1-98 死を誘う空宴
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
守山城の城将・種村大蔵大輔から「明日、正式に降参する」という言質を取った直後、僕は全軍に対して不可解な下知を飛ばした。
「全軍、陣営を城から一町(約100メートル)ばかり後方へ退けよ!そして甲冑を解き、盛大に酒宴を開け!」
その命令に、味方の兵たちは一瞬ポカンと口を開けた。無理もない。目の前にはいまだ完全武装した敵が千人も籠もっているのだ。「油断して寝首を掻かれても文句は言えませんぜ」と、古参の兵士たちが渋い顔をする。
だが、共に軍を率いる池田勝三郎だけは、僕の意図を正確に理解し、ニヤリと凶悪な笑みを浮かべていた。
「なるほど。敵に『木下の軍勢は勝利を確信し、完全に気が緩んでいる』と錯覚させるための、大掛かりな芝居というわけか」
「その通りです。連中が『夜討ち』という最悪のカードを切ってくるなら、こちらはそれを最高のお膳立てで迎え撃ってやらねばなりません」
僕たちは陣を後退させると、篝火を煌々と焚き、空の酒樽を並べてわざとらしく大声で歌い、笑い声を響かせた。
城の櫓から見下ろしているであろう敵兵の目には、僕たちが「戦わずして勝ったことに十分誇り、完全に警戒を解いてノーガードである」と映ったはずだ。
だが、その実態は全く違う。篝火の光が届かない陣の左右の暗闇には、密かに武装を整えた一千余の伏兵が、息を殺して夜の闇に同化していた。
夜が深まる。僕と勝三郎もまた、本陣の奥で具足を着込んだまま、じっと「その時」を待っていた。虫の音だけが響く静寂。冷たい夜風が、血の匂いを含んで吹き抜けていく。戦国という時代の、生きるか死ぬかの極限のヒリつきが、僕の未来人魂を異様なまでに研ぎ澄ませていく。
「……来ますよ」
僕の呟きと同時だった。子の半刻(深夜1時頃)。守山城の城戸が音もなく開かれ、真っ暗な斜面を滑り降りてくる黒い影の群れがあった。種村大蔵大輔、そして上坂主馬助が率いる、およそ300騎ずつの決死隊だ。
「いざ、木下の寝首を掻き切れェッ!!」
敵の先陣が、鬨の声を上げて僕たちの陣営へと雪崩れ込んできた。彼らは「勝利を確信して眠りこけている尾張の腑抜け共」を一方的に蹂躙するつもりで、狂ったように刀を振りかざし、天幕を次々と切り裂いていった。
でも。
天幕を切り裂いた彼らの目に飛び込んできたのは、無残に転がる死体ではなく――空っぽの寝床と、転がされた石や藁人形だけだった。
「……な、なんだこれは!? 誰もいないぞ!」
陣中には、人影一つない。血に飢えた狂気で満たされていた敵の部隊に、急速に「理解不能の恐怖」が伝播していく。夜討ちにおいて最も恐ろしいのは、敵の姿が見えないことだ。
「まさか……ッ!敵の謀計だ!」
歴戦の勇士である種村は、瞬時に自身の致命的なフラグ回収を悟った。
「退け!速やかに城へ退けェッ!」
彼の悲痛な絶叫が夜空に響き渡った。――しかし、僕が手塩にかけて組み上げた『殺戮箱』の扉は、彼らが陣に足を踏み入れた瞬間に、すでに堅く閉ざされていた。
「撃てェッ!!」
僕の冷酷な下知が、闇夜を切り裂いた。
ズダダダダダダダンッ!!!
