最終章 咲かなかった花
彼女は最初、彼の育てる植物に関心を持った。
やがて彼女は、彼の植物たちに関心を持たなくなった。
彼にとってはよくあることだ。期待し、失望し、人は離れていく。
だから彼はたまらなく嬉しくなった。自分だけではなく、彼女も喜ばせたいと思った。
ついでに植物も見ていくが、今や彼女は彼に会うためにここを訪れてくれる。
彼女は学者を辞め、ここを出ていくことを決めた。
努力を止めない才能を持った彼女が自分を見限ったのは、どういった理由からなのだろう。
幾万の試みが実を結ばないと悟ったか、天才を間近で観察し続けた故に失望したか、研究費用が底をついたか。
彼女は最後に彼に会いに行った。別れを告げるつもりだったのだろう。
だが、彼女は彼と何気ない話をしただけだった。
彼がプレゼントするつもりだった白い花はつぼみのまま、巨大化も止まってしまった。といっても、すでに人の背丈ほどある。
彼はいつも通りに花の世話を続け、開花を急がせる気配は微塵も無い。
そんな彼に彼女は肥料のアドバイスをすると、彼ではなく、花と蔓草たちに向かって言った。
私はあなたたちのことを忘れないわ。だからあなたたちも、私を忘れないで。――守るべきものを、ずっと守ってね。
彼女は決心に満ちた笑みを向けると、彼に対してはもっと後ろ向きな言葉を残す。
もし私がここからいなくなったとしたら、みんなは一年もしないうちに私のことを忘れるのかしら。
そして最後に、じゃあね、と言った。
意味深な言葉と、いつも通りのそっけない別れ言葉。
しばらく月日が流れ、ようやく彼は悟る。
彼女はもう来ない。
弟子は周囲の言葉をいつも気にしていたから、彼女が学者を辞めたことをとっくに知っていた。が、彼に言わなかった。
ついに知ってしまったか。
彼を案じて教えずにいたのは正解だったが、結局彼は気づいてしまった。だから弟子は、下手に隠し続けずに真実を告げた。
やはりお前たちを道具にするより、理由なく愛でているほうが穏やかでいられる。
いつからだろう。○○○○を愛でるべき、植物だと錯覚するようになったのは。
彼は誰にともなく呟くと、いつも通りに水やりをした。
(中略)
白い花はつぼみのまま、日に日に萎れてきている。彼女が言い残した肥料を与えてみても、さっぱり効果がない。
蠢く蔓草はとうに花を散らせ、恨みがましくのたうつ。
お前たちの言葉が分かれば、欲しがるものを与えられるというのに。いつも通りでは駄目なのか?
彼は珍しく、うまくいかない学者のようなことを零した。
弟子は珍しく、実のあることを口走る。
本当にいつも通りですか?
恨みがましいのは気のせいではない。彼女がいなくなったこと、あるいはそれによって世話を焼く者が落ち込んでいるのが、悪い影響を与えている。
馬鹿らしい。植物に感情があったとして、他者の気持ちを汲んでやることなどできはしないだろう。
そう笑えなかったのは、彼がいつも草花を慈しみ、語りかけてきたからだ。
気を落とすなと言われても難しい。お前たちには辛気臭い顔を見せてすまないと思うが……。彼女に会わせてやることも、できそうにない。
彼は考える。そして突然、顔を輝かせた。
そうだ! 二つとも叶えられるぞ! お前たちが協力してくれれば!
破顔する彼を見て弟子は思わず、ついに狂ってしまったかと心配した。
(中略)
枯れると思われた花は元気を取り戻し、近くの者を片っ端から狂わせるのではと思わせるほど、芳醇な香りを立ち込めさせた。
弟子は少しも苦痛に思わなかったが、様子を見に来た魔導士たちは顔をしかめる。どうやら魔力を持つ者になんらかの作用があるらしい。
では彼が平然としているのは何故だろうか。それは、すでに彼が狂っているからかもしれない。
彼は弟子に、彼女の下へ連れて行ってくれと頼んだ。
自分はここを離れられないから、美しき蔓草たちと花を彼女に会わせてやれない。だからお前にしか頼めないと。
弟子はすぐさま荷馬車を手配し、彼の下を旅立った。
(中略)
穏やかな風が花蜜の香りを届けてくれるだろうか。彼は想った。
彼が愛情を注いだ花の香りを、素敵だと言ったあの女性に。
しかし、吹き戻った風が運んだのは、彼女の訃報だった。
自分の愛は届いていたのか。本当に彼女は手の届かないところに行ってしまったのか。
口実が欲しかっただけなのだ。彼はもう一度、あの女性に届けたかっただけなのだ。
色鮮やかな花を。酔いそうになるほど甘く、芳醇な香りを。
彼女は喜んでくれるだろうか。
やがて彼は、愛する植物たちと共に亡き彼女を追った。
読者諸君にはまったくもって興味のないことだろうが、残されたポンコツは一冊の本をしたため、尊敬する師匠の下を目指すだろう。
あなたがもしどこかで花蜜の苑を見つけ、そこで微笑む誰かを見かけたとすれば――。
自分が生者であるか、目の前のものが幻ではないか、よくよく疑ってみるといいだろう。
まだ続きます




