1-43 桶狭間前夜、偽旗は翻る
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
初夏の日差しが、青々と茂る尾張の木々を照らし出している。
風はどこか生ぬるく、間もなくこの地に吹き荒れるであろう血と鉄の匂いを予感させていた。
僕――木下藤吉郎は、4、5人の従者だけを引き連れ、清洲から近江国(江州)へと続く街道を馬で進んでいた。表向きの目的は、巨大な軍事力を背景に尾張へと迫りくる駿河の魔物・今川義元に対抗するため、対抗し得る六角家に「援軍」を請うことだ。
しかし、それは僕が信長に提案した、味方の士気を維持するための壮大なフェイクニュースの第1段階に過ぎない。
「藤吉郎様。本当に六角様は援軍を出してくださるのでしょうか?」
道中、不安を隠しきれない従者の一人が僕に尋ねてきた。
「ああ、間違いない。僕の交渉術にかかれば、六角の殿様も首を縦に振るに決まっている。尾張に大軍が駆けつける日を楽しみにしておいて」
僕は振り返ることなく、明るく自信に満ちた声でそう言い放った。従者たちはその言葉に安堵の息を漏らす。もちろん、嘘だ。六角家が織田の火の粉を被る義理などないし、交渉が成立する見込みなど現代の天文学的確率に近い。でも、僕が信長の使者として「六角に援軍を頼みに行った」という事実を作ること。それが重要だ。
しかし、現代のマーケティング理論を引くまでもなく、完全な虚報だけで大衆の心を繋ぎ止めるのには限界がある。「援軍が来る」と信じて砦に籠もる味方の兵たちが、いつまで経っても姿を見せない援軍に絶望してしまえば、僕が描いた防衛線は一瞬で崩壊する。
幻想を持続させるためには、彼らの視覚に訴えかける「物理的な舞台装置」が必要不可欠だった。だからこそ、僕は近江国へと向かうその足で、尾張海東郡・蜂須賀村へと馬の首を向けたのである。
蜂須賀村――そこは、木曽川の豊かな水運を背景に、強固な自治と武力を持つ土豪たちの巣窟だった。その頂点に君臨する男の名を、蜂須賀小六正勝という。
小六は単なる野武士や盗賊の頭目ではない。水路の通行料を徴収し、物流を支配し、いざとなれば諸国から1,000もの無頼漢を即座に動員できる、現代で言えば独立系の民間軍事会社(PMC)のCEOのだ。
村の入り口を抜けると、粗野だが強靭な肉体を持った男たちが、僕の姿を見ると次々と道を空けていく。小六の手下には、名のある一騎当千の勇夫が数多く属している。稲田大炊助、青山新七、同小介、河口久助、日比野六太夫、長江半之丞、加次田隼人、松原内匠……。
いずれも、純粋な物理的戦闘力だけで言えば、僕など指先一つで捻り潰せるような化け物揃いだ。だが、僕が馬から降りて小六の屋敷の門をくぐると、彼ら獰猛な野武士たちは一斉に平伏し、畏れ敬うように頭を垂れた。
「――待っておりましたぞ。藤吉郎殿」
すると屋敷の奥から、筋骨隆々とした巨漢が足早に歩み出てきた。蜂須賀小六その人である。
「小六殿。ご無沙汰しています」
彼は僕の顔を見るなり、猛禽類のような鋭い目をふにゃりと緩ませ、大仰なほど深々と頭を下げた。
「久しぶりだな!日吉、いや藤吉郎殿、上座へ座れ!さあさあ、野郎ども、酒と馳走の準備だ!」
裏社会のドンであるはずの小六が、信長様の直臣とはいえ、まだ身分も低い僕に対して忠誠を示すのには理由がある。
僕がまだ十歳にも満たない日吉丸だった頃。四カ国を漂う流浪の旅の中で、僕は一年ほどこの小六の元に身を寄せていた。当時の小六の組織は、力任せの暴力に頼るだけの非効率な集団だった。略奪した物資の管理は杜撰で、金の分配を巡って常に内部抗争の火種が燻っていた。
そこで僕は、現代の兵站管理と複式簿記の概念を組織に持ち込んだ。物資の出入りを完璧に可視化し、無駄なロスを削り、誰がどれだけの成果を上げたかをKPI(重要業績評価指標)として明確にした。さらに、水路の氾濫を防ぐための力学的な治水工事を指導し、小六らの活動拠点の安全性を劇的に向上させた。
