1-83 湖上の月と、新たなる太陽
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
木下藤吉郎の、そして信長との、天下布武を懸けた真の戦いが、今、圧倒的な熱量と共に幕を開けようとしていた。
――でも、この華々しい進軍の裏側には、僕たちが掲げる最大の「切り札」である次期将軍・足利義昭が、ここ美濃へ辿り着くまでの、もう一つの泥臭いドラマが存在する。
足利義昭がいかにして死地を脱し、僕たちの元へやって来たのか。馬の嘶きと兵たちの熱気の中、僕はふと、足利義昭の側近である細川藤孝から直接聞いた、過酷な逃避行に思いを馳せていた。
時計の針を少し戻す。六角承禎の恐るべき暗殺計画を間一髪で察知した六角覚慶――のちの足利義昭と、側近の和田伊賀守は、宴の席を抜け出し、箕作城の搦手から闇夜へと飛び出した。険しい山道を必死に駆け下り、木々の枝に肌を裂かれながらも、彼らは辛うじて琵琶湖のほとりへとたどり着いた。
空には仲秋の満月が高く昇り、静かな湖面を黄金色に染め上げている。まるで金波が乱れ舞うような幻想的な光景だ。未来の僕ならスマホで写真を撮っていただろう。だが、絶体絶命の逃亡者である彼らにとって、その明るすぎる月光は、自らの居場所を敵に晒す「死の照明」でしかなかった。
「……舟がない」
和田伊賀守は、絶望に満ちた声を漏らした。遥か遠くの湖上に、漁師が焚く篝火がポツンと見えるだけで、岸辺には彼らを対岸へと逃がしてくれる一葉の舟すら見当たらない。
どうするべきか。猶予う暇はなかった。背後の暗闇から、無数の人馬の足音と、怒号が近づいてきたのだ。六角承禎の次男・六角義弼が率いる300の討伐隊が、煌々(こうこう)と松明を掲げて彼らの背中を完全に捕捉したのである。
「……もはや、これまでか」
伊賀守は覚悟を決めた。敵に追いつかれれば、主・足利義昭は無惨に殺される。ならばせめて、自分が盾となって討ち死にし、一矢報いるしかない。彼は覚慶を背後に庇うように立ち塞がり、腰の刀に手をかけた。
その時だった。すぐ傍の暗い入江の葦の茂みから、音もなく一艘の小舟がスッと漕ぎ出してきた。
「……そちらにおられるのは、和田伊賀守様でお間違いないでしょうか」
舟に乗っていた一人の武者が、闇の中から低く声を張り上げた。伊賀守は弾かれたように刀を半ば引き抜き、鋭く問い返す。
「そう言うお主は、何者だ!」
「我が主君・六角義秀様の命により、覚慶様のご急難を救い奉らんため、ここへ舟を回した者にございます。さあ、早くお乗りを!」
武者は舟の端に手をつき、恭しく礼をした。六角義秀。暗殺を企てた六角承禎の長男でありながら、最後まで覚慶を庇護しようとしたあの義に篤い男が、密かに逃走用の舟を手配してくれていたのだ。
「おお……天は我らを見捨ててはおられなかった!」
覚慶と和田伊賀守は歓喜し、転がるようにして小舟へと飛び乗った。武者が素早く櫓を漕ぎ、岸から一町(約100メートル)ほど離れたその直後。六角義弼の率いる300の追手が、ついに岸辺へと殺到した。
彼らは松明を振りかざし、「そこか!」「こっちを探せ!」と血眼になって茂みを探し回っている。だが、まさか逃亡者がすでに小舟に乗って湖上を渡っているとは夢にも思わず、彼らはただ虚しく岸辺を伝って探し続けるしかなかった。
虎口を脱した覚慶たちは、夜明けと共に朽木谷へとたどり着き、細川藤孝や三淵大和守ら忠臣たちと無事に合流を果たしたのである。
永禄10年(1567年)。近江を追われた覚慶一行が次なる庇護者として頼ったのは、北陸の大国・越前(福井県)を治める名門、朝倉左衛門大輔義景であった。
朝倉義景は、将軍家の血を引く貴人を大いに喜び、一乗谷の館へと丁重に迎え入れた。
「いずれ軍勢を集め、必ずや上洛の御供をいたしましょう」
朝倉義景のその力強い約束に、覚慶もようやく安堵の息をついた。翌年の永禄11年4月には、彼はついに仏門を離れて還俗し、その名を足利義昭と改めた。
いよいよ義兵を挙げ、兄の仇である三好三人衆(日向守長縁、下野守政安、岩成主税好通)・松永弾正の逆臣どもを討ち果たす時が来た。足利義昭は度重なって朝倉義景に上洛の催促を行った。――だが、事態は一向に動かなかった。
「もう少しお待ちくだされ。今はまだ雪が……」
「隣国の加賀の一向一揆が不穏な動きを見せておりまして……」
朝倉義景という男は、教養に溢れ、文化を愛する雅な人物ではあったが、戦国という乱世を生き抜くための「覇気」と「勇気」が決定的に欠如した愚将だった。
