1-76 東国第一の名城、墜つ
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
胸の中の日輪が、勝利を確信して激しく燃え盛る。
戦国最強の要塞、稲葉山城。この東国第一の名城が、木下藤吉郎というたった一人の「猿」の奇策によって、音を立てて崩れ落ちる瞬間が、いよいよ訪れようとしていた。
僕たちは、城内の混乱を縫うようにして、ついに大手の塀の内側へと到達した。分厚い壁の向こう側からは、織田の主力軍が放つ鉄砲の轟音と、味方の喚声が絶え間なく響いてくる。
すぐ頭上では、斎藤軍の守備兵たちが必死に矢を射下ろし、投石の準備に追われていた。彼らは目の前の敵を食い止めるというタスクに完全に没入しており、足元――自陣の背後に、致死の猛毒を持った8人の小部隊が潜り込んでいることなど、全く気づいていない。
「……ここまで来れば、もう安心だ」
僕はホッと息を吐き、担いでいた空の飯櫃を無造作に地面へ放り捨てた。偽装の役目は終わった。ここからは、外で待機している味方との連携だ。
「又十郎、その瓢箪をよこせ」
「へっ? ああ。喉でも渇いたか?」
「違う。これは、ただの水筒じゃない。僕たちの命運を告げる『狼煙』だ」
僕は又十郎から大瓢箪を受け取ると、傍らに立てかけられていた長い青竹の先に、持っていた紐でぐるぐると固く縛り付けた。
暗闇の中でも、その奇妙なシルエットははっきりと浮かび上がる。
――のちの世に、豊臣秀吉の馬印「千成瓢箪」として天下に轟くことになる意匠。その伝説が、文字通りこの瞬間に産声を上げたのだ。前世の歴史知識を持つ僕としては、たまらない高揚感が背筋を駆け上がる。
「小一郎。……見つけてくれよ」
僕は祈るような気持ちで、その青竹を高く持ち上げ、塀の向こう側――織田軍の陣地に向かって、力いっぱい突き出した。
同じ頃、塀の外では、僕の弟である木下小一郎(のちの豊臣秀長)が、焦燥に駆られながら夜空を睨みつけていた。小一郎には「僕が中から合図を送ったら、一気に突入しろ」と厳命してある。
「……出たぞ! 兄者の合図だ!」
月明かりに照らされた塀の上に、ヌッと突き出された瓢箪のシルエット。それを見た小一郎は、歓喜の声を上げた。小一郎の周囲には、上島主水、そして浅野弥兵衛といった、のちに僕の天下取りを支えることになる若き武将たちが控えていた。彼らが率いるのは、総勢六百余人の木下直属部隊だ。
「よし、お前たち! 僕たちはここだ! 水門を開けるぞ!」
塀の内側では、僕たち8人がかりで、分厚い木でできた水門の樋――堀の水を出し入れするための格子状の扉――に取り付いていた。
ここでも頼りになるのは、小六たちフィジカルエリートの暴力的な腕力だ。「フンッ!」という短い気合いと共に、軋みを上げて水門が引き上げられる。
わずかに開いた隙間から、蜂須賀小六が真っ先に外の堀へと潜り出た。小六は泥水に浸かりながら、大手を振って味方を手招きする。
「おらあっ! 木下の小僧ども、ここから攻め入れェッ!」
小六の野太い怒声は、外で待機していた六百人の血を激しく沸騰させた。逸る若き兵たちは、命令を待つまでもなく、次々と暗い堀の中へ飛び込んでいく。水しぶきを上げながら、彼らは開かれた水門を目指して怒涛の勢いで駆け込んでいった。
水門から敵兵が次々と城内へ侵入してくる異常事態に、頭上で防衛にあたっていた斎藤軍の兵士たちがついに気付いた。
「なっ……水門が開いているぞ!?」
「敵だ! 足元から敵が潜り込んできたぞ! 鉄砲を下へ向けろ、撃ち殺せ!!」
慌てふためいた守備兵たちが、筒先を僕たちに向けようとした、まさにその時だった。
ゴオォォォォォッ……!!!
