1-58 天才軍師を欺く日
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
戦場というものは、巨大な情報処理の盤面だ。美濃国、加納村。僕――木下藤吉郎秀吉の脳内で鳴り響いていた最悪の警告音は、眼下に広がる地獄絵図となって完全に現実のものとなっていた。
柴田勝家、佐久間信盛、森可成、池田勝三郎。織田家が誇る最高火力の猛将たちが率いる4,000騎が、竹中半兵衛という一人の天才軍師が構築した「死の包囲網」の中に、綺麗にパッケージングされていた。
左右の岡からの熾烈な銃撃と矢の雨、前後を塞ぐ堅牢な槍の壁。物理的な突破力だけを頼りに突き進んできた彼らは、完全に身動きが取れず、見る見るうちにその質量を削り取られていく。
「……おのれ、斎藤の小童どもめッ! 俺が自ら救い出してやる!」
最後尾からその惨状を目の当たりにした信長は、激怒に顔を歪め、自らが率いる旗本2,000人を前線に投入しようと下知を飛ばしかけた。
「お待ちくださいッ!!」
僕は間髪入れず、信長の馬の前に両手を広げて立ち塞がった。馬のいななきと共に、信長の冷酷な視線が僕を突き刺す。
「どけ、猿。味方を見殺しにしろと言うのか」
「味方はすでに、敵の謀の深奥に落ち入っております! ここで大将である信長様が動けば、それこそが敵の目的!今すぐ引き返し下さい!!」
僕が必死に制止の言葉を叫び終えるか終えないかの、まさにその瞬間だった。
――ダァァァンッ!!
僕たちの耳元、すぐ間近の茂みから、鼓膜を裂くような鉄砲の轟音が響き渡った。
「な、なんだッ!?」
合図だった。信長の旗本が動いて陣形が伸びきった、まさにその完璧な間隙を縫って、あらかじめ潜んでいた斎藤方の伏兵数1,000騎が、地中から湧き出すように一斉に蜂起した。
「――織田信長の首、この日根野備中守がもらったァッ!!」
真っ先に馬を躍り出してきたのは、身の丈を越える八尺余(約2.4メートル)の巨大な鉄棒を振り回す大男だった。鉄棒が風を切り裂くたび、信長を護衛していた馬廻りの兵たちが、まるで安い木偶人形のようにボキボキとへし折られ、宙を舞って血の雨を降らせていく。薙ぎ立てるその物理的破壊力は、戦術や陣形を完全に無効化するほどの脅威だった。
前方の4,000は包囲され、後方の本陣は奇襲を受けて壊滅の危機。織田軍のシステムは、今まさに致命的なクラッシュを起こそうとしていた。普通の武将であれば、ここで絶望し、腹を切るか討ち死にを選ぶだろう。
だが、僕は未来知識が警告していたこの最悪の事態を最初から想定していた。相手が天才・竹中半兵衛である以上、こちらの行動をすべて読んで裏の裏をかいてくるのは当然だ。ならば、その「裏の裏」をひっくり返すための、論理を超越した盤外戦術を仕掛けるしかない。
「弥左衛門ッ!!」
僕は、背後に控えていた腹心の浅野弥左衛門に向かって鋭く叫んだ。
「例の旗だ! やれッ!」
「承知ッ!!」
弥左衛門は、僕の傍らにあった小高い岡の上へと駆け上がった。その手に握られているのは、出陣の朝に信長によって真っ二つに切り捨てられ、その後すぐに僕が新たな竿に付け替えて急造した、あの「青・黄・赤・白・黒」の五色の巨大な旗だ。
バサァッ!!
