1-70 洲俣城主藤吉郎、初陣を飾る
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
洲俣城の城主となった僕に与えられた兵力は、直属の番手500人を含めた総勢3,000人だった。しかし、信長が残していってくれた兵糧は5,000人分、米3,000俵にも及んだ。
「籠城戦になっても、これなら十分に耐えられる。心置きなく戦えということだな」
信長が尾張へ軍を引いた後、僕は膨大な兵糧を見上げながら、その意図を正確に読み取っていた。
そして9月24日。完成したばかりの洲俣城に対して、美濃の井ノ口から敵の先陣が再び押し寄せてきた。でも、彼らの動きはどこか奇妙だった。少数の足軽たちがいかにも弱々しい様子で城に近づいてきては、挑発するようにうろつき、また少し引く。それを何度も繰り返しているのだ。
「……見え透いた手だ」
物見櫓からその様子を観察していた僕の隣で、稲田大炊助が鼻で笑った。
「藤吉郎様。あれは明らかにフェイントですぜ。こちらが業を煮やして城から討って出たところを、伏せている本隊が包囲する腹でしょう。柵の外へは、誰も出しちゃいけませんぜ」
「ああ、その通りだね。大炊助の言う通り、ここは固く守ろう。決して動くな」
普段の僕なら、敵のわずかな綻びを見つけるや否や、あれこれと細かい指示を飛ばして陣形を組み替え、少しでも有利を積み上げようとしただろう。だが、この時は違った。
――『お前の知恵は優れておる。だが、人にも同じ水準を求め過ぎる』
信長にそう指摘されたことが脳裏をよぎったからだ。さらに続けて言われた。
――『もっと心に余裕を持て。大らかに人を束ねよ』
まるで僕が小うるさい男みたいではないか。
「僕は別に短気じゃないんだけどな……」
誰に聞かせるでもなく小さく呟く。とはいえ、信長の言葉にも一理ある。だから僕は余計な口出しを控え、大炊助の進言に素直に従うことにした。
「うん。ここは動かない。それでいこう」
僕が動じず、城兵たちも柵際を固めて鉄砲を構えたまま静まり返っていると、誘い出せると踏んでいた敵は完全に当てが外れ、やがて諦めたように鬨の声を上げて引き揚げていった。
その日の夜。城の広間に、蜂須賀小六、稲田大炊助、加治田隼人といった、いわゆる「透波の功者」たちが集まり、車座になって何やら物騒な相談を始めていた。
「昼間の返礼だ。今夜は一丁、盛大に夜討ちを仕掛けて、敵の出鼻を完全にへし折ってやろうじゃねえか」
小六の提案に、大炊助も大きく頷く。
「ああ、やるなら今夜だ。実は、美濃の村々に前もって賄賂を掴ませておいた現地の案内人がいる。そいつを呼んで、どこを突くか決めよう」
金の力は偉大だ。信長から預かった2,000貫の一部を使い、彼らはすでに美濃の内部に強固な情報網を構築していた。すぐに呼ばれてやってきた案内人の男は、小六たちの問いかけに対して、卑屈な笑みを浮かべながら答えた。
「美濃の連中は、今日の出兵ですっかり疲れ切っております。絶好の機会ですぜ。ただ、城に近い村々は一晩中警戒を強めておりますから、少し離れた新山の北の村あたりが、油断していて狙い目かと」
その言葉を聞いた大炊助は、ニヤリと笑って首を振った。
「いや、逆に一番近い村を叩く。……夜討ちってのはな、一度でも遠くでやっちまえば、その後はどこも警戒を強めてしまうもんだ。一番近くの、敵が『まさかこんな近くは狙ってこないだろう』と高をくくっている場所を、一発目で本気で叩く。そうすりゃあ、戦果も一番デカい」
人間の心理の裏を突く、完璧なゲリラ戦術の理論。僕は大炊助の意見に全面的に同意し、夜討ちの決行を許可した。
「ただし、深追いは厳禁だ。もし敵が反撃に出たら、迷わず城へ戻れ。敵が少しでも城内へなだれ込んでくるようなら、容赦なく城の門を閉めるぞ」
僕が釘を刺すと、大炊助は豪快に笑った。
「藤吉郎様、ご心配なく。殿はこの俺が務めます。少々危ない橋を渡らねば、でかい戦果は得られません。我ら一人の命を惜しんで、せっかくの機会を逃すことはありませんぜ」
そう言って、大炊助を大将とし、小六や加治田隼人が率いる精鋭5、600人が、夜の闇へと溶け込んでいった。
夜半頃。北の方角にあたる村落から、突如として火の手が上がった。しかし、鉄砲の音も、怒号も聞こえてこない。
「……これは、うまくいったようだね」
城で待機していた僕が確信した直後、闇の向こうから騒がしい足音が近づいてきた。松明を掲げて迎えに出ると、血と泥にまみれた小六たちが、興奮冷めやらぬ様子で帰還してきた。