城の奥深く、先ほどまで僕たちがいた搦手の方角から、夜空を焦がすほどの爆発的な炎が噴き上がった。
僕たちが放った小さな種火が、山のように積まれた柴薪に燃え移り、乾燥した秋風に煽られて、ついに手のつけられない巨大な火柱へと成長したのだ。
黒煙が天を突き刺し、火の粉が雪のように城内へと降り注ぐ。その凄まじい地獄の有様に、ただでさえ極限状態にあった斎藤軍の城兵たちは、完全に肝を冷やした。
「火事だァァッ!!」
「搦手から敵の大軍が入り込んだぞ! 本丸が燃えている!!」
「駄目だ、囲まれた! 部隊を分けて防戦しろ!!」
指揮系統は、完全に崩壊した。人間は、目の前の敵には立ち向かえても、「見えない背後からの脅威」には脆い。大手口の防衛部隊はパニックに陥り、ある者は火を消そうと背後へ走り、ある者は逃げ出し、水門を防衛するための防ぎ矢も完全に打ち捨てられてしまった。上を下への大騒ぎである。
「……かかったな」
僕は燃え盛る炎の照り返しを受けながら、冷酷に笑った。物理的な城壁は破れなくとも、人間の「心」の壁は、恐怖と疑心暗鬼によって容易く崩れ去る。これが、戦国の盤面を支配する僕のロジックだ。
守備兵が混乱の極みにあるその隙を突き、木下小一郎が率いる600人の兵が、完全に城内へと雪崩れ込んだ。
「兄者! ご無事で!」
「遅いぞ小一郎! さあ、一気に大門を開け放て!」
内側から閂を外され、稲葉山城の巨大な大門が、重々しい音を立てて開かれていく。それを待ち構えていたかのように、城外に展開していた織田信長様の大軍――12,000の黄金の魔王軍が、天地を揺るがすような鬨の声を上げた。
「「「おおおおおおおォォォォッ!!!」」」
それは、巨大な濁流だった。開かれた門から、怒涛の勢いで織田の兵たちがなだれ込んでいく。
柴田勝家、池田勝三郎、森三左衛門。織田家が誇る最高火力の猛将たち。
もはや、戦術の入り込む余地はない。あとは純粋な物理演算による殲滅戦だ。
ここからは、僕の描いた美しい調略の範疇を超えた、純粋で残酷な「暴力」の時間だった。前世の平和な記憶を持つ僕の目には、それはあまりにも凄惨な地獄絵図として映った。
味方の裏切りと燃え広がる炎に絶望し、戦意を失った斎藤の兵たち。しかし、なだれ込んできた織田軍に慈悲はない。敵と見れば斬る。抵抗すれば突く。逃げれば追う。戦場の理屈は、それだけだった。
血飛沫が舞う。悲鳴が響く。倒れた者の上を踏み越え、さらに兵たちが前へ進む。兵だけではない。幼い子を抱いた母親が泣きながら駆ける。腰の曲がった老人が必死に歩こうとする。親とはぐれた子供が、炎に照らされ声を枯らして叫んでいる。そこには敵も味方もなかった。ただ乱世に翻弄される人々の姿だけがあった。
僕は知っている。戦争とは、本来こういうものなのだ。武将たちが語る武勇伝ではない。軍記物に描かれる華々しい合戦でもない。その陰で、名も残らない人々が泣き、苦しみ、命を落としていく。その積み重ねこそが戦争の本当の姿なのだ。
(……これが、僕が開けた扉の結末だ)
僕は、血に染まった刀を握り締めながら、燃え落ちていく稲葉山城をただ静かに見つめていた。目を背けることは許されない。
戦のない太平の世を作るためには、まずこの血みどろの戦国を、誰かが圧倒的な力で統一しなければならない。その業を背負うと決めたのは、他でもないこの僕自身なのだ。
祖父の代から裏切りと簒奪を繰り返し、美濃一国に君臨した斎藤家の血塗られた歴史は、今夜、すべて灰燼に帰す。悪逆の果てに自滅していく彼らの姿は、まさに竹中半兵衛が語った「積悪の家には余殃あり」という天地自然の理そのものだった。
やがて、東の空が白み始めた。三日三晩に及んだ激戦が終わり、焦げ臭い風が吹き抜ける中、夜明けの太陽がゆっくりと顔を出す。
「……勝った」
誰に言うともなく、僕は呟いた。胸の中の日輪が、本物の朝日と呼応するように、確かな熱を帯びて脈打っている。
東国第一の名城、稲葉山城の陥落。それは同時に、木下藤吉郎という男が、天下という途方もない盤面の主役へと躍り出る、確かな幕開けの瞬間であった。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
稻葉山の城陷落
藤吉郎主從は、終に搦手より大手の塀際へ廻り、今は心安しとて、かねて舎弟小市郎を始め、味方の諸軍へ約束を定めたれば、酒器に用ひし瓢簞を竹の先に結び附け、塀際高く指し出し、八人の勇士水門の樋を引き上げ、小六正勝潜り出で、ここより押入り討破れと、手を揚げて味方を招く。木下小市郎は、兄藤吉が印の瓢簞を見ると等しく、上島主水、淺野彌兵衛、その勢都合六百餘人、塀際に押寄せ見れば、小六水門より味方を招く、「すはやこの所より攻入れ」と云ふほどこそあれ、逸り雄の兵堀の中へ飛び入り飛び入り、水門目がけ駈入りける。城中これを見て大に驚き、鐵砲矢石を飛ばし、打挫がんとす折節、最前藤吉柴薪の中へ火を差し入れ置きたれば一同に燃え上がり、黒烟天を突き、凄まじかりし有樣なれば、城兵大に肝を冷し、「搦手へ敵入りたり。勢を分けて戰へ」と罵るほどに、水門の防矢も打捨てて、上を下へと騷ぎけり。その隙に木下勢六百餘人城中へ潜り入り、大門を開き鯨波を作つて切つて廻れば、織田の大軍同じく鬨を合せ、我劣らじと攻入り攻入り、老若男女の厭ひなく、切り立て切り立て戰ひしは、すさまじかりし勢なり。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
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絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
そういえば…岐阜の名物「栗きんとん」この時代にはなく、明治の発明らしいです。濾すだけだから縄文時代くらいからあると思ってた。




