1-69 信長の十七ヶ条
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
ついに洲俣の地に、見せかけではない本物の城が完成した。
夜を日に継ぐ突貫工事の末、僕が思い描いた通りの強固な要塞が、美濃の喉元に楔のように打ち込まれたのだ。
数日後、清洲城から使者が訪れ、僕は正式にこの洲俣城の城将に任命された。だが、信長から届けられたのは、辞令だけではなかった。
『洲俣在番の心得、ならびに軍令』
それは、分厚い和紙に記された17ヶ条に及ぶ掟だった。僕は自室の薄暗い燈台の下で、その文面を開いた。そこには、戦国時代の古臭い常識を根底から覆す、驚くべき采配の極意が記されていた。
『一、身分の上下を問わず、敵の首を討ち取った者には百疋、士分の首には千疋の褒美を与える。これはいちいち上へ報告せずとも、お前の裁量で即座に与えよ』
『一、敵城を武力であれ調略であれ攻め落としたならば、即座にその者を城主に任命する』
『一、敵の地に不満を抱く有能な者がいれば、情報を集め、才覚をもって引き抜け』
『一、当座の褒美のため、現金2,000貫を置いていく。入用があればいくらでも申し出よ』
「……凄まじいな」
僕は思わず唸り声を上げた。手柄を立てればその場で現金が支払われる即時報酬制度。完全な実力主義。そして何より、現場の裁量で自由に動かせる「2,000貫(約2億円)」という莫大な軍資金。
これだけの権限と予算を与えられれば、美濃の内部に間者を放ち、寝返り工作を仕掛けることなど容易い。信長は、美濃攻略の最前線を僕に丸投げした上で、惜しみない支援を約束してくれた。
だが。僕がその掟を読み進める中で、最も衝撃を受けたのは、軍事的な命令でも予算の話でもなく――信長が僕個人に向けて書き記した、一見すると些細な一条だった。
『一、小事の儀に感する事多ければ、武勇の嗜み狭く成る物候間、その心持ち肝要に候事』
――些細な落ち度にいちいち過剰に反応して口うるさく指示を出せば、大将としての器が狭くなる。寛容であれ。
その一行を読んだ瞬間、僕は心臓を鷲掴みにされたような衝撃に襲われた。
(……信長は、僕の『最大の欠点』を、完全に見抜いている)
転生者である僕は、この時代の人々からは間違いなく「せっかちで完璧主義」に感じられるだろう。未来の知識と「いかに無駄を省くか」という最適化の視点を持っているがゆえに、この時代の人間の非効率な動きを見ると、どうしても口を出さずにはいられなくなる。
薪の組み方が悪い。馬の世話の仕方が甘い。陣形の展開が遅い。僕はそのすべてを正そうとする。しかし、それは裏を返せば、他人の些細な失敗を許容できない「狭量さ」に他ならない。
思い返せば、八歳で寺を追い出され、泥まみれの流浪の身となってからというもの。僕はどこへ行っても、その「過ぎたる才」のせいで、周囲の人間から忌み嫌われ、追い出されてきた。
『あいつ、気味が悪い』
『大物の幼児だ』
世間の人間は、自分たちの理解を超えた才覚を恐れ、異物として弾き出そうとする。だからこそ、僕は表面上は「へらへらと笑う愛嬌のある猿」を演じ、本性を隠して周囲に合わせてきたつもりだった。
だが、織田信長という男の目は誤魔化せなかった。信長は、僕の奥底にある才能を正確に見定めた上で、僕を排除するのではなく、自らの陣営の要として使いこなすことを選んだ。
『お前の知恵は優秀だが、他人に求める水準が高すぎる。もっと心に余裕を持て。大らかに人を束ねろ』と、僕自身の人間としての成長まで促してくれたのである。
(……敵わないな、この人には)
僕は、書状を握りしめたまま、深く頭を垂れた。僕が信長から度々叱責を受けようとも、決して恨まず、むしろ歓喜と共に忠誠を尽くしてきた理由が、今ようやくはっきりと分かった。
一人の孤独な異端児が、自分の才能を一切の曇りなく評価し、存分に力を振るわせてくれる『真の理解者』に出会えた喜び。
「……信長。あなたの武勇と智謀は、この戦国において間違いなく誰よりも傑出している」
僕は暗闇の中で呟いた。古代中国の歴史書にもある。
「人は信に止まる。信が無ければ、国は滅び、家は滅び、身は殺される」と。
僕がこの乱世で生き残り、果ては天下を動かすための絶対的な基盤。それは、信長という主君に対する、絶対的な「信頼」だ。
「……よし。やってやる」