暴力しか知らなかった野武士たちは、僕の「魔法」のような最適化の前にひれ伏した。特に頭目の小六は、僕が持つ「世界を静かに見る力」――その底知れぬ器量と、遠い空から盤面を見下ろすような大局観に恐怖すら覚え、同時に心底惚れ込んだ(と小六本人が言っていた)のだ。
「あの日吉丸が、今や織田家の軍議を動かす身分になるとは……俺の目に狂いはなかった。いや、俺ごときの及ぶ御方じゃねえと、常々野郎どもにも言い聞かせておる」
奥座敷に通され、一別以来の安否を尋ね合う中で、小六は破顔しながら杯を勧めてきた。彼の配下である稲田や青山たちも、僕の一挙手一投足に緊張した面持ちで控えている。
「小六殿のおかげで、僕もなんとか生き延びることができました。……ですが、今日は昔話を楽しむために来たわけではないのです」
僕は杯を静かに置き、声のトーンを一段階落とした。途端に、座敷の空気がピンと張り詰める。小六もすぐさま宴の顔を引き締め、居住まいを正した。
「……今川か?」
「ええ」
僕は頷いた。
「今度、駿州の今川義元が40,000という大軍を率いて上洛を企てています。そのついでに、我らが尾張をことごとく切り取ろうとしている。……対して織田の兵力は数千。まともに正面衝突をすれば、1刻(2時間)と持たずに消滅します」
小六は重々しく頷いた。彼ら川並衆の情報網でも、事態の深刻さは十分に把握しているはずだ。
「織田の将兵たちは、圧倒的な物理的質量の差を前に恐怖に呑まれています。そこで僕は、信長様から使者の任を蒙り、これから江州の六角義秀殿に『助勢』を乞うために赴くところなのです」
「なるほど。六角の援軍があれば、今川とも雌雄を決することができるだろう。だが藤吉郎……」
小六は訝しげに眉をひそめた。
「六角義秀は柔弱で知られ、実権を握る承禎入道も決断力に欠ける御仁。織田のために血を流すような援軍の交渉が、そう簡単に調うものだろうか?」
さすがは裏社会を生き抜く男だ。政治的な力学を正しく理解している。僕は小さく笑い、未来のチェスプレイヤーが盤上の駒を指で弾くように、卓をトンと叩いた。
「おっしゃる通り。六角からの援軍など、万に一つも来ません」
「はっ……?来ない?」
「ええ。最初から来るはずがないのです。しかし、織田の兵たちには『六角の援軍が必ず来る』と信じ込ませ、死に物狂いで今川の軍勢を砦に釘付けにしてもらわねばならない。そのための『演出』が必要なのです」
小六と幹部たちは、僕の言葉の意味が理解できず、顔を見合わせた。僕は彼らをまっすぐに見据え、僕の描いた狂気の全体構想の核心を告げた。
「小六殿。あなたが手下1,000人の野武士を、全て集めてください。そして、六角家の旗印である『四つ目結い』の旗を大量に掲げ、近江方面から尾張へと行軍させて欲しいです」
「なっ……!?」
小六が息を呑み、稲田大炊助が信じられないというように目を見開いた。
「『江州からの援軍が到着した』と、味方に錯覚を起こさせる。遠目に六角の旗を掲げた大軍が見えれば、絶望していた織田の軍勢は気力を取り戻し、限界を超えて戦に勇み立つでしょう。……僕はこの偽旗作戦の実行役を、あなたたちに頼みたい」
座敷は、完全な静寂に包まれた。
誰もが言葉を失っていた。40,000の今川軍を前にして、味方を騙すための大掛かりな芝居を打ち、戦局の根底から最適化しようとする僕の計略。
それは、武士としての名誉や常識を根本から否定する、あまりにも現代的で、あまりにも悪魔的な発想だったからだ。
「……恐ろしい奴だ」
やがて、小六がぽつりと漏らした。その声には、明確な戦慄と、それ以上の深い感嘆が入り混じっていた。
「ただのハッタリで、数万の軍勢が動く戦場そのものをひっくり返そうとする。……常人の度量じゃねえ。まさに『大物の幼児』の器だ。日吉丸だった頃から、いつか途轍もない化け物になると思ってはいたが……いやはや」
小六は額の汗を乱暴に拭い、しかしその目は血走るような興奮に満ちていた。
「面白え! 蜂須賀の一党、藤吉郎殿の大芝居に一枚噛ませていただきましょう!」
