影武者は今日も離れない
シンチャオ、趙氏貞です。
今日のベトナム語は「Tôi bị lạc.(トイ・ビ・ラック)」
「道に迷いました」という意味です。
旅先で道が分からなくなった時、近くの人に助けを求めるきっかけになります。
「私も覚えておいた方がいいかな?」
「絶対覚えとけ。お前、真っすぐ歩いてるつもりで右へ寄るからな」
「迷ってないよ?」
氏鳳が私の隣へ並んだ。
「では、私も同じように右へ寄ります」
「影武者まで一緒に迷うな!」
最近は、こんなふうに三人でいることが増えた。
ただ、それを毎日のように見ている人がいるらしい。
「氏鳳、人気だね」
「だから違うって言ってんだろ!」
氏鳳が私の最側近になってから、景謙はずっと彼女を見ていた。
もちろん、そのことを私は知らなかった。
朝起きると、氏鳳が隣で髪を結んでいる。
私も髪を結んでいると、途中で氏鳳の手が止まった。
「氏貞様、今日は昨日より少し高いです」
「何が?」
「髪を結ぶ位置です」
鏡なんてないので、自分では分からない。
「そうなの?」
「指一本ほど」
「そんなに見てるの?」
「影武者ですから」
そこへ清河が入ってきた。
氏鳳と同じ部屋で寝るようになってから、朝になると清河まで当たり前のように入ってくる。
「飯だぞ……って、お前ら朝から何やってんだ?」
「髪」
「見りゃ分かる!」
氏鳳が私の後ろへ回り、結び目を確かめた。
「昨日と同じ高さに戻しましょうか?」
「今日のままでいいよ」
「では私も上げます」
「お前はどっちなんだよ!」
清河は朝から元気だった。
外へ出ると、文七が象を見ている。
脚から爪、耳、鼻まで順番に確かめ、最後は地面へ落ちた糞まで眺めていた。
「今日も大丈夫?」
「今のところは」
「今のところ?」
「象ですから」
便利な言葉だと思う。
少し離れたところでは、弘公、美公、成公が蒲田の外を見回っていた。
兄が氏鳳を最側近にしてから、三人は私のすぐ近くではなく、道や森の入口を守ることが多くなっている。
それでも私が外へ出ると、いつの間にか一人ずつ戻ってきた。
「東、異常なし」
弘公が言う。
美公も続く。
「南もありません」
最後に成公。
「北も静かです」
私は三人を見回した。
「西は?」
三人がそろって兄の方を見る。
兄は米俵を数えていた。
「俺がいる」
「兄さん、西担当なの?」
「違う」
やっぱり違った。
敵は来なかった。
交趾の方では陸胤という男が動いているらしく、兄は見張りを増やし、三兄弟には周辺の道を何度も確かめさせていた。
誰も気を抜いてはいない。
それでも一日が終われば、また朝が来る。
戦だけをして生きているわけにもいかない。
兵は槍を直し、女たちは米を研ぎ、子供たちは大人に怒られない場所を探して走り回る。
私は文七と象を見に行き、清河に訓練へ連れ出される。
そして氏鳳は、そのほとんどについてきた。
歩けば歩幅を合わせ、立ち止まれば私がどちらの足へ重心を置いているのかを見る。
誰かの話を聞きながら私が首を傾ければ、隣でも同じ角度に氏鳳の首が傾いた。
最初は面白かった。
今も面白い。
「氏鳳」
「はい」
「二人で同じことすると、清河が怒るね」
「はい」
二人で清河を見る。
「こっち見んな!」
やっぱり怒った。
昼になると、今度は三人で影武者の訓練をする。
私と氏鳳が並び、少し離れた場所から清河が眺めた。
「どう?」
清河は腕を組む。
「止まってりゃ、まあ似てる」
「顔は?」
「似てねえ」
「じゃあ駄目じゃない?」
「戦場で顔なんかじっくり見てる暇あるかよ。黄色い服着て、同じくらいでかくて、象の上にいりゃ十分だ」
氏鳳は金色の鎧を着けたまま、自分の胸元を見下ろした。
「鎧も違います」
「そこは遠目なら金色でいいだろ」
「氏貞様は胸当てです」
「敵がそこまで見分けたら褒めてやるよ!」
私は少し考えた。
「近くまで来たら分かるんだね」
「近くまで来させんな!」
次は歩いてみることになった。
私が十歩進み、氏鳳が後を追う。
清河の顔が途中から険しくなった。
「氏鳳、お前の方が歩き方きれいだな」
「直しましょうか?」
「どっちを?」
「私を」
「氏貞を直せ!」
「私?」
なぜか私が怒られた。
しかも氏鳳は、その日のうちに私が真っすぐ歩いているつもりでも、ときどき右へ寄っていくことまで見つけた。
「道が曲がってるんじゃない?」
清河が足元を見る。
「真っすぐだ」
「氏鳳は?」
「氏貞様が寄っています」
二対一だった。
そんな日が何日か続いた。
朝は同じ部屋から出て、食事になれば隣に座る。
軍議でも氏鳳は私のそばにいて、終われば一緒に外へ出た。
そこへ清河まで自然に混ざるようになり、気づけば三人で歩いている時間が増えていた。
その間、景謙は何度もこちらを見ていたらしい。
最初に気づいたのは私ではなく、氏鳳だった。
水を飲んでいる時、氏鳳の視線が私の肩越しへ流れた。
「氏貞様」
「なに?」
「景謙殿が、またこちらを見ています」