弥左衛門が五色の旗を空高く掲げ、左右に大きく振りかざす。それは、周囲の誰の目にも「狂った猿の無意味な自己主張」にしか見えなかっただろう。
しかし、その「五色の吹貫」が翻った直後。戦場から遠く離れた、斎藤家の本拠地・稲葉山城の背後にそびえる「瑞龍山」の峰々から、信じられない光景が現出した。
「……な、なんだあれは!?」
斎藤方の兵士が、絶望的な声を上げた。瑞龍山の山頂から中腹にかけて、突如として数千もの軍旗が空にたなびき、夥しい数の軍勢が、今まさに稲葉山城の無防備な背後を強襲しようとしているかのように見えたのだ。
「本城が……本城が敵の大軍に襲われているぞォッ!!」
その声は、一瞬にして斎藤方の伝令網を駆け巡った。日根野備中守も、鉄棒を振り下ろす手を止めて山を振り返り、「馬鹿な! 織田の別働隊が、いつの間に我らの背後へ回ったのだ!」と大いに驚き、狼狽えた。
事実などどうでもいい。「本拠地が陥落するかもしれない」という情報の入力は、戦場に出ているあらゆる将兵に致命的なパニックを引き起こす。
どれだけ前線で竹中半兵衛が完璧な包囲網を敷いていようとも、指揮系統の末端である兵士たちが「自分の家族と城が危ない」と動揺してしまえば、システム全体は連鎖的に崩壊する。
現に、加納村で柴田たちを囲んでいた野木や牧村の部隊も、稲葉山の異常事態に浮足立ち、堅牢だった包囲の陣形がパラパラと乱れ始めた。
「――今だッ! 敵の陣形が崩れたぞ! 包囲を食い破れ!!」
この一瞬の隙を、歴戦の猛将である柴田勝家たちが見逃すはずはない。
「うおおおおッ!!」という地鳴りのような反撃の咆哮が上がり、包囲網の内側から織田の4,000が死に物狂いで突撃を敢行する。
本城の危機に動揺していた斎藤勢は、この内からの強烈な反発に耐えきれず、乱れて散々になり、ついに蜘蛛の子を散らすように敗走を始めた。信長を強襲していた日根野の伏兵部隊も、「もはやこれまで」と一目散に稲葉山方面へと逃げ出していく。
「……見事だ! 形成は逆転したぞ!」
信長は、血に濡れた刀を振りかざし、狂喜の笑みを浮かべた。
「このまま一気に追討をかける!敗走する敵の背中を叩き潰せ!!」
勝利のドーパミンに酔いしれ、再び全軍を突撃させようとする信長。だが、僕はまたしてもその前に立ちはだかり、今度は信長様が乗る手綱を力任せにガシッと掴んだ。
「なりませぬッ!!」
「……ッ、猿! また俺の邪魔をするか!」
信長の目が吊り上がる。だが、僕は絶対に引き下がらなかった。
「敵の将、竹中半兵衛は尋常の者ではありません!僕が仕掛けた奇計によって、彼らは『一旦』退いただけです!あの男が、本城の無事を確かめるための情報確認プロセスを用意していないはずがありません。必ず、途中で偽情報だと見破り、態勢を立て直して引き返してきます!」
僕は息を荒げながら、必死に論理を叩きつけた。
「もし我々がこのまま追撃に夢中になり、引き返してきた半兵衛の軍勢と正面衝突すれば、今度こそ織田軍は壊滅します!この敵が混乱している数十分の隙に、急いで洲俣川を渡り、一足も早く尾張へ引き上げてくださいッ!!」
追撃すれば全滅する。退けば生き残れる。信長は僕の鬼気迫る表情と、一切の無駄を省いた生存のための論理を睨みつけ、やがて「……チッ」と短く舌打ちをした。
「全軍、撤退だ! 急ぎ川を渡り、尾張へ引き払え!!」
信長の絶対的なコマンドにより、織田の軍勢は間一髪のところで追撃を諦め、踵を返して全力で美濃からの脱出を図った。
怪我人を担ぎ、泥にまみれながら洲俣川を渡り切ったとき、僕はようやく長く止めていた息を吐き出すことができた。事なく帰城へと向かう行軍の中、僕は密かに瑞龍山の方向を振り返った。
あの山で旗を振っていたのは、僕が事前に莫大な金を握らせて買収しておいた、美濃国境周辺の野武士たちだ。
僕が「五色の吹貫」を振るのを合図として、彼らに「稲葉山城へ向かうダミー部隊」を演じさせた。これは、敵のネットワークに意図的なエラー情報を注入し、システムをクラッシュさせる「奇兵の計」だ。
後になって諜報から聞いた話だが、僕の明察は完全に的中していた。敗走する斎藤勢の中で、竹中半兵衛ただ一人だけが、早々に僕のダミー情報の矛盾を見抜いていたらしい。彼は崩壊する部隊の中から手勢1,000人を強引にまとめ上げ、途中から猛烈な速度で引き返してきた。
しかし、半兵衛が加納村に辿り着いたときには、僕たち織田軍はすでに川を渡り終え、影も形も残っていなかった。半兵衛は、もぬけの殻となった戦場を見つめ、無言で城へと帰っていったという。
(……紙一重だった)
あの知略の化け物と真っ向から盤面を奪い合い、コンマ数秒の判断速度の差で、僕は織田家の主力という膨大なリソースを完全な消滅から救い出したのだ。
