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新訳 太閤記 ~ 転生 豊臣秀吉、未来を識る僕は史実の道を静かに歩む 〜  作者: 条文小説


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1-72 師を得て、美濃を封ず

挿絵(By みてみん)


 『太閤記(たいこうき)』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。

 『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本(よみほん)。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia

 竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)。前世の知識――未来の日本で歴史の授業を受け、数々のエンタメ作品に触れてきた僕にとって、その名はあまりにも特別だった。


 戦国時代を代表する天才軍師。主君の悪政を諫めるため、わずか十数人で難攻不落の稲葉山城(いなばやまじょう)を乗っ取ったという、嘘のような伝説を持つ男。もしこの尾張・美濃の地において「最強の駒」は誰かと問われれば、僕は迷わず半兵衛の名を挙げるだろう。


 その半兵衛が今、主君である斎藤龍興(さいとうたつおき)の愚行に愛想を尽かし、美濃の栗原山(くりはらやま)という辺境に隠遁しているという。大沢次郎左衛門(おおさわじろうざえもん)から送られてきた書状には、彼が世の喧騒から離れ、ひっそりと隠居生活を送っていることが記されていた。


(……これは、天が僕に与えた千載一遇の好機だ)


 胸の奥で、日輪の熱が激しく脈打つ。


 信長の美濃攻略において、最大の障壁となるのは斎藤家の兵力ではない。竹中半兵衛という、底知れぬ「知略」そのものだ。もし半兵衛が再び斎藤家のために采配を振るえば、織田の軍勢はかつてのように深刻な痛手を負うことになる。逆に言えば、彼をこちらの陣営に引き入れることができれば、美濃はすでに半ば落ちたも同然だ。


「行くぞ。準備をしろ」


 僕はすぐさま行動を開始した。自らの身なりを粗末な旅の修行者のように変える。名と身分を隠し、ただの風来坊を装って栗原山へと向かうのだ。


 もちろん、一人ではない。僕に半兵衛を紹介してくれた恩人であり、今や僕の言葉なら命すら懸けてくれる大沢次郎左衛門も、密かに別の道筋から栗原山へ向かわせた。


 季節は肌寒い風が吹き抜ける頃。険しい山道を登りきった先に、ひっそりと佇む質素な庵(いおり)が見えてきた。そこには、大名家の重臣が住まうような華やかさは微塵もなく、ただ静寂と澄み切った空気が流れているだけだった。


「ごめんください。道に迷い、日が暮れて難儀しております。よろしければ、一宿の恩をお借りできないでしょうか」


 僕は庵の戸を叩き、わざとらしく、しかしどこか飄々とした声で呼びかけた。やがて、ゆっくりと戸が開く。そこに立っていたのは、細身で、まるで病み上がりのように青白い肌をした青年だった。しかし、その瞳だけは違った。静かな湖面のように澄み渡りながらも、僕の心の奥底までを見透かすような、鋭く冷たい光を放っている。


「……むさ苦しい所でよろしければ、どうぞ」


 彼こそが、竹中半兵衛。歴史の波間に隠れた、紛れもない「本物」との対峙だった。


 庵の中は、驚くほど物が少なかった。案内された囲炉裏の前に座り、パチパチと爆ぜる薪の火を挟んで、僕と半兵衛は向かい合った。


 最初は、ありふれた世間話だった。今年の作柄、近隣の山賊の噂、あるいは都の情勢。でも、僕が少しずつ戦(いくさ)の話題――兵の動かし方や、地形の利点、兵站(へいたん)の重要性についての話を振ると、庵の空気は一変した。


「……なるほど。旅の御仁は、ずいぶんと面白いものの見方をなさる」


 半兵衛は静かに茶をすすりながら、僕の言葉一つ一つを的確に解体し、さらに高度な論理で打ち返してきた。


「兵を動かすのは力ではなく『気』だと言われましたが、いかに気を高めようとも、腹が減っては槍は振れません。あなたのおっしゃる輜重(しちょう)の確保こそが、戦の九割を決する。……しかし、それだけでは足りない。兵の心と胃袋を満たした上で、最後に盤面をひっくり返すのは、敵将の『驕り』を突く一門の隙です」


(すさまじいな……)


