陸胤は負けた顔をしない
シンチャオ、趙氏貞です。
今日のベトナム語は「Tôi không hiểu.(トイ・コン・ヒエウ)」
「分かりません」という意味です。
相手の言葉が聞き取れなかった時や、説明が難しかった時に使えます。
「清河、今日は呉軍にも覚えてもらえそうだね」
「何をだよ?」
「私が三人いたら、たぶん『分かりません』って」
「お前まで三人いるつもりになるな!」
氏鳳が静かにうなずいた。
「では、できるだけ分からなくしてまいります」
「影武者が一番やる気じゃねえか!」
こうして私たちは、陸胤の前へ出た。
今度の敵は、分からないままで帰ってくれるだろうか。
東の里を助けるために、私たちは東へ向かっていた。
勝つためだけじゃない。
避難した人たちが、戦いが終わったあとに自分の家へ帰れるように、呉軍を里の手前で止める。
兄が出陣前に言ったことを、私は何度も思い出していた。
東の里へ近づくほど、人の姿が消えていく。
畑には途中まで耕した跡が残り、道の端には運びきれなかった籠まで置かれていた。
昨日までは、ここにも人がいたはずだ。
田畑を見て、飯を作って、子供を叱っていた人たちが、呉兵が来るかもしれないというだけで家を離れた。
「ちゃんと帰れるよね」
象の横を歩いていた文七が地面から目を上げた。
「帰れるようにするために来たのでしょう」
「うん」
そうだった。
私たちが負ければ、あの籠を置いた人は取りに戻れないかもしれない。
だったら、ここから先へ敵を入れたくない。
文七は再び地面を見る。
「避難は済んでいます」
「分かるの?」
「荷車の跡が西へ続いています。人の足も同じです」
「文七って、地面ばっかり見て首痛くならない?」
「氏貞殿ほど右へ寄らないので大丈夫です」
「そこ関係ある?」
後ろから清河の声が飛んできた。
「あるんじゃねえか?」
「清河まで!」
左へ回るはずなのに、まだいた。
「そろそろ行きましょう!」
文七にまで言われた。
「分かってるよ!」
清河は自分の象の向きを変えながら、私を指さした。
「氏貞! 勝手に前へ出んなよ!」
「清河もね」
「あたしは出る!」
「駄目じゃない?」
「うるせえ!」
そのまま左の林へ消えていった。
元気だった。
氏鳳の姿はもう見えない。
東へ回り、別の道から里へ入ることになっている。
何日も隣にいたせいか、見えなくなると少し変な感じがした。
「氏貞殿」
「うん」
「前を」
文七に言われて前を見る。
東の里の屋根が見えていた。
その向こうに、旗がある。
赤い布が風に揺れ、その下で槍の穂先が光った。
呉軍だった。
あれを里へ入れない。
急に、兄の言葉が地図の上の話ではなくなった。
「来てるね」
「来ています」
「いっぱい?」
「いっぱいです」
そこはもう少し詳しく知りたかった。
道の脇から弘公が現れた。
いつからいたのか分からない。
「正面に五百ほど。後ろにまだいます」
今度は南から美公が戻る。
「南にも兵がいますが、前へ出てきません」
最後に成公が北側の木立から顔を出した。
「北も同じです。こちらを待っています」
三人そろうと、やっぱり安心する。
「兄さんの言った通りだね」
弘公がうなずく。
「里を取るだけなら、もっと前へ出ています」
美公が呉軍の後ろを見る。
「こちらの数を見たいのでしょう」
成公も続けた。
「動きも」
私は少し嫌な感じがした。
「見られてるの?」
三人がそろって呉軍を見る。
「おそらく」
「かなり」
「見られています」
三人で言わなくてもよかった。
文七の視線が遠くへ動いた。
正面の兵より、もっと後ろ。
低い丘の上に、ひときわ大きな旗が立っている。
「あそこです」
「何が?」
「指揮をしている者がいます」
私は目を細めた。
