1-65 七日間の建城計画
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
大広間を退出すると、夜気が頬を打った。清洲城の廊下は静かだったが、僕の頭の中ではすでに無数の命令が走り始めている。
まず蜂須賀小六へ使いを出す。報酬は惜しまない。だが、金だけでは足りない。あの手の男には、面白い戦、己の名を上げる場、そして「天下人の未来に一枚噛める」という匂いを嗅がせる必要がある。
稲田、青山、河口、長江、加治田、日比野、松原――名簿にある者たちへも即座に連絡。集めるだけではない。役割を切る。川を知る者は運搬。山を知る者は伐採。腕の立つ者は夜警と撹乱。口のうまい者は敵方への流言。手先の器用な者は部材加工。
荒くれ者の群れは、放っておけばただの暴力だ。でも、役割を与え、褒美を示し、競わせれば、恐ろしいほどの速度で動く。人を使うとは、そういうことだ。刀の腕だけで戦は勝てない。人の欲、人の恐れ、人の誇り。それらをすべて資材として組み上げる者が、最後に城を建てる。
僕は足を速めた。7日。信長には7日と言った。だが、実際にはもっと短く仕上げねばならない。敵が本格的に気づく前に、砦の骨格を立てる。少なくとも「これはもう壊すより守る方が早い」と敵に思わせる段階まで持っていく。
築城とは、完成してから意味を持つものじゃない。敵が「完成した」と錯覚した瞬間から、軍事的価値を持つ。
だから必要なのは、完璧な城ではない。最初に必要なのは、敵の判断を狂わせる外観だ。櫓。柵。旗。堀。土塁。そして、そこに兵がいるという気配。中身が未完成でもいい。遠目に「砦」と認識させれば、敵は攻め方を変えざるを得ない。その迷いこそが、こちらの時間を稼ぐ。
「勝つために城を築くんじゃない」
僕は夜の廊下で、小さく呟いた。
「城を築いたと思わせた瞬間に、勝ち筋が生まれる」
早速、使者を闇へ放った。蜂須賀小六のもとへ。稲田大炊助のもとへ。青山兄弟のもとへ。川筋、山筋、里外れの荒くれ者どものもとへ。彼らは、正規の武士たちから見れば厄介者だ。だが僕にとっては、誰も手を出せずに放置されていた未活用リソースだ。
世の中には、表の道を歩けない者がいる。ならば裏道を知る者として使えばいい。日なたに出られない者がいる。ならば夜を制する者として使えばいい。信長が天下を取るというなら、綺麗な侍だけで足りるはずがない。泥も、闇も、欲も、野心も、全部使う。それが僕の戦い方だ。
やがて夜明け前、清洲の外れに、最初の男が現れた。大柄な体。鋭い眼。野の匂いをまとった、川筋の頭領。蜂須賀小六。彼は僕を見るなり、にやりと笑った。
「藤吉郎殿。今度もまた、えらくイカれた火事場に首を突っ込んだそうじゃないか。」
僕も笑い返した。
「火事場じゃない。これから建設現場にするんだ」
小六は一瞬ぽかんとし、それから腹を抱えて笑った。
「はっはっは! 敵のど真ん中でか!正気か?」
「正気でできる仕事なら、佐久間殿か柴田殿がもうやっている」
小六の笑みが、獣のように深くなった。
「なるほどな。で、俺たちに何をさせる」
「川を使う。山を使う。夜を使う。美濃勢の目と足を潰す。小六たちには、その全部をやってもらう」
僕は一歩近づいた。
「この仕事が成れば、皆はただの川並衆ではなくなる。信長様の美濃攻めを動かした者として、堂々と名を残すことになる」