朝倉義景はのらりくらりと理由をつけては出兵を先延ばしにし、天下の覇権を懸けた大博打を打つ覚悟など、最初から持ち合わせてはいなかったのだ。
さらに不運なことに、この頃、朝倉義景が溺愛していた幼い我が子が病で急死するという悲劇が起きた。悲哀のどん底に突き落とされた朝倉義景は、政務を完全に放り出し、ただ泣き暮らすだけの日々を送るようになってしまった。上洛の約束など、完全に彼の頭から消え去ってしまったのである。
「……駄目だ。この男に頼っていては、一生京の都へは帰れない」
雪深い越前の館で、足利義昭は深く絶望した。そして彼は、密かに越前を見限り、他の強力な大名の元へ移るべきだと、側近たちと脱出の準備を進め始めたのである。
「……ふん。やっぱり朝倉のボンボンには、天下の重みは背負えなかったか」
僕は岐阜城の自室で、草の者たちが命懸けで越前から持ち帰ってきた情勢報告を読みながら、思わず口元を歪めた。未来の歴史知識で結果を知っていたとはいえ、こうしてリアルタイムで大名たちの無能っぷりを見せつけられると、戦国時代がいかに「個人の資質」に依存した危うい世界であるかを痛感する。
だが、朝倉義景の無能は、僕たち織田家にとってこれ以上ない極上の好機だった。僕は報告書を握りしめると、直ちに信長の前へと罷り出た。
「信長様!越前の朝倉義景は、およそ天下を統べる器ではありません。義昭公もすでにあの柔弱な男に見切りをつけ、他国へ移ろうと密かに画策しておられます!」
信長は、興味深そうに僕の言葉に耳を傾けた。
「これこそ、天が我が君に味方している証拠です。今すぐ義昭公をこの美濃へ迎え入れ、彼を奉じて上洛の義兵を挙げれば……かねてよりの悲願である天下布武の大功、一時に達成できるでしょう!」
将軍家の権威と、織田の圧倒的な暴力。この二つが結びつけば、もはや日本のどこにも僕たちを止められる勢力は存在しなくなる。
「……猿め。相変わらず鼻が利く男よ」
信長は、獰猛な肉食獣のような笑みを浮かべた。その瞳には、すでに京の都を制圧した自身の姿がはっきりと映っているようだった。
信長は直ちに密使を仕立て、越前の一乗谷へと派遣した。足利義昭に対し、織田家の誠心誠意の忠義と、圧倒的な武力による上洛の確約を、これでもかとアピールさせたのである。
越前に滞在していた足利義昭は、信長からの密使を受け取り、天にも昇る心地だったという。近隣諸国において、尾張と美濃を実力で平定した織田信長の実力は、すでに誰もが知るところとなっていた。足利義昭もまた、信長の並外れた器量と圧倒的な行動力を高く評価し、深く慕っていたのだ。
「我らはこれより、美濃の織田殿を頼ることにする」
義昭足利は、側近である細川藤孝や上野秀政らに命じ、直ちに美濃へ向かう準備を整えさせた。この突然の通告に、最も慌てふためいたのは朝倉義景である。
彼にとって、将軍候補である足利義昭は、自国の権威を高めるための最高の「飾り物」だった。それが、最近急速に力をつけてきた隣国の新興勢力・織田の元へ寝返るというのだから、プライドが許さない。
「な、なぜです義昭公! 我が朝倉家になにか不満でもおありか! もう少しお待ちいただければ、必ずや私が……」
「義景殿。長きにわたるご厚情には感謝する。だが、京の空は遠い。余は急ぐのだ」
朝倉義景はあの手この手で引き留めようとしたが、一度心が離れた足利義昭の決意は揺るがなかった。力ずくで監禁すれば、それこそ将軍家への逆賊となり、織田に攻め込まれる口実を与えてしまう。
どうすることもできなくなった朝倉義景は、せめてもの体裁を取り繕うため、朝倉中務丞景恒に2,000人の軍勢を添え、美濃との国境までの「警護」という名目で足利義昭を見送るしかなかった。
かくして、永禄11年(1568年)の夏。流浪の次期将軍・足利義昭は、ついに越前の澱んだ空気から抜け出し、新たな太陽が昇る国――美濃の岐阜城へと足を踏み入れたのである。
そして、物語は現在へと繋がる。
岐阜城の大広間において、信長は足利義昭をこれ以上ないほどの手厚い礼をもって迎え入れた。上座に座る足利義昭の瞳には、かつて笠置の山で絶望に濡れた影は微塵もなく、天下を取り戻すという強い野心と希望の光が宿っていた。
そして、その傍らに控える信長の背中からは、古い秩序をすべて焼き尽くし、全く新しい世界を創造せんとする魔王の覇気が立ち上っている。
「……役者は、完全に揃ったな」
僕は陣幕の外へ出ると、どこまでも続く織田軍の陣列を見渡した。槍の穂先が朝日に反射して煌めき、色とりどりの旗指物が秋の風にはためいている。数万の兵たちが放つ熱気は、これまでのどの戦いとも違う、圧倒的な質量を伴って美濃の大地を震わせていた。
