1-37 反間の計、鳴海を裂く
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
張り詰めた空気が、大広間を重く沈み込ませていた。
尾張・清洲城。織田家の本拠地であるこの城の評定の間には、今、息の詰まるような沈黙と、焦燥感に駆られた武将たちの熱気が渦巻いている。
「……駿河の今川義元、不日に上洛の軍を起こすとのこと。その数、およそ4万とも言われております」
物見の報告が響き渡った瞬間、古参の武将たちの顔色が一斉に青ざめた。四万。対する我が織田家の動員兵力は、かき集めてもせいぜい数千。例えるならば、資本金に数十倍の差がある巨大多国籍企業が、地方の零細ベンチャー企業を力ずくで敵対的買収(M&A)しにやってくるようなものだ。
「もはや、抗う術はありませぬ」
口火を切ったのは、織田家の筆頭家老とも言える柴田勝家だった。彼は苦渋に満ちた表情で、上座で無言を貫く主君・織田信長に向けて平伏した。
「信長様。ここは無念を堪え、今川の軍門に降るべきかと存じます。和睦の道を模索し、家名を存続させることこそが――」
「左様。正面からぶつかれば、我が軍は一日にして瓦解しましょうぞ」
佐久間信盛ら、他の重臣たちも次々と降伏論に同調する。彼らは古い価値観の持ち主だ。圧倒的な兵力の差を前にしては、物理的な勝算などゼロに等しいと結論づけるのは、今世の常識からすれば極めて真っ当な判断である。
だが、僕は知っている。
目の前で不機嫌そうに扇子を弄っているこの若きワンマン社長――織田信長という男が、そんな常識的でつまらない「買収受け入れ案」に首を縦に振るはずがないということを。
(巨大企業に飲み込まれて、下請け子会社の社長として一生を終える。……そんな未来、この男が許容できるわけがない)
僕は末席から静かに立ち上がり、諸将の冷ややかな視線を一身に浴びながら、信長の御前へと歩み出た。
「恐れながら、申し上げます」
僕――木下藤吉郎の声が響くと、勝家が忌々しそうに眉をひそめた。
「猿。貴様のような新参者が口を挟む場ではない。下がれ」
「いえ、柴田様。降伏という選択肢は、一見安全なローリスクな選択に思えますが、実は確実な『死』への最短ルートです。今川が上洛を果たせば、我ら織田の武将は最前線の捨て駒として扱われ、結局はすり潰されるだけ。ならば――」
僕は信長を真っ直ぐに見据え、現代のプレゼンテーションの技術を用いて、声のトーンと視線を完全に彼一人にフォーカスした。
「今川の巨大な陣容は、裏を返せば動きが鈍く、指揮系統にタイムラグが生じやすいということ。我々が取るべきは、ゲリラ戦と情報戦による局地的な各個撃破です。リスクは極大ですが、リターンもまた極大。……信長様の描く天下の青写真に、今川の傘下に入るという未来はございますか?」
沈黙が落ちた。
次の瞬間、信長は扇子をパチンと鳴らし、狂気を孕んだ鋭い笑みを浮かべた。
「……猿の申す通りよ。今川が来るなら、叩き潰す。戦の用意をせい!」
重臣たちがどよめき、抗戦への歯車が狂ったようなスピードで回り始める。
僕は静かに頭を下げながら、胸の奥で冷たく笑った。これでいい。盤面は動いた。あとは、この圧倒的な戦力差をいかにして「最適化」し、ひっくり返すかだ。
今川との決戦を前に、僕たち織田家には致命的な「バグ」が存在していた。
尾張と三河の国境近くに位置する要衝・鳴海城。その城主である山口左馬助とその息子が、あろうことか今川方に寝返ったのだ。ビジネスで言えば、自社の重要拠点の支社長が、機密データと顧客リストを丸ごと抱えて競合他社に引き抜かれたような大惨事である。
おまけに、鳴海城の周辺には今川方からの援軍が続々と入り込み、堅固な防衛線を築き上げている。
「藤吉郎様。鳴海城を力攻めにするのですか? 我らの兵力では、城に取り付く前に蜂の巣にされますぞ」
陣幕の中で、配下の将である浅野弥兵衛が不安げに地図を見下ろしていた。
「弥兵衛。戦争というのは、なにも槍や鉄砲で物理的に敵の肉体を破壊することだけじゃない」
僕は未来の心理学用語を脳内で反芻しながら、作戦図にいくつかの駒を配置した。
「人間という生き物は、とても脆弱な情報処理システムを持っている。一度『この情報は正しい』と思い込むと、それに合致する証拠ばかりを集め、反証を無視してしまう。……『確証バイアス』というやつだ」
