勘違い男現る
シンチャオ趙氏貞です。
今日のベトナム語は「không」
「いいえ」という意味です。
「氏貞、今日はずいぶん実用的だな」
「うん。使う予定があるから」
「誰に?」
「景謙」
「納得した」
朝起きたら、私は一人で呉兵百人を追い返した英雄になっていました。
兄は何もしていないのに偉い人になり、庭は勝手に兵営になっています。
「誰も反乱軍を作るって言ってねえのにな」
「不思議だね」
「中心にいるお前が言うな!」
そこへ、昔から私の予定を勝手に決める幼馴染がやってきます。
「清河、景謙って変わったかな?」
「悪化してなきゃいいけどな」
残念ながら、悪化していました。
しかも本人だけは、恋が進展したと思っています。
「không!」
「覚えた言葉を即座に使うな!」
朝になると、私が呉兵百人を一人で追い返したことになっていた。
昨日の夕方までは、清河が丸太を落とし、里の皆で石を投げ、狭い山道に詰まった兵を押し返したはずなのだが、どういうわけか一晩眠ると、私一人で百人を相手にしたことになるらしい。
噂というものは、夜も働くようだった。
「違うよ。百人を一人で倒してない」
私は朝から三度目になる訂正をした。
向かいに座っていた他所の里の男は、感心したように頷いた。
「なるほど。百人を殺したわけではなく、退けたのですな」
「そうじゃなくて」
「しかも一人の血も流さずに」
「清河が丸太を落としたから」
男は今度こそ分かったという顔をした。
「呂清河殿が策を立て、趙氏貞殿が先頭に立った、と」
横で粥を食べていた清河が顔を上げた。
「だいたい合ってる」
「合ってないよ」
「細けえこと言うなよ。百人が帰ったのは本当だろ」
「清河が全部落とせって言ったからでしょ?」
「まだ言うのかよ!」
朝から元気だった。
もっと困ったことに、家の外も元気だった。
昨日まで鶏が歩き回っていた庭には米俵が積まれ、知らない男が槍を磨き、知らない女が大鍋を据え、その横では子供が竹の棒を振り回している。
兵営にした覚えはないのだが、皆の方ではもう、そのつもりらしい。
「氏貞」
家の奥から兄の国達が出てきた。
眠そうな顔で粥の椀を持っている。
兄は昨日、何もしていない。
役人と揉めたのは私で、丸太を落としたのは清河である。
それなのに一晩たったら、知らない人たちが兄へ「趙殿」「兄君」と頭を下げるようになった。
「兄君、兵糧の置き場についてご相談が」
「知らん」
「では、集まった男たちの組分けを」
「もっと知らん」
「むやみに口を出さぬとは、さすが兄君」
兄はゆっくり私を見た。
「氏貞」
「何?」
「何とかしろ」
「私も何とかしてほしい」
清河が吹き出した。
「兄貴、諦めろ。氏貞の兄に生まれた時点で負けだ」
「お前が丸太を全部落とさなきゃ、ここまで増えてない!」
「元は氏貞だ!」
「私は少し話をしただけだよ?」
「お前ら二人とも黙れ!」
兄は正しかった。
そこへ、人垣の向こうから聞き覚えのある声がした。
「朝から相変わらず騒がしいな」
清河の顔が一瞬で曇った。
「……最悪」
「まだ顔も見てないよ」
「見なくても分かる」
人の間を抜け、一人の男がこちらへ歩いてくる。
邢景謙――兄の親友で、私と清河の幼馴染。
そして清河が、昔から景謙だけは気に食わないと言っている男だった。
歳は私たちとそう変わらない。
山の男にしては服も髪もきちんとしており、腰には剣を佩いている。
子供の頃から、何でも先に調べ、先に決め、そのあとで私に説明する男だった。
「氏貞」
景謙は私の前まで来ると、顔を見て、それから胸元へ視線を落とし、また顔へ戻した。
昔から胸元を見るのだけは長い。
「怪我は?」
「ないよ」
「腕を見せろ」
「どうして?」
「確認する」
「見れば分かるだろ」
清河が横から割り込んだ。
景謙はそちらを見もしない。
「今日はもう山を下りるな。槍も俺に渡せ」
「景謙、朝から命令が多いね」
「お前は放っておくと余計なことをする」
「昨日は向こうから来たんだけど」
「同じだ」
清河が鼻で笑った。
「相変わらず亭主みてえな顔しやがって。お前、いつ氏貞の亭主になったんだよ」
「いずれそうなる」