 僕は内心で舌を巻いた。僕が語るのは、前世で得た後世の歴史的知識や、俯瞰的な戦術論の受け売りに過ぎない。しかし半兵衛は、それをこの時代の現実的な軍略として瞬時に翻訳し、さらにその先にある「必勝の理」まで組み上げてみせる。


 気づけば夜もすっかり更けていた。僕たちは時間を忘れ、軍略や戦の話を延々と続けていた。そのやり取りは、一言ごとに相手の考えを探り合う真剣勝負だった。まるで互いに剣を構え、ぎりぎりの間合いで斬り結んでいるような緊張感があった。やがて囲炉裏の火が小さくなり始めた頃、僕は意を決して、一番聞きたかったことを口にした。


「……ところで半兵衛殿。尾張の織田信長は、器量も度胸も兼ね備えた立派な人物だと聞いています。実は僕も、あの方に仕えようかと考えているのですが……あなたは信長という人物をどう思われますか?」


 その瞬間だった。半兵衛の表情から、それまでの穏やかな雰囲気が消えた。静かに茶碗を置いた彼は、僕をまっすぐ見つめながら、冷静な声で言った。


「――おい、そこの猿顔の若者。私の前で下手な腹芸をするのはやめた方がいい」


「……え?」


「私はまだお主に会ったことはなかった。だが噂は聞いている」


 半兵衛はそう言うと、少し口元を緩めた。


「織田信長の家臣に、木下藤吉郎という男がおるそうだ。猿に似た顔をしているくせに妙に頭が切れ、戦の才にも優れているとな」


 そして囲炉裏越しに、まっすぐ僕を指差した。


「先ほどからの軍略談義を聞けば分かる。お主はただの旅人ではない。話を巧みに誘導しながら、いつの間にか私に信長への降伏を勧めておった」


 半兵衛は小さく笑った。


「お主――木下藤吉郎であろう」


 見事だった。名乗るどころか、身なりを変えて完璧に偽装していたはずなのに、僕の「思考の癖」や「言葉の端々に滲む知識」だけで、相手の正体を見破ったのだ。


 僕は、フッと小さく息を吐いた。そして、先ほどまでの風来坊の猫被りを捨て、ニヤリと――未来の僕と、戦国を生きる藤吉郎のすべてを融合させたような、不敵な笑みを浮かべた。


「……お見事です。ご明察の通り、僕が木下藤吉郎秀吉です」


 正体を明かした僕は、姿勢を正し、半兵衛に向かって真っすぐに言葉をぶつけた。


「半兵衛殿。あなたは圧倒的な才能を持ちながら、なぜあのような斎藤家に仕えているのですか? 斎藤家はかつて主君を殺し、親を弑逆(しいぎゃく)して成り上がった家。その血を引く今の当主・龍興は、あなたの金言(アドバイス)に耳を貸さず、優れた計略を用いることもできない」


 僕は、言葉に熱を込めた。


「そんな暗愚な主君の下で、あなたの才能が朽ち果てていくのを待つのは見るに堪えません!我が主君・信長様は、あなたをかねてより慕っております」


 歴史の行方を知る僕だからこそ、言える真実がある。


「先の見えない斎藤を捨て、織田を助けてください。国を治め、天下を平定する功績を立てる。それによって遠くは父母の名誉を高め、近くは己の英名を歴史に刻み、子孫に永遠の繁栄を残す……これこそが人の本懐ではないですか!」


 その時、庵の戸が開き、待機していた大沢次郎左衛門が姿を現した。


「半兵衛殿!藤吉郎殿の申される通りだ!」


 大沢は僕の隣に座り込み、力強く頭を下げた。


「この藤吉郎殿は、私のような敵将の命すら、ご自身の命を懸けて救ってくださった! 織田信長公の苛烈さは確かにあるが、この男が間に入れば間違いはない。どうか共に、信長公に力を添えてはくださらぬか!」


 僕と大沢。二人の男からの、文字通り命懸けの説得。普通なら、ここで心境を変化させ、織田への降伏を受け入れるだろう。条件は最高だ。破格の厚遇が待っている。しかし――半兵衛は、深く、深く長い溜息をついた。