「大勝利だ、藤吉郎様! 敵の首13、分捕り品も数え切れねえ!」
僕は思わず跳び上がって喜んだ。
「よくやった! 皆の働きには感謝の言葉もない。命を懸けて敵に挑み、見事に打ち破った。まさに天下一の勇者たちだ!」
僕はその夜のうちに、見事な働きを見せた5人の名と、討ち取った13の首のリストをしたため、清洲の信長へ向けて詳細な報告書を書き送った。
「昨日24日、敵は数千の兵で洲俣城を攻めてまいりました。しかし我らは挑発に乗ることなく、柵内でこれを撃退いたしました。さらに昨夜、敵地へ夜襲を仕掛け、首級13を挙げております。いずれも将兵たちの奮戦によるものです。どうか彼らに相応の恩賞を賜りますようお願い申し上げます」
翌日、この報告を受け取った信長は、予想以上に機嫌を良くしたらしい。
「藤吉郎の奴、城主としての初仕事、見事にやってのけたな!」
信長は、夜討ちを決行した者たち全員に一人あたり10石(約10万円)という破格の米を与え、首を討ち取った5人には直接盃を下賜し、50貫(約500万円)の領地を分け与えた。さらには、見事な采配を見せた大炊助には感状と着物も与えた。
だが同時に、僕は信長の意図について考えていた。今回の夜討ちは、厳密に言えば危険な賭けだった。失敗すれば損害を出し、洲俣城の防衛にも影響しかねない。それでも信長は、その過程を細かく詮索することなく、得られた成果を評価した。
城は守り抜いた。敵には痛撃を与えた。ならばよし――。信長の判断は、驚くほど明快だった。
細かな手順や失敗の可能性ではなく、最後に何を成し遂げたかを見る。そして結果を出した者には、誰の目にも分かる形で報いる。だからこそ家臣たちは、自ら考え、自ら動く。
もし失敗を恐れて何もできなくなるほど細かく縛られていたなら、誰も危険な策など試さないだろう。信長は功を立てた者に恩賞を与えるだけではない。挑戦する勇気そのものを育てている。
――なるほど。これが、あれほど多くの人材が信長のもとへ集まる理由か。はしゃぐ大炊助を見ながら、僕はそんなことを考えていた。
洲俣という絶対的な足場を固め、最強の手足を手に入れた僕の目は、すでに次なる標的へと向いていた。
「……準備は整った。ここから先は、武力ではなく、カネと情報で美濃を内側から食い破る」
僕は自室に戻ると、2,000貫という莫大な運用資金の使い道を記した帳簿を広げた。
美濃国・宇留馬の城主、大沢次郎左衛門。それが、僕が最初に目を付けた、美濃のネットワークの「脆弱性」だ。
力任せの戦争ではない。情報と資金を駆使した、水面下の切り崩し工作が、今まさに始まろうとしていた。
【太閤記 小瀬甫菴道喜輯録 近藤出版部 大正8年】
秀吉卿軽一命於敵国成要害之主事(四)
藤吉殿に被㆑属ける番手之士五百人、都合其勢三千人なり、然共扶特方は五千人の分、米三千俵渡し給りつゝ、信長卿も御勢を打納給ふ、同二十四日従㆓井口㆒敵先騎兵を出し、いかにもよはよはと足軽をかけ引して、藤吉殿勢をおひき出し、付入に付捕むとそ謀ける、稲田大炊助是をみて、敵勢足軽之為㆑体心有仕様そ、柵より外へ一人も御出し有ましきにて候と諫めしかは、秀吉も常とは相替、聊かふきもし給はて、尤也と同し堅く制し給ひけり、其比の人々は、高きも卑も左様の行能意得たる事なれは、柵際を固め鉄炮をさへ打あはす、静り反て有けれは、敵案に相違し、時を挙て引たりけり、彼すつはの功者共評議しけるは、今日の返礼に今夜一てきは夜討をし、敵の機をおらては不㆑叶所也と云けれは、稲田大炊助蜂須賀小六加治田集人正、尤なりと同し、兼て賂を遣し置ける、敵方の在所へ、案内者を請はやとて、かくと云やりけれは、賄を事とし利に耽る者共なれは、即使者と打つれ来りぬ、大炊助彼者共に向て、今夜何の里へ成共夜討し、分取高名せんと思ふは如何有へきと問しかは、案内の者承り井ノ口勢今日の働に困クタヒレて見之し也、誠に能折節て社候へ、要害へ近き里々は終夜の用心甚以夥しく候、新山の北なる在々は用心を呼声モなく、ゆるやかに有ける条、加様の所能候はんやと也、大炊助いや〳〵先近きあたりへ打候へし、其子細は一度も二度も夜討入なは、後は用心厳く致し候はんか、左様の時遠き在々の思ひもよらぬ所へ討てこそ大利も有へけれ、又おくたのもしき事もあれ、近き在所たとひ用心す共何程の事かあるへき、初はしのひ入やすかるへきと云けれは、秀吉も稲田か申所可㆑然と同心してけり、乍去付入にあはさるやうに相図を能卜シメて立出候へと、藤吉殿被㆓申渡㆒候処に、稲田申けるは、敵若付入の行有共