1-97 掃討戦と命の費用対効果
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
六角承禎父子が本城・観音寺城を捨てて夜逃げしたという一報は、瞬く間に近江一円を駆け巡った。
主将の不在。それはすなわち、巨大な六角防衛網の完全なる「システムダウン」を意味していた。翌日、信長は総軍を率いて、もはや空箱となった観音寺城へと悠然と入城を果たした。
玉座には主はおらず、抵抗する者もいない。圧倒的な武威と、僕が仕掛けた心理戦によって、かつての覇者の居城は一滴の血を流すこともなく織田の手に落ちたのだ。
「――この勢いに乗るぞ。残る佐々木の衛星城を、ことごとく物理的にすり潰せ」
本陣にて、信長様は爛々と輝く目で新たな下知を飛ばした。完全に「勝」に乗っている。この戦局において、立ち止まるという選択肢は魔王の辞書にはない。敵に再編成の隙を与えず、完全に息の根を止める「掃討戦」の開始だ。
軍は二手に分けられた。一つは、柴田勝家、佐々木内蔵助、蜂谷兵庫頭の三将が率いる10,000騎の主力部隊。彼らは六角の有力な支城である日野城へと向かった。
そしてもう一つが、僕と、信長の乳兄弟である池田勝三郎の二人が率いる5,000人の別動隊だ。僕たちに与えられたターゲットは、京への街道筋を扼する要衝・守山城。
9月12日の巳の刻(午前10時頃)。僕たちは観音寺城を同時に進発し、左右に分かれてそれぞれの目的地へと馬を走らせた。
「藤吉郎殿。……さっさと片付けて、京の土を踏もうぞ」
並走する池田勝三郎が、血の気の多い笑みを浮かべて言った。
「ええ、無論です。無駄な出血は避けて、サクッと終わらせましょう」
僕は軽口で応じながら、頭の中で守山城のデータを弾き出していた。守山城を守るのは、種村大蔵大輔と、上坂主馬助。彼らが率いる城兵は、およそ1,000人。5,000対1,000。数の上では圧倒的にこちらが有利だ。
しかし、戦国というリアルな殺し合いの場において、「城に籠もった1,000の決死隊」というのは、想像以上に厄介な存在である。
守山城の麓に到着した僕たちは、すぐさま軍勢を展開させ、城の四方を何重にも厳しく取り囲んだ。でも、城側の士気は全く衰えていなかった。
主家である六角承禎が逃げ出したという絶望的な状況下でありながら、いや、だからこそ彼らは「我らこそが六角の意地を見せる」とばかりに、一種の破滅的な熱狂状態に陥っていた。
「来やがったな、尾張の犬どもめ!」
「一歩でも近付いてみろ! 一人残らず蜂の巣にしてくれるわ!」
城の櫓や狭間からは、数え切れないほどの弓や鉄砲が突き出され、敵兵たちが「寄せば命のある限り防戦する」と腕を撫でて待ち構えているのが見える。
「……なるほど。完全に死に場所を求めている目だ」
僕は陣幕の隙間から城を見上げ、小さくため息をついた。未来の知識を持つ僕からすれば、あれは最も戦いたくない相手だ。彼らにはもはや「勝つ」というビジョンがない。ただ「いかにして敵に大きな損害を与えてから死ぬか」という、自爆テロのような目的しか持っていない。
このまま力攻めをすれば、間違いなく落城させられる。だが、こちらも無傷では済まない。500から1,000の味方が、あの狂信的な防衛戦の巻き添えになって死ぬだろう。
天下布武の総仕上げである上洛の直前に、そんな無駄な軍兵の浪費は絶対に避けなければならない。
「藤吉郎殿、いかがなされる?一気に城門を打ち破りますか?」
血にはやる池田勝三郎を、僕は手で制した。
「待ってください、勝三郎殿。戦わずして勝つのが、最上の兵法(スマートなやり方)です」
僕は振り返り、控えていた腹心の一人――堀尾茂助を呼び寄せた。
「茂助。お前、使者としてあの城に行ってこい。……ただし、具足(鎧)は脱いで平服でね」
「は……?具足を、ですか?この殺気立った敵陣のど真ん中へ?」
茂助が目を白黒させる。無理もない。下手をすれば、近づいた瞬間に矢の雨を浴びて即死するかもしれない。
「そう。甲冑を着ていけば、『戦う意志がある』と見なされて緊張感を煽るだけだ。……平衣で行く。それはつまり、『お前たちの攻撃など、一切恐れていない』という最強の挑発になる」
