1-95 沈黙の包囲網、トロイの木馬
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
箕作城の四方を完全に包囲した明智光秀の戦術は、軍学の理にかなった極めて完璧なものだった。
急ごしらえの逆落としで痛手を負ったとはいえ、城の防衛力はいまだ健在である。城兵たちは固く門を閉ざし、櫓から絶え間なく矢石を降らせて徹底抗戦の構えを見せていた。
だが、光秀は動じない。彼は本陣の床几に腰を下ろしたまま、冷ややかな視線でそびえ立つ城壁を見上げていた。
「……我が計略、すでになりぬ。この城、今や自壊して落城せん」
彼の呟きは、確信に満ちていた。外からの物理的な攻撃を止め、周囲を完全に封鎖する。補給を断たれ、圧倒的な大軍に囲まれたという「絶望は、時間と共に城兵たちの精神を確実に削り取っていく。飢え、疑心暗鬼、そして裏切り。光秀は息を詰め、その「臨界点」が訪れるのを時計の針を数えるように待っていたのである。理路整然。完璧な詰み。
――でも。
戦国の世における勝敗は、常に盤上の計算だけで決まるわけじゃない。未来の歴史を知り、現代の合理性と泥臭い手段を併せ持つ僕という転生者がこの戦場にいる限り、盤面のルールは容易に書き換えられる。
「……そろそろ、仕込みの時間が来る頃合いだな」
光秀が静かな包囲戦を続けていたその時、僕の指揮下にある陣の端から、一騎の人馬が悠然と歩み出た。男は弓も鉄砲も持たず、ただ身軽な格好で馬を進めると、危険な堀際のギリギリまで乗り出した。
そして、手にした鞭を高く掲げ、城の櫓に向かって指を突きつけたのである。
『――やあやあ、城中の者ども、よく聞けェッ!』
朗々とした大音声が、戦場の静寂を切り裂いた。
『当城は、すでに此方の有となれり! 然るをいまだ悟らず、何を頼みに無駄な防戦をするや! 早く降参して生命を全くせよ! 猶予するに及んでは、城壁とともに粉のごとくに打ち砕くべきぞ!』
城はすでに落ちている。だから無駄な抵抗はやめろ。そんな荒唐無稽な大ウソ(ブラフ)を、男はさも事実であるかのように高らかに叫び、同調した僕の陣の兵たちも「ワハハハハ!」と一斉にどっと笑い声を上げたのである。
城兵たちはもちろんのこと、包囲を続けていた味方の明智勢や坂井・森の兵たちも、ポカンと口を開けて驚愕した。
「何を馬鹿なことを言っているんだ、あの木下の部下は」と。
だが、本陣にいた光秀だけは、決して笑わなかった。光秀は鋭い眼光を細め、僕の陣の方角をチラリと一瞥した。
(……なるほど。藤吉郎殿、我が謀を推察し、城兵の心を折るための駄押しに出たか)
光秀は、僕の行動を「高度な心理戦」であると即座に分析したのだ。
城兵たちに「もしかして、どこかの門がすでに破られたのでは?」という疑心暗鬼を生じさせ、内部分裂を加速させるための計策。光秀はそう結論づけ、「悪くない手だ」とばかりに再び城中へと視線を戻した。
――しかし、明智十兵衛光秀。貴方は少しばかり、理性的に過ぎる。
僕が放ったあの言葉は、単なる心理戦ではない。事実を、ほんの少しだけ早く口にしただけの「合図」だ。
光秀が怪しみながら城中を観察していた、まさにその瞬間のことである。城の防衛の要である大櫓の上で、異変が起きた。
「ええい、尾張の猿どもめ、たわけた口を叩きおって! 者ども、構うな! 矢を番えよ!」
櫓の上で士卒を叱咤し、必死に防衛の指揮を執っていた中沼隼人という剛の者がいた。六角家中でも名の知れた勇将である。彼が弓を引き絞ろうとしたその背後――城内の暗がりから、突如として『一人の巨大な影』が音もなく這い出してきたのだ。
身の丈六尺を超えるであろう、熊のような大男。その手には、月光を鈍く反射する凶悪な鉈が握られていた。
「――死地の真っ最中に、背中が留守だぜ、大将」
「なっ……貴様、どこから――ギャアアアアッ!?」
大男が鉈を無造作に振り抜いた瞬間、中沼隼人の首が、兜ごと見事に宙を舞った。鮮血が噴き上がり、首を失った胴体が櫓の下へと崩れ落ちる。
「て、敵だァァッ!? 城内に敵が入り込んでるぞォッ!!」
指揮官を瞬殺された城兵たちは、恐慌状態に陥った。外から攻め込まれたのではない。絶対に安全であるはずの「内側」に、いつの間にか死神が入り込んでいたのだ。「謀反人よ!」「裏切りが出たぞ!」という絶叫が、箕作城の夜空にこだました。
