1-66 恐怖こそ、最後の城壁
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
バケツをひっくり返したような雨――そんなありふれた言い回しでは、とても足りなかった。
6月半ば。美濃と尾張の国境、洲俣の地に突如として襲いかかった白雨は、戦場そのものの姿を一変させた。まるで世界の法則を書き換えるかのような豪雨だった。
篠を突く雨が視界を白く塗り潰す中、僕は建築途中の砦の骨組みの下で雨をしのぎながら、足元をじっと見つめていた。先ほどまで乾いていた洲俣川のほとりは、今や一面の泥濘と化している。足を踏み入れれば足首まで沈み込み、一歩進むだけでも体力を奪われる。戦うどころか、まともに歩くことさえ難しい。
「……最悪だな。これじゃ雨が上がっても身動きが取れねえ。美濃の連中が攻めてきても、まともに刀も振れやしねえぞ」
傍らで、泥だらけになった蜂須賀小六が忌々しげに唾を吐いた。確かにその通りだった。この泥の海では、小六党の荒くれ者たちでさえ機動力を奪われる。雨上がりを見計らって美濃勢が押し寄せれば、迎撃は後手に回り、陣形はたちまち崩壊するだろう。
でも――。
僕は泥濘を見つめながら、ふっと口元を緩めた。未来の知識を持つ僕には、この状況がただの災厄には見えなかった。危機とは、見方を変えれば好機でもある。
「……小六。手の空いている者は全員、橇沓を作ってください」
「かんじきだと? 雪山で履く、あの藁の輪っかか?」
「ええ」
僕はうなずいた。
「雪も泥も同じです。足裏の面積を広げれば体重が分散され、沈みにくくなる。藁を編んで平たく作れば、この泥でもずっと動きやすくなるはずです」
小六は一瞬きょとんとした顔を見せたが、すぐに意味を悟ったらしい。獣のような笑みが口元に浮かぶ。
「なるほどな……。敵が泥に足を取られてる間に、こっちだけ自由に動けるってわけか」
「そういうことです。この雨で戦が止まっている今しかありません。全員の足回りを整えます」
「はっ、面白ぇ!」
小六は勢いよく立ち上がった。
「おい、野郎ども! 藁を集めろ! かんじきを編め! 雨が止むまでに全員分だ!」
怒号が飛び、男たちが一斉に動き出す。豪雨の音にかき消されながらも、砦の周囲では新たな作業が始まった。
美濃勢が雨宿りをしているその裏で、僕たちだけが着々と準備を進めていく。泥濘に苦しむ戦場で、織田方だけが自由に駆け回るための仕掛け――。雨が降れば降るほど、勝利の天秤は少しずつこちらへ傾いていた。
やがて雨雲は流れ去り、唸っていた風も静まった。空を見上げれば、先ほどまでの豪雨が嘘だったかのように青空が広がっている。雨上がり。それは両軍にとって、一時中断されていた戦の再開を意味していた。
「進めッ!」
小六が短く命じた瞬間、橇沓を履き終えた兵たちが一斉に鬨の声を上げて駆け出した。その動きに呼応するように、美濃勢も鬨の声を返す。槍を構え、刀を抜き、迎撃の陣を整えようとする。だが、その瞬間だった。
「なっ……足が!」
「滑る! 前へ出られん!」
美濃兵たちは踏み込むたびに足を取られ、泥に滑り、次々と転倒していった。馬はぬかるみに足を取られて立ち往生し、槍隊の足並みは乱れ、隊列はみるみる崩れていく。
戦場の常識は、乾いた地面の上でこそ通用する。でも豪雨によって一変したこの地では、その常識そのものが通用しなかった。対して、僕たちは違う。橇沓によって足裏の荷重を分散させた兵たちは、泥濘に沈むことなく駆け回ることができた。もちろん平地ほど軽快ではない。だが、動けない敵と比べれば、その差は決定的だった。
「かかれぇッ!」