僕の意図を理解した茂助は、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「……承知いたしました。では、いっちょカマしてまいります」
戦端が開かれるのを今か今かと待ち構えていた守山城の城兵たちは、拍子抜けする光景を目の当たりにすることになった。
織田の大軍の中から、たった一人の男が歩み出てきたのだ。しかも、武士の魂である甲冑すら帯びず、ヒラヒラとした平衣という、まるで散歩にでも行くような完全に無防備な姿で。
「な、なんだアイツは……?」
「撃て! いや、待て、丸腰だぞ! 使者か!?」
毒気を抜かれた城兵たちが撃ちあぐねている間に、茂助は悠然と城門の前まで進み出た。そして、城将である種村と上坂を呼び出し、対面を果たしたのである。
「――お初にお目にかかる。私は木下藤吉郎が家臣、堀尾茂助。本日は貴殿らに、極めて合理的な『提案』を持参した」
茂助は、敵将を前にしても一切怯むことなく、まるで未来のビジネスマンがプレゼンを行うかのように、朗々と、そして傍若無人に語り始めた。
「まず、現状の事実を確認しましょう。我が織田信長様は、足利義昭公を奉じて数万の大軍で上洛の途にあります。対して、貴殿らの主君である佐々木承禎は、和田山と箕作の要害をわずか半日で踏み潰され、恐怖のあまり城を捨てて逃亡しました」
種村と上坂の顔が、屈辱で真っ赤に染まる。だが、茂助は構わず言葉の刃を突き立てる。
「主君すら逃げ出したこの状況下で、僅か1,000の人数でこの小城に籠もり、我が織田の大軍と戦おうとする。……これが何を意味するか、お分かりですか?」
茂助はそこで言葉を区切り、わざとらしく両手を広げてみせた。
「それはな、『重い石を抱いて深い淵に飛び込む』ようなもの。あるいは、『自ら薪を背負って、燃え盛る焼野原に突っ込む』のと同じだ。……つまり、一片の勝機もない、ただの無駄死にです」
「き、貴様ッ……! 武士の意地を愚弄するか!」
上坂が刀の柄に手をかけるが、茂助は冷ややかな目でそれを見下ろした。
「意地で腹が膨れるか? 意地で死んだ兵の家族が報われるか?……速やかに降参するならば、我が主・木下藤吉郎の権限において、城兵すべての命を完全に保証してやろう。だが、もし降参が遅れれば――」
茂助の声が、地を這うような低いトーンに変わる。
「たちまち城壁は粉々に砕け散り、この城は血の海と化すだろう。……木下様は、無駄な命が散ることを心底『痛んで』おられる。ゆえに、この私を丸腰で使いに出されたのだ。……よくよく脳髄を絞って、合理的な返答を出されるがいい」
圧倒的な正論。反論の余地もない暴力的なまでの事実の羅列。それは、誇り高き戦国武将のプライドを根底からへし折る、究極の論破だった。
「……おのれ、木下の猿め……!我らをどこまで舐め腐っておるのだ!」
茂助が去った後の城内は、怒号と屈辱の嵐に包まれていた。種村大蔵大輔と上坂主馬助は、顔面を青筋で覆い尽くしながら、ギリギリと歯ぎしりをした。
彼らとて、バカではない。茂助の言っていることが、100%の「正論」であることくらい痛いほど理解している。普通に戦えば、城ごとすり潰されて全滅するだけだ。だが、あそこまで傍若無人にコケにされて、尻尾を巻いて「はい降伏します」と頭を下げるほど、彼らのプライドは安くなかった。
「……大蔵大輔殿。まともに戦えば勝ち目はない。だが、あの傲慢な使者の態度……逆に『利用』できませぬか?」
上坂が、血走った目で暗い笑みを浮かべた。
「あの使者の口ぶり、我らのことを完全に『何もできない雑魚』と侮りきっている証拠。……ならば、その油断を突くのです」
「なるほど……。偽りの降伏で時間を稼ぎ、夜を待つか」
種村もまた、その謀計に乗り、密かに歓喜の笑みを漏らした。彼らはすぐさま茂助を呼び戻し、いかにも屈辱に耐えかねて折れたという演技をして見せた。
「……貴殿の申す通り、我らに勝ち目はない。明日、城兵を引き連れて陣へと参り、正式に降参 仕る」と。
そして使者を帰した後、彼らは城内の全軍勢を手分けさせ、武具の点検を始めさせた。
(木下の陣は、我らが完全に降伏したと信じ込み、警戒を解いて眠りにつくはずだ。……今宵、奴らの寝首を掻き、木下藤吉郎の首を手土産に冥途へ旅立ってくれようぞ!)