清洲城への帰還後。信長は、広間に僕一人だけを召し出した。僕は平伏し、何を言われるか――勝手な行動を取ったことへの叱責か、それとも処罰か――と、冷徹に事態のシミュレーションを回していた。
「……猿」
信長の声は、いつになく静かだった。顔を上げると、そこには怒りも、傲慢さもなかった。ただ、僕という不可解な存在を、純粋に評価する経営者の瞳があった。
「今度の奇計……。味方の軍兵6,000を完全に救い出したこと、抜群の働きであった。まさに、神機妙算と呼ぶにふさわしい」
「……勿体なきお言葉にございます」
信長は立ち上がり、僕の目の前まで歩み寄ってきた。
「貴様は、俺が旗を折った時、一言も恨み言を言わなかったな」
「はい。恨む理由がございません。未熟な僕が、出過ぎた真似をしたまでのこと」
「嘘をつけ。貴様の腹の中に、底知れぬどす黒い野心が渦巻いているのが俺には分かるぞ」
信長はニヤリと笑うと、懐から軍扇を取り出し、僕の肩をポンと叩いた。
「今日より、あの『五色の吹貫』を、貴様の公式な指物とすることを許す。高く掲げよ、木下藤吉郎秀吉。そしてこれからも、その狂った論理で、俺の天下布武を最適化し続けろ」
その言葉を聞いた瞬間。
僕の胸の奥で、長く押さえつけられていた「日輪の光」が、爆発的な熱量を持って一気に世界を照らし出すのを感じた。
「――ははッ!! ありがたき幸せに存じます!!」
僕は、涙を流す演技すら忘れ、ただ腹の底から湧き上がる純粋な歓喜に身を委ねた。
僕が自らの手でデザインし、一度は理不尽な権力によって真っ二つにへし折られた五色の旗。それが今、僕自身の圧倒的な実務能力と結果によって、正式にこの戦国という世界で承認された。
(僕は、生きている。……そして、ついに僕の「旗」が立った)
寺の静謐も、現代のアスファルトの冷たさも、奴婢として這いつくばった泥の匂いも。そのすべてを栄養分として、僕はついに「一個の武将」としてのスタートラインに立った。
見上げれば、清洲城の空は高く、どこまでも青く澄み渡っていた。僕の視線は、すでに尾張という小さな枠を越え、美濃の天才軍師、そしてその先の「天下」という途方もない最終目標へと、静かに、そして確かな殺意を持ってロックオンされた。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
木下藤吉郎奇計を行ふ
信長は、味方の先陣二陣、敵の謀計に當りけりと見給ひ、旗本の勢に下知して救はんとし給ふとき、木下藤吉郎大將の馬前に塞がり、「味方すでに敵の謀に落ち入りたり。引返し退き給へ」といまだ云ひも終らざるに、相圖と覺えて、耳元に鐵砲響きて、數千の伏兵一同に起り、日根野備中守眞先に馬を出し、八尺餘の鐵棒を提げ、信長を討取れと、當るを幸ひ薙ぎ立つれば、信長が軍勢討たるる者數を知らず。このとき藤吉、淺野彌左衛門に下知して、構へ置きたる筵の旗にて高き岡より指し招けば、瑞龍山の峯々(みねみね)より數千の旗空にたなびき、あまたの軍勢、稻葉山の本城へ押寄すと見えければ、謀士竹中を始めとして、日根野、野木の輩大きに驚き、備へ亂れて見えけるを、信長勢得たりと取つて返して戰ふにぞ、齋藤方大きに亂れ、散散になって敗走。信長勇んで、「追討にせん」と下知し給ふを、藤吉諫めて、「敵の將竹中半兵衛は尋常の者にあらず。某が奇計を以て一旦退くといへども、半途より引返さば、味方の敗北疑ひなし。この隙に川を渡り、一足も早く引き給へ」と、馬の口を取つて引返せば、信長も實にもと思ひ、惣勢急ぎ引拂ひ、事なく歸城し給ひけり。これは藤吉、かねてこの邊の野武士をあまた語らひ、相圖の旗を動かすときは、瑞龍山の峯を傳ひ、稻葉山の城へ向ふ體をまねせしめ、齋藤勢を脅かし奇兵の計なり。齋藤勢は散散に敗走、竹中が堅陣も備へ亂れ、空しく稻葉山の本陣へと引取りけるが、藤吉郎が明察に違はず、竹中半兵衛ただ一騎、手勢千餘人にて半途より引返したれど、敵ははや川を渡り引取りければ、力を失ひて自ら城へ歸りたり。信長は藤吉を召され、「今度の奇計、味方の軍兵を救ひしこと、拔群の働き、誠に神奇妙算と云ふべし。今より五色の吹貫を以て、汝が家の指物となすべし」とて、甚だ感悦し給ひければ、藤吉もありがたく恩を謝して退きぬ。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
https://share.google/AxQqE2xRgf0LcmxAN
絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
そういえば…私、かれこれ半年くらい投稿の為に毎日漢文や古文を訳してるんですが、なんか最近…ググらずとも原書を読めるようになっちゃった気がしますw 原典併記お付き合い頂いている皆様は如何でしょうかww