そして、それを合図とするかのように。城のあちこちの物陰から、潜伏していた30人の男たちが一斉に姿を現した。
『――木下藤吉郎が手先、蜂須賀小六! 箕作城、一番乗りィィッ!!』
彼らは懐から五色の吹貫を取り出すと、それを城内の至る所に高く突き立て、銘々に名乗りを上げながら暴れ回り始めた。
蜂須賀小六、稲田大炊助、堀尾茂助、加治田の輩。武士ではない。彼らは尾張と美濃の国境を縄張りとする野盗「川並衆」――裏社会の非正規工作部隊だ。
彼らは攻城戦が始まる前から、木こりや商人に変装して城内に潜り込んでいた、いわば「トロイの木馬」だった。僕が事前に莫大な金を注ぎ込み、城の図面と警備の穴を把握させた上で、光秀が外で正規軍同士の美しい戦術を展開している裏側で、盤面をひっくり返すための泥臭い工作を行わせていた。
「殺せ殺せ! 手当たり次第に火を放てェッ!」
小六たちが四方に散って切り廻り、火打ち石で建物に火を放つ。外からの圧力で極限まで張り詰めていた城兵たちの精神は、内側からの暴虐によって完全に決壊した。上を下への大騒ぎとなり、煙と暗闇の中で誰が味方で誰が敵かも見定められず、同士討ちをしながら右往左往に逃げ惑い始めたのである。
「……ッ!!」
本陣からその光景を目の当たりにした明智光秀の顔から、すべての表情が抜け落ちた。光秀の完璧な理路が、農民上がりの男が放った「野盗の群れ」という盤外戦術によって、木端微塵に粉砕された瞬間だった。
光秀は悟った。木下藤吉郎は、援軍として加勢に来たのではない。光秀に正規軍の指揮を執らせ、城兵のヘイトを外に向けさせている間に、美味しいところを内部から完全に掠め取ろうとしていたのだ、と。
「……すはや、進め」
光秀の口から漏れたのは、静かだが、地獄の底から響くような呪詛の声だった。もしこのまま、城が木下藤吉郎の裏工作によって落ちたとすれば、大軍を率いて外で傍観していただけの自分は、信長から「無能」の烙印を押される。エリートとしてのプライド、そして何より、織田家中での己の存在意義が消滅する。
「進めと言っているのだァッ!!」
光秀が吠えた。それは先ほどまでの冷静沈着なインテリ武将の姿ではなかった。殺し合いを生業とする戦国武将としての、剥き出しの殺意と執念の咆哮だった。
「続けェッ!木下に後れを取るな!城門をぶち破れェッ!!」
光秀の狂気じみた号令に呼応し、森、坂井、そして明智の軍勢1,000人が、雪崩を打って突撃を開始した。もはや矢石による防衛線は機能していない。殺到した大軍は、追手の門を丸太で打ち破り、怒涛の勢いで城内へと乱れ入った。
「当たッる者は一人残らず切り捨てよ!!」
先陣を切って城内へなだれ込んだのは、他でもない明智光秀その人だった。
光秀は白刃を閃かせ、逃げ惑う城兵を次々と斬り伏せていく。兜には返り血が浴びせられ、その双眸は夜叉の如く血走っていた。自分の功を藤吉郎に奪われるまいとする、異常なまでの執着心が、彼に常軌を逸した武の力を発揮させていたのである。
城兵たちは、内には小六たち川並衆の狂刃を抱え、外からは血に飢えた光秀の正規軍に蹂躙され、もはや防ぐべき手立てもなく次々と討ち取られていった。
生き残った主将・吉田出雲守と僅かな残兵は、絶望の中で本丸へと逃げ籠もり、最後の抵抗を試みた。だが、今の明智光秀を止めることは、誰にもできなかった。
「――この本丸を我が手で攻め落とさずんば、何面目あって人に顔を合わせられようかッ!」
光秀の闘志は、日頃の何倍にも達していた。彼は矢弾が飛び交う中を自ら真っ先に進み、息をも継がず、一歩、また一歩と本丸の防衛線を血に染めながら押し破っていく。その姿は、味方であるはずの僕の目から見ても、背筋が凍るほどに恐ろしく、そして美しかった。
(……化け物め。プライドを傷つけられたエリートが、ここまで死に物狂いになるとはな)
僕は陣の奥で腕を組みながら、光秀の狂乱の戦いぶりを眺めていた。僕の「チート」が、眠れる怪物の本性を完全に引きずり出してしまった。光秀は決して、単なる頭の回る文化人などではない。自分の居場所を守るためなら、喜んで修羅に堕ちることができる、真の戦国武将だった。
さすがの城兵たちも、死神と化した光秀の猛攻の前に、ついに心が折れた。
「降参する!どうか命ばかりは!」と、声々に叫びながら武器を投げ捨てたのである。
光秀は血塗られた刀を下段に構えながら、その場で荒い息を吐き、すぐさま信長の本陣へと使者を走らせた。
