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新訳 太閤記 ~ 転生 豊臣秀吉、未来を識る僕は史実の道を静かに歩む 〜  作者: 条文小説


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1-78 戦術と戦略の境界線

挿絵(By みてみん)


 『太閤記(たいこうき)』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。

 『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本(よみほん)。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia

 千成瓢箪(せんなりびょうたん)の馬印。僕が信長から直々に授かったその誉れは、瞬く間に織田家中に知れ渡った。


 稲葉山城の陥落により、斎藤家は事実上の滅亡を迎えた。長きにわたる美濃攻略戦は、ここに完全なる終結を見た。


 信長は稲葉山城を大規模に改修し、その名を新たに『岐阜城』と改めた。古代中国、周の文王が岐山(きざん)から天下を平定した故事に倣った、途方もない野望の宣言だ。これより信長は、尾張と美濃の二ヶ国を領する大守として君臨することになる。


 そんな信長は、荒れ果てた美濃の地において、意外なほど寛大な処置をとっていった。かつて敵対した諸将を赦免して配下に組み込み、戦火に怯える百姓たちを撫で、迅速に仁政を敷いてゆく。


 圧倒的な『恐怖』で城を落とし、その後の統治では『慈悲』を見せる。飴と鞭の完璧な使い分けにより、織田の武威は自然と盛んになり、尾張・美濃において信長に逆らおうとする勢力はない。


「……見事な手際だ」


 僕は岐阜城下の自身の屋敷で、信長から新たに与えられた広大な領地の書状を眺めながら、感嘆の息を漏らした。


 僕の調略や奇策も確かに役立っただろう。でも、それを盤石の支配体制へと昇華させる信長の政治手腕は、まさに魔王にして覇王のそれだった。


 でも、戦国の歩みは止まらない。天下布武を掲げる信長の視線は、すでに次なる盤面へと向けられていた。


「次は伊勢(いせ)か」


 尾張の南西に位置する伊勢国。そこは名門・北畠(きたばたけ)家が支配する広大な地である。上洛への道を確固たるものにするためには、背後にして側面でもある伊勢の平定は避けて通れないタスクだ。


 永禄10年(1567年)秋、8月。美濃と尾張の精鋭10,000騎を号令した信長は、ついに伊勢国へと出陣する。僕もまた、自らの部隊を率い、誇らしげに揺れる瓢箪の馬印と共に、新たな戦場へと足を踏み入れた。


 織田軍は、滝川左近(たきがわさこん)の居城である桑名城を本陣とし、怒涛の勢いで伊勢侵攻を開始した。最初の標的となったのは、北畠方の猛将・楠七郎左衛門正具(くすのきしちろうざえもんまさとも)が立て籠もる八田(はった)の城。


 先鋒を任されたのは3,000の兵。対する城の守備兵は、わずか500人。誰もが「赤子をひねるようなものだ」と高を括っていた。


 でも、僕は陣中からその城の構えを見て、嫌な予感を抱いていた。


(……楠正具か。楠木正成の末裔という話は飾りに過ぎない。だが厄介なのは、その名に恥じぬ働きをしていることだ)


 河内一帯の地形に精通し、少ない兵で要害を守ることに長けた武将。さらに籠城戦では無理な打って出をせず、ひたすら守りに徹する堅実な性格だという。そして何より、彼が拠る烏帽子形城は険しい山上に築かれた要害だ。


(兵の数だけで押し潰せる相手じゃないな……)


 その予感は、最悪の形で的中することになる。寡兵であるはずの楠正具は、一歩も引かずに城を堅固に守り抜き先鋒の3,000は完全に攻めあぐねた。


「ええい、手こずりおって! 柴田、坂井、池田! 五千の兵を率いて一気に攻め落とせ!」


 本陣からの苛烈な命令を受け、織田の猛将たちが怒号と共に城へと殺到する。数百丁の鉄砲が一斉に火を吹き、黒煙が視界を覆う。その煙幕に紛れて鬨の声を上げ、兵たちが堀に取り付き、土塁を這い上がろうとした。


