刺さってからだった。
土が跳ねて足へ当たる。
ほんの数歩、場所が違っていたら。
そう考えた途端、喉の奥が急に狭くなった。
煙のせいではなかった。
手に汗が滲み、槍の柄が滑る。
膝まで妙に頼りなくなり、私は初めて、自分の身体が「逃げろ」と言っているのが分かった。
刀を向けられた時にも怖かった。
けれど、あの時は相手が見えていた。
今は違う。
煙の向こうにいる、顔も知らない誰かが、私を殺そうとして矢を放っている。
私が誰なのかなど関係ない。
当たれば死ぬ。
それだけだった。
もう一本が米俵へ突き刺さった。
近くにいた若い男が突然、変な声を上げた。
腕に矢が刺さっていた。
血が流れる。
昨日まで私の家の前にはいなかった人だった。
名前も知らない。
それなのに、ここにいる。
私が百人を追い返したという噂を聞いて来たのかもしれない。
私についていけば何とかなると思ったのかもしれない。
その男の腕から落ちた血が土へ染み込んでいくのを見た瞬間、胸の奥が冷たくなった。
怖かった。
自分に矢が当たることより、その方が怖かった。
もし私が「前へ」と言えば、この人たちは前へ出る。
もし私が間違えれば、今度は腕では済まないかもしれない。
私は頭になると言っていない。
けれど、そんな言い訳をしても、この人たちはもう私を見ていた。
助けを待つ目だった。
指図を待つ目だった。
逃げたかった。
本当に、少しだけ逃げたいと思った。
家の裏へ走って、母のところへ戻り、昨日までみたいに鶏を捕まえるかどうかで揉めていたかった。
その方がずっと簡単だった。
「氏貞!」
清河の声が飛んできた。
私は息を吸った。
煙臭い空気が喉へ入り、思い切りむせた。
格好がつかなかった。
それでも、むせながら若者の側にいた男へ叫んだ。
「その人を後ろへ! 矢は無理に抜かないで!」
声が震えていたかもしれない。
自分では分からなかった。
ただ、二人がすぐに動いた。
負傷した若者を抱え、家の裏へ運んでいく。
その背中を見て、私はようやく気づいた。
怖いから動けないのではない。
怖くても、動かなければいけない時がある。
次の矢が来たので、今度は伏せた。
地面が近く、土と煙の匂いが鼻につく。
顔を上げるのは嫌だった。
それでも上げた。
「清河!」
「何だ!」
「煙が下へ流れたら横へ回って! 今は動かないで!」
「分かった!」
清河が即答した。
その返事を聞いて、別の怖さが胸へ刺さった。
清河まで私の言葉で動く。
幼馴染だからではない。
今は戦場で、私の判断を聞いている。
景謙が私を見る。
「氏貞、お前――」
「何?」
「……いや、いい」
珍しく何も言わなかった。
風がまた変わった。
煙が谷側へ流れる。
呉兵の盾列がぼんやり浮かんだ。
私は震える指で槍を握り直した。
向こうは煙を嫌って少しずつ前へ出ている。
狭い道へ。
盾同士の間が詰まり、後ろの槍が動きにくくなっていた。
「今なら動ける」
口に出してから、自分で驚いた。
怖さは消えていない。
むしろ、さっきよりはっきりしている。
それでも、敵の動きまで見えていた。
清河が笑った。
「やっと分かったか!」
「何が?」
「お前、もう普通に戦見てんだよ!」
そう言われても困る。
私は昨日まで鶏を捕まえるのを断っていた。
清河が二十人ほどを連れて斜面へ消える。
今度は丸太ではない。
今度は人だった。
その違いが、今は嫌になるほど分かった。
煙の向こうから、突然横腹へ石が飛び、短い槍が突き出された。
呉兵がそちらを向く。
盾がずれる。
私は槍を前へ出した。
喉が乾いていたが、それでも声を出す。
「押して!」
後ろから声が重なった。
人が動く。
竹槍も鍬も鉈も、一斉に前へ出る。
立派な陣ではない。
歩幅も合っていない。
転びそうになる者さえいた。
それでも、向こうが崩れた瞬間だけは同じ方向へ進んだ。
呉兵が下がる。
景謙が横で叫ぶ。
「深追いするな! 道を空けろ!」
意味はすぐ分かった。
「川側を開けて! 逃げ道を残して!」
何人かがこちらを見る。
その目を見た瞬間、また胸が重くなる。
私の声を待っている。
「囲まないで! 逃げられなくなったら、向こうも死ぬまで戦う!」
声が伝わっていった。
呉兵の列が割れる。
一人が走り、それにつられて二人、三人と下がった。
やがて盾列そのものが崩れ、山道を下っていく。
清河たちは追わなかった。
景謙も追わせなかった。
私は息を吐いた。
煙を吸いすぎて喉が痛い。
手もまだ少し震えていた。
勝ったのだと思う。
けれど、さっき矢を受けた若者の顔が頭から離れなかった。
歓声が上がっても、昨日ほど素直には喜べなかった。
戦えば、こうなる。
勝っても、こうなる。
それを今日、初めて知った。
清河が戻ってきた。
顔が真っ黒だった。
「清河」
「何だ!」
「すごい顔」
「お前もだよ!」
少しだけ笑えた。
景謙も咳をしながら歩いてくる。
「だから煙は嫌だったんだ」
清河が振り返った。
「お前、賛成してただろ!」
「風が変わると言った」
「予言者みてえな顔すんな!」
兄まで煤だらけで出てきた。
「もう終わったのか?」
「たぶん」
私は山の下を見た。
逃げていく兵が小さく見える。
これで終わればいい。
心からそう思った。
その時、景謙が私の肩を掴んだ。
「まだだ」
「何?」
彼はもっと遠くを見ていた。
煙の向こう、谷の入口に旗が見えた。
一つではない。
二つでもない。
さらにその後ろから、土埃が上がっている。
さっき退いた兵とは別の列が、ゆっくりこちらへ進んでくる。
今度は、さっきより多い。
ずっと多い。
清河が黙った。
兄も黙った。
私も、しばらく何も言えなかった。
さっきまで震えていた手が、今度は冷たくなった。
景謙だけが低い声で言った。
「今のは先遣だ」
山の下で、別の軍鼓が鳴った。
今日、初めて勝ったつもりだった。
向こうはまだ、始めてもいなかった。
呂清河だ。
今日のベトナム文化は、皆で料理を囲む食卓。
大皿のおかずを分けながら、飯を食うことが多い。
「清河、今日は皆で食べるんだね」
「ああ、ただし先に顔洗え」
「どうして?」
「お前、煤で真っ黒だぞ?」
「清河もだよ」
「誰の煙作戦だと思ってんだ!」
自分だった……
しかも敵まで一緒にむせた。
「同じ煙を分け合ったね」
「食卓みたいに言うな!」
氏貞が飯へ手を伸ばした、その時。
また軍鼓が鳴った。
次回。
煙の向こうに、さらなる軍勢。
粗末な槍を握る者たちへ、本物の戦が牙を剥く。
「飯くらい食わせろォ!」




