1-50 勝家、死地を引き受ける
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
視界を真っ白に染め上げるほどの豪雨の中。信長は、僕たち精鋭2,000を引率し、笠寺の東に位置する細縄手という狭い獣道を、泥を跳ね上げながら揉みに揉んで馳せていた。
東の方角に目を凝らすと、雨のカーテンの向こう側に、本来なら見えるはずのない不気味な黒煙が夥しく空にたなびいているのが見えた。丸根、鷲津の両砦が、ついに落城したのだ。
「……馬を飛ばせ!」
信長の号令に、僕たちはさらに速度を上げる。辰の下刻(午前9時頃)、僕たちはようやく鳴海の手前、丹下の砦へと着陣した。
丹下の砦では、絶対防衛線の死守を命じられていた守将・柴田権六勝家が、泥まみれになりながら僕たちを悦び迎えた。信長はこの砦で馬を止め、暫時休息を取ると、勝家を近くに呼び寄せ、極めて冷徹な「作戦の全貌」を下知した。
「権六。最前線の鷲津・丸根が落ち、中島・善照寺の城もほどなく敵に奪われる。……すなわち、当城・丹下へ向かう今川の主力部隊の勢いは、すこぶる烈しくなるだろう」
「ハッ。覚悟の上でございます」
勝家が力強く頷く。信長は勝家の肩をガシリと掴み、低く通る声で告げた。
「いいか。貴様は死力を尽くし、剛く堪えて敵を討ち続けろ。圧倒的な兵力で落とせるはずのこの砦が落ちなければ、勝ち誇った今川義元は必ず苛立ち、焦る。そして『本陣の護衛部隊』を割いてでも、この丹下の戦線に援軍を投入してくるはずだ」
僕が描いた全体構想。その本質は「敵の視線の完全な誘導」にある。
「その隙に、俺は間道を通って義元の本陣へ直接切り込む。敵の『目』と『戦力』が貴様たちに釘付けになっているその一瞬を突けば、義元の首など造作もなく獲れる。……分かるか? この作戦の成否はすべて、貴様がどれだけ長く、激しく、この死地で敵のヘイトを引き受けられるかにかかっている」
それは、「囮となって死ね」という究極のブラック命令。
だが、柴田勝家という男は『狂喜』の表情を浮かべた。
「……おおっ!これぞ臣が望むところにございます!ご安心くだされ。敵勢がいかに重なろうとも、3日、いや5日でも堪えてご覧に入れましょう!義元の首を討ち取り、めでたく拝謁いたしましょう!さあ、早く間道へ!」
彼は血走った目でそう絶叫し、愛槍を高く掲げた。信長は頷くと、自らの軍旗をこの砦に残すよう命じた。信長本人がここにいるという体を作るためだ。そして、身軽になった500騎の斬首部隊を引き連れ、山の腰を縫うような間道へと、再び揉みに揉んで急行した。
勝家はすぐさま、隣接する善照寺の砦を守る佐久間信盛らともこの計議を共有し、「敵が寄せれば、目ざましい戦いを見せてやろうぞ!」と、固唾を呑んで今川軍の猛攻を待ち構えた。
一方、僕は信長の傍らにピッタリと張り付きながら、丹下砦の後方支援を最終確認していた。信長も、丹下の城が織田家の「生命線」であることを正確に理解していた。もし丹下が突破されれば、僕たちの背後が突かれ、すべてが瓦解する。そのため、善照寺の北に位置する鳴海海道に、織田大隅守 信広を大将とした伏兵部隊を配置していた。
その伏兵の中には、僕が近江から調達した六角家の「四つ目結い」の旗を掲げた蜂須賀小六率いる1,000人の六角軍も含まれていた。総勢2,300騎。丹下の戦いが始まれば、彼らが敵の背後を襲い、幻の援軍として戦場をかき乱す。その用意はすでに完璧に整っていた。
丸根・鷲津を一息に攻め落とした今川勢は、その物理的優位に完全に驕り、第2防衛ラインである中島(東西)・善照寺の3ヶ所の砦を、数万の大軍で囲んだ。
喚き叫んで攻め寄せる津波のような兵力に対し、もとより無勢の砦である。防戦の術はすでに尽きていた。
「もはやこれまで! 一矢報いて死出の供をせい!」
ある者は敵陣に飛び込んで刺し違え、ある者は乱軍の中に討ち斃されていった。織田の守将である水野帯刀、山口海老之助、荒川平左衛門を始めとして、名を惜しみ義を重くする一騎当千の勇士たちが、次々と討死していく。ブラック企業の倒産劇のように、末端の優秀なリソースから無惨にすり潰されていく光景。
わずか3刻(6時間)ばかりの戦闘で、7ヶ所のうち5ヶ所の砦が完全に落城した。
「……よし! 敵はもはや風前の灯だ!残る丹下の両所も、一踏みに討ち破れ!!」
今川軍の現場指揮官たちは、ますます勇んで勝ちに乗り、柴田勝家が待ち構える丹下砦へと、潮のごとく攻め寄せていった。そのめざましい怒涛の進撃は、遠目に見ても絶望的な物理の壁として、尾張の大地を飲み込もうとしていた。
「……完璧に、釣れましたね」
豪雨の中、間道を進む馬上で、僕は冷たく笑った。
「ああ」
先頭を駆ける信長も、前を見据えたまま短く答えた。7ヶ所の砦のうち5ヶ所が落ちた。味方の犠牲は天文学的数字に上っている。しかし、これは「負け」ではない。今川の大軍を狭い砦群に釘付けにし、その視線と意識を一点に集中させるための、最も高価で、最も確実な「生贄」だ。
5ヶ所の砦の将兵たちの死によって、桶狭間の本陣にいる今川義元の周囲は、驚くほど手薄になっていた。
僕たち斬首部隊は、豪雨という最強のステルス迷彩を纏いながら、誰にも気づかれることなく、義元の喉元へと肉薄していた。木魚の音は、もう聞こえない。冷たいアスファルトの記憶も、今はこの熱狂の中に溶け去っている。
僕の胸の奥で、日輪の光が、世界を焼き尽くすような臨界点に達しようとしていた。
(僕は、生きている。そして今――歴史の特異点を、この手で顕現させる!)
