五千人でも、いっぺんには渡れないよね?
シンチャオ、趙氏貞です。
今日のベトナム語は Cầu ở đâu?(カウ・オー・ダウ?)。
「橋はどこですか?」という意味です。
知らない町を歩いていて川を渡りたい時や、橋を目印に道を尋ねたい時に使えます。
「清河、Cầu ở đâu?」
「そこだ」
「ありがとう。じゃあ、向こうから五千人来たら?」
「燃やす」
「旅行会話から戦争になるの早くない?」
「お前が五千人を追加したんだろうが!」
もちろん旅行中、見つけた橋は普通に渡ってください。
壊してはいけません。
「当たり前だ!」
今回は、その当たり前を私たちが守りません。
五千人でも、いっぺんには渡れないよね?
橋は、川を渡るためにある。
少なくとも私は、二か月前までそう思っていた。
里長が困っていたから、少し手伝った。
それだけだったはずなのに、役人を追い返し、兵が集まり、象に乗るようになり、とうとう交趾から何千人も私を倒しに来るようになった。
あの日から、もう二か月になる。
そして今日、私は川に架かった橋を見ながら、どうすれば誰も渡れなくなるのか考えている。
人は二か月もあれば変わるらしい。
「氏貞」
隣にいた兄が、先に釘を刺してきた。
「燃やすなら、使える板は外してからにしろ」
私は兄を見た。
「まだ燃やすって言ってないよ」
「橋を見ながら黙ってるお前は危険なんだよ!」
超失礼な言われ方なのに、少しだけ当たっていた。
さすが兄さんである。
川の北岸には呉軍がいた。
今度は分かれていない。
五千を超える兵が、長い列のままこちらへ向かっている。
象の背から見ても、先頭はよく見えるのに最後尾がどこなのか分からない。
旗だけが木々の向こうまで延々と続いていた。
「多いな」
清河が楽しそうに笑った。
この人は敵が増えると元気になる。
普通は逆だと思う。
「清河、嬉しそうだね」
「五千まとめて来てくれたんだぞ。探し回らなくて済むじゃねえか」
「そういうこと言うから、みんな清河を怖がるんだよ」
「お前にだけは言われたくねえ!」
なぜだろう。
私はまだ何もしていない。
呂興が川岸から戻ってきた。
最近の呂興は、命じられる前に道や人の流れを調べるようになった。
地面にはもう枝で簡単な図が描かれ、川と本道、橋、それに南北の岸だけでなく、橋を使わずに渡れそうな場所まで三つ書き込まれていた。
「上流の浅瀬は狭いです。下流側に二か所ありますが、一番遠いところは川底が柔らかくて、馬を入れるには向きません」
「じゃあ、一番使いやすいのは真ん中?」
「はい」
清河がしゃがみ込み、図を覗いた。
「上は倒木を入れりゃ潰せる。下は杭と石だ。馬が嫌がって戻れば、真ん中に集まるな」
呂興が頷く。
妙に息が合っている。
「似てきたね」
二人が同時にこちらを見た。
危ない。
今日は呉軍とだけ戦いたい。
呂興も学習したらしく、朝から一度も清河を叔母とは呼んでいない。
その代わり、必要以上に礼儀正しく「清河殿」で通している。
それはそれで清河には気に入らないらしい。
「おい呂興!何で今日は叔――」
「言わせませんよ」
「まだ何も言ってねえ!」
「言おうとしたでしょう?」
「お前、甥のくせに生意気になったな!」
「ほら自分から言った!」
私は川へ顔を戻した。
親族というものは難しい。
その横では、国達だけが敵兵ではなく舟を数えていた。
「十七、十八……十九。小舟を入れれば二十か。全部南岸へ回せ。縄も櫂も残すな。向こうへ一艘でも置いたら使われるぞ」
「兄さん、早いね」
