名前が先に出ていった
シンチャオ、趙氏貞です。
今日のベトナム語は「tên」。
「名前」という意味です。
「清河、名前って貸せるの?」
「普通は貸さねえよ」
「でも減らないでしょう?」
「米みたいに勘定すんな!」
最近、私のtênを使いたいという人が増えました。
私はまだ九真から出ていないのに、名前だけは勝手に遠くへ行っているらしいです。
「便利だね」
「便利で済ませるな! それ、もう旗印だからな!」
「返してもらった方がいい?」
「そういう問題じゃねえ!」
しかも今日は、北から来た人が土産まで持ってきました。
「何を?」
「まだ見てない」
「嫌な予感しかしねえ」
布を開くと、金色でした。
「氏貞」
「何?」
「お前、これ以上目立ってどうすんだよ!」
門の外から来た使者は、九真の人ではなかった。
そこまでは、顔を見ても分からなかった。
最近は知らない人が毎日のように来るので、私は人の顔だけで住んでいる場所を当てることを諦めている。
「趙氏貞殿に、お目通りを」
男はそう言って、深く頭を下げた。
「私だけど」
顔を上げた男が少し固まった。
最近、この反応も多い。
私の後ろには象がいたが、今日は乗っていない。
それでも男は私と象を何度か見比べてから、恐る恐る聞いた。
「……あなたが、趙氏貞殿?」
「うん」
「郡治を夜襲し、焼き払った?」
「燃やしたよ」
「千の討伐軍を退けた?」
「全部と戦ったわけじゃないよ」
「象に乗って呉兵を破った?」
「それは戦った」
「さらに複数の県で、現地の兵が呼応して門を開いた?」
「私が着く前に開いてたよ」
男が黙った。
私は清河を見る。
清河がため息をついた。
「もう訂正しても全然弱くならねえんだよ」
そう言われても、違うところは直した方がいいと思う。
書佐が男へ尋ねた。
「どちらから来られた?」
「北からです。交趾の南の方から」
周りにいた人たちの顔が変わった。
「九真じゃないね」
「だから昨日からそう言ってんだろ!」
昨日は南の県の話を片づけるだけで忙しく、どこの誰が来たのかまでは聞いていなかった。
男は私へ向き直った。
「こちらでも、九真で起きていることは伝わっております。役人を追い出した県があることも、趙氏貞殿に降れば武器を捨てた者は殺されないことも」
「早いね」
「役所焼いた話なんか、もっと早かったぞ?」
清河が鼻で笑った。
あれはなぜか広まるのが本当に早かった。
「我らのところでも徴発が続いております。役人に反発する者は多い。しかし九真とは違い、まだ誰も先に立とうとしません」
「どうして?」
「立った者から捕らえられるからです」
それは分かる気がした。
私も最初から反乱を起こすつもりだったわけではない。
役人に人を出せと言われ、兵を投げてしまい、翌朝には百人が来た。
あれを最初からやれと言われたら、たぶん嫌だ。
「もし我らが役人を追い出した時、趙氏貞殿は手を貸してくださいますか?」
「困ってるなら助けるよ」
「氏貞」
清河がすぐ呼んだ。
「何?」
「今の返事、ちょっと待て。今まで九真の中だったよな?」
「うん」
「こいつら九真の外だぞ」
「知ってるよ」
「知ってて言ったのか!?」
「困ってるんでしょう?」
清河が何か言おうとして、やめた。
「そういう問題じゃ……いや、そういう問題なんだけどよ!」
どちらなのだろう。
使者は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼言われたぞ。もう取り消せねえぞ」
「取り消すつもりないよ?」
「お前、本当に最近、火つけるの早くなったな!」
「火の話はしてないよ」
それより問題があった。
「でも私、すぐそっちには行けないよ。昨日の県の話も終わってないし、東からも助けてほしいって来てるでしょう?」
「そこはまともだな」
「近い人が助けに行けばいいんじゃない?」
清河の顔が止まった。
「氏貞」
「何?」
「昨日、それやって軍になったばっかりだぞ」
「でも便利でしょう?」
「便利って言うな!」
書佐はもう考え始めていた。
「北に近い里や道を知る者へ連絡を回せば可能でしょう。九真から大人数を動かさなくても、向こうで動く者と連携できます」
「お前もすぐ乗るな!」
「戦わずに済む可能性が増えますので」
「そうだけどよ!」
二人とも話を進めている。
やっぱり清河は人のことを言えないと思う。
私は辺りを見回した。
「景謙は?」
「東だ。朝から道と兵の動きを見に行ってる」
東から援軍を求めてきた者が本当に味方なのか、景謙は自分で確かめると言って出ていったらしい。
「疑ってるの?」
