1-82 天が下には隠れ家もなし
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
僕たちの途方もない物語は、炎上する京の都へ向けて、さらなる速度で加速し始めていた。
信長の「上洛」という大号令。それは織田軍という巨大な暴力装置が、ついに天下の覇権を握るための最終段階へと移行したことを意味している。
だが、越前の朝倉に身を寄せている流浪の将軍候補・足利義昭――かつての覚慶を迎え入れ、京の都へと進軍するその道程は、決して平坦なレッドカーペットではない。
出陣の準備に追われる中、僕は自陣の幕舎で、配下の草の者たちが集めてきた分厚い報告書に目を通していた。
そこには、南都(奈良)を脱出した覚慶一行が、いかにして越前へと逃げ延びたのか。その血の滲むような逃避行の全貌が記されていた。
『さして行く 笠置の山を出でしより 天が下には隠れ家もなし』
報告書の冒頭に添えられたその歌を見て、僕は重い溜息をついた。これはかつて、後醍醐天皇が笠置の城から没落した際、木陰の露に濡れながら「この天下に、もはや我が身を隠す場所などない」と絶望を詠んだ御製である。
天下を統べる存在でありながら、追われる身となった者の圧倒的な孤独と恐怖。覚慶が南都を脱出した直後の心境は、まさにこの歌そのものだっただろう。
兄である十三代将軍・足利義輝は逆臣に弑逆され、自分以外の兄弟もことごとく殺された。
細川藤孝の機転で辛うじて一乗院を脱出したものの、三好(三人衆:日向守長縁、下野守政安、岩成主税好通)と松永弾正の放った追手は血眼になって覚慶の首を狙っている。
人の心は計りがたく、昨日までの味方が今日の敵になるのが戦国の理だ。安全地帯など、この日本のどこにも存在しない。
近江国の和田伊賀守の館に身を潜めた覚慶の元には、大館、三淵、仁木、武田、一色、沼田といった、かつての将軍家譜代の忠臣たちが続々と馳せ参じたという。
だが、悲しいかな。彼らは由緒正しき名家ではあっても、この戦乱の世においては完全に零落した、武力を持たぬ者たちばかりだった。
彼らだけでは、とても逆臣を誅伐するような軍事行動は起こせない。一行は武田義澄を頼って若狭国へと赴いたが、そこも国力が乏しく、天下の大義を掲げるにはあまりにも力不足だった。
「……名分だけでは、人は動かない。圧倒的な暴力が伴って、初めて名分は機能する」
僕は報告書をめくりながら、独り言ちた。
行き場を失った覚慶一行が次に縋ったのは、再び近江の――巨大な勢力を持つ名門・六角氏であった。
六角家の当主である六角義秀は、覚慶の来訪を大いに喜び、観音寺城へと丁重に迎え入れた。義秀は義に篤い男だった。将軍家の正統な後継者を庇護することは、武士としての誇りでもあったのだろう。
だが、問題は彼の父親であった。六角家の実権(権力)は、すでに隠居の身でありながら絶大な影響力を持つ、父親の六角承禎の掌にある。
一方、京の都を占拠していた三好三人衆(日向守長縁、下野守政安、岩成主税好通)は、南都から取り逃がした覚慶の行方を昼夜を問わず探し続けていた。
「松永弾正が予言した通り、覚慶がどこかの大名を語らって上洛してくれば、我々の破滅だ」
本願寺の顕如上人に宛てた「覚慶を害さない」という誓紙など、自己保身の前にはただの紙切れだった。彼らは国々に間者を放ち、ついに覚慶が六角義秀の庇護下にあることを突き止めたのである。
「……ここで三好(三人衆:日向守長縁、下野守政安、岩成主税好通)が切ったカードが、えげつない」
僕は報告書の続きを読み、戦国大名の底知れぬ欲望にゾッとした。三好(三人衆:日向守長縁、下野守政安、岩成主税好通)は、実権を握る六角承禎に対し、莫大な金銀財宝(賄賂)を送ると共に、一つの強烈な取引を持ちかけたのだ。
『覚慶を討ち取り、我々に力を貸してくれるならば……朝廷に奏上し、貴殿を天下の管領に任命しよう』
