1-45 桶狭間前夜、尾張を救った大嘘
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
江州・観音寺城での交渉を、ある種の詐術によって成功させたその日の夜。
僕は六角家の客将としてあてがわれた豪奢な部屋で、一人、今後の物資輸送計画を脳内で組み上げていた。2,000名分の甲冑や旗印という莫大な物資を尾張まで運ぶのは、それだけでも一大事業だ。そこへ、思いがけない訪問者があった。
六角家の若き国主、六角義秀その人である。彼は供回りもそこそこに、夜の闇に紛れるようにお忍びで僕の部屋を訪れたのだ。
「……こんな夜更けに、驚かせたな。木下藤吉郎殿」
「滅相もございません。ですが、国主たる御方がこのような下級武士の部屋へお越しになるとは、いかなるご用件でしょうか」
僕は即座に平伏したが、義秀は「面を上げよ」と優しく声をかけた。昼間の広間で見せた、名門の当主としての威厳ある仮面はそこにはない。蝋燭の揺らめく灯りに照らされた彼の顔には、どこか儚げで、そして純粋な好奇心が浮かんでいた。
「昼間のそなたの言葉……いや、その底知れぬ才智に、私は感動したのだ」
義秀は僕の真正面に座り、まっすぐに僕の目を見つめた。
「そもそも、そなたはいかなる家柄の出なのだ? 言葉の端々に宿る理といい、叔父・承禎の心を鮮やかに誘導したあの手腕といい、ただの素破や野武士のものとは思えん。まるで、遥か遠い天の上からこの乱世の盤面を見下ろしているかのようだった」
義秀の直感の鋭さに、僕は内心で舌を巻いた。叔父である承禎が目先の損得勘定しかできない三流の経営者なら、この若き当主は物事の本質を見抜く目を持った優秀な投資家だ。
「……お恥ずかしながら、僕は尾張の泥から生まれたような下賤の身にございます。寺に預けられ、四カ国を流浪し、ただ『生き延びるため』だけに、人の心の機微や世の理を観察し続けてきた、ただの雑兵に過ぎません」
僕があえて身分を隠さずにそう答えると、義秀は少しも蔑むことなく、むしろ深く頷いた。
「そうか。泥の中から、それほどの知恵を……。私は、そなたのその器量を深く慕う。今後も、個人的な義を結んで交わりを持たせてはくれまいか」
「身に余る光栄にございます」
義秀はふと、寂しげに目を伏せた。
「私はご覧の通り多病の身だ。この血で血を洗う乱世に生まれながら、馬に跨がり、戈を取って人と領地を争う物理的な力を持たぬ。事実上、国の実権は叔父上に握られている。……だが、それでも我が先祖は、決しておめおめと人に辱めを受けるような弱者ではなかった」
義秀は懐から、見事な装飾が施された一振りの太刀を取り出し、僕の目の前にそっと置いた。刀身から放たれる冷たい光気は、素人の僕の目から見ても一級品の美術的・軍事的価値だと分かる。
「我が祖、佐々木源三秀義。その武勇と知略は、今も我ら六角の誇りだ。……藤吉郎。そなたに、我が祖の『秀義』から一字を取って、『木下藤吉郎秀吉』と名乗ることを許そう。この国次の太刀と共に、我が想いを受け取り、後世に必ずや途轍もない功名を残してくれ」
名門・六角の当主からの、直々の「偏諱の授与」。それは戦国時代においては、未来の企業間における巨額の第三者割当増資にも等しい、莫大な政治的価値の付与だった。
(……厄介なことになったな)
表面上は感極まったように涙を流し、大仰に平伏して恩を謝しながらも、僕の脳内では冷徹なリスク計算が鳴り響いていた。他国の国主から名をもらうなど、一歩間違えれば重大な裏切りと見なされる。利益相反も甚だしい。
だが、ここで断れば、義秀の顔を潰すことになり、せっかく引き出した「2,000の軍器の貸与」という最大のミッションが白紙に戻るリスクがある。ここは受け取るしかない。処理は後で信長相手に直接やればいい。
「ありがたき幸せ……!この御恩、生涯忘れません!」
僕は滂沱の涙を流す完璧な演技で太刀を受け取り、その夜のうちに逃げるようにして江州を後にした。
翌日。尾張と美濃の国境近く、木曽川の支流である越知川の辺り。初夏の日差しが照りつける河原に、地鳴りのようなざわめきが満ちていた。約束通り、蜂須賀小六正勝が率いる1,300人の野武士軍団が集結していたのである。彼らは僕の姿を見るや否や、怒号のような歓声を上げた。
「藤吉郎殿!本当に持ってきたのか!」
小六が目を剥いて驚くのも無理はない。僕の背後には、六角家から引き出した莫大な軍需物資を積んだ荷車が長蛇の列をなしていた。
「約束通りだ、小六殿。さあ、時間がない。野郎どもに最高の『衣装』を着せてやってくれ」
僕の号令により、野武士たちは我先にと荷車に群がり、六角家の紋が入った見事な具足を身に纏い始めた。泥にまみれ、破れ着物を着ていた荒くれ者たちが、統一された規格の甲冑を着込むことで、瞬く間に「正規軍」としての威容を整えていく。
