三千人って、何を食べるの?
シンチャオ、趙氏貞です。
今日のベトナム語は「đói」。
「お腹がすいた」という意味です。
「清河、三千人が一斉にđóiって言ったらどうする?」
「知らねえよ! 何で私が飯係なんだ!」
「でも敵でしょう?」
「なおさら食わせるな!」
確かに……
三千人も来れば、槍も盾も怖いです。
でも、それより毎日三千人分のお腹がすきます。
「氏貞」
「何?」
「お前、敵を人間として見てるようで、途中から胃袋として見てねえか?」
「だって食べるでしょう?」
「そこから戦を考えるな!」
なので今回は、戦う前にご飯を逃がします。
敵が来るより先に。
交趾から三千近い兵が来ると聞かされた。
最初に思ったのは、三千人は何を食べるのだろう、ということだった。
「氏貞」
清河が私を見ている。
「何?」
「今、敵が三千って聞いたよな?」
「聞いたよ」
「怖くねえの?」
「怖いよ。でも三千人いたら、米もいっぱい要るでしょう?」
清河が黙った。
書佐も黙った。
兄だけが、ものすごく嫌そうな顔をした。
「俺を見るな」
「まだ見てないよ?」
「これから見る顔だった!」
最近、兄は米の話になると勘がいい。
交趾から来た知らせによると、今までのように一つの県が手近な兵を出してくるのではないらしい。
周辺の県から兵を集め、九真で起きている反乱をまとめて潰すために南下してくる。
書佐が持ってきた木簡には、私の名前まで書かれていた。
「これ、何て書いてあるの?」
「九真の賊首、趙氏貞に呼応する者を討つ、と」
「私?」
「はい」
「私の名前を使っていいって言ってないよ?」
清河が額を押さえた。
「敵がお前の名前使うのに許可取るわけねえだろ!」
「でも、この前から使う人には木札を渡すことになったでしょう?」
「呉の役所に木札渡してどうすんだよ!」
それは確かにそうだった。
名前を勝手に使う人が増えたと思ったら、今度は敵まで使い始めた。
名前というものは本当に管理が難しい。
「だから、俺が見ておく必要がある」
景謙が横から木簡を取った。
「交趾から来る使者も、北へ出す者も、これからは全部俺に通してくれ」
「全部?」
「氏貞の名がもう九真の外で軍を動かしてるんだ。誰が何を言って、どこで誰とつながってるか分からないままじゃ危ない」
言っていることは正しい。
ただ、景謙はそう言いながら私の横へ寄ってきた。
「氏貞。このあとは二人で――」
「叔母さん!」
呂興が外から駆け込んできた。
清河が振り返る。
「姉ちゃんだ!」
呂興はまったく気にせず、地面へ新しい木簡を置いた。
「本道沿いの里、五つまで連絡できます。川側は二つ。山側は狼煙を使えばもっと早いと思う」
「お前、いつの間にそこまで調べた?」
「昨日」
「昨日!?」
景謙がため息を吐いたのを、私は気づかないふりをした。
書佐が地面へ線を引く。
「討伐隊は北から本道を南下しています。途中でさらに兵を加えるようです」
「別働隊は?」
「確認できていません」
「川から回る奴は?」
「いないようです」
「山側は?」
「こちらも動きはありません」
清河が顔を上げた。
「……三千で、道をまっすぐ来るだけか?」
「今のところは」
私は地面の線を見る。
太い道が一本あり、その周りに細い道と川がある。
「人数が増えただけだね」
「言うな」
清河が頭を抱えた。
「私も今それ思ったけど、口にすると超不安になる!」
それでも三千は多い。
正面から押されたら、こちらにも怪我人がたくさん出るだろう。
私はもう一度、地面に描かれた道を見た。
「この人たち、米は持ってくるの?」
兄が嫌そうに答えた。
「持ってくるに決まってるだろ。三千だぞ」
「全部?」
「全部持って歩けるわけない。荷車も使うし、途中でも集める」
「途中って、どこから?」
「里だよ」
私は少し考えた。
「じゃあ、里に食糧がなかったら?」
清河の目が細くなった。
嫌な顔だった。
最近、この顔をすると話が大きくなる。
「氏貞」
「何?」
「お前、今度は何思いついた?」
「思いついてないよ。三千人って毎日食べるでしょう?」
「食うな」
「道の途中で奪うつもりなら、先に食糧を別のところへ動かしたら困るんじゃない?」
兄が両手で顔を覆った。
「なんで俺がいる時にそういう話をするんだ……」
「兄さんが食糧に詳しいから」
「詳しくなりたくてなったんじゃない!」
呂興が地面の線を指した。