小六の目が細くなる。荒くれ者ほど、名に飢えている。ただの盗人で終わるか。織田家の戦に名を刻むか。その差は大きい。小六はしばらく黙っていた。そして、太い腕を組んだまま、にやりと笑った。
「よし、乗ってやろう」
その一言で、最初の歯車が噛み合った。そこからは早かった。夜のうちに人が集まり始める。稲田大炊助が来た。青山新七、小助が来た。河口久助、長江半丞、加治田隼人兄弟、日比野六大夫、松原内匠助――次々に、表の軍議では決して主役にならぬ顔ぶれが揃っていく。
粗野で、口が悪く、癖が強い。だが、目だけは死んでいない。僕は彼らを前に、洲俣の絵図を広げた。
「いいかい。これはただの普請じゃない。敵の目の前で行う詐術であり、速度の戦だ。遅れた者から死ぬ。迷った者から斬られる。でも、成し遂げた者は名を得る」
誰も笑わなかった。彼らは理解している。危険な仕事ほど、報酬が大きいことを。
「まず資材は、尾張からは運ばない。美濃の国から直接ぶっこ抜く。山に入る者は瑞龍山と多芸山にある木を一晩で切り倒し、そのまま洲俣川へ放り込んで、水流に乗せて尾張側へ流す。音を立てるなとは言わない。でも、敵に本筋を悟らせないで。いくつもの場所で同時に動き、何をしているかわからなくして」
小六たちは目を丸くした。
「敵の木を盗んで、川で運ぶだと?」
「そう。そしてここからが重要。洲俣で一から木を組んでいては、佐久間殿たちと同じように攻撃を受けて炎上する。だから、木材は川の北側――安全な尾張で、あらかじめ棟木、梁、柱、垂木、枘に至るまで、僕の設計図(絵図)に合わせて完全に加工・規格化しておきます」
職人たちが頷く。未来で言う「プレハブ工法」だ。
「そして加工済木材を一気に川の南側へ移送し、現場では『組み立てるだけ』にする。同時に、小六党の皆さんは現場で深さ二丈(約6メートル)の堀を掘り、その排出した土をそのまま砦の基礎としてリサイクルする。息を継ぐ暇もない極限の並列処理です」
「二丈だと?」
「浅ければ敵が越えます。深ければ敵は止まる。止まれば撃てます」
僕は絵図の一点を指で叩いた。
「そして、小六。敵を眠らせないで。見張りを惑わせ、道を塞ぎ、時に火を見せ、時に声を立てて、こちらの本命がどこか、最後まで悟らせないで下さい」
「つまり、嫌がらせをしろってことだな」
「上品に言えば、戦略的妨害活動です」
「何だそりゃ」
「つまり『嫌がらせ』です」
小六が笑い、場の空気が少し緩んだ。だが、僕はすぐに声を引き締める。
「ただし、勝手な略奪は許しません。味方の足を引っ張る者は、敵より先に僕が処理する」
荒くれ者たちの目が、すっと細くなった。ここで甘く見られれば終わりだ。彼らは力を認める。そして、覚悟を嗅ぎ分ける。僕は笑わなかった。ただ、静かに小六たちを見た。
「この仕事は、信長様直々の命です。成功すれば成果は莫大。でも乱れれば全員死ぬ。だから命令系統は一つ。僕の指示に従って下さい。功は必ず報います」
沈黙。やがて小六が、どかりと座り直した。
「聞いたか、野郎ども。藤吉郎殿は本気だ」
誰かが低く笑った。別の誰かが拳を鳴らした。そして、荒くれ者たちは一斉に頭を下げた。
誰も全体を見ていない。だが、僕だけが全体を見ていた。すべての工程が、頭の中の完成図へ収束していく。ここから先は、時間との勝負。斎藤方が気づく前に。気づいたとしても、判断を誤らせている間に。砦の形を、この世に出現させる。