「学習したんだよ!」
何をとは聞かなかった。
たぶん私への対処法である。
文七は新しく来た象の前脚のそばへしゃがみ、土を触っていた。
立ち上がると川上を見る。
それから象の耳へ手を添えた。
「どうしたの?」
「この子、上を気にしています」
「敵がいる?」
「敵なら、人の方を見ます」
文七は象の鼻先を撫でながら、しばらく川上を見た。
「水だと思います」
近くにいた老人が反応した。
「水なら上に堰があるぞ」
清河と呂興が同時に老人を見る。
田へ水を引くため、川幅の狭い場所へ木と土を組んだ堰があるという。
このところ雨が続いたせいで、水も普段より溜まっているらしい。
呂興が地面の図へ線を書き足した。
清河の顔には、ものすごく嫌な笑みが浮かんでいる。
私は橋から浅瀬へ目を移し、そのまま川上と北岸の五千人を見比べた。
橋がなくなれば浅瀬へ行く。
浅瀬が一つしかなければ、そこへ集まる。
五千人いても、五千人が同時に川へ入れるわけではない。
「橋がなくなって、渡れる場所が一つしかなかったら」
私は言った。
「五千人でも順番に来るしかないよね?」
国達が天を仰いだ。
「出た」
「何が?」
「お前の、後で俺が大変になる質問だよ!」
「普通の質問だよ」
「普通の娘は五千人見ながら橋の処分方法を考えねえ!」
景謙が地面の図の前へ来た。
「使える」
話が早い。
私より先に全部つなげてしまった。
「橋を落とす。舟はこちらへ移す。浅瀬を一つに絞れば、敵は中央へ集まる。先頭が南岸へ出たところで堰を開けば、渡った兵と本隊を切り離せる」
清河が歯を見せた。
「いいじゃねえか。五千を何百ずつ食えばいいんだな」
食べるんだ……
私は清河から少し離れた。
「ただ、水はたくさん流しすぎないでね」
景謙がこちらを見る。
「何故だ?」
「全部流す必要ないでしょう?」
私は川を指した。
「立っていられなくなって、並べなくなればいいんだから」
川下には田もある。
こちらの兵だって近くにいる。
五千人を溺れさせるために水を使うのではなく、五千人が五千人として戦えなくなれば、それでいい。
景謙は少し黙った。
それから伝令へ向き直る。
「上流へ走れ。合図を見たら堰を――」
「待て」
兄だった。
景謙が振り返る。
「何だ?」
「氏貞はまだ命令してねえ」
「今の話を聞けば分かるだろう」
「分かるのと、お前が氏貞の代わりに決めるのは別だ」
二人が向かい合う。
昔からの親友同士である。
言い争うこと自体は珍しくない。
でも今日は、少しだけ違って見えた。
「結果は同じだ」
景謙が言う。
「なら早い方がいい」
「氏貞が決める」
「国達、お前は――」
「景謙」
私が呼ぶと、彼はこちらを見た。
「ありがとう。でも、私が言うね」
「……分かった」
景謙は退いた。
それだけだった。
なのに兄だけは、しばらく景謙を見ていた。
私ではなく。
景謙を。
「堰は合図があるまで動かさないでください。水路まで壊さないように、里の人にも一緒に見てもらって。それから川岸の人は先に離して」
伝令が走る。
呂興は狼煙の配置を決め、清河は浅瀬を塞ぐ兵を送り出した。
兄は橋の解体を始めた。
解体である。
まだ燃やしていない。
「兄貴! 欄干まで外す気か!」
清河が怒鳴った。
「燃やす木を減らして何が悪い!」
「橋が先に落ちるだろうが!」
「どうせ落とすんだろ!」
「私たちが降りてから落とせ!」
「じゃあ早く降りろ!」
戦う前から味方がたいへん忙しい。
最後には、使える板どころか金具まで兄に持っていかれ、ずいぶん痩せた橋へ油と枯れ木が積まれた。
