8失敗の記憶
タウベはフィエルの家で世話になるのを丁重に遠慮した。
あれほど強い興味を持たれては、一緒にいるだけでジエダスを連れ戻すという目的がバレてしまうのも時間の問題だったからだ。
するとフィエルは特別残念がる様子も見せず、すぐ近くの空き家をタウベの住処にしてはどうだろうと勧めると、いつの間にか陽炎のように姿を消してしまった。
小屋のように質素なところで家具もほとんどないが、家の前の花壇には素直に花が植えられている。
ただ一つ些細な問題を挙げるとすれば、花が青く小さなもので、蠢く不気味な蔓から咲いていることか。
「…………」
物珍しげに眺めていたタウベだったが、その音のない子守歌のような動きを見ていると、つい心地よい眠気が起こる。
どうやらこの草には感情というものが希薄らしい。木の枝がゆらゆらしてみせるのと同じで、猫のしっぽがくねくねするのと同じで、なんの意味もない。
いや、木の枝がゆらゆらするのは、風が吹くからだ。
もしかすると意思を持つのは木ではなく、風のほうで……。
「あ、……あれ?」
入眠直前のように思考が千々に乱れ、その心地よいまどろみが異常であると気づいたタウベは、本能に抗うように慌てて草から目をそらした。
危なかった。これはジエダスの魔術かもしれない。
そういえば小説にも蔓草の青い花の話があった。たしか眠くなるような、そんな効果が書いてあった。
あの小説はジエダスをモチーフに書かれたものかもしれない。と、タウベは考える。
「不眠症で困ってる人に、この草をあげたらいいのに」
あらゆる方法を試してどうにか眠りにつこうとする人にこの草を持って行けば、いくらで売れるだろう。
「じゃなくてっ」
蔓の動きではなく、甘い香りが眠気を誘っているのかもしれない。
タウベは慌ててその花壇と家から離れ、ジエダスの捜索を再開させた。
さっきまで時間が余っているようにさえ感じたが、いつの間にか夕焼けが大地を染めている。
素直にフィエルに聞いてみたほうが良かったかもしれない。
青も赤も黄色も白も、夕焼けの紅が同じような色にする。明かりを持っていないから、夜には全部黒に染まるだろう。
「……ホーカー?」
なんの前触れもなく目の前に現れたホーカーは、虚ろな目をタウベに向けている。呼びかけに反応する様子はない。
これは幻覚だろうか。それともなんらかの術にかかってしまった本人だろうか。
何もまともに判別できない、まとまらない、曖昧な頭。
幻覚でもそうじゃなかったとしても、身を守っておいたほうが間違いなさそうだ。
「近づかないで。ボクは今、誰でも襲いそうだから」
タウベは手渡された鬼牡丹を両手で握り締め、切っ先を目の前の何かに向ける。
ホーカーと思われる人物は虚ろな眼差しのまま、鬼菊を抜いて腕をだらりとさせている。
彼は構えを取らないタイプだっただろうか。よく思い出してみれば、タウベはホーカーがまともに戦っているのを見たことがなかった。
――いつか、ブッチャーナイフを彼の足に刺してしまった。
「痛かったよね。もうあんな気持ちになるのも、あんな目に遭わせるのも、嫌だよ」
タウベの支離滅裂な言動を訝しむ様子も、理解するそぶりもない。
目の前の人物は操り人形のようにただふらふらと、だが確実に殺意を持ってタウベの下を目指している。
恐ろしさを感じるべきタウベはただ、ぼんやりする頭で考える。
どうすれば、どこを狙えば助かる?
ホーカーはゆらりと立ち止まると、虚ろだった目はタウベに鋭い眼光を向けた。そして鬼菊を逆手に握り直すと、勢いよく向かってくる。
勝てるはずがない。早さも、力も、桁外れなのだ。
あの時と同じ。
足を傷つけてしまえば、彼はまともに走れない。
視界が爆ぜるような一瞬の加速。タウベは地を這うように低く身を屈めると、祈るような一閃で鬼牡丹を薙いだ――。