豪雨と雷鳴が交錯する中、信長が愛刀を抜き放つのが見えた。桶狭間の戦い、その真の決着が、幕を開けようとしていた。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
信長間道を進み義元を討つ
さるほどに信長卿、軍勢を引率し、笠寺の東なる細縄手を、揉みに揉んで馳せられけるが、東に當って丸根、鷲津はや落城と見えて、黒煙夥しく空にたなびければ、信長も馬を飛ばし、辰の下刻に漸く丹下の砦に著陣あり。守将柴田権六勝家悦び迎へ奉る。信長この所にて暫時休息し給ひ、勝家を近く召され、下知し給ふは、「今度の合戦、我と今川兩家の勝敗は、勝利を得さしむべし。その故はこの鳴海表へ七箇所の砦を築たりし、もとより今川の大軍を諸方へ引分け、我自ら義元の旗本へ切込み、一時に雌雄を決せん計策なり。最前鷲津、丸根の兩砦落城し、中島、善照寺の城もほどなく敵に奪はるべし。されば當城へ向ふ大軍、その勢すこぶる烈しかるべし。汝死力を盡くし、剛く堪へて敵を討たば、今川勢に相違し、勝ち誇りたる義元、一時に踏み崩さんと、本陣の勢を分けて當手の戦を救ふべし。その隙に我間道より進んで義元の本陣へ切入り、備なきを討つものならば、義元が首を見んこと、何の難きことかこれあらん。皆これ汝が勇戦にあれば、あなかしこ、等閑の戦ひにあらず。勉めて誤ることなかれ」と示し給へば、勝家家踊り上がりて大いに悦び、「これ臣が望むところなり。敵勢いかに重なるとも、三日五日を堪へんこと、何條難きこと候はん。君御心安んじ給ひ、元を討ち取り、めでたく拝謁仕るべし。早く間道へ廻り給へ」と勧めれば、信長甚だ悦び給ひ、御旗指物をこの城に残し給ひ、信長もここに出陣の體にもてなし、遲兵五百騎、山の腰なる間道を、揉みに揉んで急ぎ給ふ。柴田勝家は佐久間が方へも右の計議を申し合せ、敵寄せば目ざましき戦ひをせんものと、固唾を呑んで控へたり。信長かねて丹下の城は我が生命に懸れりと思ひ給へば、善照寺の北なる鳴海海道に、織田大隅守信廣を大将として、佐々木の加勢を合せて都合二千三百餘騎、陣を取って控へさせ、丹下の軍始まらば、敵の後を襲はんと、その用意すでに全し。さるほどに今川勢丸根、鷲津を一息に攻落し、かねて織田方に築き置きたる中島東西の砦、善照寺の砦三箇所を、數万の大軍を以て一時に打囲み、喚き叫んで攻めたりければ、もとより無勢の城どもなれば、防戦の術ですでに盡きて、或は刺し違へて死するものもあり、または乱軍の中に討ちたるるもあり。織田の守将水野帯刀、山口海老之助、荒川平左衛門を始めとして、名を惜しみ義を重くする勇士あまた討死し、僅に三時ばかりの戦ひに、五箇所の砦落城すれば、今川勢ますます勇んで勝ちに乘り、丹下兩所を一踏みに討破らんと、潮のごとく攻寄せしは、めざましかりし次第なり。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
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絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜 1万PV御礼投稿 4話/7話 〜
いつもご覧頂きありがとうございます。おかげさまで投稿開始21日目に累積10,000PVを超えました。タイトルを付けるとすれば【感謝!累計1万PV到達!日間1,000PV&累積2,000ユニークOVER!感激ブクマ10件超!!】ですが、上っ面のタイトル変更ではなく書き溜めていた話を吐き出す事で御礼に代えさせて頂きます。とはいえ…これまでも誤字脱字謝罪や御礼ばっかしてたのであんまり貯まってませんw