火を入れると煙が上がり、それを見た北岸の呉軍が動いた。
橋へ向かった先頭が止まった頃には、中央の梁へ火が回っていた。
無理に進もうとした兵もいたが、焼けた部分が落ちると後続も止まる。
上流へ向かった兵は倒木に阻まれた。
さらに下流へ回った騎兵は、杭と石、それに柔らかい川底を嫌って戻ってくる。
結局、残った中央の浅瀬へ人が集まり始めた。
五千人いる。
だが浅瀬の幅は変わらない。
前が川へ入れば、後ろは待つしかない。
清河が腕を組んだ。
「なるほどな。数が多すぎると、後ろの奴が邪魔になるのか」
「清河が五千人いたら大変だもんね」
「何で私を五千人に増やした!」
「一人でも十分うるさいのに」
「氏貞!」
呂興が噴き出した。
清河が振り返る。
「笑ったな?」
「戦の最中ですよ、清河殿」
「その呼び方、便利に使ってんじゃねえ!」
向こうでは誰も笑っていなかった。
呉兵の先頭が浅瀬へ入る。
南岸へ一人、二人と上がってくる。
百。
二百。
さらに後ろが続く。
渡り終えた兵は陣形を作ろうとするが、次々と味方が上がってくるので広がれない。
私はまだ合図を出さなかった。
景謙がこちらを見る。
今度は何も言わない。
文七が象の首へ手を当てた。
象が鼻を鳴らす。
「少し下がります」
「水?」
「たぶん」
文七が手綱を引くより先に、象自身が一歩後ろへ下がった。
川上の音が、ほんの少し変わった。
私にはよく分からなかったが、文七と象には何かが伝わっているらしい。
「そろそろです」
私は頷いて手を上げた。
狼煙が立ち、しばらくすると上流から返事が来た。
水面が変わった。
巨大な波が押し寄せたわけではない。
川が突然荒れ狂ったわけでもない。
浅瀬だった場所の水位が上がり、流れが一気に速くなる。
それだけだった。
でも、それで十分だった。
川中の兵が踏ん張る。
後ろから来た兵は止まれない。
盾と盾がぶつかり、槍が絡み、一人が足を取られ、その一人を避けようとした二人が崩れる。
馬が暴れる。
隊列が折れた。
「よっしゃあ!」
清河が飛び出した。
「清河、待って!」
「待ってたら並び直すだろうが!」
この人に待てと言った私が悪かった。
南岸へ渡っていた敵兵へ、こちらの兵がぶつかる。
私は象を進めた。
文七がすぐ横につく。
景謙も遅れず続いている。
呉兵が槍を構えた。
しかし後ろを見ても援軍は来ない。
北岸には何千人も味方がいるのに、川の中で詰まっている。
そこに気づいた者から顔が変わった。
「川へ追い込まないで!」
私は叫んだ。
「武器を捨てた人は通して! 逃げる人は追わなくていい!」
敵の槍を弾きながら、清河が振り返る。
「逃がしたら、また来るかもしれねえぞ!」
「また来たら、また追い返すよ!」
「面倒くせえ!」
「じゃあ来ないように言っといて!」
「誰にだよ!」
知らない。
向こうの偉い人にお願いしたい。
清河は悪態をつきながらも、武器を捨てた兵の背中までは追わなかった。
一人が槍を落とす。
それを見た別の兵が剣を捨てる。
南岸へ出ていた兵が崩れ始める。
やがて北岸で鉦が鳴った。
退却だった。
五千人はまだいる。
でも、五千人で戦えなかった。
それだけで、この日の戦は終わった。
夕方――
川は何事もなかったように流れている。
橋だけがない。
兄は焼け残った橋脚の前で、兵に釘や金具を拾わせていた。
「兄さん」
「勝ったのは分かってる」
「何も言ってないよ」
「俺はいま、勝った喜びより橋を直す木の本数を考えてる」
「大変だね」
