麗海婆王が三人いる
シンチャオ、趙氏貞です。
今日のベトナム語は「Nhà vệ sinh ở đâu?(ニャー・ヴェ・シン・オー・ダウ?)」
「トイレはどこですか?」という意味です。
旅行中、急に必要になった時はかなり大事なので覚えておくと安心です。
「清河、戦の途中でも使えるかな?」
「使う状況になる前に済ませとけ!」
「でも敵が来てるし」
「だから今から行くな!」
そう言われても、北の森から高涼兵がぞろぞろ出てきている。
しかも今日は、私が三人いるらしい。
「最後の方がおかしいだろ!」
私もそう思う。
北の森から旗が増えた。
一本や二本ではない。
木々の間を埋めるように高涼兵の旗が現れ、その下から槍の穂先が次々に突き出してくる。
私は数えようとして、三十を越えたところでやめた。
「清河、たくさんいるね」
「見りゃ分かる!」
二本の刀を抜いた清河が、象の上から怒鳴り返してくる。
「感想言ってる場合か!」
「数えようと思ったんだけど」
「やめろ! その間に来る!」
その通りだった。
高涼兵の前列が森を抜け、北側の細い道へ雪崩れ込んでくる。
西の里へ直接入る道ではない。
その先には、西へ抜ける本道へ合流する北側の桟道があり、あそこを取られれば敵に西への道を押さえ込まれる。
退路を失うだけではなく、林邑からの援助も、外からの知らせも届かなくなる。
「絶対に通さないよ」
私が言うと、清河が横目で見た。
「珍しく分かってんじゃねえか」
「さっき分かったから」
「自慢するな!」
なぜか怒られた。
范文七は私たちの会話を聞いているのかいないのか、象の耳の動きと足元の土ばかり見ている。
「氏貞殿、正面から行かないでください」
「どうして?」
「道が狭いです。象が止まれば後ろも止まります」
「じゃあ横?」
文七が右手を上げ、田の縁を指した。
「右です。あそこだけ土が固い」
私には何もない畦にしか見えない。
でも文七が言うなら、たぶん何かある。
「清河、右から行くよ」
「あたしは左だ!」
「今、右って」
「同じとこ行ったら影武者の意味ねえだろ!」
清河は返事を待たず、象の頭を左へ向けた。
そうだった。
清河は影武者なのだから、最近は本人より勝手に動く。
「氏貞殿」
いつの間にか弘公が私の横へ来ていた。
少し離れて美公と成公もいる。
「北側は我らで当たります」
「三人一緒?」
三人が顔を見合わせた。
「一緒では」
「ありません」
「順番です」
また始まった。
「分かった。たぶん」
理解するのは諦めた。
その時、里の柵の内側で金色がひらめく。
黎氏鳳だった。
黄色い衣の上から金色の鎧を締めた姿は、遠目なら本当に私そのものに見える。
本人である私が見ても、少し腹が立つくらいかっこいい。
「氏鳳、里にいて!」
「無理です!」
即答だった。
「どうして!」
「兵が足りません!」
たいへん正しい。
「でも影武者なら里に」
「影武者だから出ます!」
そっちも正しい。
どうしよう……
左へ向かったはずの清河から怒鳴り声が飛んできた。
「考えてる暇ねえぞ! そいつにも別口持たせろ!」
「氏鳳、別口!」
「承知しました!」
決めるのも早い……
氏鳳は里の兵を二十ほど集めると、迷わず北東へ走った。
私が右へ回る一方、清河は左へ抜け、氏鳳はさらに別方向へ兵を連れていく。
高涼兵の先頭が止まった。
「麗海婆王だ!」
誰かが叫んだ直後、別の場所からも声が上がる。
「こっちにもいるぞ!」
「さっき西にいた!」
「今は東だ!」
私は象の上で首を傾げた。
「文七、私、速いね」
「そういうことにしておきましょう」
敵が勝手に困ってくれるなら、その方がいい。
右側の畦へ象を入れると、本当に足が沈まなかった。
文七は前方の藪を見たまま、わずかに顔を傾ける。
「三十歩先に槍兵が集まります」
「まだ見えないよ?」
「来ます」
数歩進んだところで、藪の向こうから高涼兵が飛び出した。
本当に槍兵が集まっていた。
「文七、見えてた?」
