1-94 焦燥の狼と、逆襲の城兵
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
天下布武の号砲は、古い時代の残骸を吹き飛ばしながら、さらに西へ、西へと向かって轟き続けていた。
――だが、その「箕作城の陥落」という完全なる結末に至るまでには、僕と明智光秀との間で、もう一つの張り詰めた心理戦が交わされていた。
時計の針を、箕作城が落ちる直前へと少しだけ戻そう。十三歳の坂井久蔵が江州無双の猛将・建部源八郎を討ち取り、城の防衛ラインに決定的な風穴を開けた直後のこと。
明智十兵衛光秀は、敵の要が討ち取られたこの絶好の機を決して逃さなかった。本陣から戦況を俯瞰していた彼は、一切の感情を交えない冷徹な声で計策を定め、最前線に配置していた坂井右近と森三左衛門の二将に下知を下した。
「敵の指揮系統に乱れが生じた。今こそ一気に押し潰せ」
光秀の氷のような号令を受け、織田の軍勢は地鳴りのような鬨の声を上げて斜面を駆け上がった。だが、箕作城は六角承禎が「鼎の三足」として絶対の自信を持って築き上げた要害中の要害である。ただでさえ険しい山肌に加え、城内の兵たちは、建部源八郎を失った悲しみと屈辱を凄まじいまでの闘志に変えていた。
「おのれ尾張の田舎侍ども! 源八郎様の仇、ここで骨の髄までしゃぶり尽くしてやる!」
上空から降り注ぐのは、憎悪にまみれた矢石の雨。急な斜面と猛烈な射撃の前に、光秀が放った寄手の兵たちは初めから足場を悪くし、とかく前へ進みかねていた。
殺し合いを生業とする戦国の兵たちにとって、一瞬の「足踏み」は致命的な隙となる。織田軍が攻めあぐねる様子を櫓から見下ろしていた城兵たちは、次第に寄手を侮り、軽んじ始めた。
「なんだ、尾張の兵は口ほどにもないな!」
「押し返せるぞ! 一匹残らず叩き出せ!」
勢いに乗った彼らはあろうことか城戸を大きく開き、城内から逆落としに討って出たのである。地の利を得た、狂気じみた決死の突撃。上から雪崩れ込んでくる重武装の近江兵たちに対し、散々に駆け立てられ、追い捲られた坂井と森の両部隊は、暫し踏みとどまって血みどろの防戦を試みた。
しかし、重力と怒りに乗った敵の物理的圧力は凄まじく、ついに陣形を維持できなくなり、しどろもどろになって麓へと敗走を始めてしまった。指揮官である光秀にとって、これは完全な誤算だった。軍学に基づく理路整然とした攻めが、野性的な怒りと地の利の前に力ずくで押し返されてしまった。
ちょうどその頃。僕はすでに、自身の目標であった和田山城を奇策をもって無血開城させ、信長から多大な称賛を受けていた。
「……箕作城は、要害堅固にして等閑にできる城ではない」
自陣で本陣からの伝令を受けた僕は、渋い顔をした。和田山が落ちても、箕作が落ちなければ「鼎の三足」を完全にへし折ったことにはならない。もし箕作の落城が延引すれば、せっかくの電撃戦のテンポが遅れ、六角の本隊に立て直しの隙を与えてしまう。未来のビジネスでも戦国の軍略でも、プロジェクトの遅延は致命傷になり得る。
「光秀殿の様子を見に行くぞ。あちらは物理的な戦力が足りていないはずだ」
僕はすぐさま、まだ無傷であった手勢の中から500人の精鋭を引具し、明智の陣へと駆けつけた。
到着してみれば、そこには敗走してきて息を切らす坂井・森の兵たちと、床几に腰掛け、微動だにせず戦況を見つめる光秀の姿があった。
「明智殿、ご加勢に参りました。……戦況はいかがですかな?」