 ――その瞬間だった。


 それまで激しく抵抗していた城内が、不気味なほどに静まり返った。矢狭間(やざま)が閉じられ、反撃がピタリと止んだ。


「……まずい! 引け、引くんだ!」


 僕が叫んだ時には、すでに遅かった。堀に取り付き、無防備に壁を登ろうとしていた織田の兵たちの頭上に、城の櫓(やぐら)から、想像を絶する質量の暴力が降り注いできた。


「落とせェェェッ!!」


 楠の号令と共に、あらかじめ用意されていた巨大な丸太や大岩が、一斉に転がり落ちてきた。未来の論理(ロジック)で言えば、重力(グラビティ)という絶対的な物理法則を味方につけた、最も原始的で最も凶悪なトラップ。


「ぎゃああああっ!?」


「う、腕が……!」


 大木と岩石は、密集していた柴田・池田の部隊をボーリングのピンのように薙ぎ倒し、無数の骨を砕き、肉を潰した。混乱して逃げ惑う兵たちに、今度は城から長刀(なぎなた)を持った兵が躍り出て、容赦なく斬り捨てていく。


 織田軍は、一瞬にして数え切れないほどの死傷者を出し、完全に足を止められてしまった。


「……見事な手際だ」


 信長は惨状を見下ろしながら、驚くほど冷徹な声で呟いた。


「この城、容易には落ちん。福富、平手、3,000の兵でこの城を押さえよ。本隊は転進し、高岡(たかおか)の城を攻める」


 被害が広がる前に損切(ロスカット)りするの早さ。それが信長の強さの一つだ。


 意地になって一つの城に兵力をすり減らすのではなく、最小限の兵で封じ込め、本隊の機動力を活かして次の標的を叩く。僕たちはすぐに軍を再編し、次なる標的・高岡城へと向かった。


 だが、伊勢の武将たちは一筋縄ではいかない。高岡城に立て籠もる山路弾正正信(やまじだんじょうまさのぶ)もまた、1,000人の兵を率いて死力(しりょく)を尽くして抵抗した。


 織田の大軍が全方位から包囲しても、彼らは一歩も引かず、矢玉を惜しむことなく撃ち込んできた。夕陽が西に傾くまで激戦が続いたが、ついに城は落ちず、地の利のない伊勢での夜戦は危険と判断され、僕たちは一旦桑名の本陣へと兵を引き上げた。


 そして翌日の早朝。「今日こそ踏み潰してやる」と、織田の軍勢が再び高岡城へ向けて進軍を開始した時のことだ。


「……なんだ、あれは?」


 先頭を進んでいた部隊が、足を止めてざわめき始めた。僕も馬を進め、前方を見て目を疑った。高岡城の周囲に立ち並ぶ民家(城下町)から、突如として猛烈な火の手が上がり、黒煙が天を覆い隠す勢いで吹き上がっていた。


「味方が火を放ったのか!?」


「いや、先鋒はまだ誰も取り付いておらんぞ!」


 織田の諸将たちの間に、明らかな動揺が走った。攻城戦において、城下の民家に火を放ち、敵を混乱させるのは攻め手側の定石だ。しかし、織田軍はまだ誰も火を放っていない。ならば、なぜ燃えているのか?


「敵の罠だ」


「煙に紛れて奇襲を仕掛けてくる気だぞ」


「不用意に進むな!」


 疑心暗鬼に陥った軍士たちは、炎と黒煙に恐れをなし、誰一人として城へ近づこうとしなくなってしまった。


(……罠? 奇襲?)