「かくしょう、ばいあす……?」
「気にするな、ただの呪文だ。……いいか弥兵衛。我々の真の目的は、鳴海城を落とすことじゃない。山口父子と、今川の加勢の間に『分断』を引き起こすことだ。名付けて、『反間の計』」
僕は弥兵衛の肩をポンと叩き、密かに準備させていた「ある物」を運ばせた。
それは、弾を抜いた火縄銃と、先端の「矢尻」が取り外された無数の矢だった。
「……藤吉郎様。これは一体?」
「フェイクニュースの弾丸さ。……さあ、戦場という名の劇場の幕を開けようか」
数日後。僕は800騎の兵を率いて、鳴海城の城外へと進軍した。
銅鑼と法螺貝の音が鳴り響き、砂埃が舞い上がる。こちらの動きを察知した鳴海城からは、裏切り者の山口父子の軍勢と、今川からの加勢の兵たちが、一斉に城門を開いて討って出た。
「引け! 偽装退却だ! 伏兵の陣まで敵を誘導しろ!」
僕の指示で木下軍はまるであっけなく恐れをなしたかのように、蜘蛛の子を散らすように後退を始める。敵からすれば「織田の急造部隊など恐るるに足らず」と見えただろう。彼らは勝利を確信し、息を限りに追撃をかけてくる。
あらかじめ仕掛けておいた伏兵の陣に敵が入り込んだ瞬間、僕は軍配を振り下ろした。
「撃てぇッ!」
轟音とともに、伏せていた兵たちが一斉に鉄砲の引き金を引き、弓の弦を弾く。
――しかし。
そこから放たれたのは、弾の入っていない「空砲」と、矢尻を抜かれた「ただの木の棒」である。
パンッ! パァン! という激しい破裂音と硝煙は上がるものの、前衛の敵兵は誰一人として倒れない。矢は飛んでいくが、鎧を貫くことはおろか、かすり傷ひとつ負わせることはない。
今川の兵たちは一瞬立ち止まったが、すぐにその「違和感」に気づいた。
「どうした! 織田の弾は当たんねぇぞ!」
「恐れるな! 奴ら、焦って照準も合っていない! 一気に押し潰せ!」
今川勢は少しもひるむことなく、むしろ勢いを増して突撃してくる。彼らの脳内には「織田軍は無能で、我々は無敵だ」という誤った情報が上書きされていく。
完全に、罠に踏み込んだ。
「――今だ、弥兵衛!」
僕の合図を受け、馬上にいた浅野弥兵衛が立ち上がり、戦場の喧騒を切り裂くような大音声で叫びを上げた。
「皆の者、聞けぇ!! 前方にいるのは、我らが内通している山口の勢ではない! あれは今川からの加勢の者どもだ!!」
戦場に一瞬、奇妙な静寂が落ちた。弥兵衛の言葉は、味方への指示の形をとりながら、その実、敵軍の耳に直接届けるための「放送」である。
「早く用意を改めよ! 鉄砲に『本物の玉』を込め、矢に『矢の根(矢尻)』を差して射取れぇッ!!」
その号令が響いた直後。
最前線に配置されていた僕の兵たちは、今まで持っていた空砲の銃を捨て、あらかじめ用意しておいた「実弾入りの銃」に持ち替えた。弓兵たちも、研ぎ澄まされた鋭利な矢尻のついた本物の矢をつがえる。
「――第二射、放てッ!!」
今度は、正真正銘の死の雨だった。
凄まじい轟音とともに放たれた鉛玉が、今川勢の鎧を容易く貫き、最前列の兵たちが次々と血飛沫を上げて倒れ込む。鋭い矢尻が肉を裂き、悲鳴と怒号が戦場を支配した。
「な、なんだこれは! 話が違うぞ!」
「ぐあっ! 罠だ、退け! 城へ退けぇッ!」
さっきまで無敵を錯覚していた今川の加勢部隊は、突然の痛打に完全にパニックに陥り、辟易して鳴海城へと逃げ帰っていった。
僕は馬上でその様子を静かに見下ろしながら、小さく息を吐いた。
第一段階の物理的ダメージは、あくまでお膳立てに過ぎない。ここから先が、心理戦――「反間の計」の真骨頂だ。
鳴海城に逃げ帰った今川の加勢の将たちは、息も絶え絶えに城の中庭へ座り込みながら、本能的な「不審」に駆られていた。
「……今日の合戦、どうにも腑に落ちぬ」
今川の武将の一人が、足元に転がっていた「矢」を拾い上げた。それは、戦闘の最序盤に、木下軍から城内や敵陣に向かって射込まれた矢だった。
「見ろ……この矢。ことごとく、矢尻が抜かれている」
その事実を前に、彼らの脳内で恐るべき「推論」が組み立てられ始める。なぜ、敵は最初は空砲と矢尻のない矢を撃ってきたのか?なぜ、あの木下の将は「山口の勢ではないと分かってから」実弾を撃てと叫んだのか?