将軍を補佐する最高権力者、管領。名門・六角氏にとって、それは喉から手が出るほど欲しい至高のステータスである。六角承禎はこの甘い毒に、あっさりと屈した。彼は悪心を抱き、息子が保護している覚慶を密かに殺害しようと企て始めたのである。
しかし、息子の六角義秀も馬鹿ではない。父親の不穏な動きを察知した六角義秀は、昼夜を問わず覚慶の側から離れず、徹底的な守護を固めた。六角承禎もさすがに息子の目の前で凶行に及ぶわけにはいかず、事態はしばらく膠着状態に陥った。
だが、時は流れ、季節は仲秋――月が最も美しく輝く秋の夜。ついに、六角承禎が動いた。
「月を賞して、ささやかな宴を催したい。どうか我が居城、箕作城へお越しいただきたい」
六角承禎からの招請。断れば角が立つ。六角義秀は不慮の禍を恐れ、自らも病を押して覚慶の護衛として箕作城へと同行した。
宴は盛大であった。六角承禎と、そのもう一人の息子である六角義弼が、これ以上ないほど丁寧な饗応を尽くし、酒と料理が運ばれ、場はすこぶる佳境に入っていった。
美しい月光。優雅な杯。しかし、その美しい光景の裏側には、緻密に計算された死の罠が張られていた。
宴の最中。護衛として目を光らせていた六角義秀は、ふと庭の池に目を落とし――その全身の血を凍らせた。
「……ッ!」
今日の宴会には必ず裏がある。そう警戒していた六角義秀の目に飛び込んできたのは、妻戸の陰に潜む、異様な影だった。
月光に照らされた池の水面。そこに、鏡のように鮮明に映り込んでいたのだ。暗がりに伏せられた屈強な暗殺者たちの姿と、彼らが握りしめる槍や刀の刃が、きらきらと冷たい光を放っているのが。
(……父上は本気だ。今宵、ここで覚慶様を討つおつもりだ!)
六角義秀は顔色を変えることなく、密かに席を立ち、覚慶の側近である和田伊賀守へと近づき、この絶望的な状況を耳打ちした。
「……承知いたしました」
報告を受けた和田伊賀守は、極限の緊張感の中で、信じられないほど見事な機転を見せた。彼は何食わぬ顔で、覚慶の御前へとつつーっと歩み寄り、恭しく頭を下げたのである。
「覚慶様。かねてよりお申し付けられておりました『御衣服』が、ただ今仕上がり、持参いたしました。夜風も冷えてまいりましたゆえ、どうか別室にて『お召し替え』を」
そう言いながら、伊賀守は覚慶の目を見て、キッと鋭く目配せをした。
「……あ、ああ。そうであったな」
次期将軍となるべき男もまた、ただの飾り物ではなかった。その言葉の裏にある「緊急事態」を瞬時に悟った覚慶は、落ち着き払った動作で立ち上がると、伊賀守と共に静かに宴の座を退出した。
別室に入るや否や、伊賀守は覚慶の耳元に口を寄せ、六角承禎の恐るべき暗殺計画を告げた。
「もはや一刻の猶予もございませぬ。裏口より逃れます!」
彼らは服を着替えるふりをして、警備の薄い搦手へと向かった。天下の将軍家の血を引く者が、土まみれになりながら高い塀を乗り越え、決死の覚悟で夜の闇へと飛び出していく。それは、プライドも何もない、ただ生き延びるためだけの泥臭い逃亡劇であった。
一方、宴の席では、主役である覚慶が戻ってこないことに、暗殺を企てていた六角承禎たちが訝しげな表情を浮かべ始めていた。
「……覚慶殿は遅いな。召し替えに手間取っておられるのか」
殺気が場に充満し始めたその時。三淵大和守と、細川藤孝の二人が、静かに六角承禎と六角義秀の前に進み出た。彼らは、覚慶が逃げ延びるための時間を稼ぐ「殿」の役目を自ら引き受けたのだ。
「六角承禎殿。誠に申し訳ございませぬ」
細川藤孝は、微塵も動揺を見せず、深く頭を下げて言い放った。
「我が主君・覚慶は、にわかに激しい腹痛に見舞われまして。とても宴席に連なることは叶わず、やむを得ず、一足先に観音寺城へと帰還なされました」
「な、なんだと……!?」
「我らに『この旨を申し伝えてくれ』と命じられました。いずれ他日、改めてこのご無礼をお詫び申し上げる、とのことです」
あまりにも堂々とした嘘。六角承禎は心中で大きく舌打ちをした。暗殺の標的が、腹痛という下らない理由で、すでに自分の城から脱出していたのだ。
(謀られた……! 逃がしてなるものか!)