「本道沿いの里へ一気に知らせるなら、僕が順番決めます。狼煙と走る人を分けた方が早い」
「頼める?」
「うん」
「叔母さんは?」
「姉ちゃんだ!」
清河が怒鳴ったあと、そのまま立ち上がる。
「よし、本道沿いの里へ知らせるぞ。家で食う分だけ残して、余分な米は山か川側へ動かす。牛と荷車も呉兵に使われそうなのは下げろ」
「清河、早くない?」
「お前が言い出したんだろ!」
「聞いただけだよ?」
「お前の『聞いただけ』から何回軍が動いたと思ってんだ!」
また私のせいなの……
それから二日、戦うより米を動かす方が忙しかった。
呂興が伝令を振り分け、書佐が里ごとの数を書き、兄が荷車と米を数える。
清河は人を怒鳴って走らせ、景謙は北から来る情報を片端から集めていた。
文七だけは象のそばにいた。
「何か変?」 と聞くと、遠くの本道を見ながら首を傾げた。
「三千いるのに、前より嫌じゃないです」
「三千いるのに?」
「はい」
「どうして?」
「たぶん、長いからです」
「長い?」
「前より、後ろの方が嫌な感じです」
清河が振り返った。
「荷車か?」
「たぶん」
景謙が文七を見る。
「また、なんとなくか?」
「はい」
「便利だな?」
「自分でもよく分かりません」
景謙は何も言わなかった。
三日目、呉軍が九真へ入った。
本当に多かった。
高い場所から見ると、道が人で埋まっている。
先頭には盾と槍を持つ兵、その後ろにも兵が続き、さらに荷車が長く連なっていた。
私は黄色い衣の上から、もらった金色の胸当てをつけて象に乗っていた。
「清河」
「何だ?」
「多いね」
「三千って最初から言ってただろ」
「聞くのと見るのは違うよ」
「そこは私も同意する」
今回は清河も少し真面目だった。
呉軍はそのまま南へ進んだ。
最初の里へ入る。
兵が出てくる。
次の里へ進む。
また出てくる。
少しずつ、進み方が鈍くなった。
「食糧、なかったみたいだね」
「そりゃ昨日運んだからな」
清河が山側を見る。
道はない。
私は清河を見る。
清河も私を見る。
「行くんでしょう?」
「まだ何も言ってねえ!」
「でも行く顔してるよ」
「お前、本当に私の扱い雑になったな!」
清河は百人ほど連れて山へ消えた。
最近は、道がないと言っても誰も止めなくなった。
私は象と一緒に本道側へ残った。
文七はいつものように象の横にいる。
景謙も残った。
「氏貞、俺はここにいる」
「うん」
「何かあったら、すぐ俺を呼べ」
「文七もいるよ」
景謙の顔が少し固まった。
「……そうだな」
呉軍の先頭がこちらを見つける。
声が広がった。
「趙氏貞だ!」
「象だ!」
「賊首がいるぞ!」
見つかるのが早い。
「金色なので、前より早いです」
文七に言われた。
そうだった。
金色の胸当てを着けているのを忘れていた……
討伐隊の前列がこちらへ向きを変える。
盾が並び、その隙間から槍が出た。
さらに後ろから兵が押してくる。
象が鳴いた。
文七が顔を上げる。
「氏貞殿」
「何?」
「少し嫌です」
「どこ?」
「前です」
今度はすぐ分かった。
呉兵が槍の列を密にし、その後ろから矢を射始めた。
私は象の首元へ手を置く。
「槍の中には入らないでね」
文七が頷いた。
こちらも弓を射る。
石が飛ぶ。
前の兵が少し怯んでも、後ろから押されて下がれない。
数が多いというのは、それだけでも怖かった。
一本の矢が象の肩へ刺さり、象が大きく首を振る。
「大丈夫?」
文七がすぐ傷を見る。
「まだ動けます!」
次の瞬間、さらに矢が降った。
一頭の象は大きな的だった。
前からは槍が迫り、上からは矢が降る。
後ろへ下げようとしても、呉兵が押してくる。
象が一歩よろめいた。
「氏貞殿、降りて!」
文七の声が初めて強くなった。
私はすぐ横へ飛び降りた。
その直後、象の脚が折れるように崩れた。
地面が揺れた。
大きな鳴き声が一度だけ響いた。
「文七!」
返事もせず、文七が象に駆け寄っていく。
象は立とうとした。
でも立てなかった。
文七が首を振った。
私は槍を握ったまま、その場で動けなくなった。
清河の声が遠くで響いた。
「氏貞! 前見ろ!」
前から兵が来る。
止まっている暇はなかった。
私は象から離れた。
「文七、あとお願い」
「はい」
それだけ言うしかなかった。
ずっと後ろの方で煙が上がった。
清河だった。
荷車の列が乱れ始める。
燃えていたのは荷車ではなく、道端の枯れ草だった。