陣の正面、そして後方に展開していた僕と池田勝三郎の主力3,000人が、一斉に鉄砲の火蓋を切った。暗闇に無数の閃光が走り、轟音とともに鉛玉の雨が敵の密集陣形を容赦なく薙ぎ払う。
「ぎゃああっ!?」
「ひぃッ、前からも後ろからも撃たれるぞ!」
種村の軍勢は完全に狼狽し、我先にと逃げ出そうと右往左往し始めた。だが、そこへ追い打ちをかけるように、陣の左右の暗闇から、潜ませていた1,000の伏兵が一局に立ち上がった。
「一匹も逃がすな! 皆殺しにしろ!」
前後左右、完全な包囲網。逃げ場を失った城兵たちは、陣の中央にすり鉢状に取籠められ、四方から飛んでくる矢弾と槍によって、散々に薙ぎ立てられていった。討たれる者の数は知れず、先ほどまでの勇ましい鬨の声は、無惨な断末魔の悲鳴へと変わっていく。
自分たちを「狩る側」だと信じて疑わなかった哀れな夜盗たちは、完全に「狩られる側」として盤面ですり潰されていった。
でも、この凄惨な地獄絵図の中にあって、ただ一人、決して心を折らない怪物がいた。敵の大将・種村大蔵大輔である。
「ええい、狼狽えるな! 活路は己の剣で切り拓けェッ!」
当国無双の勇士と謳われた彼は、少しも騒ぐことなく、愛馬の腹に蹴りを入れた。彼は白刃を風車のように振り回し、群がる味方の兵を文字通り「切り抜け、切り抜け」、血飛沫を上げながら包囲網の一角を強引に突破しようとした。
その鬼神の如き武勇は、未来人の僕の目から見ても背筋が凍るほどの威圧感を放っていた。戦術レベルの不利を、個人の圧倒的な武力で覆そうという気概。
「……ほう。見事な武辺者よ」
その姿を見て、僕の隣にいた池田勝三郎が、猛禽類のような目を細めた。
「だが、ここで逃がしては織田の恥。……俺が相手をしてやる!」
「勝三郎殿! 無理は――」
僕の制止も聞かず、勝三郎は長槍を提げて愛馬を走らせた。
「汚いぞ、逃げるか種村! この池田勝三郎が相手だ、返せッ!」
勝三郎の怒声を受け、逃走しかけていた大蔵は馬の口を強引に引き返した。
「……よかろう。尾張の犬の首、冥土の土産にもらっていくわ!」
大蔵は太刀を真向に差し翳し、勝三郎に向かって突進した。互いに武勇の聞こえ高い壮士の激突。右に払い、左に受け。精神を限界まで励まし合う、火花散る一騎討ち(デュエル)。古き良き、武士の誉れをかけた美しい死闘――に、なるはずだった。
でも、彼らは信長の軍団の恐ろしさを、根本的に理解していなかった。
「オラァッ!!」
勝三郎は、あろうことか馬上で自らの得物である「槍」を、躊躇いもなく大蔵に向かって投げ捨てたのである。
「なっ……!?」
大蔵が驚愕して太刀で槍を弾き飛ばした、まさにその瞬間。勝三郎は馬の背を蹴って宙を舞い、大手を広げて大蔵の懐へと飛び込み、凄まじい勢いで組み合い(タックル)に持ち込んだ。そして、それだけではない。
二人の大将が組み合っている死角から、音もなく忍び寄る一つの影があった。池田の郎等である、片桐半左衛門である。彼は主君のピンチを救うため……いや、敵将を確実に仕留めるため、太刀を抜き放つと、大蔵が乗っている馬の「前足」を下から容赦なく斬り飛ばしたのである。
「ギヒィィィィンッ!?」
前足を失った馬が、悲痛な嘶きとともに前のめりに崩れ落ちる。戦国武将にとって、馬は一心同体の相棒だ。だが、織田の軍団にとって、敵のステータスを削るためなら手段は問わない。これは名誉ある一騎討ちではない。生きるか死ぬかの殺し合いだ。
「ぐおっ……!?」
馬を潰された大蔵は、重力に逆らえず馬から下へと「どうっ」と音を立てて転げ落ちた。その上に、組み付いていた勝三郎も重なるようにして落下する。泥と血にまみれた、獣のような取っ組み合い。だが、体勢を崩した大蔵に、もはや勝ち目はなかった。
「獲ったァッ!!」
ついに勝三郎が大蔵を力でねじ伏せ、馬乗りになってその首を掻き切った。生首を高く掲げて立ち上がった勝三郎の姿は、まさに血に飢えた修羅そのものだった。
「大将・種村大蔵大輔、この池田信輝勝三郎が討ち取ったりィィッ!!」
その大音声が戦場に響き渡ると、ただでさえ乱れ立っていた城兵たちは、完全に心を折られた。彼らにとって絶対の精神的支柱であった大将が、かくも無残に討たれたのだ。もはや刀を握る気力すら失せ、「降参する! どうか命を!」と、次々に武器を放り出して土下座を始めた。
――そして、僕の「計算」はこれで終わりではない。野戦場で敵の主力が壊滅し、大将が討たれているその真っ最中。空っぽ同然となった守山城の城内には、また別の影が蠢いていた。
「ヒャハハ! 藤吉郎様の言う通り、もぬけの殻だぜ!」
