本物が来るまで
シンチャオ、趙氏貞です。
今日のベトナム語は 「Xin chờ một chút.(シン・チョー・モッ・チュッ)」
「少し待ってください」という意味です。
お店や移動中など、相手にちょっと待ってほしい時に使えます。
「清河、少し待って」
「今度は何だ!」
「西の里に、もう私がいるらしい」
「……は?」
「だから、本物の私が着くまで待ってもらおうかなって」
「待て。そこから説明しろ!」
私も説明してほしいです。
西の里では、陸胤に降らず、ずっと私たちを待っている人たちがいます。
ところが、その中には私までいるそうです。
「氏貞」
「なに?」
「お前、また増えたのか?」
「私に聞かないで」
では、本物が着くまで――もう少しお待ちください。
「麗海婆王なら、もう西の里にいます!」
馬から転げ落ちそうになった使者がそう言ったので、私は象の上で自分の身体を見下ろした。
ちゃんとある。
手も脚もあるし、金の胸当ても着けている。
「文七、私、ここにいるよね?」
「います」
「じゃあ、西にいる私は誰?」
「それが分かれば苦労しません」
黒い狼煙はまだ西の空へ伸びていた。
昨夜の雨が残した泥を踏みながら、象は重たそうに道を進んでいる。
急がせたいけれど、ここで脚を傷めれば、あとで困るのは私たちだった。
そのことを一番よく知っている文七は、象の耳や足取りを見ながら速度を決めている。
私が急げと言っても、文七は駄目なら駄目と言う。
たいへん便利だった。
「使者さん、西の里はまだ持ち堪えてる?」
「はい、弘公殿が西口を守っています。ただ、高涼の兵が増えています」
「里の人たちは?」
「降りません」
使者は、そこだけは迷わなかった。
「陸胤の使いがまた来ました。従えば兵を退く、これまでのことも問わぬと。それでも里長が追い返しました」
私は前を見た。
あの里は、これまでも陸胤の話を断っている。
そして西へ抜ける道を押さえていた。
前に兄が地図を広げながら、珍しく米以外の話を長くしたことがある。
――西が落ちたら、お前たちは逃げる場所までなくなるぞ。
その時は「逃げる前提なの?」と訊いたら、兄に怒られた。
逃げ道は、逃げるためだけにあるんじゃないらしい。
兵糧を運ぶにも、怪我人を下げるにも、別の里へ知らせを送るにも、道がいる。
西の里が陸胤へ降れば、蒲田から西へ伸びる道は塞がれる。
「だから弘公を送ったんだね」
「今、気づいたんですか?」
「うん」
文七が少し黙った。
「趙国達殿には言わない方がいいでしょうね」
「怒るかな?」
「米俵より重い話になります」
それは困る。
やがて里の柵が見えた。
その前で人が入り乱れている。
高涼兵は正面から押し込もうとしていたが、雨で柔らかくなった田へ踏み込めば足を取られる。
弘公は道の狭いところへ兵を集め、数の差を殺していた。
その後ろに、金色の鎧が見えた。
背の高い女で、私とほとんど変わらない。
黄色い衣をまとい、長槍を振り回している。
「……誰?」
私が言うと、文七も首を傾げた。
女は敵兵を追い払ってからこちらを向いた。
金色の鎧は、私の胸当てよりずっと重そうだった。
胸元まで固く締めていて、大きな胸も動かないよう鎧の内側へ押さえ込んでいる。
見た目より、戦いやすさを優先した着方だった。
ただし、遠くから見れば私である。
困ったことに、かなり私だった。
女は私を見つけると目を輝かせた。
「麗海婆王!」
「はい」
「本物だ!」
「たぶん」
「たぶんなんですか!?」
だって、向こうにも私がいた。
弘公が敵を押し返して戻ってきた。
「氏貞殿、ご無事で」
「弘公も。ところで、あの人は?」
「麗海婆王です」
「私もだよ?」
「ですから三人目です」
「清河も数えてる?」
「当然です」
説明になっていない。
女が槍を持ったまま駆け寄ってきた。
「お会いするのは二度目です!」
私は顔を見て、もう一度見た。
やっぱり知らない。
「ごめんなさい……誰?」
女の顔が固まった。
「以前、麗海婆王が増えた時、私も影武者になっていました!」
「あっ……あの時?」
「はい!」
あの時は、黄色い服を着た女があちこちにいた。