振り返ろうとしたら、清河に頭を押さえられた。
「見るな」
「なんで?」
「お前は気づいたらすぐ見るからだよ」
「見ないと分からないよ」
「今、氏鳳が教えただろ!」
仕方なく水を飲む。
「氏鳳のことが気になるのかな」
「またそれかよ」
「だって、よく見てるんでしょ?」
氏鳳は少し考えてから首を傾けた。
「私だけではないようです」
「じゃあ清河?」
「なんであたしが出てくる!」
「私も?」
「氏貞様がお一人の時より、私たちが一緒にいる時の方がよく見ています」
私は清河を見る。
清河はますます嫌そうな顔になった。
「……お前ら、あいつの前で変なことしてねえだろうな」
「髪を結んだ」
「歩いた」
「飯食った」
「全部普通じゃねえか!」
氏鳳が真面目な顔で付け加える。
「寝返りも確認しました」
「それを外で言うな!」
清河の声が蒲田中に響いた。
少し離れたところで兄が顔を上げる。
「何だ?」
「何でもねえ!」
兄はまた米俵へ戻った。
私は声を落として氏鳳に聞いた。
「景謙、ずっと見てたの?」
「数日前から、よく同じ場所にいます」
「氏鳳も見てたんだ」
「護衛ですので」
清河が氏鳳と景謙のいた方を交互に見る。
「監視してる奴が監視されてんじゃねえか?」
ちょっと面白かった。
その日の軍議でも、敵が近づいたという報告はなかった。
兄は地図を見ながら、東西の里との連絡だけは絶やさないよう三兄弟へ言いつけた。
「何も起きない時ほど道を見ろ。敵が来てから調べても遅い」
三人がそれぞれうなずく。
文七は窓の外へ目を向けていた。
「鳥は戻っています」
「それっていいこと?」
「少なくとも、近くに大勢の兵はいません」
私は少し考えた。
「文七は鳥とも話せるの?」
「話してはいません」
「じゃあ聞いてるだけ?」
「見ています」
清河が吹き出した。
「お前、文七を何だと思ってんだ?」
「便利な人」
文七が否定しなかったので、たぶん合っている。
氏鳳も隣で笑った。
最近は、こうして笑うことが増えた。
最初に会った時は、もっと固い人だったと思う。
軍議が終わると、清河が私の腕を引いた。
「氏貞、飯行くぞ」
「氏鳳も」
「最初から来るだろ」
氏鳳は当然のようについてくる。
三人で並んで歩き始めると、私は少し嬉しくなった。
戦が始まってから、誰かと一緒にいる時間は増えた。
でも、いつも戦の話ばかりだった。
今は清河が夕飯の魚が小さいと文句を言い、氏鳳はまだ私の歩き方を見ている。
二人がそこまで気にする理由は、半分くらい分からない。
それでも楽しかった。
「氏貞、また右寄ってるぞ」
「道が悪いんだよ」
氏鳳が地面を見る。
「真っすぐです」
「氏鳳まで清河の味方するの?」
「事実です」
「二人ともひどいね……」
清河が笑った。
◇ ◇ ◇
その後ろから、景謙は三人を見ていた。
氏鳳の隙を探し始めてから、すでに何日も経っている。
だが、分かったのは隙ではなかった。
氏鳳は朝から氏貞のそばを離れず、食事にも軍議にも付き添い、移動する時まで一緒だった。
呂清河は幼馴染という立場を使う必要さえなく、氏貞の腕を引き、怒鳴り、勝手に隣へ座る。
范文七は象と戦場のことしか見ていないようで、氏貞が呼べばすぐそばへ来る。
李氏三兄弟は近くに立たなくなった代わりに外側の道を固め、その配置を決めた趙国達は、それを当然のものとして扱っている。
氏鳳だけを見ているうちに、氏貞の周囲には役割が出来上がっていた。
自分が入る場所だけがない。
柱へ置いた指に、少しずつ力が入った。
氏鳳さえいなければ。
そう思ったところで、景謙は違うと気づいた。
氏鳳を退けても清河がいる。
文七は氏貞が呼べばすぐそばへ来るし、三兄弟は外側を固め、そのすべてを国達が当然のように動かしている。
一人を退ければ済む話ではなかった。
なら、氏貞自身が自分の言葉を聞くようにならなければならない。
どうすればいい?
あの女が、自分からこちらを見るようにするには……
答えはまだ見つからない。
夕暮れの向こうでは、氏貞と清河と氏鳳がまだ何か話している。
笑い声まで聞こえた。
景謙は目を逸らさなかった。
その時、蒲田の門の方が急に騒がしくなった。
一人の男が、息を切らして駆け込んでくる。
門番の声が飛んだ。
「東の里から使いです!」
笑っていた三人が、一斉に振り返った。
呂清河だ。
ベトナムを旅するなら、人の頭を気軽に触るのは避けた方がいい。
頭を叩いたり撫でたりするのを失礼に感じる人もいるし、特に年上の相手には気をつけろ。
「じゃあ清河、私の頭を押さえたの駄目だったんじゃない?」
「お前が景謙の方を振り向こうとしたからだ!」
氏鳳が氏貞の頭をじっと見る。
「では私も、氏貞様の頭には触れないようにします」
「見るだけならいいって話でもねえぞ!」
「髪の結ぶ位置は確認します」
「そこはやめねえのかよ!」
そんな三人を、今日も景謙が見ていた。
次回――東の里に、呉から二度目の使者が来る。