「藤吉郎殿。……大沢殿。私がその『利害』を理解していないとでもお思いか」


 半兵衛の声には、深い悲哀が滲んでいた。


「いかにすべきか。確かに織田の勢いは凄まじく、多くの良臣がそれを支えている。対して我が斎藤家は、すでに亡国の兆しが隠しきれず、主君は暴走し、家臣は佞臣(ねいしん)ばかり。滅びるのは今日の夕暮れか、明日の朝かという有様だ」


 彼は静かに目を伏せ、しかし岩のように揺るぎない声で言った。


「だが……私はかりそめにも、その斎藤家の飯を食い、禄をいただいて生きてきたのだ。国が落ちようとしているその時に、主君を捨てて他国に仕える。己の命と利益ばかりを惜しんで逃げ出す……それこそ男子としての最大の恥ではないのか?」


「…………!」


「国が滅びるなら、私は共に死ぬまで。……今さら、生きるために論を改めるつもりはない」


 僕は言葉を失った。


 前世の僕の常識――「泥舟からは早く逃げろ」「ブラック企業に義理立てする必要はない」という合理的で効率的なロジックが、半兵衛の持つ戦国武将としての『矜持』の前に、見事に砕け散った瞬間だった。


 半兵衛は織田が勝ち、斎藤が滅ぶことなど、僕なんかよりよほど正確に計算できている。それでも、半兵衛は「忠義」という名の美学に殉じる覚悟を決めていた。


(……だめだ。正攻法では、絶対にこの男の心は動かせない)


 論理(ロジック)で勝てないなら、どうするか。理屈(ルール)を書き換えるしかない。僕はゆっくりと立ち上がった。そして、半兵衛の目の前で、深々と……頭が床につくほど恭しく、平伏した。


「……半兵衛殿。あなたのその高く気高い義理の心に、深く感嘆いたしました。これ以上、織田に降れとは申しません」


 半兵衛は、少しだけ驚いたように目を見開いた。


「ですが、ここで僕から一つ、個人的な願いがあります」


 僕は顔を上げず、床に額を擦り付けたまま言葉を紡いだ。


「僕は身分が低く、幼い頃からまともな学問を学んだことがありません。師と呼べる者もなく、自分の知恵だけを頼りにここまで這い上がってきました。でも、天下を見据える戦の中で、自分の未熟さを痛感する日々です」


「……藤吉郎殿?」


「半兵衛殿は今、幸いにも世のしがらみから離れ、ここに隠棲しておられる。どうか……僕の拠点である洲俣の城へ移り住み、僕の『師匠』になってはいただけませんか」


 その言葉に、同席していた大沢次郎左衛門すら息を呑んだ。


「織田信長に仕えろとは言いません。ただ、僕に兵法を、人の道を、戦の理を教えてほしいのです!もしあなたが僕の師父(しふ)となり、僕を導いてくださるなら、これ以上の望はありません!」


 僕は顔を上げ、半兵衛の瞳を真っ直ぐに射抜いた。


「見ていてください。斎藤の家は、間違いなく織田の手によって滅びます。しかし、僕があなたの弟子になれば、僕は『師匠の元主君』である斎藤家の血筋が完全に途絶えないよう、命懸けで守り抜くことができます。斎藤家の祭祀(さいし)を断絶させないよう、僕が裏から手を回します。だから……どうか、僕の師になってください!」


 ――織田には仕えない。だが、藤吉郎の個人的な師匠として洲俣へ行く。それは、半兵衛の「不義理は働けない」という武士の意地と、「斎藤の血を残したい」という密かな願いを同時に満たす、極めて狡猾で、かつ情熱的な提案だった。


 沈黙が、庵を包み込んだ。どれほどの時間が経っただろうか。やがて、半兵衛の口元に、ふっと柔らかい笑みがこぼれた。


「……信長に降伏し、織田のために計略を献じるのではない。ただ、無学な『お主』を教え導くために、洲俣へ隠居の場を移す……か」


 半兵衛は扇子で軽く膝を叩いた。


「面白い。その理屈、乗ってみようではないか。今日から私がお主の師だ、藤吉郎」


「っ……! ありがとうございます、お師匠様!」


 僕はたまらず頭を下げ、大沢と共に歓喜の声を上げた。

 こうして、世に名高き天才軍師・竹中半兵衛は、僕の「軍師」ならぬ「師匠」として、直ちに洲俣城へ迎え入れられることとなったのである。


 数日後。洲俣城の自室で、僕は密かに一人、ほくそ笑んでいた。


(――勝った)


