1-88 不眠の猿と、静かなる殺気
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
いよいよ天下の命運を決する「上洛戦」の業火の中へ――と、意気揚々と進軍を開始した僕たちだったが、実はこの盤石の体制が完成するまでには、あの「猿舞」の宴の後に、もう一つの死闘が存在していた。
上洛の軍列に揺られながら、僕はその夜の、ひやりとする冷たい記憶を脳裏に蘇らせていた。
永禄11年(1568年)8月20日。近江・佐和山城での会見を無事に終え、浅井長政との間に強固な同盟関係を結んだ信長は、その夜、城の近くにある菩提院という寺院を本陣として宿をとったた。
「大儀であった、藤吉郎。これで上洛の道は開けたな」
「はっ。信長様の御威光あってこその成果にございます」
信長はすっかり上機嫌で、何一つ用心する気配もなく、供の者たちと快く酒宴を催し、そのまま深い眠りへと入った。
無理もない。浅井家とは義兄弟の契りを交わし、長政本人と直に酒を酌み交わして心を通わせたのだ。今日のところはもう完全に「安全地帯」にいると判断してもおかしくはない。
――だが、僕の心の中の警報は、依然として鳴り止んでいなかった。
(……あの男の目は、まだ死んでいなかった)
佐和山城の広間で、信長を暗殺しようと企てた浅井家の老臣、遠藤喜右衛門。僕の決死の「猿舞」によってその場はやり過ごしたものの、あの狂気じみた忠誠心を持つ男が、一度の失敗で簡単に諦めるとは到底思えなかった。そして、僕の予感は的中する。
この日、菩提院での信長の接待役として命じられ、寺に入り込んできたのは、他でもない遠藤喜右衛門その人だった。
遠藤喜右衛門は甲斐甲斐しく世話を焼きながら、始終、信長の隙を伺っていた。信長は完全に無防備であり、武装した護衛すらいない。
(……やらせるかよ)
僕はこの夜、眠気を捨て去った。信長の寝所のすぐ傍らに陣取り、目をカッと見開いて、四方に鋭い視線を配り続けた。暗殺という行為は、一瞬の気の緩み、一瞬の死角を突いて行われる。ならば、僕がその「死角」を完全にゼロにしてやればいい。
深夜の菩提院。静まり返った寺院の中で、僕と遠藤喜右衛門の、声なき死闘が続いていた。
遠藤が少しでも信長に近づこうとすれば、僕がスッと立ち塞がり、「何か御用で?」と笑顔で睨みつける。遠藤が懐に手を持っていこうとすれば、僕が扇子を鳴らして牽制する。完全なる膠着状態。
遠藤は、焦燥に顔を歪めていた。信長は無防備に眠っているというのに、その横にいる一匹の「猿」が、異常なまでの警戒心を発揮して、手出しできない物理的な結界を張っている。
やがて、夜明けが近づく頃。僕の異常な守護の前に、ついに狙いをつけることすら不可能だと悟った遠藤は、ギリッと奥歯を噛み締め、静かに菩提院から姿を消した。
菩提院を抜け出した遠藤喜右衛門は、そのまま暗闇の中を馬で駆け抜け、浅井家の本拠地である小谷城へと急行した。遠藤は、前当主である浅井 久政の御前へと文字通り転がり込み、血を吐くような声で訴えかけた。
「大殿!どうか、どうか今一度ご決断を!織田信長を討つのは、今夜しかありませぬ!奴は菩提院にて、わずかな供回りだけで眠りこけております!今、軍勢を差し向ければ、確実に首を獲れまする!」
だが、久政と、騒ぎを聞きつけてやってきた当主・浅井長政の返答は、極めて冷酷なものだった。
「ええい、狂ったか喜右衛門!昼間、固く同盟を誓い合ったばかりの義兄を夜討ちにするなど、武士の風上にも置けぬ外道の所業! 浅井家の末代までの恥となるわ!」
「二度とそのような凶言を吐くでない!下がれ!」
主君父子からの、完全なる拒絶。戦国のロジックとして、浅井長政たちの判断は正しい。ここで信長を暗殺すれば、浅井家は「卑劣な裏切り者」として日本中の非難を浴び、織田家の残党から永遠に復讐されることになる。
だが、遠藤喜右衛門の心は、すでに常軌を逸した「愛国心」によって塗り潰されていた。
(……ああ。我が主君たちは、あの魔王の真の恐ろしさをご存知ないのだ)
遠藤は、絶望の涙を流しながら小谷城を後にした。主君が首を縦に振らないのなら、もはや取るべき道は一つしかない。
(所詮、この身は使い捨ての駒。……私が独断で軍兵を率い、菩提院へ押し寄せて信長を討ち取る!主君父子の怒りを買い、この腹を十文字に切り裂かれることになろうとも、浅井の国家が安泰となるならば、少しも厭うことはない!)
