1-64 川向こうへ渡る者
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
「……信長様。その洲俣の砦構築、この僕に、すべて一任していただけないでしょうか」
静まり返った大広間に、僕の声が落ちた。その瞬間、空気が凍った。いや、凍ったというより、場にいる全員の思考処理が一斉に停止した、と言った方が正しい。
佐久間信盛が失敗した。柴田勝家も失敗した。織田家の古参、重臣、歴戦の猛者たちが、5,000という膨大な人員を投入しながら、二度にわたって洲俣築城計画を炎上させた。
その直後に末席に座る、出自も定かでない成り上がりの僕が、こともあろうに「自分に任せろ」と言い出したのだ。当然、広間のあちこちから、嘲笑とも怒号ともつかぬざわめきが漏れた。
「藤吉郎……貴様、正気か」
「佐久間殿でも成らず、柴田殿でも成らなんだものを、貴様ごときが?」
「敵国の川向こうぞ。遊びではない」
その言葉には、侮蔑があった。怒りがあった。そして何より、恐怖があった。彼らは僕を笑っているようでいて、実のところ、誰もが洲俣という地そのものに怯えていた。
それも当然だ。洲俣は、ただの河原ではない。美濃攻略の喉元であり、斎藤方にとっては絶対に許してはならない侵入口である。そこへ砦を築くということは、構築途中で攻撃されるのは必然。守り切れなければ、すべての資材と人命が消し飛ぶ。
だから、誰も名乗り出なかった。信長が「この役目を引き受ける者はおらぬか」と見渡しても、重臣たちは顔を伏せたまま黙り込んでいる。
普段なら我先にと手柄を求める者たちが、一言も発しない。それだけ、この仕事が難しいということだ。そして同時に、それは僕にとって最大の好機でもある。
信長は上座から、細く鋭い目で僕を見下ろしていた。怒っているのか、面白がっているのか、表情だけでは判断できない。だが、あの目の奥には、間違いなく炎がある。信長は、常識という名の古い仕様を嫌う。そして、誰も考えつかぬ手を持ち込む者を、決して見逃さない。
「藤吉郎」
信長の声が、広間を切った。
「申してみよ。いかなる手法で洲俣に砦を築く」
来た。僕は床に手をつき、深く頭を下げた。ここで勢いだけを見せても意味はない。大言壮語は誰にでもできる。信長が欲しているのは、勝てる根拠だ。僕はゆっくりと顔を上げた。
「恐れながら申し上げます。佐久間殿、柴田殿の御働き、いずれも御武勇に不足があったわけではございませぬ。敗因はただ一つ。敵地にて、一から砦を組み上げようとなされたことです」
ざわめきが、ぴたりと止まった。僕は続ける。
「敵地に大人数を留め、竹木を切り、柱を立て、堀を掘る。これでは、敵に『今ここを攻めればよい』と知らせているようなものです。どんな防ぎを固めても、普請の最中は脆弱。まして人夫は兵ではありません。一度恐怖が走れば、柴田殿ほどの御武勇をもってしても、留めることはできません」
柴田勝家の眉が、ぴくりと動いた。怒るかと思った。だが、勝家は何も言わなかった。唇を噛み、黙っている。悔しいのだろう。だが、事実だ。事実を飲み込める男は、やはり強い。
「では、どうする」
信長が短く問いかけた。僕は待っていたとばかりに、声を低くした。
「尾張であらかじめ木材を加工しておくのです。柱も梁も棟木も垂木も、すべて設計図どおりに作っておきます」
そこで一度言葉を切り、続けた。
「そして洲俣では木を切ったり削ったりしません。運び込んだ部材を組み立てるだけです」
僕は地図の上の洲俣を指で叩いた。
「つまり、洲俣で城を築くのではありません。城そのものは、すでに尾張で作っておく。洲俣では、それを立ち上げるだけです」
古参たちが顔を見合わせる。彼らの頭の中で、古い築城の常識が軋みを上げているのが見えた。そうだ。現場で作るから遅い。現場で悩むから止まる。現場で資材を集めるから敵に読まれる。だったら、できる限りの工程を安全圏で済ませ、敵地では最小手順で一気に仕上げる。要するに、プレハブである。
僕の脳内では、工程表がすでに走っていた。資材調達。部材加工。運搬。堀の掘削。土台構築。組み上げ。防衛。すべてを並列処理で回す。古い武将たちの「まず人を集める」という発想とは、根本から違う。
「だが、藤吉郎」
丹羽長秀が口を開いた。
「材木はどうする。尾張の竹木を切れば、結局また動きが知れるぞ」
「切りません」
僕は即答した。
「織田家の人夫も、尾張の竹木も使いません」
その言葉に、広間がまた揺れた。
「何?」