小六党の荒くれ者たちが泥を蹴散らして突進する。機動力の差は、そのまま戦力の差となる。泥に足を取られ、満足に身動きもできない美濃勢に対し、僕の兵たちは縦横無尽に襲いかかった。槍が閃き、刀が唸る。混乱した敵陣は瞬く間に切り裂かれ、各所で悲鳴が上がった。
後に忍びの報告で知ったことだが、美濃勢は本来、僕たちを川岸に釘付けにしたうえで伏兵を背後へ回し、包囲殲滅する算段だったらしい。
悪くない作戦だ。でも、その計画は豪雨によって崩れ去った。さらに橇沓という思いもよらぬ工夫によって、彼らの目論見は完全に狂わされたのである。動ける者と、動けない者。その差はあまりにも大きかった。やがて美濃勢は戦線を維持できなくなり、各所で崩れ始めた。
「退け! 退けぇッ!」
悲鳴にも似た号令が飛ぶ。敗走は瞬く間に全軍へ広がった。泥まみれになりながら、美濃の兵たちは我先にと退いていく。こうして斎藤方の反撃は潰えた。そしてその間にも、洲俣の砦は着実に完成へ近づいていた。
「……よし。これで当面の脅威は退けた。ここからが本番だ」
血と泥にまみれた刀を振り払いながら、僕は闇に包まれ始めた洲俣の地へ下知を飛ばした。敵の襲撃を防いでいる間も、砦の建設は止まっていない。
「木材を運べ! 合紋の通りに組み合わせろ!」
夜の闇を照らす松明の下、数千の職人と人夫が一斉に動き出した。
彼らの中には字の読めない者も多い。でも問題はない。僕は事前に、すべての部材へ対応する合紋を刻ませている。同じ印の付いた木材同士を組み合わせるだけで、自然と正しい形に組み上がる仕組みだ。誰でも扱える設計。それこそが大量施工の鍵だった。
カァン、カァン、カァン――。
夜気を震わせる槌音の中、柱が立ち、梁が渡され、貫が差し込まれていく。楔が打ち込まれ、木と木が固く噛み合い、巨大な骨組みがみるみる姿を現していった。その速度は、まるで魔法のようだった。
だが、本当の問題はここからである。骨組みだけでは城とは呼べない。戦国の城には、矢や鉄砲を防ぐ厚い土壁や堅固な防御設備が必要だ。しかし夜明けまでは、あとわずか。土を運び、練り上げ、壁を塗り固めている時間など残されていない。
僕は腕を組み、組み上がりつつある砦を見上げた。そして、胸の奥で熱く輝く日輪の光とともに、一つの答えへ辿り着く。
「壁が作れないなら――情報で壁を作ればいい」
職人たちへ向き直る。
「骨組みの外側に薄板を打ち付けて。その上から白紙を隙間なく張り巡らせるんだ」
一同が顔を見合わせた。
「紙、ですか?藤吉郎様、それじゃ矢一本防げませんぜ」
僕は即座に答えた。
「防ぐ必要はない。敵に『防げる』と思わせれば、それで十分だ」
人間は見たいものを見る。遠目に見える情報を、勝手に常識で補完する。それなら利用しない手はない。
「絵描きを呼べ!」
小六に呼ばれた画工たちが駆け寄ってくる。
「紙の上に矢狭間と鉄砲穴を描け。影を付けろ。本物と見分けがつかぬほど精巧にな」
画工たちは半ば呆れながらも筆を走らせ始めた。白い和紙の上に、黒々とした矢狭間が描かれる。鉄砲穴の影。木組みの継ぎ目。遠目には本物の壁としか思えない細工。夜通しの作業によって、急ごしらえの紙壁は次第に巨大な城郭の姿を帯びていった。
近くで見れば、ただの板と紙だ。一太刀浴びせれば破れる。でも、それでいい。近くで見る者などいない。夜が明ければ、美濃勢が眺めるのは川向こう数百歩の距離からの景色である。
朝靄の向こう。薄暗い光の中。彼らの目に映るのは――
たった一夜で出現した巨大な砦。白壁を備え、無数の矢狭間と鉄砲穴が並ぶ要害。そんな光景のはずだった。実際の防御力など関係ない。重要なのは、敵がどう認識するかだ。攻めれば大損害を受ける。そう思わせた時点で、この砦はすでに役目を果たしている。物理的な壁ではなく、恐怖そのものを壁にする。