 僕は馬上から、燃え盛る炎と、その奥に見え隠れする城の様子をジッと観察した。そして、ふと脳裏に一つの論理(ロジック)が閃いた。


「いや……違う。これは『時間稼ぎ』だ」


 僕は自らの部隊の士卒たちに向かって、声を張り上げた。


「皆、惑わされるな!あれは敵の苦肉の策だ!」


 僕の言葉に、周囲の将たちが一斉にこちらを振り返る。


「敵は、僕たちが攻城の定石として民家に火を放つことを知っていた!だからこそ、あえて自らの手で先に火を放ったんだ!」


「なんだと?」


「『味方の中に火を放った者がいるのか?』『それとも罠か?』と、僕たちの疑心暗鬼を誘い、足を止めさせるのが彼らの本当の狙いだ!戦いを長引かせ、こちらの戦意を削ごうという計略に過ぎない!」


 人間は、理解できない現象に直面すると本能的に動きを止める。山路弾正は、その心理の盲点を突いたのだ。


「火なんか無視しろ!むしろ、煙を盾にして一気に城へ取り付く好機だ!僕に続けェッ!!」


 僕は馬の腹を蹴り、自ら燃え盛る炎の中へと突っ込んでいった。僕の迷いのない下知と行動に、迷っていた織田の猛将たちがハッと我に返った。


「猿に遅れをとるな!かかれェッ!!」


 柴田勝家、池田勝三郎、丹羽長秀、坂井右近。歴戦の将たちが総勢6,000騎を率いて、怒号と共に城の四方を鉄桶(てっとう)のように取り囲んだ。


 山路弾正の目論見は、僕の眼力によって完全に打ち砕かれた。自ら放った火が、逆に織田軍の闘争心に火をつける結果となった。城内からは必死の防戦が続いたが、もはやその勢いを止められるはずがなかった。


「……ここだ。あの櫓(やぐら)の守りが薄い」


 城の容態を冷静に観察していた僕は、森三左衛門と坂井右近が攻めている方面の守備が崩れかけているのを見逃さなかった。


「佐々内蔵助殿!前田孫四郎殿!森と坂井の攻め口に力を合わせましょう! あそこから一気に乗り入れます!」


「応よ!俺の槍の錆にしてくれるわ!」


 僕の呼びかけに応じ、血気盛んな若武者たちが一斉に攻め口へ殺到した。息をつく暇も与えない猛攻。防衛線を完全に突破し、城の要である矢倉をあっという間に攻め落とした。城門が破られるのは、もはや時間の問題だった。


「よしっ!この城、もらった!」


 僕が勝利を確信し、刀を振り上げたその時である。


「待て!待たれいッ!!」


 大手の櫓の上に、満身創痍の山路弾正が姿を現し、信長の本陣に向かって大音声を張り上げた。


「これ以上の戦は無用!我ら、降参いたす!どうか攻め口を緩め給え!」


 その悲痛な叫びは、戦場の喧騒を切り裂いて響き渡った。大手口の大将を務めていた柴田勝家は、即座に攻撃の歩みを止め、信長にこの旨を言上した。


 そして間もなく、前線で血を流している僕たちの元へ、柴田からの伝令が飛び込んできた。


『左右の攻め口の軍士はそのまま待機せよ。備えを固め、一旦兵を引き取れ』との指示だった。


「……な、なんだと!?」


 僕は苛立ちのあまり、持っていた采配を地面に叩きつけそうになった。


「ふざけるな! 今日、今まさに目の前で城を落とせるという時に、なぜ攻撃をやめて退かねばならないんだ!」


「し、しかし藤吉郎殿、柴田様からの御下知で……」


「降伏を許すにしても、順序というものがある!まず城を踏み破り、あの山路弾正をひざまずかせ、完全に力関係を分からせた後で命を許してやるのが筋だろう!」


 僕の前世の知識、そして戦場での理屈(ロジック)が警鐘を鳴らしていた。攻め落とす寸前で「降参します」と言われて攻撃を止めてしまえば、敵は「危なくなったら降参すればいい」と学習してしまう。それでは、織田軍の『恐怖』の威信が薄れるのだ。