「最近あいつ、お前のところへ誰が来たとか、どこの奴が何人動かせるとか、やたら細かく知りたがるからな」
書佐が一本の木簡を見せた。
そこには、私の名前を使いたいと申し出た者の出身地や紹介者まで書かれている。
「細かいね」
「便利なんだけどな。便利なんだけど、ちょっと細けえんだよ」
清河はそう言って眉を寄せた。
使者は少し迷ってから、もう一度頭を下げた。
「それに関わるお願いがございます。趙氏貞殿のお名前を、我らが掲げることをお許しいただきたい」
「名前?」
「はい」
「貸すってこと?」
「そのようなものです」
「最近よく貸してるね」
清河が吹き出した。
「減らねえから大丈夫だ!」
「でも、あちこちに貸して返ってこなかったら困らない?」
「お前の名前は米じゃねえんだよ!」
書佐が説明してくれた。
私の名を掲げれば、向こうの人たちには九真の勢力とつながっていることが分かる。
呉の役人から見ても、一つの里だけが勝手に騒いでいるのではないと分かるらしい。
「名前って便利なんだね?」
「お前、自分の名前を道具みたいに言うな」
「清河、この前、書佐のこと超使えるって言ったよ?」
「そこ覚えてんのかよ!」
書佐が少し笑った。
すると使者が、後ろにいた男へ目を向けた。
「それから、こちらはお願いではございません」
「まだあるの?」
「我らからの土産です」
布に包まれたものが運ばれてきた。
開くと、金色の胸当てが現れた。
派手だった。
でも、嫌ではなかった。
全身を覆うような重い鎧ではなく、胸から腹の上を守る形で、腕も腰も動かしやすそうだった。
「これ、私に?」
「はい、趙氏貞殿にこそお使いいただきたいと」
私は持ち上げてみた。
「思ったより軽いね」
「そこかよ」
清河も近づいてくる。
笑ってはいなかった。
胸当てを見て、それから私を見る。
「似合うと思うぞ」
「まだ着けてないよ?」
「見りゃ分かる」
使者は嬉しそうに頷いた。
「黄色い衣とともに身につけていただければ、遠くからでも趙氏貞殿だと分かります」
私は象を見る。
「今でもかなり分かりやすくない?」
「そこへ金まで足すんだよ!」
「もっと分かりやすくなるね」
「敵にもな!」
文七が胸当てを見ていた。
「でも、すぐ見つけられるのはいいです」
「文七まで何言ってんだ」
「氏貞殿を探す時、楽になります」
「そういう問題か?」
清河は頭を抱えた。
私はもう一度胸当てを見る。
遠くの人たちが、私に似合うと思って持ってきてくれたのなら、断る理由はなかった。
「ありがとう。使うよ」
使者の顔が明るくなった。
話がまとまると、今度は誰を北へ送るかという相談になった。
以前から私のそばで戦いたいと言っていた若い男が手を挙げる。
「俺が行きます」
「道、分かるの?」
「北の市までなら何度も行っています。向こうの言葉も多少は分かります」
「危ないよ?」
「承知しています」
「怪我したら帰ってきてね」
男が固まった。
顔が赤い。
「暑い?」
「いえ」
「熱ある?」
「ねえよ!」
清河が割り込んだ。
「なんで清河が分かるの?」
「私にもよく分かんねえけど、たぶん熱じゃねえ!」
文七まで男をじっと見た。
「倒れる感じはしません」
「お前まで診るな!」
「診てません。なんとなくです」
「それが一番怖えんだよ!」
昼になる頃には、役所の床へ木簡と板が広げられていた。
九真の中なら書佐にも分かる道が多い。
しかし北へ行くほど知らない場所が増えるので、商いで通ったことのある者まで呼ばれた。
一人は川沿いの道を知り、もう一人は船を使う場所を知っている。
その先に親族がいる者まで加わると、地面に引かれた線はいつの間にか九真の外へ伸びていた。
「ここ、川渡るの?」
「乾季なら浅いところがあります」
「象も?」
「……たぶん」
清河が私を見る。
「お前、行く気か?」
「聞いただけだよ」
「最近のお前の『聞いただけ』は信用ならねえ!」
その頃になって兄が来た。
床いっぱいの木簡を見るなり帰ろうとしたので、清河が止めた。
「兄貴、米だ」
「その一言で俺を止めるな!」
「北へ人を送る。何日分持たせる?」
「知らん!」
「道中で買えない場所もあるらしいよ?」
私が言うと、兄は頭を抱えた。
「何人だ?」
「ほら向いてる」
「黙れ!」
兄は文句を言いながら人数と荷を数え、必要な米を見積もり始めた。
その途中で、別の木簡を一本取り出す。
「それと、南にも人を出す」
「母さん?」
兄が頷いた。
「逃がすだけじゃ駄目だ。着いてから住む場所がなきゃ、母さんなら帰ってくる」
「鶏もいるしね」
「だから鶏ごと匿ってくれる家を探してんだよ!」