六角承禎は表面上は穏やかに「それは痛ましい」と応じながらも、密かに次男の六角義弼に目配せをし、直ちに覚慶の後を追うよう命じた。
六角義弼はすぐさま300人の屈強な兵を率い、覚慶が逃げたであろう湖水のほとりへと猛烈な勢いで馬を走らせた。
当然、この夜の風雅な月見の宴会は完全に破綻した。六角義秀、三淵大和守、細川藤孝らも、追手に斬られる覚悟を決めながら、急ぎ観音寺城へと帰還の途についたのである。
「……これが、覚慶様――足利義昭が、越前の朝倉へと逃げ込むに至った『六角家での惨劇』の全貌か」
僕は報告書をパタンと閉じ、深く息を吐き出した。将軍の実弟という最高級の神輿は、奈良から滋賀、福井へと、常に暗殺の刃に怯えながら、まさに血と泥にまみれて生き延びてきた。
「天が下には隠れ家もなし」と絶望しながらも、決して諦めなかった彼と、その忠臣たちの執念。
だが、彼らの苦難の逃避行も、これで終わる。越前に身を寄せた足利義昭は、ついに最強の武力を持つ男――織田信長様という「絶対的な安全地帯」を見つけ出したのだから。
「藤吉郎様! 全軍、出陣の支度が整いました!」
幕舎の外から、弟の小一郎(秀長)の力強い声が響いた。僕は立ち上がり、腰の刀を締め直した。
「ああ、今行く!」
幕舎を出ると、そこには美濃・尾張の精鋭数万が、地鳴りのようなざわめきと共に整列していた。僕たちの「上洛」。それは、京の都へ向けての単なるパレードではない。
京へ至る道には、足利義昭を裏切り、三好(三人衆:日向守長縁、下野守政安、岩成主税好通)に魂を売った巨大な敵――六角承禎が支配する近江が立ち塞がっている。
「六角承禎……足利義昭を暗殺しようとしたその罪、僕たち織田軍が高くつかせてやる」
大義名分は、すでに僕たちの手にある。
『正当なる将軍を庇護し、これを害そうとした逆臣・六角承禎を討ち果たし、京の都へ上る』。
これほど完璧で、これほど暴力的な理由はない。
「さあ、行こうか。天下の盤面を、派手にひっくり返しに」
僕は、背中に高く掲げられた「千成瓢箪」の馬印を見上げた。秋の空は高く、どこまでも澄み切っている。
木下藤吉郎の、そして織田信長の、天下布武を懸けた真の戦いが、今、圧倒的な熱量と共に幕を開けようとしていた。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
六角承禎覺慶を害せんと謀る
さして行く笠置の山を出でしより天が下には隱れ家もなしこれなん後醍醐天皇、笠置の城御沒落のとき、梢を拂ふ松の風を、雨の降るぞと聞し召し、木の陰に立寄らせ給ひたれば、下露のはらはらと御袖にかかりけるを御覽ぜられて、詠ませ給ふ御歌なり。時の不祥に遇はせ給へば、一天の君の御歌に、「天が下には隱れ家もなし」と歎かせ給ふは、畏れ多しとも勿體なしとも、譬へて云はんものぞなし。されば足利將軍尊氏公の嫡々(ちやくちやく)たる義輝公は、逆臣のために弑せられ給ひ、御舎弟第一一乘院門主覺慶君は、辛うじて南都を落させ給へども、計りがたき人心なれば、今ぞかの帝の御製を思召し合せられ、御袂を絞らせ給ふぞ、理過ぎて哀れなり。されども細川藤孝が介抱にて、江州和田伊賀守が館に忍びて住ませ給ひつつ、密に譜代恩顧の武士を召されければ、馳せ集まる人々(ひとびと)には、大館、三淵、仁木、武田、一色、沼田、二階堂、牧島、飯川、上野の面々(めんめん)、御味方に參るといへども、その昔はおのおの大身名家なりしかども、この時に至つては零落微勢の武士のみなれば、怨敵誅伐の計策調ひがたく、武田義澄を賴み給ひ、若狭國に赴き給ふ。