1-84 流浪の天才と、眠れる狼
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
天地を揺るがす轟音と共に幕を開けた上洛のパレード。その果てしなく続く軍列の中心で、僕は馬に揺られながら、将軍家の家紋「「足利二つ引」「五七桐」が翻る豪奢な輿の傍らを付き従う「一人の男」の背中を、じっと見つめていた。
上洛の軍が興る数日前のことである。越前を脱出した足利義昭が美濃の国境に足を踏み入れた際、信長は、これ以上ないほどの最高級の敬意と武力をもって彼を迎え入れた。
不破河内守、菅谷九右衛門ら歴戦の将に3,000騎の精鋭を預けて道半ばまで出迎えさせ、美濃の西の庄にある立政寺を臨時の本陣に定めた。さらに、その周囲には10,000人もの武装した兵を配置し、昼夜を問わず厳重な警護を敷いた。
誰も暗殺など企てられない、圧倒的な暴力による絶対安全圏。流浪の苦難を味わってきた足利義昭にとって、この信長の出迎えがどれほど頼もしく、眩しく映ったことだろうか。立政寺での謁見において、信長は恭しく頭を下げ、こう言上した。
「逆臣どもを速やかに誅伐し、将軍家再興の悲願、この織田信長が必ずや成し遂げてご覧に入れます」
その言葉に、足利義昭は歓喜の涙を流して頷いた。
「足利再興の儀、偏に信長殿の誠忠にある。よろしく頼む」
「我が織田家の面目、これに勝る喜びはございません」
主従の契り、あるいは神輿と武力の完璧な結託。
だが、盤面を俯瞰する僕の目は、この劇的な歴史の転換点が、単なる偶然や信長の威光だけで成立したわけではないことを見抜いていた。越前で燻っていた足利義昭を、美濃の織田家へと動座させるよう強く説得し、背中を押した『影の立役者』がいる。
朝倉家に新参の客将として身を寄せていた、一人の浪人。
それが、今まさに足利義昭の傍らで馬を寄せるあの男――明智十兵衛光秀であった。
「……明智、光秀」
僕は馬上からその背中を睨みつけ、無意識に舌打ちを漏らしそうになった。未来の歴史知識を持つ僕にとって、その名はあまりにも特別で、あまりにも危険すぎる。
本能寺の変。のちに信長を討ち、そして僕自身と天下の覇権を懸けて激突することになる、戦国最大の宿敵。
そんな明智光秀が今、この上洛のパレードにおいて、織田家と足利将軍家を繋ぐ最重要の架橋として、歴史の表舞台にその姿を現した。
明智光秀。その素性は、決して低いものではない。源氏の名門・清和源氏の末流であり、かつてこの美濃を治めていた国主・土岐氏の一族。明智城の城主であった土岐光綱を父に持つ、由緒正しきエリートの血筋である。
農民の倅から草履取りを経て這い上がってきた僕とは、まさに雲泥の差だ。でも、明智光秀の人生もまた、決して平坦なエリートコースではなかった。
光秀は幼くして父を亡くし、さらに美濃の覇権を奪った斎藤道三の息子・斎藤義龍の粛清から逃れるため、故郷である美濃を追放された。
光秀は一族の誇りを胸に秘めたまま、仕えるべき真の主君を求め、武者修行と称して日本全国六十余州を果てしなく彷徨う、一介の素浪人へと転落した。
「エリートの頭脳を持った、ホームレス……か」
僕は、間者たちから集めた明智光秀の過去の記録を思い出しながら、小さく息を吐いた。
明智光秀ほどの男が、なぜ40歳近くになるまで定職に就けず、諸国を放浪し続けなければならなかったのか。それには、ある一つの決定的な理由があった。
かつて、流浪の旅を続けていた明智光秀は、西国で最も巨大な勢力を誇る毛利家へと仕官を求めたことがあった。周防の山口へ至った光秀は、毛利の重臣である桂能登守を通じて、毛利家への仕官を願い出た。
桂能登守は、光秀と面会して度肝を抜かれたという。その類まれなる知性、洗練された容貌、そして武士としての揺るぎない矜持。どう見てもただの浪人ではない。桂能登守はすぐに「稀代の逸材を見つけました」と、主君である毛利元就に光秀を強く推挙したのである。