鉢巻を巻いた野盗の頭目――蜂須賀小六率いる小六党の兵士、およそ800人である。彼らは、敵の主力が「夜討ち」のために城を出たその直後を見計らい、裏口から城内へと乱れ入っていた。残っていた僅かな留守番の城兵たちに、彼らを防ぐ手立てなどあるはずもない。ある者は討たれ、ある者は生け捕りにされ、当たるを幸いに切り回った小六たちは、またたく間に城の中枢を制圧してしまった。
敵の主力は野戦で壊滅。城そのものも別動隊によって完全占拠。物理的な暴力と、盤面全体をコントロールする情報戦の完全なる融合。
守山城が完全に平定された時、空はいまだ寅の刻(午前4時頃)を過ぎていなかった。夜討ちの開始から、わずか数時間での電撃的な決着である。
「ふう……。なんとか、予定どおりに片付きましたね」
僕と勝三郎は、小六たちがすでに制圧し終えた守山城の城内へと入り、血の匂いが充満する大広間でようやく休息の腰を下ろした。
すぐさま早馬の使者を立て、この旨を本陣の信長へと報告させる。
「藤吉郎殿。貴殿のあの嫌らしい頭脳には、つくづく恐れ入るわ」
勝三郎が、顔にこびりついた血を無造作に拭いながら、呆れたような、しかし確かな称賛の眼差しを僕に向けてきた。
「とんでもない。勝三郎殿の、あの馬ごと切り伏せる容赦のなさがなければ、こうも早くケリはつきませんでしたよ」
僕は笑って肩をすくめた。東の空が、白み始めている。戦国の世の夜明け。今日もまた、太陽が昇る。
僕は静かに目を閉じ、胸の奥で確かに脈打つ「日輪」の熱を感じ取っていた。
名誉も、武士の誇りも、時代遅れのルールも関係ない。ただ徹底的に合理的に、使える手札をすべて使い潰して勝つ。この冷徹な未来人の狂気が、天下布武という巨大なうねりを加速させている。
「……さあ、いよいよ大詰めだ」
近江の障壁は、これで完全に消滅した。僕たちは立ち上がり、血塗られた刀を鞘に納める。視線の先には、足利義昭を奉じた数万の大軍が流れ込むべき、日本の中心――京の都が待っている。
僕の、いや「木下藤吉郎」の新しい歴史が、いよいよ本格的に幕を開けようとしていた。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
池田信輝種村大藏を討つ
さても城將種村大藏降參のよし聞こえければ、木下が軍勢一町ばかり陣營を退け、兵士ら甲冑を解いて酒宴をなし、用心の氣色さらになく、十分誇りて見えにける。その夜子の半刻ばかり、種村、上坂おのおのの三百餘騎、木下が陣へ押寄せ、俄に閧を作つて馳入りたるに、陣中さらに人影なし。種村大きに驚き、「敵の謀計に落ちたるぞ. 速に退け」と云ふほどどここそあれ、たちまち鐵砲響き、木下藤吉、池田信輝三千餘人、閧を作つて切つてかかる。種村が勢狼狽へ騒ぎ、我先にと逃げ出すを、陣の左右より木下が伏勢一千餘、一局に起つて城兵を中に取籠め散々に薙ぎ立てれば、討たるる者數を知らず。大將種村大藏は、當國無雙の勇士なれば少しも騒がず、群がる敵を切り抜け切り抜け、道を開き落行きけるを、池田信輝槍提げ、「きたなし返せ」と追つかけたり。大藏馬の口を引返し、太刀眞向にさしかざし、互に聞えゆる武勇の壯士、右に拂ひ左に受け、精神を勵まし戰ひけるが、信輝槍投げ捨て、大手を廣げて組合ひたり。池田が郎等片桐半左衛門、太刀抜き放し、種村が馬の前足を切り放す。種村なにかは暫しも堪るべき、馬より下へどうと落つ。信輝も同じく下り重なり、終に種村を取つて押ヘ、首かき切つて立上がれば、いとどさへ倫れ立ったる城兵ども、大將討たれぬれば皆降參をぞしたりける。この戰の最中に、小六黨の兵士八百餘人、城中へ倫れ入り、當たるを幸ひ切り廻れば、思ひよらざる城兵ども、防ぐ手立もあらばこそ、或は討たれ生捕られ、終に守山の城平治して、いまだ寅の刻は過ぎざるに、木下、池田城中に入りて休息し、使者を以てこの旨信長卿へ注進す。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
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絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜 投稿31日目UU累計5,000人達成!御礼投稿 8/10話 〜
ランキング露出が無いのに、昔からの愛読者様にはご覧頂けて順調にUUが右肩上がりの1ヶ月を過ごす事ができました。本当にありがとうございます。心からの感謝を込めて少しですがまとめて投稿させて頂きます。是非お時間のある時にお楽しみ下さい。