遠すぎて顔なんて分からない。
でも、兵が動くたびに、あの旗の近くから音が返ってくる。
太鼓。
旗。
また太鼓。
「陸胤かな」
「可能性はあります」
文七は断言しなかった。
その方が怖かった。
分からないものを、分からないまま見ている顔だった。
正面の呉兵が動き出した。
一気には来ない。
前の列だけが進み、その後ろは止まっている。
「少ないね」
「試しています」
弘公が言った。
「何を?」
「我々がどう出るかを」
ちょっと腹が立った。
「じゃあ、教えない方がいい?」
美公が笑う。
「全部は」
成公が槍を持ち直す。
「教えなくていいでしょう」
三兄弟が別々の方向へ散った。
正面から見ると、人数が減ったように見える。
呉兵がさらに進んでくる。
私は象を前へ出そうとした。
文七が象の脚元へ手を上げる。
「少し右です」
「また?」
「今度は氏貞殿ではなく、地面です」
それなら仕方ない。
象を右へ寄せる。
中央は乾いて見えたのに、少し沈む。
「本当だ」
「ここで象の脚を取られると、敵より先に転びます」
「それは嫌だね」
「私も嫌です」
呉兵との距離が縮まる。
槍を構えた兵がこちらを見る。
私は胸当ての紐を確かめた。
怖くないわけではない。
でも、後ろには東の里がある。
私が下がれば、その分だけ敵が家へ近づく。
そう思うと、さっきまで胸の中にあった怖さの形が変わった。
その時、左の林から叫び声が上がった。
「うおおおおおっ!」
聞き覚えがありすぎた。
「清河だ」
「清河殿です」
呉兵の左側へ、黄色い服の女が象ごと飛び込んでいく。
二本の刀が光った。
「麗海婆王だ!」
敵の誰かが叫ぶ。
私は手を上げようとした。
文七に下げられた。
「今日は教えなくて結構です」
「まだ何も言ってないよ?」
「言う顔でした」
清河の象が左を荒らす。
呉兵がそちらへ向きを変えた。
でも、全部は動かない。
前の列の半分だけが清河へ向かい、残りは私の前にいる。
「前より落ち着いてるね」
「指揮されています」
文七の言葉通りだった。
以前なら、麗海婆王が横から出ればもっと大きく崩れた。
今日は違う。
兵が勝手に清河へ殺到しない。
後ろの旗が動くたび、前の兵まで動きが変わる。
そこへ東側から別の声が上がった。
「麗海婆王!」
氏鳳だ。
林の向こうに金色が見えた。
象の上で、氏鳳が槍を持っている。
私と同じくらいの背丈。
黄色い衣。
金色の鎧。
遠くから見れば、やっぱり目立つ。
呉軍の一部がざわついた。
「またいるぞ!」
「三人だ!」
「どれだ!」
清河が遠くから怒鳴った。
「全部だと思っとけ!」
「清河、それ余計分からなくなるよ!」
届いているか分からないけど、とりあえず言った。
氏鳳は清河みたいに突っ込まない。
東側の少し高い場所で止まり、敵から見えるところだけを選んで動いている。
私が手を上げると、遠くの氏鳳まで同じように手を上げた。
「今やるの?」
文七が少しだけ笑った。
「効果はあります」
本当にあった。
敵の旗が一度止まった。
正面の兵もこちらを見る。
東の兵は氏鳳を見る。
左では清河が暴れている。
「麗海婆王はどこだ!」
敵の声が飛ぶ。
私はまた手を上げそうになった。
文七が先にこちらを見た。
「言いませんよ」
「まだ何も」
「顔に出ています」
今日はよく顔を読まれる。
敵が氏鳳へ兵を回した。
少しだけ。
兄の言った通りだ。
その分、私の正面が薄くなる。
「今?」
弘公が木立の向こうから手を上げた。
文七がうなずく。
「今です」
私は象を前へ出した。
正面の呉兵が槍を構える。
象が一歩進むだけで、前列が下がった。
「行くよ!」
声を上げる。
後ろの兵が続いた。
呉兵はすぐには崩れなかった。
槍を揃え、象の進路を止めようとする。