――確証バイアス。
人間は、不可解な事象に直面したとき、自分たちの生存を脅かす最も危険なシナリオを想像し、それを真実だと思い込む習性がある。
「……さては」
今川の武将の顔が、怒りと恐怖で歪んだ。
「山口父子の奴ら、今川に寝返ったと見せかけて、実は信長と内通していたのだ! 我々を城から誘い出し、木下の軍と挟み撃ちにして騙し討ちにする気だったに違いない!!」
「あの矢尻のない矢は、我々を油断させ、山口の軍勢には当てないための合図だったというわけか……! 卑劣な裏切り者め!!」
一度芽生えた疑念は、もはや誰にも止めることはできない。山口父子がどれほど「我々は裏切っていない!」と弁明しようとも、今川勢の目には「しらばっくれている」ようにしか見えないのだ。
彼らは即座に散り散りになり、ある者は城を離れ、ある者は飛札――早馬を出して、主君である今川義元へ「山口父子に謀反の疑いあり」と急報を送った。
数日後。清洲城の僕の部屋に、草からの報告が届いた。今川義元は、加勢の諸将からの訴えを信じ込み、激怒した。そして、弁明のために駿河へ呼び出された山口左馬助父子を、問答無用で切腹させたという。
「……見事な手際だな。敵の刃を使って、邪魔な裏切り者を処理するとは」
報告書を燃やしながら、僕は冷たい夜風を浴びて一人呟いた。直接的な武力を行使して鳴海城を攻め落とそうとすれば、こちらの被害も甚大だっただろう。だが、情報という名の「毒」を一滴、敵の組織の中に垂らしてやるだけで、彼らは勝手に疑心暗鬼に陥り、自らの手で組織を破壊してくれる。未来のネット社会で幾度となく見てきた、炎上と内部分裂のメカニズム。それが、この血生臭い戦国時代においても完璧に機能するという証明だった。
「天下を獲る……か」
僕は、燃え尽きて灰になった紙切れを見つめながら、かつて流浪の身であった頃に感じた、胸の奥の「日輪の光」の疼きを思い出した。
圧倒的な力を持つ今川義元。そして、僕の主君である冷徹な織田信長。
彼らは確かに怪物だが、神ではない。人間の心を持つ限り、必ず隙が生じる。僕はその隙を突き、最適化を繰り返し、この盤面を支配し続ける。
(笑いたければ、笑えばいい)
誰も僕の真の意図には気づかない。僕はただの下郎上がり、木下藤吉郎という「便利な駒」を演じながら、世界の根幹を静かに書き換えていく。
次の一手はどう打つか。
僕の脳は退屈することなく、無数のシミュレーションを高速で回し続けていた。この狂った戦国の世で、僕の「転生」という名のゲームは、まだ始まったばかりだ。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
反間の計、山口父子を討つ
今川義元、不日に上洛のよし、その沙汰しきりなりければ、信長卿また軍の評議ありけるに、柴田、佐久間が輩は、已前のごとく降を勧む。藤吉郎はさまざま利害を説き、今川と戦うて利なるよしを勧め申しければ、信長卿甚だ喜悦しまして、今川寄せば戦はんと、その用意しきりなり。ここに鳴海の城主山口左馬助父子、今川上洛せばそのとき味方の難儀なりとて、かねて藤吉郎計策を定め置き自ら八百餘騎を率し、鳴海の城を取囲みて攻めぬければ、鳴海近邊に砦を構へし今川方の諸士ども、皆山口に力を合せ、一同に討って出たりければ、木下が軍兵偽り負けて引退き、伏勢を以て弓、鐵砲を雨のごとく放ちけるが、いかがしたりけん、鐵砲に玉を込めず、矢の根を抜きて放ちけるにぞ、今川勢少しもひるまず、息を限りに追討ちけるが、木下が将浅野彌兵衛、馬上にて大音揚げて申しけるは、「これは山口が勢にはあら(ず)、今川よりの加勢の者なり。早く用意を改め、鐵砲に玉を込み、矢の根を差して射取れや」と下知をなせば、今まで空鐵砲、根なしの矢を射かけたるが、たちまち備へを改め、筒をべ矢尻を揃へて、今ぞ實の弓、鐵砲を雨よりも繁く放ちければ、山口が勢、今川よりの加勢これに辟易して、鳴海の城へ引入りける。「さて今日の合戰、不審ことなり」とて、今川の加勢心を附くるに、最前敵より城内へ射込みし矢も、ことごとく根を除たりければ、「さては山口父子また信長に随身して、我等を賺し討たん計略なり」と大きに疑ひ、散々(ちりぢり)になりて退散し、この由飛札を以て義元へ訴へける。これも藤吉が謀略にて、今川の手を以て山口父子を討たせんと計りしものなり。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
https://share.google/AxQqE2xRgf0LcmxAN
絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
戦記物の定番プロット「反間の計」の元ネタは、中国の兵法書「孫子」だそうです。「キングダム」でも(というか下敷き資料の「史記」「戦国策」で)何回も使われてました。




