1-62 城主への入札
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
滝川左近一益が伊勢国で目覚ましい活躍を見せ、織田家の勢力を南へ大きく押し広げていた頃。
永禄4年(1561年)8月。信長は伊勢方面を一益に任せると、自らはわずかな供回りだけを連れ、日本の中心である京都へ向かった。その視線は、もはや尾張や美濃だけではなく、天下そのものへと向けられていた。
目的は明白だった。室町幕府第13代将軍・足利義輝、ならびに、当時の京都を実質制圧していた管領代・三好修理太夫長慶との謁見だ。
未来の感覚からすれば、実権を持たない名ばかりの将軍や、それを裏で操る簒奪者に頭を下げるなど、無駄な儀礼に思える。それでも朝廷や将軍家の権威はなお人々の上にあった。
三好長慶という男は、その衰えた幕府の実権を握り、京の政治を思うままに動かしていた。でも、将軍家の名を借りなければ天下に号令をかけることはできない。室町幕府とは、この国を治める仕組みそのものだった。
信長は桶狭間で今川義元を討ち、その武名を天下に轟かせた。しかし、武力だけでは諸大名から警戒されるばかりで、やがては敵を増やしかねない。だからこそ、信長は京都へ赴いた。将軍家に接近し、その権威を味方につけるためである。
そして多くの献上品を携えて上洛した信長は、ついに将軍家から尾張守護として認められた。これによって信長の行う政や軍事行動は、単なる武力によるものではなく、将軍家のお墨付きを得た正当なものとなったのである。
「……これで思う存分、尾張を治めることができる」
清洲城へ帰還した信長は、その権威を最大限に活かし、尾張国内の改革へと乗り出した。
信長は罪を軽くし、功績ある者には手厚く報いた。不要な関所や税を取り払い、民を大切にして商いを盛んにする。
僕も奉行として、その改革を支えるために走り回った。すると効果はすぐに現れた。尾張の国人や百姓たちは大いに喜び、他国からも人や物が次々と流れ込んでくる。人が集まれば商いが栄え、商いが栄えれば金が動く。金が動けばさらに人が集まる。織田家は今、そんな好循環の真っただ中にあった。
そして、年が暮れ、永禄5年(1562年)の夏のはじめ。国内のインフラ整備を完璧に終えた信長は、ついに最大の標的である北の巨大市場――美濃国・斎藤家の征伐へと、その鋭い視線を向けた。
しかし、美濃攻略には致命的な物理的ボトルネックが存在した。尾張と美濃の国境には、「洲俣」と呼ばれる大河が濁流を上げて横たわっていた。
この川は、斎藤家が構築した天然の巨大堀だった。織田軍が川を渡ろうとすれば、必ず進退の自由を奪われ、川を渡り切る前に向こう岸からの射撃を受けて甚大な被害を出してしまう。
「……あの川がある限り、力任せの進軍は不可能だ」
清洲城の広間。居並ぶ重臣たちを前に、信長は広げられた地図の「洲俣」の一点に、ギリリと扇子の先を押し当てた。
「川の向こう、美濃の領内に、どうしても我が軍の砦を築かねばならん。そこを足がかりとして確保し、安全に兵や物資を送り込めるようにした上で、少しずつ美濃の奥へ攻め入るのだ」
信長の言葉に、広間は重い沈黙に包まれた。敵の領地のど真ん中、それも川を渡ってすぐの最前線に城を築く。そんな大事業は、誰が考えても危険極まりない。
木を切り、石を運び、土を盛って城を築いている間、斎藤軍が黙って見ているはずがない。完成する前に大軍で襲いかかり、築城隊ごと踏み潰されるのが目に見えていた。
その難しさは、居並ぶ家臣たちもよく分かっていた。だから誰も口を開かず、うつむいたまま黙り込んでいた。
「――敵地に砦を築き上げられる者はおらぬか。この難事を見事成し遂げた者には、その砦を与え、城主に取り立ててやる!」
信長は鋭い眼差しで一同を見渡した。城主――。
それは、自分の領地を持たない僕にとって、何よりも魅力的な報酬だった。領地を持ち、一国一城の主となる。それは、出世を望む者なら誰もが夢見る地位である。胸の奥で、日輪の光が激しく明滅した。
(……できる。僕なら、やれる)
僕の脳内では、すでに現代の建築知識と最適化の手法を用いた、まったく新しい「築城アルゴリズム」が高速でコンパイルされていた。
山で木を切り出し、現場で組み立てるから時間がかかるのだ。ならば、現場での工程を限りなくゼロにすればいい。あらかじめ安全な尾張の山中で木材を規格化して切り組み、それらを夜の闇に乗じて川から一気に輸送し、現場では「組み立てるだけ」にする。
未来のプレハブ工法を用いれば、敵がアラートに気づいて軍を派遣してくる前――たったの一夜で、要塞を立ち上げることができる。
僕はこの「最適化された解答」を提示し、一介の奉行から、ついに城主へと駆け上がるのだ。
「……信長様!その儀、この木下藤吉郎が――」
僕が列の末席から身を乗り出し、高らかに声を上げようとした、まさにその瞬間だった。
「――お待ちくだされッ!その大役、この佐久間信盛がお引き受けいたします!!」
僕の声を遮るように、上座にいた古参の重臣、佐久間信盛が血相を変えて進み出て、床に額を擦り付けたのである。僕は息を呑み、半ばまで上げた手をゆっくりと下ろした。
(……佐久間。お前が、口を出すのか)
佐久間信盛。織田家の黎明期から信長に仕える、保守派の筆頭とも呼べる男だ。彼の目には、焦りがあった。