遠藤喜右衛門は、己の命と名誉のすべてを捨てる自己犠牲を決めた。遠藤喜右衛門は同じく織田への不信感を抱いていた同志・浅井掃部と密かに示し合わせると、500人の逞兵――完全武装した精鋭部隊を独自に引率し、闇夜の菩提院へと向けて、決死の進軍を開始した。
一方、その頃の菩提院。僕は、遠藤が席を外していることに気づき、かすかな違和感を覚えていた。
「遠藤はどうした?」
左右の者に尋ねると、番をしていた小姓が首を傾げて答えた。
「先刻、遠藤様はただ一人、ひどく慌ただしい様子で馬に乗り、いずことへもなく出かけて行かれました」
その報告を聞いた瞬間、僕の脳内でパズルのピースが完璧に組み合わさった。
(……ビンゴだ)
奇怪な行動。暗殺を諦めきれない執念。一人の暗殺者として手を出せないと悟った時、狂信的な忠臣が次に取る行動は決まっている。
個人の「暗殺」から、軍隊による「夜襲」への移行だ。
「まずいぞ……。このまま無防備でいれば、確実に信長の首が飛ぶ」
信長は、リスクを度外視したノーガード戦法を好む。敵中であっても平気で居眠りができる図太さの持ち主だ。だからこそ、僕のような裏のプロデューサーが、信長の見えないところで完璧な安全網を張っておかなければならない。未来の知識と、前世のリスク管理能力を持つ僕にしかできない仕事である。
「……仕掛けておいて、正解だったな」
僕は懐から火打ち石を取り出すと、あらかじめ寺の裏手に用意させていた火薬玉に火を放った。
ヒュルルル……パンッ!!
一条の狼煙が、夜明け前の暗い空へと高く打ち上がった。それは、僕が万が一の事態に備え、独自の権限で極秘裏に手配していた「相図」だ。
――ズズズズズズ……ッ!!
狼煙が上がってからわずかな時間のち。静寂に包まれていた菩提院の周囲に、突如として地鳴りのような足音が響き渡った。
摺針、柏原といった近隣の在郷に、僕が前もって密かに埋伏させていた木下直属の精鋭部隊――蜂須賀小六兄弟、稲田、堀尾、加次田といった歴戦の荒くれ者たちが率いる、2,000騎の大軍勢だ。
「藤吉郎様! 呼ばれて飛び出てきたぜ!」
「小六! 遅いぞ、配置につけ!蟻一匹通すな!」
暗闇の中から湧き出るように現れた2,000の兵たちは、またたく間に菩提院の四方を何重にも取り囲み、鉄壁の防衛線を構築した。
槍の穂先が林立し、鉄砲の火縄が赤々と燃える。無防備だった寺院は、たった数分で難攻不落の要塞へと変貌を遂げた。
「急げ!夜が明ける前に、信長の首を獲るのだ!!」
遠藤喜右衛門は、500の決死隊を励まし、馬に鞭打って菩提院へと猛進していた。主君を裏切り、己の腹を切ってでも国を守る。その悲壮な覚悟が、彼らの眼を血走らせている。
だが、寺院まであと少しという所まで迫った時、先行させていた先手の兵士(土卒)が、転がるようにして駆け戻ってきた。
「と、遠藤様!!なりませぬ、押し寄せるのは不可能です!!」
「なに!?どうしたというのだ!」
「て、敵です!いずこの軍勢とも知れぬ二千余りの大軍が、すでに寺の四方を固め、異常なまでの厳重さで守護しております!!」
「……なんだと!?」
遠藤は耳を疑った。信長は、わずか百五十人の丸腰の供回りしか連れていなかったはずだ。なぜ、こんな深夜に二千もの完全武装の軍勢が湧いて出るというのか。
遠藤は自ら馬を進め、菩提院の様子を伺い見た。そして――彼は、絶望に言葉を失った。
寺の周囲には、織田の兵士たちが掲げる松明と火縄の光が、まるで夜空の星(きら星)のごとく無数に並び、煌々と輝いていたのである。
わずかな隙も、死角もない。500の兵で突っ込めば、本陣にたどり着く前にハチの巣にされて全滅するだろう。
「……読まれていた、というのか」
遠藤の口から、乾いた声が漏れた。自分が暗殺を企てることも。それが失敗し、夜襲に切り替えることすらも。
あの信長の横に控えていた、猿のような男――木下藤吉郎に、すべて完璧に計算されていたのだ。
(……なんという恐ろしい主従だ)
遠藤は、手綱を握る手をわななかせた。大勇不敵にして、計り知れぬ器を持つ魔王・織田信長。そして、その魔王の背中を、常軌を逸した智謀と手回しで完璧に守り抜く家臣・木下藤吉郎。
このような思慮深き良将たちを相手に、我々がいくら小手先の知恵を絞って足掻いたところで、討ち取ることなど到底叶うはずがない。