「遅いことはない、このまま一挙に城を乗っ取るぞ! 森殿、坂井殿! 構うな、攻めろ!」


 僕は勝家の制止を振り切り、強引に兵たちを督戦して城へ踏み込もうとした。


 だが。


『攻め口を緩めよ。敵の虚実を窺い、必要とあれば重ねて攻めれば済むこと。無用な血は流すな』


 信長の本陣から、僕を名指しで制止する軍使が、度重なって飛んできたのである。


「…………ッ」


 僕はギリッと奥歯を噛み締め、振り上げていた刀を、ゆっくりと、震える手で鞘に納めた。


 柴田の命令なら無視できても、信長の直命に逆らうことはできない。


「……兵をまとめろ。一旦、退くぞ」


「兄者……よろしいのですか?」


 心配そうに顔を覗き込む弟の小一郎に、僕は力なく頷いた。


「仕方がない。総大将の命令だ」


 軍をまとめ、諸将と共に本陣へと戻る道すがら、僕は馬に揺られながら深く思考を沈めていた。なぜ、信長は止めを刺さなかったのか。


 僕の戦術(ミクロ)的視点では、あのまま城を物理的に粉砕するのが最善だった。だが、信長の戦略(マクロ)的視点は違った。


 伊勢は広く、北畠の勢力は根強い。一つ一つの城を血みどろになって潰していくより、「降伏すれば許される」という前例(データ)を意図的に作り、無血開城の連鎖を誘発しようとしたのではないか。


(……現場の将が求める『完全勝利』と、為政者が求める『最適解』は違う、ということか)


 僕は腰に提げた、あの一つの千成瓢箪にそっと触れた。戦場での武功を焦るあまり、僕は大局を見失いかけていたのかもしれない。力でねじ伏せるだけが戦ではないと、僕自身が一番よく知っていたはずなのに。


「まだまだ、学ぶことが多いな……」


 夕日に照らされた伊勢の空を見上げながら、僕は自嘲気味に笑った。


 魔王・織田信長。あの底知れぬ天才に追いつくためには、僕はもっともっと、この瓢箪に多くの経験を詰め込んでいかなければならない。


 戦国の風は、焦げ臭い匂いを孕みながら、次なる乱世の幕開けを予感させていた。




【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】




信長(のぶなが)勢州(せいしう)發向(はつかう)