「ならねえよ!」
私が口を挟む前に話が終わった。
「私の話なんだけど?」
「氏貞は黙ってろ」
「景謙まで……」
なぜ二人とも、私のことを話す時だけ私を外すのだろう。
景謙は庭を見回すと、今度は米俵の前で止まった。
「これを一か所へ積むな。火を掛けられたら全部失う。三つに分けろ。水場から遠すぎる場所にも置くな」
近くの男たちが慌てて動き始める。
さらに地面へ描かれた山道の図を見ると、清河が置いた枝を一本取り上げた。
「見張りはここでは高すぎる。煙が目立つ。中腹へ下げろ。それから、この獣道は使うな」
「何でだよ?」
「途中が崩れているんだ。昨日見ておいた」
「……何で昨日見てんだ」
「お前たちが騒ぎを起こしたと聞いたから調べたんだが?」
清河は不満そうに黙った。
景謙は昔から、こういう時だけ腹が立つほど役に立つ。
子供の頃、私と清河が山を二つ越えて帰れなくなった時も、迎えに来たのは景謙だった。
ただし見つけた直後から一刻近く説教されたので、清河は帰り道で景謙を谷へ落とそうとした。
未遂だった。
たぶん。
「景謙、役所の動きも分かる?」
私が訊くと、彼は頷いた。
「軍安だけなら、まだ村一つの騒ぎで済んだ。だが九真の各地で徴税や人夫の徴発を拒む動きが出ている。役人を追い返した里もある。そこへ、お前のところへ人が集まり始めた」
「勝手に来てるだけだよ」
「向こうはそう見ない」
その言葉で、周囲の声が少し小さくなった。
昨日までは、来た兵を山から帰せば済むと思っていた。
けれど役所から見れば、百人を追い返した女のところへ、別の村から武器を持った人間が集まっている。
確かに、説明するとかなり悪い。
「だからこそ、趙氏貞殿を中心にまとまるべきです」
近くにいた老人が言った。
私はすぐ首を振った。
「どうして私?」
「百人を退けた」
「皆でだよ」
「人が集まる」
「勝手に来てるだけ」
「それも器です」
何を言っても褒められる。
困った。
「清河が頭でいいんじゃない?」
「嫌だ!」
返事が速かった。
「私が頭になったら、最初の三日で郡の役所まで殴り込みに行くぞ!」
「それは困るね」
「だろ!」
清河は胸を張った。
兄が小さく呟いた。
「自覚はあるんだな」
景謙はため息をついた。
「氏貞が頭でいい」
「景謙まで」
「お前なら人が集まる。集まったなら使え」
「人を道具みたいに言うな」
清河が睨む。
「戦になれば、使えるものを使わない方が死ぬ」
「まだ戦にすんなって言ってんだよ!」
「昨日百人追い返した女が言うことか」
「追い返したのは皆だ!」
また最初へ戻った。
昼前には、各地から来た者たちが地面の図を囲み、勝手に役割を決め始めた。
川沿いの里は舟を出し、山側の者は道を案内し、鍛冶ができる者は刃物を見て、運ばれてきた米は景謙の言った通り三か所へ分けられていく。
誰も「軍を作ろう」とは言っていないのに、村が少しずつ軍の形へ変わっていった。
ただ、景謙は一度全体を見回すと、私にだけ聞こえる声で言った。
「人数だけ見て安心するな。まともな槍や弓を持っている者は少ない。鎧となれば、さらに少ない。昨日みたいに狭い山道へ押し込められれば戦えるが、平地で郡兵と正面からぶつかれば持たん」
庭を見ると、槍だと思っていたものの中には、竹の先を削っただけの物も多かった。
鉈や鍬を握る手は働くことには慣れていても、兵として並んだ経験などない。
人は増えた。
けれど、兵が増えたわけではなかった。
「じゃあ、正面から戦わなければいいね」
景謙は私を見つめたあと、眉間を押さえた。
「お前は時々、簡単に難しいことを言うな」
昼を過ぎた頃、山の向こうから二十人ほどの一団が現れた。
先頭の大柄な男は、私を見るなり露骨に顔をしかめた。
「お前が趙氏貞か?」
「そうだけど」
「女じゃないか」
隣で清河が息を吸ったので、私は先に腕を掴んだ。
「まだ何もしてねえぞ?」
「する前だから止めてるの」
男は私たちを見て鼻で笑った。
「百人の呉兵を一人で退けたと聞いたが、やはり噂か」
「うん。そこはかなり膨らんでるよ」
男が少し戸惑った。
「作戦を考えたのは清河だし、皆でやったから」