「……終わった。いずれ遠くない未来、我が浅井の国は、織田のために滅ぼされるであろう」
遠藤喜右衛門は、深い、深い歎息を夜風に溶かした。もはや、打つ手はない。彼は刀を抜くこともなく、肩を落とし、500の兵を連れて静かに闇の中へと退いていった。
一人の狂信的な忠臣の暴走は、一滴の血を流すこともなく、僕の張った2,000の伏兵によって完全に鎮圧されたのである。
(……あの夜、もし僕が先読みして兵を伏せていなければ、今頃どうなっていたかわからない)
僕は馬上で、長く険しかった「佐和山の夜」の記憶を振り払い、前方へと視線を戻した。僕が遠藤喜右衛門の暗殺と夜襲を未然に防いだおかげで、織田家と浅井家の同盟は、表面上は何の傷もつかずに維持された。
信長は翌朝、何事もなかったかのように欠伸をしながら起き出し、「よく眠れたわ」と笑って美濃へと帰還した。僕が裏でどれほどの胃を痛める防衛戦を繰り広げていたかなど、おそらく一生知ることはないだろう。でも、それでいい。
「藤吉郎様!いよいよ、南近江の六角領へ突入いたします!」
弟・小一郎の声が、軍列に響く。浅井長政という強固な同盟国に背後を任せ、僕たちはついに、将軍・足利義昭を奉じた「上洛戦」の火蓋を切った。
前方に待ち構えるのは、足利義昭の暗殺を企てた宿敵・六角承禎の軍勢。だが、もはや恐れるものは何もない。
「よし、行こうか! 古い時代を、叩き壊しに!」
僕の背中で、千成瓢箪の馬印が、朝日を受けて黄金色に輝いている。
戦国という途方もない時代に転生した一人の男の物語は、数々の陰謀と死線を乗り越え、ついに天下の命運を決する「上洛戦」の業火の中へと、真っ直ぐに突入していく。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
木下藤吉危急を救ふ
信長卿、その夜菩提院といふ寺院を本陣として宿り給ひ、何の用心もなく、快く酒宴を催し、休息せられけるが、木下藤吉少しも油断なく、今日佐和山にて、遠藤が振舞ひ怪しければ、暫しも眠らず、御側に附添ひ守護しける。遠藤喜右衛門は馳走役人に命ぜられ、この菩提院に至り、始終信長の氣色を伺ひけるに、さらに用心の體もなくおはしけれど、側には猿冠者の木下藤吉、四方に眼を配り守護しければ、狙ひに手を動かすこと能はず、密に小谷の城へ馳行き、再び久政に信長を誅すべき旨しきりに申し勸むれども、長政父子敢て諾せず。遠藤今はすべき様なく、「所詮軍兵を率し、菩提院へ押寄せ信長を討取り、主人父子の怒りを受け切腹するとも、國家のためなれば厭ふことなし」と心を定め、淺井掃部と申し合せ、五百人の逞兵を引率し、菩提院へと急ぎける。このとき藤吉は遠藤が席にあらざるを怪しみ、左右の人に尋ぬるに、「先刻遠藤ただ一人あわただしく馬に打乗り、何處ともなく出行きたり」と云ふ。藤吉、さては奇怪のことなり。備えなくんば危ふかるべしと、かねて手配やしたりけん、狼煙を揚げて相圖をなせば、摺針、柏原の在々に埋伏したる木下勢、小六兄弟、稲田、堀尾、加次田の輩二千餘騎、暫時の内に集まりて、菩提院の四方を堅め、用心嚴しく守りけり。遠藤、淺井かかる防禦ありとは思ひもよらず、揉みに揉んで馳たりけるが、先手の土卒馳歸りて、何れの勢とも知れず二千餘り、寺の四方を堅く固め、嚴重に守護する由、注進したりければ、遠藤自ら菩提院に至り伺ひ見るに、織田の兵士きら星のごとく並居ければ、遠藤甚だ驚き、かかる思慮深き良將を我々(われわれ)いかに思ふとも討取ること叶ふべきや。終には我が國織田のために亡ぶべしと歎息して退きける。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
https://share.google/AxQqE2xRgf0LcmxAN
絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
遠藤直経は、戦国時代の武将。浅井長政の家臣。諱は直経、通称は喜右衛門だが、喜左衛門 直経と読める花押も残っている。史料はほとんど存在しないが、軍記物や講談などでは遠藤喜右衛門の名で登場して、知勇兼備の謀将として知られる。出典:wikipedia
この辺の、学校で習う日本史に出てこない武将、を知ってる方は「歴史ヲタク」だと思います。