織田(おだ)上總介(かづさのすけ)信長(のぶなが)、齋藤(さいとう)の居城(きよじやう)稻葉山(いなばやま)に移(うつ)り給(たま)ひ、新(あらた)に城(しろ)を造營(ざうえい)ありて、號(なづ)けて岐阜城(ぎふじやう)と云(い)ふ。これより美濃(みの)、尾張(をはり)二箇國(にかこく)の大守(たいしゆ)にて、諸士(しよし)をなつけ百姓(ひやくしやう)を撫(な)で、仁政(じんせい)を行(おこな)ひ給(たま)へば、武威(ぶゐ)おのづから盛(さかん)にして、震(ふる)ひ惶(おそ)れずと云(い)ふものなし。この勢(いきほひ)に乗(じよう)じて伊勢國(いせのくに)に發向(はつかう)し、北畠(きたばたけ)一家(いつけ)を征伐(せいばつ)あるべしとて、永祿(えいろく)十年(じふねん)秋(あき)八月(はちぐわつ)、美濃(みの)、尾張(をはり)の軍勢(ぐんぜい)一萬餘騎(いちまんよき)を發(はつ)し、瀧川(たきがは)左近(さこん)が居城(きよじやう)桑名(くはな)を本陣(ほんぢん)として、先手(さきて)の兵(つはもの)三千餘人(さんぜんよにん)、楠(くすのき)七郎(しちらう)左衛門(ざゑもん)正具(まさとも)が籠(こも)りたる八田(はつた)の城(しろ)を攻(せ)めさしむ。楠(くすのき)正具(まさとも)もとより智謀(ちばう)強勇(がうゆう)の良將(りやうしやう)なれば、五百餘人(ごひやくよにん)堅固(けんご)に籠城(ろうじやう)し、矢石(しせき)を飛(と)ばし、嚴(きび)しく防(ふせ)ぎ戰(たたか)へば、信長(のぶなが)が先手(さきて)の勢(せい)、攻(せ)め倦(あぐ)んで見(み)えけるにぞ、信長卿(のぶながきやう)、柴田(しばた)、坂井(さかゐ)、池田(いけだ)等(とう)また五千餘騎(ごせんよき)を與(あた)へて攻(せ)め討(う)たしむ。三將(さんしやう)ひたひたと塀際(へいぎは)に押寄(おしよ)せ、數百(すうひやく)の鐵砲(てつぱう)一度(いちど)に打掛(うちか)け、黒烟(くろけぶり)の中(うち)より鬨(とき)を作(つく)り、堀(ほり)に取附(とりつ)き乘(の)り入(い)らんとす。城中(じやうちゆう)には楠(くすのき)下知(げち)して、矢狹間(やざま)を閉(と)ぢ、鳴(なり)を靜(しづ)めて居(ゐ)たりしが、寄手(よせて)堀(ほり)に取附(とりつ)き登(のぼ)るを見(み)て、時分(じぶん)はよしと、櫓(やぐら)より大木(たいぼく)大石(たいせき)を一同(いちどう)に落(お)とし掛(か)け、長刀(なぎなた)を以(もつ)て切落(きりおと)せば、柴田(しばた)、池田(いけだ)が勢(せい)死傷(ししやう)の者數(ものかず)を知(し)らず。信長(のぶなが)急(きふ)にこの城落(しろお)つまじきを察(さつ)し、福富(ふくとみ)平左衛門(へいざゑもん)、平手(ひらて)監物(けんもつ)三千餘人(さんぜんよにん)にて押(おさ)へ、惣軍(そうぐん)を引(ひ)いて高岡(たかをか)の城(しろ)へ向(むか)ひ、四方(しはう)を圍(かこ)んで攻(せ)めたりける。この城(しろ)は山路(やまぢ)彈正(だんじやう)正信(まさのぶ)といふ勇士(ゆうし)、一千餘人(いつせんよにん)楯籠(たてこも)り、織田(おだ)の大軍(たいぐん)を事(こと)ともせず、持口(もちぐち)を守(まも)り、矢玉(やだま)を惜(を)しまず、死力(しりよく)を盡(つく)して防(ふせ)がせければ、この城(しろ)また左右(さう)なく攻(せ)め落(お)とすべき樣(やう)もなく、夕陽(せきやう)西(にし)に傾(かたむ)けば、案内不知(あんないふち)の地(ち)にて、夜軍(よいくさ)せんもおぼつかなしとて、軍勢(ぐんぜい)を引上(ひきあ)げ、桑名(くはな)の本陣(ほんぢん)へ歸(かへ)り給(たま)ふ。翌早天(よくさうてん)に重(かさ)ねて高岡(たかをか)の城(しろ)を攻(せ)めらるべしと、またまた軍勢(ぐんぜい)を押出(おしいだ)すに、城外(じやうぐわい)の民屋(みんをく)よりたちまち火(ひ)燃(も)え出(い)で、黒煙(くろけぶり)天(てん)に覆(おほ)ふ。織田(おだ)の軍士(ぐんし)大(おほい)に愕(おどろ)き、城兵(じやうへい)いかなる計(はかりごと)をや設(まう)けぬらんと、さらに進(すす)み戰(たたか)ふ者(もの)なし。木下(きのした)藤吉郎(とうきちらう)士卒(しそつ)に下知(げち)し、「これは味方(みかた)の放火(はうくわ)せんことを計(はか)り知(し)り、却(かへ)つて城中(じやうちゆう)より火(ひ)をかけ、味方(みかた)の兵士(へいし)を惑(まど)はし、戰(たたかひ)を寛(ゆる)くせしめん敵(てき)の計略(けいりやく)と覺(おぼ)ゆるぞ。