僕は、信長から与えられた心得を懐に深く仕舞い込み、立ち上がった。今の僕には、洲俣という最前線の城があり、小六党という手足があり、そして2,000貫という莫大な資金がある。
「まずは、この資金を惜しみなく美濃へ注ぎ込む」
僕は夜風が吹き抜ける物見櫓へと上り、暗闇の向こう側、美濃の広大な大地を睨みつけた。
「美濃の猛者たちよ。お前たちが無能な主君の下でどれほど不遇を囲っているか、僕は知っているぞ。待っていろ、最高の条件で迎え入れてやる」
力任せの戦争ではない。情報と資金を駆使した、水面下の切り崩し工作の始まりだった。
【太閤記 小瀬甫菴道喜輯録 近藤出版部 大正8年】
秀吉卿軽一命於敵国成要害之主事(三)
定
一今度於㆓美濃地㆒番等無㆓油断㆒相勤め、勇功を励み候者共、浅深を記し付、可㆑令㆓注進㆒、随㆓其軽重㆒、或感状或恩賞の地を施し給ふへき事
一不寄㆓上下㆒討㆓捕雑兵之首㆒者には、為㆓褒美㆒料足百疋、士分之者の首には千疋、如㆑此の通は不㆑及㆓注進㆒、早速可㆓分与㆒之事
一鑓下又は太刀打の高名は、別に記し付可㆓差越㆒使事
一敵城仮令謀略を以攻取勿論、及㆓合戦㆒攻落にをいては、即其城主に可㆑被㆓仰付㆒之事
一 頭者は勇才兼備り、度量寛大にして、可㆑引㆓廻諸勢㆒器量者可㆓申附㆒の事
一其方第一之嗜は無㆓依怙贔負㆒、士卒に真実なる精を尽し候はゝ、諸勢も忠義実を可㆓相立㆒事
一正士は不㆑進佞人時を得たりかほなる事あらは、其方裁判不明にして私欲有と可㆑存之事
一普請等無㆓油断㆒可㆓申付㆒之事
一敵東を襲事あらは西を疑可㆑申之事
一敵之地にをいて能兵なと恨を含み、其国を去度存候者あらは、聞立呼取才覚可㆑然之事
一弓鉄炮武具以下用所あらは、村井所之助方迄可㆓申越㆒之事
一当坐〳〵褒美のため料足二千貫遣候、猶以用次第可㆓申越㆒之事
一火之用心等油断有ましき事
一諸勝負堅く可㆑令㆓停止㆒之事
一敵方之事告知する者には可㆑重㆓恩賞㆒事
一小事の儀に感する事多けれは、武勇の嗜迫セハシく成物候間、其心持肝要候事
一敵付入之行テダテ有て働く時は、弱々と有㆑之物の事
右条々相㆓守此旨㆒可㆑勤㆓寛容大成之功㆒者也
評曰秀吉之生禀厳急なるに因て、ゆるやかに成功をつとめよと制し給ふを以、信長公才智の程を知へし、中々勇功のみにて、天下速成の功は成ましきにや、世人以武勇之達者とのみ知れり、噫同気にあらすんは相求めされ、秀吉八歳より流牢の身と成、こゝかしこにをいていとはれ追出されし事可㆑思㆑之、過たる才をは諸人多はいとひ捨る物なり、是古今不易の人情也、殊に秀吉は物にこえさし出たる人にて有しかは、世人ふかういなひつゝ吾党へ不㆑入事もけに理とそ覚えたる、然るを信長胸中甚大キなるに因て、秀吉国噐の才を心にしめ、麁に入細に入知召、遂㆑月経㆑年に順て用出させ給ふは明君也、又秀吉も信長卿の武勇智謀は乾坤に独歩し、古今に傑ケツ出したるなるへしと、弥頼もしく骨髄に徹し存せられしかは、度々蒙㆓勘当㆒しか共、心にかけ給はす、寤寐俯仰忠を尽し見んと他念もなく心にかけて、公私の行衛を思はれしかは、積忠累功して、信長美濃国を御退治有て、先秀吉に三千貫の領知を賜り、其外与力の馬上をもあまた附給ひけり、歴々の大臣も多かめれと、他国を初て取給ふ物初めに、如㆑此行ひ給ひしかは、無㆓私意㆒御裁判なりし故、天下速成の治功有しとかや、傍人云君臣之評無㆑当矣、予謂秀吉忠義之実、曽依㆑無㆓査滓㆒、天甚感而降㆓福祥㆒也、
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
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絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜 投稿26日目UU累計3,700人達成!御礼投稿 2話/3話 〜
この章は、信長が秀吉に与えた「城主マニュアル」と、太閤記の作者の小瀬甫庵による長い人物評です。要約すると「秀吉は天才だが短気だった。普通の人は秀吉の才能を嫌った。信長だけは秀吉の才能を見抜いた。秀吉も信長を心から尊敬していた。この相互信頼が天下取りの原動力になった。」です。信長と秀吉を「理想的な名君と忠臣」の組み合わせとして称賛してますが、もちろん英雄叙事詩ですw