、例の掟に任せ、敵を二三人も立入候程に門を御さし被㆑成よ、殿をは大炊助致し候はんとてぞ打出ける、秀吉も信長公左様の義を堅く制し給ひしに依て斯は云なり、少危き事をし侍らねは、大なるはかは行ぬ物也、我一人の命を嗇んて軍士を立出す事は有ましき程に、丈夫に思ひ夜討をつよくしてくれ候へと被㆑申しかは、心剛に手こわき者三十人、其道に心得たる下々五六人撰み出し、進退の大将は蜂須賀小六加治田隼人佐、諸手の勢百騎計其勢五六百人、此内弓鉄炮半せり、此大将は大炊助也、肴車ひし手楯等、其役人を相定め、案内者三人の内、人質の為にとやおほしけん、一人は止り候へ若敵つよくしたふ事あらは、其方を按内者にして助候はんと、藤吉殿被㆑申しかは、何心もなう止りにけり、夜半の比北に当て在家二三間焼出たり、鉄炮の音もせす、又人声もせさりけれべ、稲田申やう、今夜の仕合宜しく有へきと云し処に、事外物音さはかしく成出しかは、大炊助青山小助松明を以、迎に五六町も出けれは、夜討の者共いきほひ猛にして、首十三并分捕余多し来りたり、秀吉おとり上り悦つゝ、各苦労の至謝するに所なし、寔に死を軽し敵を擒にすへき士共なり、と、感声尤夥し、即信長卿へ働き宜しき者の内五人、首討捕し者十三人進上あり、其状に曰、謹而奉㆓言上㆒ 昨日廿四日従㆓井口㆒卒㆓数千騎㆒令㆓出張㆒了、其行曽不㆑強付入之行無㆑所㆑疑之条、自㆑柵外へ一切不㆑可㆑出之旨堅制止之処、敵勢失㆓思所之図㆒、何無㆓仕出之事㆒引入之条、唱㆓凱歌㆒以㆓弓鉄炮㆒聊送而頓引帰申候、然処番卒之者共、昨夜於㆓敵之地㆒入㆓夜討㆒、致㆓手柄㆒候者五人并討捕首十三進上申候、可㆑然様御披露所㆑仰候、恐々謹言、九月廿五日 木下藤吉郎秀吉 福富平左衛門尉殿 村井所之助殿 両人其旨披露有しかは、事外御機嫌能、藤吉郎物初よしとて、御持鎗御持筒の鉄炮を被㆑下、殊に旗をも御赦しなされけれは、秀吉年来の望を達し、被㆑遂㆓本懐㆒けり、夜討の者共にも御対面有て、御褒美とし米十石宛被㆑下、五人の者共には御土器を賜り、領知五十貫つゝ宛行給ふ、或曰其比の十石は、寛永の比の百石ほとにもこへなんとなり、稲田大炊助今度のさしつ等宜しき旨、御感有て被㆑成㆓御書㆒、御筒服被㆑下けり、評曰、如此の感を国主は深く可㆑有㆓吟味㆒事也、信長公自身の下知達する事は不㆑及㆑申、其外万の奉行共の下知まても能達せし事は、不㆑可㆑進所をは不㆑進、可㆑逃所をは軽く退イしを感し給ひしを以也、小事の感をは強てなし給はす唯大なる裁判并及㆓忠義㆒辞等をは殊に感し給へり、例へは義元合戦の時簗ヤナ田出羽守能言を申上、得㆓大利㆒給ひしかは、即其場にて、沓懸村三千貫の地恩賜有て、義元の首を捕し毛利新介には、御褒美も出羽守よりはかろかりし也、此合戦は沓懸村の山にて有し故に、右之分なるへし、天正八年暮春の事なるに大坂麦なぎのため、諸勢を被㆑遺事有し時に、為㆓奉行㆒猪子兵助大津伝十郎諸勢を進退せしか、信長公おはしましつゝ、下知し給ひしに増劣も有ましき程に、各申あへりき、
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
https://share.google/AxQqE2xRgf0LcmxAN
絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜 投稿26日目UU累計3,700人達成!御礼投稿 3話/3話 〜
投稿開始26日目で【UU累計3,700人獲得!】ありがとうございます。という事は最近、異世界転生からお越し頂いた方も多いかと思います。ただ今回は歴史ヲタクな昔からの愛読者様向け、通好みの回となってますので少し補足をさせて頂きます。
原書では①夜襲成功②信長から褒賞③作者小瀬甫庵の解説、の三段構成です。ポイントは信長が「敵を13人討った」ことよりも「敵の挑発に乗らなかったこと」を評価したと描かれていることです。甫庵の解説で例示されてるとおり(NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』第4回放送「桶狭間!」でも少し本ネタあり)、桶狭間の戦いで「一番手柄」だったのは今川義元の首を実際に討ち取った毛利新介(恩賞= 500貫(約5,000万円))ではなく、義元の本陣を特定し信長に奇襲作戦を献策した簗田政綱(恩賞= 3,000貫(約3億円)+ 沓掛城)です。信長が「武勇」よりも「知略」をどれだけ重視していたかという、知ってるとドヤれる蘊蓄エピソードとなってます。