 半兵衛は「織田のためには計略を練らない」という条件で洲俣に来た。表向きは、信長の戦力には一切加わっていない。だが、僕の真の狙いはそこではない。最大の勝因は「竹中半兵衛という異次元の知謀を、斎藤家の手元から完全に引き剥がした」という事実だ。


 もし半兵衛が斎藤の軍師として陣頭指揮を執り、謀略を巡らせていれば、美濃征伐は血みどろの泥沼になり、織田軍は甚大な被害を出していただろう。でも今、半兵衛は僕の城で、僕に歴史や兵法を教えるだけの「ただの先生」になっている。彼が織田の味方をしなくても、斎藤家を見限り、手助けをしないというだけで、美濃を討ち落とす難易度は劇的に下がる。


「戦わずして、敵の最大の牙を抜く……僕の知る歴史(シナリオ)通りだ」


 僕は窓辺から、遠く美濃の山々を見つめた。さらにこの一件の功績により、僕に協力してくれた大沢次郎左衛門は、信長からの疑念を完全に払拭することに成功した。大沢次郎左衛門は正式に織田の家臣として迎えられ、元々の領地を無事に安堵された。


 大沢の命を救い、義を立て。半兵衛の矜持を守り、師として迎え。信長の美濃攻略という最大の障害を、一滴の血も流さずに排除する。すべてのピースが、僕の手の上で完璧に組み上がっていた。