「誰のせいだ!」
「呉軍?」
「お前だ!」
違うと思う。
半分くらいは呉軍の責任である。
呂興は舟を戻す手配をしていた。
清河は怪我人を見て回っている。
文七は川辺で象の脚を洗っていた。
景謙は少し離れた場所に立っている。
私が見ると目が合った。
前なら、そのまま何か話していた。
今は何を言えばいいのか、少し迷う。
景謙が私を好きだと知ってしまったから、私が変に意識しているだけなのかもしれない。
そう思っていると、南の道から騒ぎ声が聞こえた。
また敵かと思った。
違った。
荷車だった。
米俵を積んだ荷車が何台も来る。
その前を、見知らぬ男たちが歩いていた。
「趙氏貞殿はこちらか!」
先頭の老人が私を見つけると、いきなり頭を下げた。
「我らの里も、兵と米を出させていただきたい!」
私は固まった。
後ろにも人がいる。
さらにその後ろから、別の一団まで来た。
「こちらも二十人出せます!」
「うちは舟を!」
「うちは鍛冶を出す!」
兄が顔を上げた。
「待て待て待て! 一度に喋るな! 米は何俵だ! 兵は何人だ! 舟は誰が管理する!」
さっきまで橋の釘を数えていた男が、突然ものすごい勢いで働き始めた。
清河が私の肩を叩く。
「やったじゃねえか。増えたぞ」
「何が?」
「味方が」
「どうして?」
「五千追い返したからだろ!」
そんな理由で増えるものなのだろうか。
呂興のところへも次々と伝令が走ってきた。
最初は三つの里からだったものが、夕食になる頃には七つ、夜には十を超えていた。
兵を出すという里があれば、米を持ってくる里もあり、道案内や舟を貸すと言ってくる者までいた。
しまいには象と象使いを寄越すという話まで出てきた。
「清河」
「何だ」
「今日、橋を一本燃やしただけだよね?」
「五千人追い返したことを忘れんな!」
「でも、みんな私のところへ来るよ」
清河は一瞬だけ黙った。
それから、笑った。
「そりゃ来るだろ」
「どうして?」
「勝ってるからだよ」
簡単に言われた。
焚き火の向こうには知らない顔が増え、その誰もが私の名前を知っていた。
二か月前には里長を助けただけだったのに、今では会ったこともない里から人が来て、私について戦いたいと言う。
私なら勝てる。
どうやら、みんな本気でそう思っているらしい。
それが少し怖かった。
その時、また一騎、暗い道から馬が飛び込んできた。
呂興が受け取った文を開き、目を見開く。
「氏貞殿」
「今度はどこ?」
呂興は文と私を交互に見た。
「どこ、ではありません」
「え?」
「北も南もです」
焚き火の周りが静かになった。
「九真の各地で、こちらへ加わる者が動き始めています」
私は何も言えなかった。
清河だけが、ものすごく嬉しそうだった。
「よかったな、氏貞」
「何が?」
「お前、とうとう本当に反乱軍の頭になったぞ」
困る。
私はまだ、そんなものになると一度も言っていないのに。
呂清河だ。
今回はベトナムの市場の話だ。
観光客向けの市場や個人商店じゃ、値段が出ていない品もあって、店の人と相談しながら買うことがある。
ただし、スーパーや値札のある店で何でも値切るのはやめとけ。
「清河、五千人分まとめて買ったら安くなるかな?」
「何を買う気だ!」
「米」
「兄貴を呼べ! 話が変わった!」
旅行なら笑って交渉すりゃいい。
無理なら買わずに離れればいいし、相手が嫌がるほど粘る必要もねえ。
「じゃあ橋は?」
「値切るな。燃やすな」
もう遅えよ……
次回。
勝てば勝つほど、こいつの名前まで勝手にでかくなっていく。