「出陣じゃァァッ!!」
柴田勝家の大音声が響き渡り、法螺貝の重低音が戦国の空を引き裂いた。
目標は、京の都。その道中に立ち塞がるのは、足利義昭の暗殺を企てた近江の六角承禎であり、京を不法占拠する三好三人衆(日向守長縁、下野守政安、岩成主税好通)と松永弾正だ。
僕は、背後に掲げた自身の馬印――千成瓢箪を見上げた。ここまでの道のりは、確かに険しかった。
でも、未来の知識とこの体で培った執念、そして信長という劇薬が結びついた今、もはや僕たちの前に不可能なことなど何一つない。
「さあ、天下布武の総仕上げだ」
僕は刀の柄を強く握りしめ、前方の巨大な軍勢の波へと向かって、力強く馬の腹を蹴った。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
義昭公美濃國へ動座
さても和田伊賀守は、覺慶を誘ひ參らせ、搦手より忍び出で、嶮難を凌ぎ、湖水の邊へ出ければ、仲秋の月高くさし昇り、金波江上に濫滿たり。渡りの舟もがなと、遙に江上を見渡せども、釣るする海士の篝よりほかに、一葉の舟もなし。いかがはせんと猶豫ふほどに、後の方に人馬の音喧しく、松明を照らし、義弼が勢追附きたり。伊賀守、今はこれまでなり、敵に近付かば討死せんと、君を圍うて立つたるところに、傍なる入江の中より、小舟一艘漕ぎ出し、武者一人顯はれ出で、聲を揚げて「和田殿にては候はずや」と問ふ。伊賀守、「然云ふ汝は誰人なるや」。かの船中の武士、舟端に禮をなし、「六角義秀、君の急難を救ひ奉らんため、某に命じて江を渡らし奉らんとす」。ここに於て覺慶主從大に悦び、急に舟に乗り移り一町ばかり漕ぎ出せば、追手の軍勢岸の邊へ馳附き、そこよここよと探せども、小舟に乗りて江を渡り給はんとは思ひ設けぬことなれば、湖上には心もつかず、岸を傳ひに尋ね行く。覺慶は虎口を遁れ、曉に朽木谷といふ所に著き給ひ、民部少輔經綱がもとに暫く隠れおはせしが、ここにて細川、三淵が輩参會し、永祿十年、越前へ赴き給ひ、國主朝倉左衛門大輔義景が館に入り給ひければ、義景大に悦び、軍勢を集め上洛すべき由、御答へ申すにより、覺慶も初めて安堵し給ひつつ、同十一年四月、還俗ましまし、御諱を義昭公と申し奉る。このとき義兵を揚げて、三好、松永が輩を誅伐ありたき旨、度々(たびたび)義景へ催促しましけれども、もとより義景勇なき愚將なれば、とかくに寄せて事を果たさず、このごろ幼稚園の兒を失ひ、愁傷に他事を忘れ、上洛の心さらになかりければ、義昭公も竊に越前を出でて他の國へ移るべしと、よりよりその用意を催し給ふ。ここに木下藤吉間者を入れ、この趣を聞きたりければ、信長に委しく言上し、「朝倉義景柔弱にして、義昭公他國に動座ましまさんと計り給ふ。これ天我が君を助けて事を成就なさしむる時なり。早く義昭公を當國へ迎へ給ひ、義兵を發し上洛し給はば、かねての本懐一時に達し、天下平治の大功をなし給ふべし」と勸めければ、信長甚だ喜悦ありて、密使を越前の一乗が谷へ遣はし、信長が誠忠を委細に言上に及びければ、義昭公かねて信長の器量衆に勝たるを慕ひ給ひぬれば、甚だ満足し給ひ、義景に告げて、昵近の武士細川藤孝、上野秀政ら數人を具し、美濃國へ移り給ふ。義景も本意なきことに思ひ、さまざま止め参らせければ、強いてその旨命ぜられければ、すべぎ様なく、朝倉中務丞景恒に二千餘人の軍卒を相添へ、路次の警固を務めけり。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
https://share.google/AxQqE2xRgf0LcmxAN
絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
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六角義賢は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・守護大名。近江国守護。南近江の戦国大名。六角氏15代当主。観音寺城主。官位は従五位下・左京大夫。剃髪後は承禎と号した。出典:wikipedia
信長に対してあちこちで最後までゲリラ戦を続けた六角承禎ですが、仏教の石山本願寺から莫大な援助を受けていたくせに晩年は、キリシタンになっていたり、豊臣秀吉の相談役(御伽衆)となり、秀吉が死去する前の慶長3年(1598年)3月14日に亡くなりました。享年78。個人的には結構意外だった「その後」です。