「……日輪の夢、か」


 胸の奥で、転生したあの日から宿る温かい光が、チリチリと熱を帯びて燃え上がっているのを感じる。時代が、確実に僕を中心に回り始めている。


 僕は、胸の中で燃え盛る日輪の光の熱を感じながら唇の端を、誰にも見えないように深く吊り上げた。




【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】




竹中(たけなか)重治(しげはる)閑居(かんきよ)を洲俣(すのまた)に移(うつ)す


宇留馬(うるま)の城主(じやうしゆ)大澤(おほさは)治郎(ぢらう)左衛門(ざゑもん)は、大澤(おほさは)主水(もんど)が兄(あに)なり。治郎(ぢらう)左衛門(ざゑもん)、齋藤(さいとう)龍興(たつおき)が不仁(ふじん)を惡(にく)み、織田(おだ)の家臣(かしん)たらんことを、弟(おとうと)主水(もんど)を以(もつ)て藤吉(とうきち)に告(つ)げしむ。藤吉(とうきち)大(おほい)に喜(よろこ)び、治郎(ぢらう)左衛門(ざゑもん)を清洲(きよす)に伴(ともな)ひ、信長卿(のぶながきやう)に歸降(きかう)のよしを言上(ごんじやう)に及(およ)ぶ。信長(のぶなが)いかが思(おも)ひしけん、さらに許容(きよよう)の色(いろ)なく、剰(あまつさ)へ治郎(ぢらう)左衛門(ざゑもん)に切腹(せつぷく)仰(おほ)せ付(つ)けられける。藤吉(とうきち)すべき樣(やう)なく、治郎(ぢらう)左衛門(ざゑもん)を洲俣(すのまた)へ連(つ)れ歸(かへ)り、ことの仔細(しさい)を物語(ものがた)り、兩刀(りやうたう)を捨(す)てて云(い)ふ、「誰(たれ)か計(はか)らん、信長卿(のぶながきやう)今日(こんにち)足下(そくか)に死(し)を賜(たま)ふ。然(しか)れども我(われ)また足下(そくか)の死(し)を見(み)るに忍(しの)びず。願(ねが)はくば我(われ)を討(う)つて僕(ぼく)が麁意(そい)なきを知(し)り給(たま)へ」と云(い)ふ。治郎(ぢらう)左衛門(ざゑもん)敢(あへ)て隨(したが)はず、愁然(しうぜん)として身(み)の不幸(ふかう)を歎(たん)ず。藤吉(とうきち)近(ちか)く居寄(ゐよ)りて曰(いは)く、「信長(のぶなが)常々(つねづね)竹中(たけなか)半兵衛(はんべゑ)が英智(えいち)を慕(した)ふ。今竹中(いまがたけなか)、齋藤(さいとう)の不道(ふだう)を疎(うと)み、閑居(かんきよ)して事(こと)に預(あづ)からずと聞(き)けり。我(われ)と足下(そくか)と兩計(りやうはかりごと)を合(あは)せ、竹中(たけなか)をして味方(みかた)へ降(くだ)らしめば、信長卿(のぶながきやう)敢(あへ)て足下(そくか)を疑(うたが)はず、欣(よろこ)んで用(もち)ひ給(たま)ふべし」。大澤(おほさは)甚(はなは)だ悅(よろこ)んで、藤吉(とうきち)と共(とも)に竹中(たけなか)を説(と)かんとす。このとき竹中(たけなか)半兵衛(はんべゑ)は、栗原山(くりはらやま)に閑室(かんしつ)を構(かま)へ隱居(いんきよ)して、竊(ひそか)に世(よ)の治亂(ちらん)を觀(み)る。藤吉(とうきち)貌(かたち)を變(へん)じ名(な)を隱(かく)し、竹中(たけなか)が居所(きよしよ)に至(いた)りて一宿(いつしゆく)を乞(こ)ひ、互(たがひ)に武術(ぶじゆつ)兵談(へいだん)を論(ろん)じ、その旨趣(ししゆ)甚(はなは)だ細(こま)やかなり。ときに藤吉(とうきち)問(と)うて曰(いは)く、「當時(たうじ)尾州(びしう)の大守(たいしゆ)織田(おだ)信長(のぶなが)は、仁勇(じんゆう)にして大度(たいど)ありと聞(き)けり。我行(われゆ)きて仕(つか)へんとす。足下(そくか)の心(こころ)はいかん」。竹中(たけなか)眼(まなこ)を見開(みひら)き聲(こゑ)を勵(はげま)し、「汝(なんぢ)猿面(さるめん)の小冠者(こくわんじや)、我(わ)が前(まへ)に來(き)たりて説客(せつかく)をなすことなかれ。我(われ)いまだ汝(なんぢ)が面(おもて)を知(し)らずといへども、信長(のぶなが)の家臣(かしん)に木下(きのした)藤吉郎(とうきちらう)といへる者(もの)ありて、その面貌(おもてざる)のごとく、聰明(そうめい)にしてすこぶる軍事(ぐんじ)をよくすと聞(き)けり。前刻(せんこく)より軍談(ぐんだん)兵話(へいわ)尋常(よのつね)の論(ろん)にあらず、我(われ)を説(と)いて信長(のぶなが)に降(くだ)らしめんとする。汝(なんぢ)果(は)たして木下(きのした)藤吉郎(とうきちらう)にてあるべし」と云(い)ふ。藤吉(とうきち)莞爾(くわんじ)として、「嚴察(げんさつ)のごとく某(それがし)木下(きのした)藤吉郎(とうきちらう)なり。足下(そくか)王佐(わうさ)の才(さい)を懷(いだ)き、父(ちち)を殺(ころ)し君(きみ)を弑(しい)する齋藤(さいとう)に仕(つか)へ、剰(あまつさ)へ金言(きんげん)は耳(みみ)に逆(さか)ひ、良計(りやうけい)は用(もち)ひられず、土木(どぼく)と同(おな)じく朽(くち)果(は)つるは、大丈夫(だいぢやうぶ)の所行(しよぎやう)にあらず。