僕は洲俣の方角を見た。川霧の向こうに、まだ存在しない城が見える気がした。いや――。僕には、もう見えている。7日の後、そこには必ず、織田の旗が翻る。そして美濃勢は叫ぶだろう。いつの間に、こんなものが。まるで一夜にして城が生えたようではないか、と。その錯覚こそが、僕の勝利だ。
築城計画は、完璧な静寂の中で進行した。瑞龍山と多芸山の木々は一夜にして切り出され、洲俣川の濁流に乗って大量の木材が尾張へと流れ着いた。
安全な北岸では、小六が召集した1,000人の職人たちが、図面に従って寸分違わぬ精度で木材を加工していく。鉋と鑿の心地よい音が夜の空気に響き渡る。
そして、すべての木材の加工が完了した、ある夜。僕たちはついに、完成した資材群を筏に乗せ、美濃側の洲俣へと搬入した。
現場に到着するや否や、小六党の荒くれ者たちが無言のまま鍬を振るい、息をも継がず猛烈な速度で大地を掘削していく。二丈の深さの堀がみるみるうちに形成され、掘り出された土がそのまま城の強固な土台へと変換されていく。
その基礎の上に、加工済みの柱や梁が、まるで巨大なパズルのように次々と組み上げられていく。釘すら使わず、計算し尽くされた枘と枘穴が噛み合う「カコン、カコン」という乾いた音が、暗闇の中で規則正しいリズムを刻んだ。
それはまさに、魔法のような光景だった。現場での作業を極限まで最適化し、ただ「組み立てる」という処理のみにリソースを集中させる。現代の建築技術の概念が、この戦国の泥の中で完璧に実行されていた。
だが、これほど大規模な動きを、美濃方が見逃すはずもなかった。
「――おのれ織田勢! またしても砦を築くつもりか! 今度こそ木端微塵に打ち砕き、竹木もろとも奪い取ってくれるわ!」
斎藤方の猛将、日根野、今井、牧村らが、数千の軍勢を率いて闇夜の中から押し寄せてきた。狙いはただ一つ。砦が完成する前に工事そのものを叩き潰すこと。佐久間信盛も柴田勝家も、この段階で苦杯をなめた。
「……来たか」
組み上がりつつある砦を見上げながら、僕は静かに呟いた。想定通りだ。むしろ、来なければ困る。敵が動くことまで含めて、この計画なのだから。信盛や勝家の時は、ここで防衛線が崩れた。だが、今回は違う。僕には、この手の泥臭い戦いを得意とする連中がいる。
「出番だぜ、野郎ども! 美濃の坊ちゃんたちに、川の泥の味を教えてやれ!」
小六が大野太刀を振り上げ、獣のような雄叫びを上げた。それを合図に、小六党が一斉に動き出す。彼らは正面からぶつからない。罠を仕掛け、泥濘へ誘い込み、闇に紛れて奇襲を浴びせる。
松明をあちこちに揺らして敵を惑わせ、道を塞ぎ、川筋へ誘導する。戦うというより、徹底的に足を引っ張る。美濃勢の猛烈な突撃は、小六党の嫌らしい妨害によって次第に勢いを削がれていった。
「くそっ! 何だこの連中は!」
「構うな! 押し通れ! 砦を壊せ!」
苛立つ美濃勢は、さらに兵を投入して攻勢を強める。だが、小六党も無限ではない。疲労は蓄積し、負傷者も増えていた。
あと数時間。あと数時間だけ稼げれば、砦の骨格は完成する。そこまで持ちこたえられれば勝ちだ。でも、その数時間が遠い。
(……どうする)
僕は歯を食いしばった。援軍を投入するか。でも、それでは敵の望む形になる。数で勝る相手との正面衝突になれば、消耗するのはこちらだ。
何かないか。敵の勢いを削ぎ、時間を稼ぐ手は――。必死に次の一手を探していた、その時だった。
――ぽつり。
頬に冷たいものが当たった。顔を上げる。いつの間にか、夜空は黒雲に覆われていた。6月中旬。雨の多い季節である。そして次の瞬間
――ザァァァァァァァッ!