僕が意図的に飄々(ひょうひょう)とした態度で近づき、計略の進み具合を問うた瞬間。光秀の鋭い眼光が、ゆっくりとこちらに向いた。新参者として「三時(6時間)で落とす」と信長に大見得を切ったにもかかわらず、自分の攻め口は敵に押し返されている。そこへ、同じ条件で競争していた農民上がりの男が、すでに自分のノルマを完璧に終え、涼しい顔で「助けに来た」と言うのだ。
普通の武将であれば、顔を真っ赤にして怒鳴り散らすか、焦りで言い訳をまくし立てていただろう。だが、毛利元就が「外寛内急」と評したこの男は、決して自分の焦燥を表面には出さなかった。
戦国の世を生き抜く怪物特有の、底知れぬ胆力。光秀はスッと感情の波を消し去り、氷のように冷ややかな声で答えた。
「木下殿。……ご案じには及びません。私の計略は、すでに大半が成就しております」
「ほう?」
「城はすでに落城の兆しを現しております。今、味方の諸将が敵兵に押し返されて敗走しておりますが……あれは、血の気に逸る敵兵を城外へ『おびき出す』ための罠。これこそが、私の描いた謀です」
微塵の揺らぎもない、平然とした顔で、彼はそう言い放った。
(……嘘つけ)
僕は内心で、盛大にツッコミを入れた。あれが計画通りの誘引であるはずがない。兵たちの息の上がり方、陣形の崩れ方、血の流し方を見れば、ガチで押し負けて敗走してきたことは一目瞭然だ。
光秀は、自身の戦術的ミスを隠し、僕に対して優位性を保つために、咄嗟に完璧な詭弁を構築していた。でも、僕はそれ以上追及しなかった。ここで光秀の嘘を暴き、正論でマウントを取って恥をかかせても盤面には何のプラスにもならない。
殺し合いを生業とする武将たちにとって、「顔に泥を塗られる」ことは死よりも重い怨恨を生む。むしろ、能力の高いこの男のプライドを完璧に守り、恩を売っておく方が、今後の織田家中での発言力を高めることに繋がる。僕は大げさに頷き、ビックリしたような声を上げた。
「なるほど!敵を城の守りから引き離すためのおびき寄せだったのですね。実に見事な作戦です!それなら、この城もいずれ落とせるでしょう!」
光秀は、わずかに目を細めた。その視線は、こちらの本心を見極めようとするように鋭かった。
僕はさらに言葉を重ね、光秀がこちらの申し出を受け入れても不自然にならないよう、もっともらしい理由を用意してやった。
「ですが、明智殿。あなたの兵だけでは少し数が足りません。その見事な作戦を確実に成功させるには、戦力が不足しているのではありませんか? ここは私の兵も加えましょう。大軍で攻め込み、あなたの素晴らしい策を、共に成功させようではありませんか!」
相手の嘘に完全に乗っかりつつ、自分の兵力を投入する正当な理由を作る。光秀は、数秒の静寂の後、小さく、だが力強く頷いた。
「……感謝いたします、木下殿。では、お言葉に甘えさせていただこう」
彼の言葉に従い、僕は引き連れてきた500の兵を光秀の軍勢に合流させた。これで都合1,000人。僕たちは息を吹き返した軍列を冷徹に整え、意気揚々と追撃してくる城兵たちへ向けて、再び死地の斜面へと軍を進めた。
一方、城兵たちは、坂井・森の部隊を切り立て切り立て、完全に勝利の熱狂に乗って麓まで追いすがりつつあった。
「逃がすな! 尾張の腰抜け共を叩き潰せ!」
だが、彼らが山の開けた場所へと出た瞬間、そこで待ち構えていたのは、逃げ腰の敗残兵ではなかった。僕と光秀が合流し、冷徹に陣形を組み直した1,000人の精鋭部隊である。
「撃てェッ!!」
光秀の殺気立った下知が戦場に響き渡った。
――ダダダダダンッ!!