主人(しゆじん)信長(のぶなが)足下(そくか)の大名(たいめい)を慕(した)ふことすでに久(ひさ)し。暗々(あんあん)たる齋藤(さいとう)を捨(す)てて明々(めいめい)たる織田(おだ)を助(たす)け、治國(ちこく)平天下(へいてんか)の功(こう)を全(まつた)うし、遠(とほ)くは父母(ふぼ)の名(な)を顯(あらは)し、近(ちか)くは英名(えいめい)を身(み)に及(およ)ぼし、子孫(しそん)をして永(なが)く富貴(ふうき)を受(う)けしめんこと、人道(じんだう)の大旨(たいし)ならずや。我(われ)足下(そくか)のためにこのことを説(と)く。詳(つまび)らかに察(さつ)し給(たま)へ」と云(い)ふ。このとき大澤(おほさは)治郎(ぢらう)左衛門(ざゑもん)も同(おな)じく來(きた)つて、共(とも)に利害(りがい)を説(と)いて、「信長(のぶなが)に力(ちから)を添(そ)へ給(たま)へ」と云(い)ひ勸(すす)む。竹中(たけなか)大(おほい)に歎息(たんそく)して、「我(われ)曾(かつ)てその利害(りがい)を知(し)らざるにあらず。いかにせん、織田(おだ)は功業(こうぎよう)の氣(き)すでに盛(さか)んにして、良臣(りやうしん)多(おほ)くこれを助(たす)く。齋藤(さいとう)は亡國(ばうこく)の象(しやう)顯(あらは)れ、君(きみ)暴(ぼう)にして臣(しん)佞(ねい)なり。すでに亡(ほろ)びんこと旦夕(たんせき)にあり。我(われ)苟(いやし)くもその食(しよく)を喰(は)み、その祿(ろく)を受(う)けて、國陷(くにおち)るの時(とき)に至(いた)つて棄(す)てて他國(たこく)に仕(つか)へんこと、これまた大丈夫(だいぢやうぶ)の恥(ぢ)とするところにあらずや。國家(こくか)亡(ほろ)びば我(われ)死(し)なんのみ。何(なん)ぞ改(あらた)め論(ろん)ずることをせん」。藤吉郎(とうきちらう)席(せき)を立(た)つて禮(れい)を恭(うやうや)しくし、「足下(そくか)の高義(かうぎ)、感歎(かんたん)少(すくな)からず。再(ふたた)び降(かう)を勸(すす)むまじ。ここに某(それがし)が願(ねが)ひあり。我(われ)幼稚(えうち)にして卑賤(ひせん)なり、師(し)によつて學(まな)ぶことなし。足下(そくか)幸(さいは)ひ世事(せじ)に預(あづ)からずこの所(ところ)に隱(かく)る。閑居(かんきよ)を洲俣(すのまた)の城中(じやうちゆう)に移(うつ)し、我(わ)が師父(しふ)となりて教導(けうだう)なし給(たま)はば、生前(しやうぜん)の本望(ほんまう)何事(なにごと)かこれに如(し)かん。見(み)よ見(み)よ齋藤(さいとう)の家(いへ)織田(おだ)のために亡(ほろ)ぶべし。我(われ)師父(しふ)のために計(はか)つて齋藤(さいとう)の子孫(しそん)を全(まつた)うし、祭祀(さいし)斷絶(だんぜつ)することあるべからず」。ここに於(おい)て竹中(たけなか)大(おほい)に悅(よろこ)び、「信長(のぶなが)へ降(くだ)り計策(けいさく)を獻(けん)ずるにあらず、汝(なんぢ)を教導(けうだう)せんため閑居(かんきよ)を洲俣(すのまた)へ移(うつ)すべし」と、直(ただち)に洲俣(すのまた)の城(しろ)へ入(い)りにけり。これ藤吉(とうきち)が計策(けいさく)にて、「竹中(たけなか)智謀(ちばう)絶倫(ぜつりん)の士(し)なれば、齋藤(さいとう)のために謀略(ぼうりやく)を廻(めぐ)らさば、美濃(みの)征伐(せいばつ)難儀(なんぎ)なるべし。信長(のぶなが)に仕(つか)へて助(たす)けずとも、齋藤家(さいとうけ)を見(み)繼(つ)がずんば、美濃(みの)を討(う)つこと易(やす)かるべし」と、さてこそ斯(か)くは計(はか)らひける。大澤(おほさは)治郎(ぢらう)左衛門(ざゑもん)も竹中(たけなか)を薦(すす)めし功(こう)により、信長(のぶなが)の疑念(ぎねん)を免(まぬか)れ、織田(おだ)の幕下(ばくか)となりて、本領(ほんりやう)安堵(あんど)したりけり。

〜参考文献〜

太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource

https://share.google/AxQqE2xRgf0LcmxAN

絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編

夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700


〜舞台背景〜

 既視感がw …もちろん作者甫庵も分かってて、意図的に「三顧の礼」や「隆中対(りゅうちゅうたい)」をぶっ込んでます。なので「史実が」とか野暮なコトは仰(おっしゃ)らず「おお、半兵衛が孔明役か!」ってニヤリとしてテンプレを楽しんで頂くのがオトナの読み方ですw

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