この所も分内狹く、大義を發起すべき地理にあらずとて、再び江州に歸り給ひ、六角義秀、同承禎入道に足利家再興の儀を談ぜられければ、義秀畏りて領承し、觀音寺の城に迎へ奉り、深く勞り疎意なく仕へ奉れば、君も暫く安堵に與らず、權勢ことごとく叔父承禎が手裏にありて、いまだ事成就せず。このとき京都三好の三老臣、覺慶の南都を落させ給ひ、その在所を知らざれば、晝夜心を安んぜず、「松永が先見のごとく、諸侯を語らひ上洛せば、この上の恥辱はあらじ」と、石山の上人へ申し上げたりし誓紙の旨に違ひぬれど、身の上には代へがたく、國々(くにぐに)へ間者を入れ覺慶の在所を尋ね、密に失ひ奉らんと計りけるが、江州佐々木六角義秀が館におはす由、慥に聞えければ、「義秀、覺慶を扶け上洛せば、由々(ゆゆ)しき難儀なるべし」と、執政承禎入道へさまざま音物金帛を送り、「覺慶を討つて我々に力を合せば、奏聞して天下に管領たらしむべし」と申し送りければ、承禎入道たちまち惡心を發し、三好に與して覺慶を殺さんとす。されども屋形義秀このことを察し、晝夜守護し奉れば、承禎入道敢て手を下すこと能はず、徒にここぞ過ごしけれ。
日月矢の疾きに過ぎたりとかや、早く夏も去りて仲秋の最中なれば、月を賞して宴をなさんと、承禎が居城箕作へ、覺慶君を招請す。義秀不慮の禍あらんことを恐れ、自ら病を助けて覺慶を守護し箕作へ赴ければ、承禎その子義弼もろともに、饗應對丁寧を盡し、すこぶる佳境に入りにけり。屋形義秀、今日の宴會必ず謀計あるべしと、心を附けて伺ふに、妻戸の蔭に力者を伏置きたりと見えて、槍刀の光池水に映じ、きらきらと煌めきければ、密に席を立つて和田伊賀守にこのことを告ぐ。伊賀守、覺慶の御前につつと居寄りて、「かねて命ぜられし御衣服、只今持參候間、御召替へ然るべし」と申して、吃と目くばせしたりければ、覺慶その心を悟り、諸きて座を立ち給へば、伊賀守御耳に口を附け、承禎が計を進上し、搦手の塀を越え、君を守護して落行きける。ときに三淵大和守、細川藤孝兩人、義秀、承禎が前に出で、「主君覺慶、卒に腹痛甚だしく、宴席に連なりがたく、觀音寺の城へ歸り候。臣らに命じ、この旨を申し置かしむ。猶他日の參會多罪を謝すべし」と、謹んで述べければ、承禎心中大に驚き、密に息男義弼に命じ、覺慶の跡を追はしむ。義弼三百人の逞兵を引率し、湖水の邊へ馳行きけり。これによつてこの夜の宴會すでに破れ、義秀、三淵、細川も、觀音寺の城へ歸りけり。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
https://share.google/AxQqE2xRgf0LcmxAN
絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
週末NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」を観てたのですが、プロの作家のストーリーはやっぱり面白しろかったです。ただ、俳優の演技を楽しむなら十分なのですが、ストーリーを味わうには尺不足でなんかもったいないなと思いました。そういう意味で、容量無制限で読める&書ける「なろう」の方が国営放送より面白いのではないかと思います。