やがて、信長から『望みに任せて城を請け取り、軍兵どもは殺さずに追い払うべし』という下知が届けられた。無駄な殺生を避ける、極めて合理的な判断だった。
出雲守は大いに悦び、安堵の涙を流しながら残兵を引き連れ、六角氏の本城である観音寺城へと逃げ去っていった。
箕作城、陥落。明智光秀が本丸に入り、諸軍の疲れを休ませる号令を出した時、空にはすでに巳の刻(午前10時頃)を過ぎた高い太陽が輝いていた。
「……木下殿」
本丸の焼け跡で、返り血で赤黒く染まった具足のまま、光秀が僕の前に立った。彼の息はまだ荒く、その目には凄まじいまでの剣気が宿ったままである。
「貴殿の……あの卑劣極まりない『仕込み』のおかげで、予定よりも早く城を落とすことができた。……礼を言うぞ」
それは感謝の言葉の形を借りた、明確な敵意の表明だった。僕が光秀の手柄に泥を塗り、光秀を死地に立たせたことを、光秀は一生忘れないだろう。
「とんでもない。明智殿の鬼神の如き突撃がなければ、僕の小細工などただの火遊びで終わっておりました。すべては、織田の武威を示すためです」
僕は道化のようにへらへらと笑いながら、深く頭を下げた。
胸の奥で、日輪の熱がチリチリと焼け焦げるような痛みを発している。
僕たちは勝ったのだ。六角氏の誇る「鼎の三足」は、僕と光秀の手によって完全にへし折られ、京への道は今、完全に切り拓かれた。でも、この箕作城の灰と血の匂いの中で、僕は確かに感じ取っていた。
明智十兵衛光秀という男との間に、決して交わることのない、冷たくて深い亀裂が刻み込まれたことを。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
箕作落城
このとき城中固く守り、矢石を飛ばし防戰す。光秀は「我が計略すでになりぬ。この城今や落城せん」と、息を詰めて控ヘけるとき、木下が兵の内より、一人人馬を堀際へ乗り出し、鞭を揚げて城兵を指し招き、大音にて申しけるは、「當城すでに此方の有となれり。然るをいまだ悟らず、何を頼みに防戰するや。早く降參して生命を全くせよ。猶豫するに及んでは、城壁ともに粉のごとくなすべきぞ」と高らかに呼ばはつて、同音にどつと笑ふ。城兵は云ふに及ばず、味方の勢も大に驚き、その故を曾て知らず。光秀も怪しみながら、「藤吉我が謀を推察して、かくのごとく罵らしめ、城兵を疑はしむる計策ならん」と、猶豫して城中を見るに、中沼隼人といふ剛の者、櫓に上り土卒を下知し居るところヘ、一人の大漢子傍より顯はれ出、中沼を一刀に切り殺す。ここに於て城中大に周章て騒ぎ、「謀反人よ」と呼ばれるところに、たちまち五色の吹貫を城中に高く指し上げ、「木下藤吉郎箕作の城一番乗り」と銘々に呼ばはつて、小六を始め、稲田、堀尾、加次田が輩三十餘人、四方に散つて切り廻れば、城中上を下へと騒ぎ倫れ、何れ(いづれ)を味方と見定めがたく、右往左往に逃げたりける。これを見て森、坂井、明智が輩、「すはや進め」と云ふほどどこそこあれ、一千餘人、追手の門を押し破り、一同に倫れ入り、當る者を切り廻る。城兵今は防ぐべき手立なく、本丸へ逃げ籠り、主將出雲守必死になりて戰うたり。明智光秀は、思ひもよらず藤吉に功を奪はれ、「この本丸を攻落さずんは、何面目に人に面を合すべき」と、勇氣日ごろに十倍して、自ら眞先に進んで、息をも繼がず攻めぬければ、さしも必死と定めたる城兵も大きに苦しみ、降參の由聲々に呼ばはりけるにぞ、光秀この旨信長卿へ伺ひければ、「望に任せ城を請取り、軍兵どもは追ひ拂ふべし」と下知し給ヘば、出雲守大に悦び、殘兵引き連れ、観音寺の本城へ退きける。光秀本丸に入りて、諸軍の勞れを休めける。このときすでに巳の刻は過ぎたりける。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
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絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜 投稿31日目UU累計5,000人達成!御礼投稿 5/10話 〜
ランキング露出が無いのに、昔からの愛読者様にはご覧頂けて順調にUUが右肩上がりの1ヶ月を過ごす事ができました。本当にありがとうございます。心からの感謝を込めて少しですがまとめて投稿させて頂きます。是非お時間のある時にお楽しみ下さい。