「音です」
「何の?」
「足です」
また分からない。
でも便利だった。
私は象を止めず、そのまま槍の列へ向かった。
正面から入れば危ないので、少し斜めへ寄せる。
敵が槍先をこちらへ向けた瞬間、横から弘公の兵が食いついた。
そちらへ向いたところへ美公が反対側から入り、さらに向き直ろうとした後ろを成公が叩く。
三人は一度も並ばない。
なのに、敵からすれば、どちらを向いても誰かいる。
隊列を作り直そうとするたび別の場所から崩されるのを見て、私は思わず顔をしかめた。
「嫌だね」
気づけば、弘公がすぐ近くまで戻ってきていた。
「ありがとうございます」
「褒めてないよ」
「存じています」
知ってた。
左側では清河がもっとひどかった。
象で敵の列を割り、二刀を振り回しながら味方まで煽っている。
「前出ろ! 止まったら囲まれるぞ!」
その声に味方が前へ出れば、敵も押し返そうと前へ出る。
すると清河は、そのさらに前へ出た。
「清河が一番前なんだけど」
「いつものことです」
文七は驚きもしなかった。
北東では氏鳳の金色の鎧がちらちら見える。
こちらほど派手には動かず、一度場所を決めると、そこからほとんど動かない。
敵が寄れば槍で落とし、味方が崩れそうな時だけ少し前へ出るが、それ以上は追わない。
「氏鳳、動かないね」
文七の視線が北東へ流れた。
「動かなくていい場所を選んでいます」
「清河と逆だね」
「かなり」
本人に言ったら怒りそうだ。
高涼兵の本隊が北からさらに押してきた。
数だけなら、こっちよりずっと多い。
けれど道が狭く、一度に前へ出られる人数には限りがある。
先頭が止まれば、その後ろまで詰まる。
そこへ李氏三兄弟が順番に食いつき、清河が左から蹴散らす。
氏鳳が北東を止め、私は右から押す。
高涼兵は、三方向へ兵を割らなければならなくなった。
「麗海婆王はどこだ!」
敵の怒鳴り声が聞こえた。
私は手を上げた。
「ここだよ」
「氏貞殿!」
文七に腕を下ろされた。
「なんで?」
「教えないでください」
「また?」
「またです」
気をつけよう。
でも、たぶん忘れる。
敵の中央で角笛が鳴り、前列が一度引いた。
清河がすぐに追おうとする。
「清河、待って!」
「何だ!」
「文七が嫌な顔してる!」
「それで通じるのかよ!」
そう、通じた。
清河が象を止めても、文七は北の森から目を離さない。
「もう一列います」
「まだ?」
「はい……ただ、前が詰まっています」
私は森を見る。
敵は多い。
多すぎるせいで、後ろの兵が前へ出られない。
「じゃあ、今なら?」
文七がようやく私を見た。
「押せます」
それだけで十分だった。
「弘公!」
「はい」
「美公!」
「おります」
「成公!」
「ここに」
三人とも近い。
ちょっと怖い。
「押すよ!」
返事は一つではなかった。
でも、動きは揃った。
弘公が先に中央へ入り、敵がそちらへ兵を寄せたところで美公が北東へ回る。
成公は反対側から敵の退路を狭めたが、完全には閉じなかった。
逃げられる道を、一つだけ残している。
「逃がすの?」
私は弘公を見た。
「全部囲めば、死ぬまで戦います」
弘公の視線は、敵が流れ始めた細道へ向いたままだった。
「逃げられる方がいい?」
「はい」
それなら分かる。
死ぬまで戦われるより、帰ってもらった方がいい。
「清河! 帰ってもらうよ!」
「言い方が軽い!」
そう言いながら、清河が一番激しく追い立てた。
氏鳳も、それまで北東を支えていた一隊を前へ出し、高涼兵の横を押す。
敵からすれば、黄色い衣に金色の鎧を着た大女が、また別方向から現れたことになる。
一瞬、敵の足が止まった。
「今!」
誰が言ったのか分からない。
味方が一斉に押した。
高涼兵の前列が崩れて後ろへ下がると、その動きがさらに後方まで伝わっていく。
道が狭いせいで、いったん退き始めれば、今度は止まれない。
角笛が何度も鳴った。
今度は本当に後退だった。
「追うな!」
弘公の声が戦場を切った。