「人夫を用いず、竹木も切らず、どうやって砦を築くというのだ」
もっともな疑問だ。普通なら、不可能である。だが、不可能という言葉は、発想が固定された者の口から出る。
「美濃には、美濃の山がございます。瑞龍山、多芸山、そのほか川筋へ落とせる竹木はいくらもございましょう。それを夜のうちに切り出し、洲俣川へ流します」
「敵国の木を使うというのか」
「そうです」
僕は淡々と答えた。
「敵地に砦を築くのですから、資材も敵地で調達すればいいんです。わざわざ尾張の山を切り開く必要もありませんし、大量の木材を運んで目立つこともありません」
信長の口元が、わずかに歪んだ。笑ったのだ。ほんの一瞬。だが僕にはわかった。この男は、面白がっている。
「では、人夫はどうする」
再び信長が問う。僕はそこで、少しだけ姿勢を正した。ここからが本題だ。
「織田家の人夫を使えば、佐久間殿、柴田殿の時と同じく、恐怖が残っております。洲俣と聞くだけで足がすくみましょう。ゆえに、使うべきは土地を知り、川を知り、夜を恐れぬ者どもです」
「そのような者が、どこにおる」
「おります」
僕は懐から一枚の紙束を取り出した。すでに書き付けておいた名簿だ。篠木、柏井、科野、秦川、小幡、守山、根上、北方の川筋――。尾張と美濃の境目には、表の侍帳には載らぬ者たちがいる。夜討を生業とし、川を渡り、山を抜け、時に強盗と呼ばれ、時に野武士と恐れられる者たち。
だが、彼らは無能ではない。むしろ逆だ。正規の軍勢が動けぬ闇の中で動き、正規の侍が知らぬ小道を知り、正規の兵が恐れる川筋を庭のように渡る。この作戦に必要なのは、礼儀正しい家臣ではない。混沌を制御できる、現場適応型人材だ。
「この者どもを番手に組み入れます」
僕は名簿を差し出した。
「夜討、忍び働き、川越え、山仕事に長けた者ども。中にも主要武将としては、稲田大炊助、青山新七、同小助、蜂須賀小六、同又十郎、河口久助、長江半丞、加治田隼人兄弟、日比野六大夫、松原内匠助らがございます」
蜂須賀小六。その名を聞いた瞬間、何人かの重臣が露骨に顔をしかめた。当然だ。あの男は、侍というより、野に放たれた獣に近い。だが、獣には獣の理がある。小六を味方につければ、川は道になる。夜は盾になる。山賊、野武士、渡し守、木こり、荷担ぎ――それらを一つのネットワークとして束ねられる。正規軍ではなく、非正規戦力。だが、この局面では、それこそが最適解だ。
「数は」
信長が問う。
「名のある者、書き上げただけで1,200。これに従う者どもを合わせれば、上下5,6,000には及びましょう」
大広間がどよめいた。5,000。数だけなら佐久間、柴田と同等。だが中身が違う。命令されて嫌々働く人夫ではない。報酬と名誉と未来をちらつかせれば、自ら危地へ飛び込む連中だ。しかも、彼らは洲俣の夜を恐れない。むしろ、敵の正規兵の方が、彼らの土俵に引きずり込まれることになる。
「二組に分け、昼夜を入れ替えて働かせます。片方が堀を掘れば、片方が材を運ぶ。片方が敵を撹乱すれば、片方が土台を固める。休みなく、しかし潰れぬよう回します」
僕は指で畳をなぞるように、工程を示した。
「川北、すなわち尾張側にて部材を刻む者。川南、美濃側にて堀を掘る者。山より材を落とす者。流れてきた材を拾い上げる者。敵を欺く者。敵の足を止める者。すべてを別々に動かしながら、一つの砦へ収束させます」
現場は一つではない。工程も一つではない。複数の小さな作業単位を、同時並行で走らせる。それが肝だ。
「7日」
僕は言った。
「7日の内に、洲俣の砦を成就させてみせます」
広間が、完全に沈黙した。あまりに大きな言葉だった。佐久間と柴田が失敗した事業を、7日で成し遂げる。普通に考えれば狂気である。だが、狂気に見える計画ほど、細部まで詰めてあれば強い。
信長は、名簿を手に取った。その鋭い目が、紙の上を走る。稲田大炊助。青山新七。青山小助。蜂須賀小六。蜂須賀又十郎。河口久助。長江半丞。加治田隼人兄弟。日比野六大夫。松原内匠助。その他、川筋、山筋、北方の荒くれ者どもの名。正規の家臣団から見れば、眉をひそめるような連中ばかりだ。だが信長は、紙を見ながら笑った。今度は、はっきりと。
「藤吉郎」
「はっ」
「よくぞここまで調べた」
その一言で、大広間の空気が変わった。嘲笑が消えた。侮蔑が引っ込んだ。信長が認めた以上、誰も真正面からは否定できない。
でも、それでもなお、古参たちの視線は刺さる。猿め。調子に乗るな。失敗すればただでは済まぬぞ。そんな声が、聞こえなくても聞こえてくる。