あとで聞いたところによると、清河が荷車へ火をつけようとした瞬間、兄がどこからか現れて、
「米を燃やすな!」
と怒鳴ったらしい。
兄はなぜそこにいたのだろう。
前の呉兵はまだ押してくる。
私は左右を見る。
兵が前へ出すぎて、後ろとの間が開いている。
「ここ、離れてない?」
近くの頭が顔を上げた。
「確かに」
「じゃあ、間に入れない?」
男は一瞬黙り、それから人を呼び始めた。
また何か増やしたらしい。
こちらの兵が畑と林を抜け、呉軍の前と後ろの間へ入る。
ただし北側の道だけは残した。
帰れなくするのは嫌だった。
前へ進んでいた呉兵が止まる。
後ろでは清河たちが荷車の守りを崩し、横からも人が出てくる。
景謙が近くまで来た。
「氏貞、下がれ! 象がないなら前にいる必要はない!」
「でもここから見えるよ」
「そういう問題じゃない!」
景謙が私の腕を取ろうとする。
その前に清河が泥だらけで戻ってきた。
「まだ前に来るぞ!」
「清河、早かったね」
「山二つ越えてきたんだぞ!」
「元気そう」
「殴るぞ!」
清河は息を切らしながら笑った。
「もう一回横から叩く。今度は別の奴に行かせる!」
「清河も人を使うようになったね」
「誰のせいだと思ってんだ!」
夕方まで呉軍は押した。
前へ進めば横から崩され、後ろへ戻れば荷車の列が乱れている。
日が傾く頃、とうとう北へ下がり始めた。
「追うな!」
私が言うと、近くの人たちが止まった。
清河も止まる。
「分かってる。帰すんだろ?」
「うん」
「最近それ、お前に言われる前に分かるようになってきたよ」
「清河も成長したね」
「なんで上からなんだよ!」
象の上ではないので、今日は言い訳できなかった。
翌朝、残された荷車には米がかなり残っていた。
兄はその前に立っていた。
「燃やさなくてよかった……」
戦が終わって一番嬉しそうだった。
でも、象は戻らなかった。
文七は朝までそばにいた。
埋める場所まで決めてから、私のところへ来る。
「氏貞殿」
「うん」
「僕、前にいたところへ行ってきます」
「どうして?」
「象を譲ってもらえないか、聞いてみます」
私は少し迷った。
「また乗っていいの?」
「乗らない方がいいですか?」
「ううん。でも、またやられたら嫌だなと思って」
文七は少し考えた。
「僕も嫌です。でも、氏貞殿には象があった方がいいと思います」
「なんとなく?」
「今回は、ちゃんとそう思います」
少し笑ってしまった。
「じゃあ、お願いしていい?」
「はい」
文七はその日の昼に出ていった。
呂興は北から来る伝令を整理し、清河は負傷者と部隊の確認へ回った。
兄は残った米と荷車を数えている。
景謙だけが、文七の背中を長く見ていた。
夕方、交趾側がさらに兵を集めているという知らせが来た。
「次は?」 と清河が聞く。
書佐が答える。
「五千を超える見込みです」
私は清河を見る。
「増えたね」
「だから、それしかしてねえんだよ!」
どうやら呉は、負けたら人数を増やすことにしたらしい。
夜になってから、景謙が私を呼んだ。
役所の裏には誰もいなかった。
「氏貞」
「何?」
「やっと二人で話せるな」
少し近かった。
私は一歩下がる。
景謙も一歩近づいた。
「景謙?」
「俺はずっと、お前を守ろうとしてる」
「知ってるよ」
「だったら、どうしていつも他の奴を間に入れる?」
意味が分からなかった。
「入れてないよ?」
「清河も、文七も、呂興も……国達もだ!」
兄さんまで?
景謙が私の手首へ手を伸ばした。
その時、暗がりから声がした。
「……景謙?」
兄だった。
いつからそこにいたのか分からない。
景謙の手が止まった。
兄は私を見て、それから景謙へ視線を移した。
「こんなところで、何してる?」
景謙は答えなかった。
兄も、それ以上は何も聞かず、ただ私と景謙の間へ入った。
呂清河だ。
今日のベトナム文化は、家へ上がる時の履物。
ベトナムじゃ、家に入る前に靴やサンダルを脱ぐ家庭が多い。
外の汚れをそのまま持ち込まねえためだ。
日本と大体一緒だな。
「清河、三千人来たら全員脱ぐの?」
「家に上げる気か!」
「槍も外に置いてもらう?」
「その前に帰らせろ!」
今回は食糧を逃がして、三千人にはお帰りいただいた。
ただし、象は帰ってこなかった。
文七は次の象を探しに出ている。
すると今度は、別の奴が氏貞のそばへ入り込もうとしてやがる。
次回。
履物より先に、そいつを外へ出す。