でも、右から弘公。
少し遅れて南から美公。
さらに北側へ回っていた成公が、退く兵の横へ姿を見せた。
同じ場所へ三人そろって突っ込まない。
一つが動けば、別の場所から次が来る。
敵が正面を固めれば側面が薄くなり、側面へ向けば私の象が前へ出る。
清河は左で好き勝手やっている。
「追いすぎるなって言われたでしょ!」
「まだ追ってねえ!」
絶対追う声だった。
呉軍の太鼓が鳴った。
今度は音が違う。
前の兵が一斉に下がった。
「逃げた?」
「違います」
文七が即答した。
「退いています」
確かに、走っていない。
列を崩さず、交代しながら下がっている。
清河が追おうとした。
「待て!」
弘公が叫ぶ。
美公も手を上げる。
成公が北側から退路を指した。
清河は嫌そうな顔をしたけれど、象を止めた。
「ちっ」
「兄さんに怒られるよ」
「分かってる!」
呉軍はそのまま距離を取った。
東の里へ入ってこない。
私たちは追わない。
しばらく、お互いに見ていた。
勝ったのだと思う。
少なくとも、東の里には一人も入れなかった。
あの畑も、家も、道端に残された籠も、まだここにある。
避難した人たちは帰ってこられる。
それだけは守れた。
でも、今までの勝ち方とは違う。
敵は壊れていない。
ただ、自分から退いただけだった。
文七も同じことを考えているらしい。
「氏貞殿」
「うん」
「あれは、また来ます」
「私もそんな気がする」
遠くの丘を見る。
大きな旗はまだ残っていた。
◇ ◇ ◇
陸胤は退く兵を責めなかった。
予定より早く崩れた隊もある。
象を前にして足が止まった者もいた。
だが、それで十分だった。
「三人、か」
近くにいた将が答える。
「はい。麗海婆王が三か所に現れました」
「三人とも同じだったか?」
将は言葉に詰まった。
陸胤は戦場へ目を戻す。
左の一人は分かりやすい。
二刀を使い、前へ出ることを恐れない。
あれは別人だろう。
問題は残る二人だった。
一人は正面で象を進めた。
もう一人は東で、金色の鎧を光らせている。
体格も衣の色も近く、遠目には仕草まで似ていた。
片方が手を上げると、もう片方も同じように上げたという報告まである。
「どちらが趙氏貞です?」
部下が聞いた。
陸胤はしばらく答えなかった。
「分からん」
将が驚いて顔を上げる。
「しかし――」
「分からんものを、分かったふりをする必要はない」
陸胤は淡々と言った。
「今日はそれでいい」
東の里は取れなかった。
趙氏貞の軍も崩せなかった。
それでも、見えたものはある。
象は足場の悪い場所を避け、李氏三兄弟は一か所に固まらず、時間をずらして側面へ現れた。
左から突っ込んだ二刀の女だけは動きが明らかに違う。
それでも、残る二人の麗海婆王だけは見分けがつかなかった。
陸胤は最後まで、その二人を見ていた。
「次は、里ではなく道を見る」
将が眉を寄せた。
「道、ですか?」
「戦えば勝つと思っているうちは、何度でも出てくる」
陸胤は馬の向きを変えた。
「ならば、出てくるたびに何かを失わせればいい」
東の里の向こうで、勝ち鬨が上がった。
その声を背に、陸胤は退いた。
氏貞たちは勝った。
けれど、この男は――負けた顔をしていなかった。
呂清河だ。
ベトナムでは、人を指で差すのは避けた方がいい。
誰かを示したい時も、指先を突きつけるより、手のひらでそっと示す方が無難だ。
「じゃあ清河、氏鳳はどっち?」
「そこにいるだろ!」
「指差しちゃ駄目なんでしょ?」
「今だけ妙に素直だな!」
氏鳳が私の隣へ並んだ。
「では、陸胤殿にも指差さずに選んでいただきましょう」
「選べねえから困ってんだよ!」
結局、今日も呉軍には分からなかった。
だが次は、私たちではなく道を見るらしい。