毛利元就。一代で中国地方を統一した、戦国屈指の謀将にして、人の心を読むことにかけては神の領域に達している怪物だ。
毛利元就は光秀を召し抱える前に、数日にわたって自らの手で直接、彼の度量と才能を試す面談を行った。
結果として、明智光秀の才智は明敏そのものであり、勇気も申し分ないという評価が下された。戦力としては即戦力、文句なしのSランクの最高評価である。だが――毛利元就は、最終的に明智光秀の採用を見送った。
『あの男は、危険すぎる』
聡明怜悧な毛利元就の目は、明智光秀という人間の奥底に潜む「致命的な欠陥」を、見事に射抜いていた。毛利元就は重臣たちに、不採用の理由をこう語ったという。
『光秀の相貌は、「眠れる狼」に似ている。感情を隠しているように見えて、喜怒の骨が高く起きており、その精神は常に飢え、静まっておらん。あれはいわゆる、外寛内急の相だ』
外寛内急――外見は教養に溢れ、寛大で温和に見えるが、その内面は常に何かに急き立てられ、極端な焦燥感と執着を抱え込んでいる。
毛利元就という怪物は、明智光秀のその「内側に秘められた過剰な自尊心と野心」が、いつか必ず主家を食い破る後患になると本能で悟っていた。結局、毛利元就は多額の見舞金を与えて、明智光秀を毛利の国から丁重に追い出した。
己の知性と才覚に絶対の自信を持っていた明智光秀にとって、この「優秀すぎるが故の不採用」は、どれほど不快で、プライドを粉々に打ち砕かれる屈辱だったことだろう。
しかし、明智光秀にはどうすることもできなかった。餞別の品を押し付けられるように受け取り、西国を後にした明智光秀は、豊後から薩摩へと渡ろうとしたが、他国の者の往来を厳しく禁じる厳重な警戒網に阻まれた。やむなく四国へ渡り、紀州、伊勢と果てしない逃避行を続け……最終的に、越前の朝倉義景の元へと流れ着いたのである。
そして今。あの毛利元就が「眠れる狼」と評し、恐れて手放したその男は、越前の柔弱な大名を見限り、最も危険で最も巨大な炎を放つ男――織田信長の元へと、将軍(候補)という最高の手土産を引っ提げてやって来た。
(……笑える話だ。毛利元就が恐れた『バグ』を、信長は全く恐れていない)
信長は、役に立つなら狼だろうが虎だろうが使いこなす。そういう男だ。だが、僕は違う。前世の歴史知識がある僕だけは、あの男の「外寛内急」の危うさが、いずれこの織田家という巨大な船を内部から爆破することを、痛いほど知っているのだから。
「……木下殿」
ふいに、横から静かな声がかかった。ハッとして顔を向けると、いつの間にか僕の馬の横に、その男が並走していた。
白皙の顔。冷たく澄んだ瞳。背筋の伸びた洗練された身のこなし。明智十兵衛光秀。僕が光秀を観察していたように、光秀もまた、僕という異質な存在を冷静に観察していた。
「明智殿。義昭公の御供、ご苦労様です。越前からの長旅、さぞ骨が折れたことでしょう」
「なんの。これも足利家再興、引いては天下泰平のため。木下殿こそ、美濃・伊勢での目覚ましいご活躍、越前にまで轟いておりましたぞ」
明智光秀の口調は穏やかで、極めて礼儀正しい。だが、その瞳の奥には、毛利元就が見抜いた通りの「決して満たされることのない野心の炎」が、チリチリと青白く燃えているのがわかった。
農民から泥水を啜って這い上がり、信長という太陽の光を浴びて輝く僕、木下藤吉郎。
名門の血を引きながら故郷を追われ、泥に塗れながらも己の知性だけを武器に天下の中枢へと躍り出た彼、明智光秀。
僕たちは、出自もやり方も全く違う。だが、強烈な野心と、古い常識を壊すための合理的な思考を持っているという点では、恐ろしいほどに似た者同士だった。
「明智殿。いよいよ京の都が見えてきますな」
「ええ。我らで、この腐りきった乱世の盤面を、一新しようではありませんか。……共に、信長様の右腕と左腕として」
光秀はそう言って、薄く、しかし獰猛な笑みを浮かべた。それはまさに、羊の皮を被った狼の笑みだった。
「ええ。頼りにしていますよ、明智殿」