「四つ目結い」の旗指物が初夏の風に無数にひるがえったとき、そこには紛れもなく「近江・六角の大軍」が出現していた。
「すげえ……俺たちが、あの六角の精鋭部隊に見えるぜ……」
稲田大炊助が自身の真新しい甲冑を見下ろし、震える声で呟いた。
「行くぞ! 尾張の民たちに、極上の夢幻を見せてやれ!」
僕が先頭に立ち、1,300の偽装軍隊が尾張の領内へと進軍を開始する。その視覚的効果は、僕の未来的な予測を遥かに超えていた。
「見ろ!四つ目結いの旗だ! 六角様の大軍が、尾張を助けに来てくださったぞ!!」
沿道の百姓たちが、鍬を放り出して泣き叫んだ。各砦で死の恐怖に震えていた織田の兵士たちが、城壁から身を乗り出して歓喜の雄叫びを上げた。
今川の40,000という絶望的な質量の前に、完全に心が折れかけていた尾張の国全体が、たった一つの巨大なフェイクニュースによって、劇的に息を吹き返した。
「信長様の武徳じゃ!これほどの加勢があれば、今川のなど恐るるに足らず!」
「信長様万歳! 織田家万歳!」
街角で老若男女が狂喜乱舞し、ある者は踊り、ある者は拝み倒している。現代の心理学で言うところの「プラシーボ効果」と「バンドワゴン効果」が連鎖的に爆発し、尾張全体が「勝てる」という強烈な集団催眠状態に陥ったのである。
これならいける。この異常な熱狂があれば、各砦に配置されたわずかな守備兵たちも、限界を超えて今川の猛攻を耐え抜き、義元のヘイトを完璧に固定してくれるはずだ。
僕はその熱狂の波に乗り、清洲城の信長のもとへ帰還した。大広間にて、近江での一部始終と、野武士を語らって軍装させた「偽旗作戦」の完璧な成功を詳らかに報告すると、信長は玉座から身を乗り出し、腹の底から笑い声を上げた。
「くはははっ!見事だ、猿!忠節と智謀、今に始まったことではないが、まさかこれほど完璧に尾張中を騙し通すとはな!」
信長の機嫌は最高潮だった。彼はすぐさま家臣たちに命じ、「六角家より実の援兵が到着した!」と大々的に公式発表を行い、味方の士気をさらなる高みへとブーストさせた。これで今川を討ち破るための心理的な地盤工事は完全に完了した。
軍議が終わり、人払いがなされた後。僕は信長と二人きりになった空間で、静かに姿勢を正し、懐から一つの包みを取り出した。義秀から拝領した、国次の太刀である。
「……信長様。実はもう一つ、ご報告せねばならない予想外の出来事がございました」
「予想外だと?」
僕は六角義秀から個人的な接触があったこと、そして六角の先祖の「秀義」の一字を取って、「秀吉」と名乗るよう命じられたことを、一切の隠し立てなく報告した。
「某は元来、他国の主の下知をもって名を改めるいわれなどありません。当然、辞退すべきはずのところでした」
僕は頭を深く畳に擦り付けた。
「しかし、今回は六角家が実の加勢ではないとはいえ、今川の大敵を討ち破るこの死命を制するタイミングにおいて、六角側と少しでも遺恨を残せば、作戦に重大な支障をきたすと判断いたしました。ゆえに、わざとその場では恭順を装って太刀を受け取り、名を領承して退いてまいりました」
僕はスッと国次の太刀を信長様の前に差し出した。
「某の主君は、信長様ただお一人。この上は、信長様のご判断にお任せいたします。この太刀も名も、不要とあらば即座に捨て去る所存にございます」
静寂。
絶対的な権力者への、究極の忠誠心のテスト。僕は未来のビジネス社会における「報連相」の極意を、ここで完全に行使した。他社から引き抜きのオファーがあったことすらも上司に報告し、己の価値と忠誠を同時にアピールする高等戦術だ。
信長はしばらく太刀を見つめていたが、やがて表情を和らげた。
「……くっ、あははは!猿め、どこまでも小賢しい奴だ!」
信長はバンッと僕の肩を叩いた。
「それもまた、貴様の引き出した功の一つよ。他国の主からもらった名だからとて、憚ることはない。堂々と改名しろ!今日から貴様は、木下秀吉だ!」
「……!ははっ!!ありがたき幸せにございます!」
公式な承認が下りた。これで僕は、六角家のブランド価値を利用しつつ、信長からの信頼も全く損なうことなく、新たな名を手に入れた。
その後、僕が「秀吉」と改名したことは、清洲城内の家臣たちの間ですぐに話題となった。急激な出世を重ねる僕に対する彼らの嫉妬は、もはや無視できないレベルに達している。他国から名をもらったなどと馬鹿正直に言えば、「媚びを売った」「裏切る気か」と無用な炎上を招くだけだ。
「おい木下。お前、急に名を改めたそうだな。いったい何の真似だ?」
柴田勝家や林秀貞たちが、半ば嫌味を含んだ声で尋ねてきた。僕はあえてへらへらと、卑屈な笑いを浮かべて頭を掻いた。