もちろん理解している。これは命を賭けた投資だ。失敗すれば僕は終わる。いや、終わるだけならまだいい。敵地で討たれ、おそらく僕はまた死ぬだろう。
でも、成功すれば…成功すれば、僕は織田家の中で、ただの雑用上がりでも、笑われ役の猿でもなくなる。信長の天下布武という巨大プロジェクトを進める織田家において、必要不可欠な経営層になれる。その未来が、僕には見えていた。
「誰も大将として参る者がなければ」
僕は改めて頭を下げた。
「この藤吉郎をお遣わしください」
言い切った。もう引けない。信長はしばらく僕を見ていた。その沈黙は長かった。広間にいる誰もが息を潜める。燭台の火が揺れ、遠くで甲冑の金具がかすかに鳴った。やがて信長は、膝を叩いた。
「よし」
短い一言。だが、それは命令だった。
「俺もまた、そのように思っていた」
いや、絶対に今思いついただろう。……とは、さすがに口には出さない。信長は続けた。
「藤吉郎。貴様の案、ただ口先のみではあるまいな」
「もちろんです」
「ならば見せよ。佐久間、柴田の成し得なんだことを、貴様が成してみせよ」
「ははっ!」
僕は深く平伏した。信長の承認が下りたその瞬間、心臓が、跳ねた。胸の奥の日輪が、狂ったようなクロック数で脈打ち始める。
ついに指揮権を獲った!これで盤面が動く。ここから先は、僕のターンだ。
【太閤記 小瀬甫菴道喜輯録 近藤出版部 大正8年】
秀吉卿軽一命於敵国成要害之主事(一)
或時信長卿老臣を呼聚評議し給ふやうは、美濃国に打越度々雖㆑尽㆓狼藉㆒、敵痛むけしきもなく却て兵気撓み、軍勢疲て成功なし、然間川向ひに要害を構へ勢を入置、謀計を尽し戦功を励し、一国平均に治め、各数年の労力を安んし、忠勤を報せんと思ふは如何あらんと宣へは、何も奉り、一戦功成て敵国服し、民心帰せしむる御計策也と申上けれは、信長公御気色よけにして、誰をか其物主に定め、要害を拵へ給んと進て問給ふに、河を越可㆓居住㆒と云人なかりけり、良有て藤吉郎を召、要害の事如何思ふそと密かに御談合有けるに、憚る所もなく存知寄し事を申上けるは、当国には夜討強盗を営みとせし其中に、能兵共多く候、然間篠木柏井科野秦川小幡守山根上かは、并に北方の川筋に付て左様の兵を尋記し、其者共を番手にし、彼要害に入置給んやと申上しかは、尤也とて、名字を記し付見給ふに、千二百余人に及へり、其中にても武名も且々人に知られ番頭にも宜しからんは、稲田大炊助、青由新七同小助、蜂須賀小六〈後号彦右衛門〉同又十郎、河口久助、長江半丞、加治田隼人兄弟、日比野六大夫、松原内匠助等也、上下五六千に可㆑及候、是を二番になし被㆑遣宜しく奉㆑存候、大将に参候はんと申者於㆑無㆑之者、某を被㆑遣候はんやと、秀吉望れしかは、又指出たる事を申者哉と思召しか共、大河を越敵の地に有へきと望みぬる強気の程を感しおほされ、予も亦左様に思ひ寄し也と、御同心まし〳〵て、藤吉郎艫の廻りし申さま、并に大志の程をほめ給ふて、帰し給ひける、
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
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絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
原書を読むと、改めて敵地ど真ん中の築城はスゴッって思います。そんな秀吉に敬意を表して約44,000字(原文含む)の洲俣城エピソードを投稿予定です。
因みに、これまで海音寺潮五郎、司馬遼太郎、堺屋太一、津本陽、童門冬二…錚々たる大作家たちが太閤記を翻訳していますが、ボリューム断トツ1位と言われる吉川英治(全11巻200万字、2位は山岡荘八100万字)でも墨俣城エピソードは15,000字です。
なので本作品は日本文藝史上、最も原典に忠実で、最も長い太閤記(予定w)です。まぁ…最も原書をコピペした小説とも言えますw
(文字数カウント元)
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吉川英治 新書太閤記 第三分冊
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と、私も含めてですけど、書籍では長編/大河とされる100万字overの作品ですが、なろうにはゴロゴロしてるので、なろう読者の読書量って凄いなと思いました。