私は人数まで覚えていない。
「たくさんいたから……」
「そこは覚えていてください!」
「ごめんなさい……」
女は肩を落としたが、すぐに槍を立て直した。
「私の名は黎氏鳳です」
「氏鳳」
「はい!」
「初めまして」
「二度目です!」
面倒な人だった。
たぶん清河と話が合う。
氏鳳はもともと西の里の人間だったらしい。
以前の影武者策に加わったあと里へ戻り、高涼兵が近づいたので、また黄色い衣と金色の鎧を引っ張り出したのだという。
「どうしてまた私の格好を?」
「里の者が安心します」
その答えで、私は笑えなくなった。
鳳は簡単に言ったけれど、そのために敵から真っ先に狙われる。
「怖くない?」
「怖いですよ」
「そうなんだ」
「怖くない人なんているんですか?」
私は少し考えた。
清河なら「いるわけねえだろ」と怒るだろう。
「じゃあ、どうして?」
氏鳳は里の方を振り返った。
「本物が来るまで、いないことにしたくなかったんです」
今度は、何も返せなかった。
弘公が横から口を挟んだ。
「感心されるのはあとにしてください。来ます」
敵の動きが変わった。
正面にいた兵が左右へ広がろうとしている。
けれど広がった先は泥田だった。
足が鈍ったところへ弘公の兵が横から入る。
「弘公、一人で大丈夫?」
「一人ではありません」
遠くで鬨の声が上がった。
敵の右手が崩れる。
「美公殿です」
文七が言った。
その少し後、今度は反対側で混乱が起きた。
「成公殿も来ました」
「呼んだの?」
「呼んでいません」
「じゃあ、どうして?」
弘公が当然のように答えた。
「氏貞殿がこちらへ向かったと知れば来ます」
「三人とも?」
「はい」
最近、この三人は私より私の居場所に詳しい気がする。
弘公が先に敵を押し、敵がそちらへ兵を回したところへ美公が入る。
美公へ向き直ったところで成公が別の道から崩す。
三人は並ばず、同時にも仕掛けない。
少しずつ時間をずらし、敵が隊列を作り直そうとするたびに別の方向から邪魔をする。
「嫌なことするね」
「ありがとうございます」
弘公は褒められた顔をした。
褒めたつもりはなかった。
そこへ、後方から別の伝令が来た。
「氏貞様! 景謙様より!」
私は振り返る。
景謙は蒲田に残っていた。
「何?」
「氏貞様は西の里へ入った後、前線へ出ないようにと。清河殿か影武者を前へ立て、范文七殿を含め、必要以上の者を氏貞様の周囲へ置くなとのことです」
戦場なのに、妙な命令だった。
弘公が伝令を見る。
「氏貞殿の御命令でしょうか?」
「いえ……景謙様からです」
「では従えません」
即答だった。
物陰から美公まで顔を出した。
「我らも」
反対側から成公も続ける。
「同じです」
「いつからいたの?」
三人とも答えなかった。
鳳が胸を張る。
「私も本物の命令だけ聞きます」
「氏鳳は今日会ったばかりだよ?」
「二度目です!」
そこ、大事なんだ。
伝令が困っている。
「しかし景謙様は、氏貞様の近くに男を置きすぎるなと……」
弘公、美公、成公、文七が一斉に伝令を見た。
「戦場ですよ?」
私が言うと、伝令はもっと困った。
その時だった。
遠くから、ものすごく聞き慣れた怒鳴り声が飛んできた。
「氏貞ぇぇぇっ! てめえ、なんでまた増えてやがる!」
清河が象に乗って突っ込んできた。
黄色い衣。
私と似た金色の胸当て。
向こうにも氏鳳。
ここにも私。
高涼兵の一人が絶叫した。
「麗海婆王が三人いるぞ!」
「そんなわけあるか!」
「じゃあどれだ!」
「全部でかいぞ!」
清河が怒鳴り返した。
「そこ判断基準にすんな!」
私は清河に手を振った。
「こっちが本物だよ」
「名乗るな馬鹿!」
「どうして?」
「敵に教えてんだよ!」
「でも間違えたら困るでしょ?」
「敵は困らせとけ!」
なるほど。
清河は高涼兵を追ってここまで来たらしい。
自分の前にいた部隊が急に西へ流れたので、嫌な予感がして追いかけたという。
そのまま象を敵の列へ向ける。
「清河、もう行くの?」
「来たんだから働くだろうが!」
「休まない?」
「戦場で茶でも飲めってのか!」
氏鳳が槍を構えた。
「私も!」
「氏鳳は里に残って」
鳳が止まった。