最近、滝川一益というよそ者の浪人が伊勢で鮮やかなハッキングを決め、城主に抜擢された。さらに、身分の低い僕が、万の奉行として組織のインフラを牛耳り、事あるごとに信長の評価を上げている。
既存の年功序列に胡座をかいていた佐久間ら古参の武将たちは、僕らのような「新参の実力主義者」に手柄を奪われることに、猛烈な危機感を抱いていた。
「某が命を承り、洲俣の砦、必ずや成就させてみせまする!」
佐久間は僕を横目で睨みつけながら、「お前のような猿に功績は渡さない」と全身で主張していた。信長は、そんな佐久間の焦りなどお見通しだっただろう。だが、あえて満足そうに頷き、その提案を受理した。
「よし! よくぞ申した、信盛。ならば5,000人の人夫をお前に預ける。期限は『20日間』だ。20日の間に、必ず洲俣の砦を造立してみせよ!」
「ははッ! 謹んでその旨、領承仕りまする!!」
佐久間は自信満々に頭を下げ、勇んで退席していった。陣頭指揮を執るための用意を急ぐのだろう。
しかし。広間の末席で平伏したまま、僕の胸の内は、冬のアスファルトよりも冷たく凍りついていた。
(……阿呆だ)
僕は誰にも見えないように、泥にまみれた顔の奥で口角を吊り上げた。5,000人の労働力で、20日間。一見すれば十分な労働力と期間に見える。未来の事業であっても、それだけあれば立派な建造物が建つだろう。だが、ここは戦場だ。敵は美濃の天才軍師・竹中半兵衛を擁する斎藤軍だ。
佐久間信盛の頭にあるのは、現場で木を切り、のろのろと柵を立てるという、旧来の計画駆動型の築城手法しかない。20日間も現場に5,000人もの無防備な人間を滞留させれば、どうなるか。
3日も経たないうちに敵の索敵ネットワークに検知され、完成もしていない脆弱な工事現場に、斎藤軍の物理的な破壊攻撃が雨あられと降り注ぐだろう。防壁もない場所で、5,000人の労働者はただの動く的になる。指揮系統はパニックを起こし、資源は散逸し、事業は炎上・崩壊する。
これは、始まる前から完全に破綻が約束された「死の行軍」だ。
(やらせておけばいい)
僕は、胸の中で静かに疼く日輪の光を、冷徹な理性で押さえ込んだ。今、僕がここで「そのやり方では失敗します、僕のモジュール化工法を採用してください」と口を出したところで、プライドを傷つけられた佐久間たち保守層からの猛烈な反発を招くだけだ。組織というものは、一度痛い目を見なければ、古い常識を捨てようとはしない。
ならば、僕は黙って待つだけだ。佐久間信盛が旧来の手法で美濃の軍勢にボロボロに打ち砕かれ、信長に期待される計画が完全に頓挫し、織田家全体が「もう誰もこの事業を完遂できない」と絶望の淵に立たされる、その瞬間を。
すべての古い権威が力を失い、誰もが泥にまみれてもがく時代になった時――それこそが僕にとっての好機だ。誰にも邪魔されることなく、自分の力だけでこの戦国の世を駆け上がれる。そんな時代が、すぐそこまで来ている気がしていた。
僕は小さく息を吸い込んだ。冷たい夜風が吹き抜ける清洲城の広間で、佐久間信盛の背中を静かに見つめる。その姿は、これから訪れる大きな時代のうねりに気づかぬまま歩いていく人間のように見えた。
僕は何も言わず、その背中を見送った。静かに。そして冷ややかに。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
信長上洛將軍に謁す
織田信長は瀧川に勢州を押へさせ、永祿四年八月上洛して、將軍義輝公竝びに管領三好修理太夫長慶に謁し、尾州一國の守護に補せられ、ますます仁政を行ひ下民を愛し、罪を輕くし賞を厚く施し給へば、國人悅ぶこと限りなし。その年も暮れ永祿五年夏のはじめ、信長、齋藤征伐の工夫をこらし給ふに、尾濃の境に洲俣の大河ありて進退自由を得ず。川向ひ美濃の地に砦を築き、味方の足溜まりとなし、ゆるゆる征伐するにしかじと、諸臣を召して、「敵地に砦造作すべき者あらば、力を盡し成就さすべし。出來の後、その砦の城主たらしむべし」と、一座を急度見給へば、木下藤吉例のごとく進み出で、命を領ぜんとす。ときに佐久間信盛、木下に功を奪はれじと、急に詞を發して、「某命を承り、洲俣の砦全く成就なさしむべし」と云ふ。信長悅び、「五千人の人夫を以て二十日の間に造立すべし」と嚴しく命じ給へば、信盛謹んでその旨を領承し、退きて用意をなす。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
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絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
佐久間信盛は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の宿老、鳴海城主。平手政秀自害から主君の織田信長による折檻状で織田氏を離れるまでの約30年間、織田氏家臣団の筆頭家老として家中を率いた。出典:wikipedia
織田家の「股肱の臣」ですが、天正8年(1580年)、いわゆる『19条の折檻状』で信長に近畿方面軍団長を解任(後任が明智光秀)されて高野山に出家、病没します。信長からパワハラを受けていた明智光秀が本能寺の変(1582年)を起こした原因は、この前任の佐久間信盛の粛清に「明日は我が身」と思ったというのが最近は違うらしいですが少し前までの定説です。