やがて東の空が白み始めた。夜明けの冷たい風が、張り巡らせたばかりの白い壁をかすかに揺らす。
「……藤吉郎様。できましたぜ」
泥まみれになり、疲労困憊の小六が、掠れた声で告げた。僕は静かに頷き、前線の見張り台へと上った。そして、その光景を見下ろす。一夜のうちに築き上げられた洲俣の砦。土を盛り、堀を巡らせ、柱と梁を組み上げ、その外側を白壁に見せかけた板と紙で覆った急造の要害。
近くで見れば粗もある。決して完璧な城ではない。だが、遠目には違った。堀と土塁があり、櫓が立ち、白壁が連なり、無数の矢狭間が口を開けている。その内側には兵が詰め、織田家の旗指物が朝風を受けて林立していた。
誰が見ても砦だった。それも、一夜で築かれたとは信じ難いほど堂々たる要害だ。完璧だ。朝靄の向こう、美濃方の陣地が騒がしくなり始めた。夜の豪雨が去り、攻撃を再開しようとしていた兵たちが、川向こうに現れた巨大な砦を目にしたのだろう。
驚き。困惑。そして恐怖。その波が、目には見えずとも確かに伝わってくる。
(僕の勝ちだ)
寺を追われ、泥をすすり、人の下で頭を下げ続けた日々。誰よりも低い場所から、この乱世を見上げてきた。でも、その経験があったからこそ分かる。世の中を動かすのは力だけではない。知恵であり、工夫であり、人の心理だ。未来の知識と戦国の現実を組み合わせて積み上げてきた工夫が、今こうして形になった。
胸の奥で、日輪の光が燃えるように脈打つ。まるで昇り始めた朝日と呼応するかのようだった。
「――さあ、来るがいい」
僕は静かに呟いた。
「美濃の者ども。この砦が本物かどうか、確かめてみるといい」
朝日を受けて白く輝く城壁を見つめながら、僕はわずかに口元を緩めた。
天下へ至る道があるとすれば、その道は、間違いなくここから始まる。泥にまみれた洲俣の地で、僕の野望は確かな形を持って動き始めていた。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
藤吉郎再び洲俣の砦を築く
藤吉このとき諸卒に命じ、「この川の邊ことごとく泥土にて、雨後の備なくんば合戰難儀なるべし」とて、橇沓といへる藁沓を俄に作らしめ、軍卒にこれを履かせ、暫く息を繼ぎ居たり。もとより夏月の雨なれば、ほどなく雲散じ風治まり、天色平和なりければ、藤吉下知して、「すはや進め」と云ふほどこそあれ、一聲に鯨波を作つて、無二無三に切り崩す。美濃勢も鯨波を合せ、槍刀を提げ向ひ戰はんとすれども、泥土滑らかにして駈引進退自由ならず、或は跌きまたは滑り、人馬の足並さらに定まらず。木下が勢は、かの橇沓を履きたれば、泥土に泥まず、切先を揃へ、散々(さんざん)に切つて廻れば、美濃勢かねて伏勢を構へ、引包んで討たんず計略なりけるが、この夕立に計策破れ、大敗軍にて引取つたり。とかく合戰を挑む内、石垣諸材ことごとく調ひければ、夜の内に竹木を運び、合紋を以て貫柱を組合せ、楔鎹にて締め堅め、塀がかりには板を打つて、白紙を以てこれを張り、畫工に命じ、矢狹間、鐵砲穴を畫かしめ、一夜の内に城の普請全く成就したりければ、兵を備へ、塀の内にあまたの旗指物を立て並べ、敵の寄するを待ちかけたり。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
https://share.google/AxQqE2xRgf0LcmxAN
絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
私も「そりゃないだろ」と思いながら翻訳してるので、あらかじめお断りしておきますが、「かんじき」は走りにくい、旋回できない、踏ん張れない…ご承知の上でご覧頂いていると思いますが、太閤記はフィクションです。クレーム頂いても困るのでw