清河だけが少し追った。
「清河!」
「分かってる!」
分かってない人の返事だった。
それでも象を止めた。
高涼兵は北の桟道へ流れ、森の奥へ消えていく。
私たちは勝った。
けれど、誰も勝鬨を上げなかった。
泥だらけの里長が、北を見たままこちらへ歩いてきたからだった。
「麗海婆王」
「はい」
「あの桟道を焼きます」
私は北を見た。
「焼くの?」
「あれを残せば、また来ます」
確かに来る。
でも、あれは敵の道ではない。
この里の人たちが造り、使ってきた道だ。
「困らない?」
「困ります」
里長には迷いがなかった。
「でも、敵が来る方がもっと困ります」
それもそうだった。
氏鳳が私の隣へ来た。
金色の鎧は泥と傷だらけになっている。
「北の桟道は、里の者が造った道です」
「うん」
「なら、閉じるのも私たちが決めます」
私は少し考えた。
ここで私が駄目と言う方がおかしい。
「分かった」
里の男たちはすぐに動いた。
桟道の手前へ乾いた薪や藁を運び、油を染み込ませる。
昨夜の雨で濡れた場所を避け、柱の根元や板の裏へ火種を仕込んでいく手つきに迷いがない。
清河が眉を上げた。
「ずいぶん手際いいな」
「いつか焼くかもしれんと思っていました」
里長は、火の支度をする男たちから目を離さなかった。
「準備してたのかよ」
「陸胤が来てからはな」
笑えない話だった。
最後に北側へ残っていた見張りが戻ると、氏鳳が人数を数え始めた。
「全員います」
「本当に?」
清河が横から覗き込む。
「三度数えました」
「お前、そういうとこ真面目だな」
「清河殿は?」
「一回で分かる!」
「では数えてください」
「なんであたしが!」
この二人、やっぱり気が合うんじゃないかな?
そんな会話をしているうちに、火が入った。
最初は小さかった炎が板の裏へ回り、やがて柱へ移っていく。
煙が上がり、北側の桟道を赤い火が這った。
高涼兵が奥から戻ってくる気配はない。
一本の支柱が燃え落ちると、それに支えられていた板が大きく傾き、続いて桟道の一部が谷側へ崩れ落ちた。
清河が腕を組んだ。
「これで簡単には来られねえな」
「うん」
私は燃える桟道を見た。
西へ抜ける本道は残っている。
北からそこへ入り込む道だけが、炎の向こうで消えていく。
逃げ道を守るために、道を一つなくした。
兄が聞いたら、たぶん「米の道だけは残せ」とか言う。
「氏貞様」
振り向くと、氏鳳がそのままの格好で立っていた。
「何?」
「私は氏貞様についていきます」
思わず氏鳳を見つめる。
黄色い衣も金色の鎧も汚れているのに、それでも遠くからなら私に見える。
でも近くで見ると全然違った。
私より落ち着いていて、じっとしていられる。
たぶん清河より、話も最後まで聞いてくれそうだ。
「本当? ありがとう」
「北側の桟道もなくなりましたし、西の里もしばらくはあちらから攻め込まれません」
「じゃあ、一緒に帰れるね」
「はい」
清河が私の顔を見て、嫌そうに眉を寄せた。
「……氏貞」
「なに?」
「嬉しそうだな」
「うん」
「即答かよ」
だって、もう一人の私みたいな人が一緒に来てくれるのだ。
心強くないはずがない。
この時の私は、兄が氏鳳を見た途端、もっと面倒なことを言い出すとは思っていなかった。
呂清河だ。
今回のベトナム文化講座は、カフェ。
ベトナムじゃ、コーヒー一杯で友達と喋ったり、通りを眺めたりして、のんびり過ごすことも珍しくない。
暑い中を歩いた旅行者にはありがたい休憩場所だ。
「私は練乳入りがいいな」
「戦の後に即甘い物かよ」
「では私も氏貞様と同じものを」
「影武者は飲み物まで合わせなくていい!」
「清河は?」
「あたしは黒いのでいい」
「苦いよ?」
「知ってる!」
氏鳳が私の杯を見た。
「無理をなさっていませんか?」
「お前、もうあたしまで護衛する気か!」
そんな氏鳳を蒲田へ連れて帰った。
次回――兄貴は、氏鳳の顔を見るなり、もっととんでもないことを言い出す。