彼らは完璧な奇襲計画を立案したつもりだった。自分たちこそが、あの生意気な尾張の兵を出し抜く知将であると信じ込み、日が暮れるのを血の滲むような思いで待ち構えていた。
一方その頃。自陣に戻ってきた茂助からの「明日の朝、降伏するそうです」という報告を受けた僕は、陣幕の中で床几に深く腰掛け、クックックと腹の底から笑い声を漏らしていた。
「……藤吉郎殿?何を笑っておられる。敵が降伏してくるなら、重畳ではないか」
不思議そうな顔をする池田勝三郎に、僕は笑い涙を拭いながら答えた。
「いやあ、申し訳ない。あまりにも『教科書通り』な反応だったから」
僕は未来の知識と、数多のゲームや歴史書で培った「戦術のパターン」を知っている。プライドの高い武士を極限までコケにし、追い詰めた上で、「明日降伏する」という猶予を与えれば、彼らが何を考えるか。
「勝三郎殿。残念ながら、明日の朝までぐっすり眠るわけにはいきませんよ。……奴ら、今夜確実に『夜討ち』を仕掛けてきます」
「なっ……偽りの降伏だと!?おのれ、卑劣な!」
激昂する勝三郎を宥めながら、僕はゆっくりと立ち上がった。僕が茂助を丸腰で送り、あえて傍若無人な態度を取らせたのは、敵を「夜討ち」という特定の行動に誘導するためだったのだ。
強固な城から敵を引きずり出すには、彼らが「勝てる」と錯覚するような隙を見せてやる必要がある。
「卑劣ではありません。彼らなりに必死に知恵を絞った、哀れなまでの『最適解』ですよ。……でも、盤面のルールを作っているのは、最初からこちらだということに気付いていない」
僕は冷え切った目で、夕闇に沈みゆく守山城を見据えた。
「さあ、おもてなしの準備を始めようか。――自分たちを『狩る側』だと勘違いして城からノコノコ出てきた哀れなネズミどもを、一匹残らずすり潰すためのね」
胸の奥で、日輪の熱がチリチリと焼け焦げるような痛みを発している。
天下布武への道程。それは、古い時代の価値観に縛られた者たちを、冷徹な未来の計算で容赦なく駆逐していく、残酷なゲームの始まりだった。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
木下藤吉郎守山の城を攻む
承禎父子、観音寺の城退去の由聞こえければ、信長惣軍を引きて入城し給ひ、さらば勢に乗つて佐々木の附け城ことごとく攻落すべしとて、日野の城ヘは柴田勝家、佐々木内蔵助、蜂谷兵庫頭三人、その勢一萬餘騎、守山の城ヘは木下藤吉郎、池田勝三郎兩人、五千餘人、九月十二日巳の刻、同時に観音寺を進發し、左右に分れて馳たりけり。守山の城には種村大藏大輔を大將として、上坂主馬助一千餘人、少しも屈せず、矢石を備ヘ待ちかけたり。藤吉郎謀を定め、嚴しく四方を取囲み、いまだ戰を催さず、堀尾茂助を以て使者となし、城中ヘ赴かしむ。城兵敵寄せば命限り防戰すべしと、拳を撫でて待ちけるに、戦は始めずして、使者一人、甲冑を帯せず、平衣にて入り來り、種村に對面して、「今度織田信長、義昭公を守り立て大軍上洛するところに、佐々木承禎御味方に參らざるを以て、和田山、箕作の要害一時に踏み潰し、承禎父子甚だ恐怖し、向はざるに城を捨て落失せたり。然るに今この小城に、僅の人數籠城して、織田の大軍と戰はん結構あるは、石を抱きて淵に入り、薪を負ひて焼野を行くに同じかるべし。速に降參あるに於ては、全く助命の沙汰に及ぶべし。もし降參遅滞に及ぶときは、たちまち城壁粉のごとく、滿城血となすべき間、木下藤吉これを痛み、某に命じて使節たらしむ。思慮を加えて返答すべし」と云ふ。種村、上坂、使者の口上傍若無人なるを怒るといヘども、事に附いて謀計をなさんと密に悦び、「明日城兵を引き連れ御陣ヘ參り、降參仕るべし」と使者を返し、軍兵を手分けして、今宵木下が陣を夜討すべしと用意をなし、日の暮るるを待ち居たり。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
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絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜 投稿31日目UU累計5,000人達成!御礼投稿 7/10話 〜
ランキング露出が無いのに、昔からの愛読者様にはご覧頂けて順調にUUが右肩上がりの1ヶ月を過ごす事ができました。本当にありがとうございます。心からの感謝を込めて少しですがまとめて投稿させて頂きます。是非お時間のある時にお楽しみ下さい。