清河が嫌そうにこちらを見た。
「氏貞、今それ言うな」
男は笑った。
「なら大したことはない。俺たちは女の下にはつかん」
好きにすればいいと思った。
ところが男は、食事の支度をしていた女たちを顎で示した。
「女は飯でも炊いていればいい。戦は男がやるものだ」
清河の腕が私の手から抜けた。
それより先に、景謙が前へ出た。
「今の言葉を取り消せ」
清河が止まった。
私も少し驚いた。
大柄な男が景謙を見下ろす。
「何だ、お前は」
「氏貞に用があるなら、まず俺を通せ」
清河が額を押さえた。
「出たよ、彼氏ヅラ」
「彼氏って何?」
「今そこ聞くな」
景謙は剣を抜いた。
男も刀を構える。
「景謙、別に戦わなくていいよ?」
「お前は下がっていろ」
「私が言われたんだけど?」
「だからだ」
よく分からない。
二人がぶつかった。
景謙は速かった。
最初の一太刀をかわし、相手の脇へ回り、剣を打ち込む。
けれど大柄な男は思った以上に力があり、受けた刀ごと景謙を押し返した。
二度、三度と刃が鳴る。
景謙の足が下がった。
清河の顔から笑いが消える。
「まずいな。あいつ、力負けしてる」
次の一撃で景謙の剣が大きく弾かれた。
男の刀が返る。
そのままなら肩へ入る。
私は考える前に走った。
槍の柄で刀を横から叩き、景謙と男の間へ入る。
「氏貞!」
景謙が叫んだ。
「危ないよ」
「それは俺の台詞だ!」
男は怒鳴り、今度は私へ刀を振った。
私は身を引き、槍で手首を叩いた。
刀が落ちる。
驚いた男の胸元を片手で掴み、そのまま腰を入れた。
昨日より加減したつもりだった。
男は飛んだ。
昨日の兵より少し遠かった。
「……加減、失敗した」
「そこ反省すんのかよ!」
清河が叫んだ。
男は地面へ転がり、しばらく空を見ていた。
やがて起き上がると、私の顔を見て、それから深く頭を下げた。
「……参った。あんたに従うよ」
後ろの二十人も続いて頭を下げる。
私は困った。
「今の、頭を決める勝負じゃないよ?」
「俺を倒した」
「倒したけど」
「なら文句はない」
また知らない理屈が増えた。
その横で、景謙が黙って私を見ていた。
「怪我してない?」
私が訊くと、景謙は急に笑った。
「やはり、お前は俺を放っておけないんだな」
清河が真顔になった。
「違うぞ」
「何がだ?」
「今お前が考えてること、全部違う」
「氏貞は俺を庇って前へ出た」
「幼馴染が斬られそうなら私でも出るわ!」
「お前は黙っていろ」
「だからそういうところが昔から気に食わねえんだよ!」
景謙は聞いていなかった。
むしろ、さっきまでより機嫌がいい。
私は兄を見た。
兄は首を横に振った。
「俺を見るな。あれは俺にも無理だ」
その日の夕方、ようやく騒ぎが落ち着きかけた頃だった。
山道を一頭の馬が駆け上がってきた。
乗っていた若者は泥だらけで、馬から転げ落ちるように降りると、息を切らしながら叫んだ。
「郡の兵が動いた!」
庭から笑い声が消えた。
「何人?」
私が訊く。
若者は首を振った。
「昨日の百人とは違う。軍安だけじゃない、周りからも兵を集めてる!」
景謙の顔つきが変わった。
清河が鉈を握る。
兄は目を閉じた。
若者はさらに息を吸った。
「それと、役所から触れが出た!」
「何て?」
「九真の賊、趙氏貞を討てって!」
皆が私を見た。
私は少し考えた。
「私、まだ頭になった覚えないんだけど」
山の麓から、低い軍鼓の音が響いた。
今度は噂ではなかった。
呂清河だ。
今日のベトナム文化は、年長者を敬うこと。
食事でも、年長者が先に箸をつけるのを待つことがある。
「じゃあ兄さんからだね」
「その兄貴、朝から何もしてねえのに偉い人になってたぞ」
「年長者だから?」
「お前の兄だからだよ!」
国達兄貴は兵糧を知らないと言っただけで、「むやみに口を出さない賢人」になった。
そこへ景謙が当然の顔で氏貞の隣へ座った。
「あいつには飯やるな」
「どうして?」
「勝手に亭主ヅラする奴は反省を食え!」
山の下で軍鼓が鳴った。
次回。
寄せ集めの兵、迫る討伐軍。
九真の山が、いよいよ戦場になる。
「だから文化講座を戦争アニメの予告で締めるな!」