「でも、影武者なら前へ」
「ここにいてほしい」
私は里を見た。
傷ついた男が運ばれ、女たちが水や布を持って走っている。
それでも誰も、降ると言わなかった。
「氏鳳を見て、みんな持ちこたえたんでしょう?」
「……はい」
「だったら、ここにも私がいた方がいい」
氏鳳が私を見る。
「本物が外へ出るのに?」
「だからだよ」
少し考えてから、私は笑った。
「私が外にいる間、ここには氏鳳がいて」
氏鳳の目が大きくなった。
「それは……」
「影武者でしょう?」
ようやく氏鳳も笑った。
「はい!」
直後、文七が私の肩を引いた。
矢が一本、耳のそばを抜けた。
「危ない」
「だから前へ出すなと言われるんです」
「景謙と同じこと言ってる?」
「違います」
文七は真顔だった。
「私は今、矢が飛んできたから言いました」
「うん、それなら分かる」
その方がずっと分かりやすい。
私は象を前へ向けた。
高涼兵は崩れ始めていた。
正面を清河が荒らし、弘公たちが立て直す場所を潰していく。
数は敵の方が多い。
でも、この土地では数を並べられない。
押せる。
そう思った。
ところが文七は前ではなく、敵の後ろを見ていた。
「氏貞殿」
「何?」
「あれは負けて退いているんじゃありません」
高涼兵の後退は妙に整っていた。
清河が押せば退く。
弘公が回れば、さらに西へ下がる。
けれど壊れない。
「誘ってる?」
「おそらく」
その時、成公の部下が馬を飛ばしてきた。
「氏貞殿! 北の道に別働隊!」
弘公の顔色が変わった。
「数は?」
「多くありません! ですが道を塞ぐには十分です!」
西の里から、さらに西へ抜ける道だった。
私はようやく気づいた。
敵はこの里そのものを欲しがっているんじゃない。
ここが降れば、それでいい。
降らないなら、外との道を潰せばいい。
里を孤立させれば、私たちの退路まで細くなる。
清河が象を止めた。
「陸胤の野郎……最初からこっちを追い払う気じゃねえな」
弘公が北を睨む。
「西を閉じるつもりです」
氏鳳が金色の鎧の胸を叩いた。
「なら、閉じさせません」
「氏鳳?」
「この里は降りません」
迷いのない声だった。
「明日も、その次もです。陸胤が何度使者を寄越しても、ここは氏貞様の味方です」
「私のため?」
「違います」
氏鳳は里を振り返った。
「私たちのためです。だから、あなたについていくんです」
妙な感じがした。
私が守りに来たつもりだった。
でも、この人たちが残っているから、私たちにもまだ西へ抜ける道がある。
守っているのがどちらなのか、分からなくなった。
「じゃあ、私も残すよ」
「何をです?」
「この道」
私は象の向きを北へ変えた。
清河がにやりと笑った。
三兄弟も、もう動き始めている。
氏鳳は里へ戻った。
金色の鎧が、柵の向こうでまだ見えていた。
本物が前へ出ても、後ろにはもう一人の麗海婆王がいる。
その時、北の森から角笛が鳴った。
一つではない。
二つ、三つと続いた。
文七の顔から、さっきまでの余裕が消えた。
「氏貞殿」
「うん」
「別働隊だけではありません」
森の向こうから、高涼兵の旗が次々に上がった。
西の里を攻めていた兵より、多かった。
清河が刀を抜く。
「……最初から、こっちが本命かよ」
私は金色の胸当てに手を置いた。
西の道だけは、渡せない。
その道がなくなれば、私たちは帰る場所だけじゃなく――逃げる場所まで失う。
呂清河だ。
今回は、ベトナムで物を渡す時の作法だ。
金や品物を渡す時は、右手か両手を使うと丁寧だぞ。
旅先じゃ、ちょっと覚えとくといい。
「鳳、槍貸せ」
「はい」
黎氏鳳が両手で差し出した。
「……お前、行儀いいな」
「清河殿もどうぞ」
「なんで二本あるんだよ!」
「影武者ですから」
「関係ねえ!」
氏貞が横から覗き込んだ。
「清河、私も渡そうか?」
「何をだ」
「象」
「両手で渡せるか!」
鳳はこいつと違って、ちゃんとじっとしていられる。
氏貞のそばに置いとくには、たぶんこっちの方が向いてる。
ただし今は、それどころじゃねえ。
北の桟道へ、高涼兵の本隊が来た。
次回――西の道を閉じられる前に、今度はこっちが閉じてやる。