僕もまた、人懐っこい「猿」の笑みを浮かべて返した。
胸の奥で、日輪の熱が激しく警告を鳴らしている。この男から、一瞬たりとも目を離してはいけない。油断すれば、いつか必ず僕の首を、そして信長の首を食いちぎりにくる。
天下人へと至る道程。最大の味方にして、最強の宿敵。同じ織田家という巨大な船に乗り込んだ二つの異能は、互いの腹の底を探り合いながら、燃え盛る京の都へと向けて、果てしない軍列を共に進んでいくのであった。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
明智十兵衛光秀の素性
さるほどに、義昭公は濃州に入御ましましければ、信長かねて不破河内守、菅谷九右衛門ら三千餘騎、半途に出でて迎へ奉り、美濃西の庄立政寺を御本陣と定め、警固の武士一萬餘人、晝夜非常を警め、嚴重に守護し奉り、信長參上して御目見見え首尾よく調ひ、不日に軍勢催促し、怨敵誅伐すべき由、謹んで言上に及びければ、義昭公甚だ喜悦ましまし、「足利再興の儀、偏に信長が誠忠にあり。よろしく頼み思召す」由、上意ありければ、信長謹んで領掌し、「我が家の面目、何事かこれに如かん」と、ますます尊敬したりける。元來義昭公、織田家へ動座あらせられし趣意は、朝倉家新參の家士、明智十兵衛光秀が勧め奉りしことなり。この光秀は、その先清和の末流にして、美濃の國主土岐藝頼の一族、明智の城主土岐光綱が子なり。幼少にして父に後れ、齋藤義龍がために濃州を追放せられ、武者修行と志し、普く六十餘州を徘徊し、主を選んで仕へんとす。周防の山口に至りて、毛利元就の臣桂能登守によつて、毛利家の臣たらんことを乞ふ。能登守、光秀が智辯容貌衆に越えたるに愛で、藝州に伴ひ、元就にこれを吹舉す。元就、光秀を召して、數日度量を試し見るに、才智明敏にして勇氣餘りあり。元就は聰明怜悧にして、人の心根を見ること、掌を指すがごとし。光秀が相貌狼の眠るに似たり、喜怒の骨高く起り、その心神常に静かならず、所謂外寬にして内急なるを以て、元就後患を恐れて、金銀を多く與へ、光秀を國に留めず。光秀さらに樂しまず、心不快なりといへども、すべき様なく、餞別の品を受け拜して、藝州を出て豐後より薩摩へ赴きしに、この國の用心大に嚴重しく、他國の者猥りに往來を許さず。已むことなく四國へ渡り、紀州、伊勢路を経て越前に至り、暫くここに留まりけり。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
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絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
明智光秀は、戦国時代から、安土桃山時代にかけての武将、大名。明智氏は第56代清和天皇を祖とする清和源氏頼光流多田源氏の一流土岐氏の流れを汲む一族であるが、光秀が同明智氏出身かは不明。通説では美濃国の明智氏の支流の人物で、俗に美濃の明智荘の明智城の出身と言われているが、他の説もある。越前国の一乗谷に本拠を持つ朝倉義景を頼り、長崎称念寺の門前に十年ほど暮らし、このころに医学の知識を身に付ける。その後、足利義昭に仕え、さらに織田信長に仕えるようになった。元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちへ貢献し、坂本城の城主となる。天正元年(1573年)の一乗谷攻略や丹波攻略にも貢献した。天正10年(1582年)、京都の本能寺で織田信長を討ち、その息子信忠も二条新御所で自刃に追いやり(本能寺の変)、信長親子による政権に幕を引いた。その後、自らも織田信孝・羽柴秀吉らに敗れて討ち取られたとされるが、当時光秀の首を確認したという文献資料は残されていない(山崎の戦い)。出典:wikipedia
秀吉のライバルの登場です。ストーリー的にはライバルがいると俄然面白くなります。…のはずですw