火(ひ)を打捨(うちす)てて攻(せ)めかけよ」と、自(みづか)ら馬(うま)を馳出(はせいだ)せば、この下知(げぢ)に勵(はげま)され、柴田(しばた)、池田(いけだ)、丹羽(には)、坂井(さかゐ)、その勢都合(せいゝつがふ)六千餘騎(ろくせんよき)、城(しろ)の四方(しはう)を鐵桶(てつとう)のごとく取圍(とりかこ)み、喚(わめ)き叫(さけ)んで攻(せ)めたりける。山路(やまぢ)彈正(だんじやう)は、民屋(みんをく)へ火(ひ)を放(はな)たば、敵疑(てきうたが)うて引取(ひきと)るべしと思(おも)ひけるに、俄(にはか)に合戰(かつせん)に及(およ)びければ、四方(しはう)に下知(げち)して防(ふせ)ぎ戰(たたか)ふといへども、堪(こら)へつべうも見(み)えざりける。木下(きのした)藤吉(とうきち)城(しろ)の容體(ようだい)を伺(うかが)ひ見(み)、「この城(しろ)の落(お)ちんこと、森(もり)、坂井(さかゐ)が攻口(せめぐち)にあるべし。力(ちから)を合(あは)せ乘(の)り入(い)れや」と佐々(ささ)内藏助(くらのすけ)、前田(まへだ)孫四郎(まごしらう)もろともに、森(もり)、坂井(さかゐ)が手(て)に加(くは)はり、息(いき)をも繼(つ)がず攻(せ)めければ、難(なん)なく矢倉(やぐら)を攻(せめ)落(おと)し、あはやこの城(しろ)この手(て)に落(おち)なんんとす。これを見(み)て山路(やまぢ)彈正(だんじやう)、大手(おほて)の櫓(やぐら)に兵士(へいし)を上(のぼ)せ、信長(のぶなが)の陣(ぢん)に向(むか)ひ、「降參(かうさん)致(いた)すべき間(あひだ)、攻口(せめぐち)を緩(ゆる)め給(たま)へ」と、大音(だいおん)に呼(よ)ばらせければ、大手(おほて)の大將(たいしやう)柴田(しばた)勝家(かついへ)、やがてこの旨(むね)信長(のぶなが)に言上(ごんじやう)し、「左右(さう)の攻口(せめぐち)へ軍士(ぐんし)を立(た)て、備(そなへ)を堅(かた)めて引取(ひきと)るべし」と申(まう)し送(おく)りければ、藤吉(とうきち)苛(いら)つて、「今日(こんにち)目前(もくぜん)攻(せ)め落(おと)すべき時(とき)に臨(のぞ)んで戰(たたかひ)を止(や)め、退(しりぞ)くべき樣(やう)やある。まづ城(しろ)を踏(ふ)み破(やぶ)り、山路(やまぢ)彈正(だんじやう)を擒(とりこ)にし、その後(のち)降(かう)を免(ゆる)し給(たま)ふとも遲(おそ)きことあるべからず。ただこのままに攻(せ)め詰(つ)めて、一擧(いつきよ)に城(しろ)を乘(の)り取(と)るべし」と、森(もり)、坂井(さかゐ)らに催促(さいそく)し、士卒(しそつ)を勵(はげま)し攻(せ)めたりける。信長卿(のぶながきやう)は城將(じやうしやう)山路(やまぢ)彈正(だんじやう)降參(かうさん)のよし聞(き)こえければ、「まづ攻口(せめぐち)を緩(ゆる)め、敵(てき)の虚實(きよじつ)を窺(うかが)ひ、重(かさ)ねて攻(せ)むるとも安(やす)かるべし」と、度々(どど)軍使(ぐんし)を以(もつ)て木下(きのした)を制(せい)し給(たま)へば、藤吉郎(とうきちらう)も今(いま)は詮方(せんかた)なく、軍卒(ぐんそつ)をまとめ、諸將(しよしやう)と共(とも)に、大將(たいしやう)の本陣(ほんぢん)へこそ參(まゐ)りける。

〜参考文献〜

太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource

https://share.google/AxQqE2xRgf0LcmxAN

絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編

夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700


〜舞台背景〜

 今話の舞台桑名の名物は蛤(はまぐり)です。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」でも紹介されたり、江戸時代から歴代将軍に献上されるなど桑名の名物として結構有名です。1個500円〜1,000円する高級品ですが、鍋にした時の黄金色の出汁は「お値段以上」です。で私、週末お呼ばれしてハマグリ鍋を食べました。ただの⋯自慢でしたw

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