入れ替わって最前線に出た光秀の鉄砲隊が、連べ撃ちに火を噴いた。まだ高価で希少だった鉄砲の組織的な一斉射撃。鉛玉の雨が、無防備に城外へと飛び出していた城兵たちの先頭集団を容赦なく薙ぎ払い、肉を穿ち、骨を砕く。
「ぐわああっ!?」
「な、なんだ!? 伏兵か!!」
自分たちが完全に追いつめていると思っていた敵が、突如として倍の兵力となり、未知の轟音と共に凄まじい反撃を見せたのだ。城兵たちの士気は一瞬にして凍りつき、完全に恐慌状態に陥った。
そして、光秀が「案の定」と予測していた通り、後方の城の中から、カン、カン、カンとけたたましい鐘の音が鳴り響いた。
「いかん!長追いをして過ちを犯すな!引け、引くんだ!」
城将の的確な判断により、城兵たちは蜘蛛の子を散らすように背を向け、一目散に城内へと引き取っていった。光秀はこの機を絶対に逃さなかった。彼は刀を抜き放ち、士卒に号令をかけて、敵の背中に貼り付くようにして急激に城際へと押し寄せた。
「今だ! 城内へ雪崩れ込め!」
「させるかァッ!」
城門の際で、再び激しい攻防が巻き起こった。城兵たちも自分たちの防衛線に付け入られまいと、必死の形相で槍を突き出し、防戦した。
もしここで無理に城門を突破しようとすれば、押し合いへし合いになり、織田軍にも多数の死傷者が出ただろう。だが、光秀はどこまでも冷静だった。彼は敢えて無駄な戦(被害)を好まず、ピタリと軍の足を止めさせた。
そして、軍勢を展開させて城の四方を完全に包囲すると、遠巻きから鉄砲を放ち、火矢を射かけて、城の動きを完全に封じ込めた。
「これで詰みです」
光秀は、炎に照らされる箕作城を見上げながら、感情の読めない声で静かに呟いた。
「城を落とすのに、何も最後まで無闇に殺し合う必要はない。敵の主力は折れ、恐怖は城内に蔓延している。……あとは、内側から瓦解するのを待つだけです」
その言葉通り、四方を囲まれ、圧倒的な暴力と恐怖の前に心を折られた箕作城は、夜半を過ぎる頃には内側から内応や逃亡を引き起こし、完全に陥落の時を迎えることとなる。
和田山と箕作。六角承禎が絶対の自信を持っていた「鼎の三足」は、こうして僕と光秀の手によって、わずか一日で完全にへし折られた。
「木下殿」
戦火が静まり、血と硝煙の匂いが漂う中、光秀が僕に向かって一礼した。
「貴方の加勢がなければ、私の見栄はただの無惨な愚行に終わっていたでしょう。……恩に着ます」
「気にしないで下さい。織田の勝利が、僕たちの勝利です」
僕は笑って肩をすくめた。頭を下げた彼の目には、焦燥も屈辱もなく、ただただ冷徹な知性の輝きだけが宿っていた。自分の弱みを見せ、それを他人にカバーされたという事実を、彼はどう受け止めたのだろうか。いずれにせよ、この戦いを通じて、僕と明智光秀という二人の関係性は、単なる同僚以上の、複雑で奇妙な因縁で結ばれることとなった。
夜が明け、太陽が昇る。六角氏の支配が完全に崩壊した近江の道を、足利義昭の輿がゆっくりと進んでいく。
京の都は、もう目の前だ。胸の奥で、あの日見た日輪の熱が静かに、だが確かに燃えている。
戦国の世に生まれ落ちた一介の「僕」が、木下藤吉郎として、数多の怪物を退け、味方をも手玉に取りながら切り拓いてきた天下への道。その最初の大きな扉が、今、轟音と共に開かれた。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
明智光秀箕作を攻むる
さるほどに明智光秀計策を定め、坂井右近、森三左衛門に下知して、重ねて城を攻め討たさしむ。城中暫く矢石を飛ばし防ぎ戰ひけるが、初めより寄手の兵、とかく進みかねて見えければ、城兵甚だ侮り輕んじ、今度も城戸を開いて討って出、散々(さんざん)に駈立て追ひまくれば、坂井、森の兩人、暫し支へて戦ひしが、備を立てかね、しどろになって敗走す。このとき藤吉すでに和田山を攻落し、信長卿の命を受け、「箕作は要害堅固にして等閑の城にあらず。落城延引せば妨げあらん」とて、光秀を見継ぎのため、手勢五百餘人を引具し、明智が陣へ來り、光秀にその計略を問ふ。光秀、藤吉が和田山を攻落せしを見て甚だ心を苦しめ、答へて曰く、「某が計略大半成就し、すでに落城のきざし顯はれたり。今味方の諸將敵兵をおびき出し、戦うて敗走せり。これ某が謀にて候」と云ふ。木下早くその手段を悟り、「至極の計略、やがて落城仕らん。しかし足下手勢少なく、計略十分に行ひがたからん。某が勢を合せ、この度は大勢にて向ひ、よく謀事を行ひ給へ」と。光秀その詞に隨ひ、藤吉が勢を我が勢に合せ、都合一千餘人、またまた城へ攻寄せける。城兵、坂井、森が兵を切り立て切り立て、勝に乗って追ひ来る。光秀が勢入替って戦ひ、鐵砲を連べ放ち、敵兵を驚かし、引上げさせんと謀りけるが、案のごとく城兵ども、「長追をして過まちすな」と、鐘を鳴らして引取りける。このとき光秀士卒を下知し、急に城際へ押寄せ、謀事を行はんとす。城兵附け入らせじと、必死になりて防ぎければ、光秀も敢へて戦を好まず、城の四方を取圍み、鐵砲を放ち矢を射かけ、城中の變を待ち居たり。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
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絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜 投稿31日目UU累計5,000人達成!御礼投稿 4/10話 〜
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