「いやあ、皆様もご存知の通り、僕は腕力がからきしです。ですから、せめてあやかりたいと思いまして」
「あやかるだと?」
「ええ。古の怪力無双、朝比奈三郎義秀にあやかれば、僕も少しは強くなれるのではないかと。それで、『義秀』の名をひっくり返して、『秀吉』と勝手に改めさせていただいたのです!へへへっ」
僕が滑稽な身振りでそう言うと、柴田勝家をはじめとする猛将たちは、ぽかんとした後、腹を抱えて大爆笑した。
「わはははは! 猿が朝比奈三郎に憧れて名をひっくり返しただと!? 馬鹿な奴め、名を変えたくらいで腕っぷしが強くなるわけがなかろう!」
「全くだ!お前は一生、猿のままだわ!」
皆が僕を馬鹿にして笑い、険悪だった空気は一瞬にして霧散した。嫉妬の炎は、「笑い」という消火剤によって見事に鎮火された。ピエロを演じることなど、生存と最適化に比べれば安いものだ。
(笑いたければ、笑えばいい)
僕は皆と一緒にへらへらと笑いながら、胸の奥で静かに冷たい炎を燃やしていた。
日吉丸から、藤吉郎へ。そして今、木下秀吉へ。僕の名は、新たなバージョンへとアップデートされた。
未来の知識と、寺で磨いた静かな目。泥にまみれて覚えた最適化の知恵。そのすべてをこの名「秀吉」に込め、僕は来るべき巨大な嵐に向かって、誰よりも確かな足取りで歩みを進めていった。
いよいよ、決戦の地――桶狭間が近づいている。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
江州の援兵尾州に至る
さるほどに江州の國主六角義秀、織田の使者木下藤吉郎が才智人に秀でを深く感じ、その夜藤吉郎を近く招き、「そもそも汝いかなる人の子孫なるや。我深く汝が器量を慕ふ。今より後義を結んで交はりをなすべし。我は才薄く多病にして、亂世に生るといへども、馬に跨がり戈を取って人と地を争ふこと難し。然りといへども先祖においては、おさおさ人に辱めを蒙らず。我が祖源三秀義の一字を取って木下藤吉郎秀吉と名乗り、功名を後世に残すべし」とて、國次の太刀一腰、手づから藤吉に與へければ、藤吉落涙して恩を謝し、やがて尾州へ帰へりる。ときにかねて申し合せし小六が一黨、約束を違へずして、その勢都合一千三百餘人、越知川へ出迎ひければ、藤吉大いに悦び、件の具足を著せ、旗指物を押立て、江州佐々木が加勢なりと偽り、勇んで入國したりければ、織田家の諸士は云ふもさらなり、領分の百姓まで、「信長卿の武徳めでたく、佐々木の加勢至りぬれば、今川が大勢恐るるに足らず」と、街に出て踊り悦び、國家長久とぞ祝しける。藤吉、江州の次第、野武士を語らひ具したる由、詳らかに言上すれば、信長卿甚だ感悦しまし、「忠節智謀今に始ず」と稱し給ひ、まづ「佐々木家より實の援兵来たりし」と披露し給ひ、密かに藤吉と計策を定めて、今川を討破らんと勇み給ふ。ときに藤吉郎、信長卿に重ねて申し上げけるは、「六角義秀、『その先祖佐々木源三秀義の一字を以て名を改むべし』とて、國次の太刀を我に與ふ。某元來他國の主の下知を以て名を改むべき謂なければ、辞退すべきはずのところ、まづこの度は六角家實の加勢にあらずといへども、今川の大敵を討破る際に至って、六角と態意ありては、味方の便よろしからずと、わざとその旨を領承して退き候う。この上は君の御下知に任せ候うべし」とて、六角より賜ひたりし國次の刀を信長卿へ差出しければ、信長卿御気色麗しく、「これまた汝が功なり。他國の主たりて憚ることあるべからず。改名して然るべし」と仰せけるにぞ、これより名を秀吉と改めける。人ありて改名の故を尋ぬれば、藤吉答へて、「某小兵にして勇氣薄し。往古の朝比奈三郎義秀に比せば我が望み足りりなんと、義秀を轉倒して秀吉とは改めたり」と答へければ、皆人笑って止みにける。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
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絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
自分の筆力を棚に上げて申し上げるのも何なのですが、相当な歴史マニアでないと今話の面白味は解らないと思います。秀吉が『氏』を「羽柴=丹羽長秀の『羽』+柴田勝家の『柴』」とした話は有名ですが、今話のオチは『名』を「曽我物語」のキャラ朝比奈三郎義秀からパクったとこです。だから「曽我物語」の教養のある柴田勝家たちは『腹を抱えて大爆笑』しました。
ということで⋯⋯実は私、なろうで歴史マニアの必読書「曽我物語」を投稿させて頂いてます。なんで昔の読者たちが抱腹絶倒したか解りますので、是非、以下のリンクから(ブクマや評価をしつつ⋯w)ご覧下さい。