まるで天が桶をひっくり返したかのような豪雨が、戦場全体に降り注いだ。数歩先すら霞むほどの激しい雨。火縄の火は消え、大地はたちまち泥の海へと変わる。
「雨だ!」
「これでは戦えん!」
「一旦引け!」
美濃勢は混乱した。足を取られ、視界を奪われ、このままでは同士討ちしかねない。やむなく後退し、雨が弱まるのを待つしかなかった。こうして戦場は、一時的な静寂に包まれた。嵐の中、僕は砦の骨組みに寄りかかりながら天を仰ぐ。雨水が容赦なく全身を打ちつける。寒い。泥だらけだ。でも――
(……笑いが止まらない)
敵の攻撃は止まった。しかし、こちらの作業は止まらない。柱は立っている。梁も組まれている。あとは屋根と壁を仕上げるだけだ。この豪雨が生み出した数時間こそ、僕が最も欲しかった時間だった。天が味方した。そう思わずにはいられない。
「手を休めるな!」
僕は声を張り上げた。
「雨が上がる前に仕上げるぞ! 最後の一本まで組み上げろ!」
職人たちが雄叫びを上げる。泥まみれになりながらも、誰一人として手を止めない。木槌の音が雨音の中に響く。柱が立つ。梁が渡る。櫓が姿を現す。砦は刻一刻と完成へ近づいていた。
この世界は冷酷だ。理不尽だ。だが、知恵と準備と実行力があれば、その理不尽さえ味方につけることができる。雨音の向こうで、夜明けが静かに近づいていた。
翌朝。雨上がりの空の下で、美濃勢が目にするものは何か。昨日まで何もなかった河畔に、突如として現れた巨大な砦。まるで一夜にして生えたかのようなその姿に、彼らは驚愕するだろう。
――いつの間に、こんなものを。その錯覚こそが、僕の勝利だった。
僕は濡れた前髪を掻き上げ、誰にも見えない暗闇の中で、この戦国という巨大な盤面に向けて、深く、残酷な微笑みを浮かべた。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
小六黨美濃勢と戰ふ
佐久間、柴田の兩將、洲俣の砦修造すること能はず、多くの人夫を損じ、竹木を失ひけれど、信長さらに責め給はず、却つて勞を稱し給ひ、藤吉郎を召して、「汝洲俣の砦、よろしく造作の功をなすべきや」と尋ね給ふ。藤吉畏まつて、「臣當家の人夫を用ひず、當國の竹木を切らず、ただ手勢を召具し、洲俣の砦七日の内に全く成就致すべき」旨言上す。信長その謀計あらんことを察し、藤吉が言葉に任せ、その旨命ぜられければ、藤吉かねてその用意をやしたりけん、蜂須賀、稻田、加次田、日比野が輩に命じ、美濃の國瑞龍山、多藝山より一夜の内にあまたの竹木を洲俣川へ切り落とし、一千人の人夫に命じ、川の北尾張の地にて、棟木、梁、柱、垂木、枘、繪圖に合せて作り出し、小六黨の人夫を以て、川の南美濃において、深さ二丈の堀を掘らせ、その土を以て砦の土臺に築かせ、息をも繼がず働きける。齋藤方はかかる手立ありとは知らず、「またこそ織田勢の砦を築くぞ。討ち散らして竹木を奪へや」とて、日根野、今井、牧村なんど、數千の勢にて押寄せ、ただ一息に蹴散らさんと、無二無三にかかりければ、藤吉かねて小六黨に計策を示し置きたれば、さまざまの奇計をなし、美濃勢を惱まし、砦成就ならしめんと圖る。美濃方、かくては果てじと大軍を催し、短兵急に揉み立つる。折節六月中旬のことなれば、俄に白雨盆を傾くるごとく、篠を亂して降りければ、兩陣互に戰ひを止め、雨の晴るるを待ち居たり。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
https://share.google/AxQqE2xRgf0LcmxAN
絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
蜂須賀正勝は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の股肱の家臣。播磨龍野城主。徳島藩主蜂須賀家の家祖。出典:wikipedia
講談や『太閤記』『絵本太閤記』『真書太閤記』では、蜂須賀小六は野盗の親分であったとされてますが、「墨俣一夜城」のために集められた夜討強盗の野武士集団の番頭の1人というのは、寛永3年(1626年)以後に刊行された小瀬甫庵の『太閤記』が秀吉の生い立ちを面白くするために作った話であり、蜂須賀家の子孫は長くその負のイメージに苦しんできたそうです。SNSのない時代の甫庵砲、罪だなぁw