「頭がそう言うなら、俺たちも腹を括りますぜ!」
稲田や青山たちも、次々と野獣のような笑みを浮かべて頷いた。
彼らもまた、戦国の世に生きる「規格外」たちだ。圧倒的な強者を出し抜き、歴史の歯車を自分たちの手で回すという快感に、抗えるはずがない。
「ありがとう、小六殿。必ず、あなたたちにも莫大な恩賞を約束します」
「恩賞なんてのは後でいい。藤吉郎殿の描く途轍もねえ絵図の先を、特等席で見せて貰おう」
小六はそう言うと、杯を高く掲げた。僕たちは具体的な作戦行動をすり合わせ、決行の日、木曽川の支流である越知川の辺りで軍勢を合流・展開させることを固く約束した。
蜂須賀村を後にした僕は、再び馬上の人となり、本来の目的地である江州へと向かっていた。
六角家への名目上の使者の任を果たし、「援軍の約束を取り付けた」という形だけを作れば、僕の仕込みはすべて完了する。
背中を撫でる初夏の風が、心なしか熱を帯びて感じられた。僕の胸の奥で、静かに脈打っていた「日輪の光」が、かつてないほど激しく鼓動している。
(僕は、まだ生きている。そして、この時代を確実に変えようとしている)
かつて、冷たい藁布団の上で雨漏りのする天井を見上げていた流浪の少年。泥まみれになりながらも、決して卑屈にならず、未来の記憶と世界を静かに見る力だけで、己の生存ルートを開拓してきた。
そのすべてが今、桶狭間という歴史上の巨大な特異点に向けて収束しようとしている。
信長という強烈な刃。小六という裏社会の兵隊。そして、僕の頭脳。
これらすべての変数を掛け合わせれば、今川義元という40,000の巨大な壁すらも、物理的に崩落させることができるはずだ。
「……さあ、最高の舞台を始めようか」
僕は誰に聞こえるでもなく、唇に静かな笑みを浮かべて呟いた。曇天の戦国を突き破り、誰よりも高く羽ばたくための完璧な羅針盤は、すでに僕の手の中にあった。
馬の蹄の音が、新しい時代の幕開けを告げるかのように、西の空へと高らかに響いていった。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
藤吉郎謀を定め江州に赴く
尾州海道郡蜂須賀の住人小六正勝は、諸国の野武士一千餘人を集め、その勢甚だ盛なり。その手に属し名ある勇夫には、稲田大炊助、青山新七、同小介、河口久助、日比野六太夫、長江半之丞、加次田隼人、松原内匠ら、皆一人当千の勇士なり。木下藤吉郎幼のとき、この小六がもとに一年ばかり扶持せられ居たりければ、今度江州へ赴くとて、この小六がもとに立ち寄り、小六大いに悦び、一別以来の安危を問ひ、互に親しみ細やかなり。藤吉郎密かに語りけるは、「今度駿州今川義元、大軍を引率し上洛せんと企つるそのついで、路々の敵国をことごとく切り取らんとす。我が國勢少く兵足らず、これを直ちに合戦に及ばんとす。然れども我が國勢少く兵足らず、味方の将士みな恐怖の色あり。これによって江州佐々木六角義秀に助勢を乞ひて、今川と雌雄を決せんとて、某この使を蒙り、今江州に赴かんとす。密かに計るに、義秀柔弱にして、承禎入道決断に拙く、多分助勢のこと調ふまじ。足下このとき手下の野武士をことごとく集め、江州の援兵なりと抜け露せば、織田の軍勢気力を直し、戦に勇みあらん。この儀足下の助勢を頼む」由語りければ、小六かねて藤吉が器量抜群なれば、我が及ぶところに非ずと常々 尊み、折節の音信を通して随身したりければ、仔細なく承り、日限を約し、越知川の邊にて出會すべきと申し合せ、藤吉郎は江州へこそ出行きけり。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
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絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
反社とのコネクションも成り上がり物の定番ですねw