清河が吹き出した。
「反乱軍の後方担当が、とうとう鶏の避難先まで調整してんな」
「誰がこんな仕事にした!」
兄は木簡を裏返した。
「南の里に昔から付き合いのある家がある。そこへ頼む。駄目なら、もう一つ先まで探す」
「そんな遠くまで?」
「帰る場所ってのは、地図に南って書けばできるもんじゃない」
私は少し黙った。
昨日、兄は母さんを南へ移すと言った。
今日はもう、誰に匿ってもらうか、米をどこへ置くかまで考えている。
「兄さん」
「何だ?」
「ありがとう」
「……急にまともな礼を言うな。調子狂うだろ」
木簡には、母さんの名前も、匿ってもらう家の名前も書かれていなかった。
「書かないの?」
「俺が覚えてりゃいい。家族の逃げ先まで、誰でも読めるところに残す馬鹿がいるか」
それなら、その方がいいと思った。
景謙はまだ東にいる。
兄が書かなかったのだから、私も誰かに話す必要はない気がした。
夕方、北から来た使者が帰る準備を始めた頃、景謙が戻ってきた。
泥を被っていたが、歩き方はいつも通りだった。
「東は?」
「今のところ罠じゃない。だが、道は二本見張らせる」
そこまで答えてから、景謙は私を見た。
正確には、私のそばに置かれた金色の胸当てを見た。
「それは何だ?」
「もらった」
「誰に?」
「北から来た人」
「どこの?」
「交趾の南の方」
「名前は?」
「使者の?」
景謙は一瞬黙った。
「……そうだ」
書佐が説明すると、景謙はすぐ木簡へ目を落とした。
「他には誰が来た?」
「商人が三人。それと北へ行く者を一人決めました」
「誰だ?」
若い男の名前を聞くと、景謙の視線がそちらへ動いた。
「氏貞とは、いつから話している?」
「何でそれが必要なの?」
「北へ出す人間の素性を知るためだ」
言っていることは正しい。
だから誰も止めなかった。
景謙はさらに、私の名前を掲げたいという申し出がどこから来たのか、一つずつ確認していく。
「全部、俺にも回してくれ」
書佐が頷いた。
「記録を?」
「氏貞の名がどこで使われているのか分からなくなったら困る」
清河が私の横で小さく言った。
「理屈は合ってんだよなあ」
私もそう思った。
景謙はそこで兄がいないことに気づいた。
「国達は?」
「南へ行く準備」
「何の?」
「家のことだよ」
清河が先に答えた。
景謙は少しだけ眉を寄せた。
「どこへ?」
「家のことだって言ったろ」
今度は清河の声にドスが効いていた。
景謙は何も言わなかった。
ただ、一度だけ私を見た。
私は兄が書かなかった場所を、やっぱり言わなかった。
夕方、最初の使者が北へ戻ることになった。
私の名前を掲げること。
武器を捨てて降る者は殺さないこと。
現地の人から勝手に米を取らないこと。
役所を取ったら倉と帳面を調べること。
そして、困った時には近い者同士で助けること。
書佐が確認すると、使者は何度も頷いた。
「必ず伝えます」
「燃やさないことも?」
「お前向けだって言われただろ!」
「でも大事でしょう?」
「大事だけどよ!」
これで今日は終わりだと思った。
甘かった。
門の外から、また馬の音がした。
今度は二人ではない。
その後ろにも人影が続いている。
書佐が外へ出て、すぐ戻ってきた。
「趙氏貞殿」
「今度はどこ?」
「北からです」
「また?」
「先ほどとは別のところです。それから、西の山地からも」
私は清河を見る。
「私、九真から出てないよね?」
「出てねえよ」
「なのに、なんで外からこんなに来るの?」
清河は門の外を見て、それから笑った。
嫌な顔だった。
「お前より先に、お前の名前が出てったんだろ」
知らない人たちが、またこちらへ向かってくる。
私は九真から一歩も出ていない。
なのに名前だけが先へ進み、その名前を目印に人まで集まり始めていた。
景謙は横で、また新しい木簡を手に取った。
「氏貞……今度の奴らも、俺が先に聞く」
門の外では、まだ馬の音が増えていた。
呂清河だ。
今日のベトナム文化は、名前の並び方と呼び方。
ベトナムの名前は一般に、姓、間の名、本人の名という順で並ぶ。
だが、人を呼ぶ時は姓より本人の名を使うことが多い。
「じゃあ私も、趙じゃなくて氏貞?」
「普段からそう呼んでるだろ」
「名前を貸した人たちも?」
「そこまで全員に呼ばれたら怖えよ!」
九真の外じゃ、もう会ったこともない連中が氏貞の名を掲げ始めてる。
「清河」
「何だ?」
「私より名前の方が働いてない?」
「給料払う気か!?」
しかも次に来る連中まで、門の外で待ってやがる。
次回。
名前だけで済んでるうちは、まだマシだった。




